詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころ(精神)は存在するか(13)

2024-02-16 22:11:59 | こころは存在するか

 ベルグソン・メモ(つづき)。
 誰もがつかうことばに「時間」「空間」がある。二つをあわせて「時空間」というときもある。これは「四次元」をあらわすと私は理解しているが、ベルグソンは、

時間=と=空間

 という表記をつかっている。(訳語だから、フランス語ではどう書いているか、私は知らない。私はベルグソンの研究をしているのではないから、厳密には考えない。というか、前に書いたように、私は私の考えを整えたいのだから、ベルグソンが言っていることよりも、そのことばが触発してくるものに関心がある。)
 どうして、ここに「と」が入ってくるのか。「と」とは何か。
 この「時間=と=空間」は「空間であるとともにまた時間でもある」と言いなおされ、さらに「時間であるとともに空間である」とも言いなおされる。言いなおすとき、何が変わっているか。

 ベルグソンの「キーワード」のひとつに「継続(持続)」がある。「実在的持続」は「生成」と言いなおされている。(「生成」を「実在的持続」と言いなおしていたのかもしれない。)
 そして、おもしろい「例」をあげている。
 「円を描く」と「描かれた円」は同じものか。円を描いた結果、そこに描かれた円が残ったとする。「円を描く」というとき、その「描く」は運動であり(円の「生成」であり)、そこには「時間」がある。しかし、「描かれた円」には、その「時間/生成」が排除されている。
 この「生成の排除」を指摘するために「時間=と=空間」という「わかりにくい」構文をつかったのだとわかる。
 この「排除された生成=時間(持続的時間)」をどうやって回復するか。それをベルグソンは考えているだろう。

 こういう「ややこしい」、けれど刺戟的な問題とは別に、たとえば、私は次の文章からも刺戟をうける。

継続と持続が存在するのは、まさに実在がためらい、手さぐりして、予知しがたい新しさをだんだんと作りあげるからである。

 この文章の「手さぐり」の「手」。なぜ、「手」ということばが必要なのか。「手」をベルグソンが書いているのか、翻訳者が付け加えたものなのか判断できないが、私は「手」に惹かれる。
 「手」さぐりということばとともに、私の手は動く。何も見えない闇のなかで、手が何かに触れたとき、「見つけた」と感じた喜び(安心)を思い出す。手には記憶(時間)がある。記憶は手である。そのとき記憶(意識=精神、あるいはこころ)は手である。つまり意識、精神、こころというような目に見えないものがなくても、手があれば記憶をたぐりよせることができるのである。
 「こころは存在しない」というのは、そういうことである。

 「有機」ということばから始まる次の文章の「身体」も、私にとっては、とても重要である。私は「身体」ということばをつかわず「肉体」というのだが。言いなおせば、当然のこととして、私はベルグソンの「身体」を「肉体」と言いなおして読んでいるのだが。これが「時間」と「行動」とともに書かれている。「行動」を私は「運動」と言いなおして、その文章全体を私のものにしたいともくろんでいる。

有機的なものが存在しており、意識的なものが存在している。自分の身体によって有機的世界の中に、精神によって意識的世界の中に挿入されているわたしくは、前方への歩みを漸進的豊潤化として、発明と想像の連続として知覚する。時間はわたしくにとっては、いっそう実在的で必然的なものである。それは行動の基本的条件である。--いや、それは行動そのものである。

 「肉体」が動く。運動する。そこに「時間」がある。それ以外に「時間」は存在しない。「肉体」が動く。そこに「空間(場)」がある。それ以外に「空間(場)」は存在しない。世界に存在するのは「私という肉体」だけである、というのが、私の考えである。
 「時間=と=空間」とベルグソンは書くが、私はこれを「時間=私=空間」と書き直す。「と」は「私」そのものである。ベルグソンがいなければ「と」は存在しなかった。だから、「時間=と=空間」とは「時間=ベルグソン=空間」と言いなおすことができる。これを利用して「ベルグソン」という固有名詞を「肉体」に書き換えると「時間=肉体=空間」になり、肉体が時間と空間を生み出すと私は考える。
 私がそう考えるようになったのはベルグソンを読んだからではなく、ほかのものを読んだからなのだが(それをもう一度読み直して確認するために、私は和辻を読み、ベルグソンを読んでいるのだが)、ベルグソンも同じことを考えている、と私は「誤読」するのである。ベルグソンをとおして、私のことばを整えるのである。

 

 

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