詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(4)

2010-11-19 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(4)(思潮社、2010年10月30日発行)

 粕谷の時間観(?--こんなことば、あるかなあ)には「いま」しかない。けれども、その詩には「永い」ということばが頻繁に登場する。「いま」は一瞬である。その一瞬が「永い」というと矛盾になる。
 だが、ほんとうか。
 粕谷は「永い」と書いているが「長い」とは書いていない。「永い」と「長い」は違うのだ、きっと。

 永いこと、この世に生きて、自分が、ここにいるのも、
そろそろ、終わりにする頃だと分かったら、静かな春の
その日、私は、独り、盥の舟に乗って海に漕ぎ出す。

 「盥の舟」の冒頭である。「永い」という時間を区切るものはひとつだけある。「おわり」である。「長い、短い」は測ることができるが、「永い」ははかることができず、ただ「終わり」によって「永い」が存在しなくなる。
 粕谷の時間には「いま」しかないから、「いま」が終わったら、「永い」も終わる。でも、「いま」が終わるというのは、どういうことだろう。
 「終わりにする頃だと分かったら、静かな春のその日、私は、独り、盥の舟に乗って海に漕ぎ出す。」と粕谷は書くのだけれど、「終わり」がなぜ「静かな春のその日」なのだろう。秋かもしれない、冬かもしれない、夏かもしれない。なぜ、春?
 あ、「終わり」は決めることができるのだ。人間が決めることができるのが「終わり」なのだ。それは逆に言えば、決めない限り「終わり」はなく、「永い」だけがある。「いま」だけがあるということになる。

 死んでしまえば、もう、必要なものなどないから、持
っていくものといえば、梅ぼしの甕くらいだ。臆病な私
でも、櫂を手にしたとたん、気が大きくなって、怖いも
のは、何一つなくなる。
 盥の舟は、沖に出たら、青い海にぽつんと浮いている
だけだ。ゆらゆら、波に揺れて、私は、何もしない。一
切は、成り行きに任せる。

 「終わり」はではどうやって決めるのか。何もしない。これはまたまた矛盾である。何もしない。そこには何もない。何もないが「終わり」である。おかしなことに(?)、この「ない」は「ない」ではない。「必要なものなどない」「怖いものは、何一つなくなる」(ない)。それは、別なことばで言えば「満たされている」状態である。「満たされている」状態につながる何かがあるのが「終わり」なのである。
 そして、またまた矛盾になってしまうのだが、この「満たされている」状態、「満ちた状態」というのは「永い」と重ならないだろうか。
 「永いこと、この世に生きて」というときの「永い」を埋めるのは「空白」ではない。「満ち足りた」何かがあって「永い」になっている。「永いこと、生きて」というのは「満ち足りたので」ということと同じである。もう満ち足りたからか、もう「終わり」にするだ。

 それだけで、ほかに何もすることがなくて、私は眠く
なる。そうだ、それから、うつらうつら、私は、永い自
分の一生を夢にみるのだ。

 これは、「満ち足りた」(永い)自分の一生を「いま」(夢のなかで)思い返すということになる。「長い」ではなく「満ち足りたもの(永さ)」なので「いま」という一瞬に重なることができるのである。
 そして、この「永さ」と「いま」という一瞬が重なるとき、それは「永遠」になる。「永遠」は「永さ」を終わらせ、「いま」にとじこめるとき、その「いま」が「永遠」なにるのだ。「永遠」は「遥か」とも呼ばれる。「いま」「ここ」にある「遥か」なるものが「永遠」である。

 そして、気がつくと、静かな春のその日、私は、独り、
盥の舟に乗っている。いや、観音さまのような赤い腰巻
の女の幻と、しっかり、そこで抱きあっている。
 耄碌した人間が、みんな、そうであるように、そうな
ったら、もう怖いものなど、何一つない。独り笑いなが
ら、私は、ゆらゆら、梅ぼしの甕のなかの遥かな補陀落
の里に行くのだ。


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鏡と街
粕谷 栄市
思潮社
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ドミニク・アベル監督「ルンバ!/アイスバーグ!」(★★★★)

2010-11-19 12:57:44 | 映画
監督・脚本 ドミニク・アベル、フィオナ・ゴードン、ブルーノ・ロミ 出演 フィオナ・ゴードン、ドミニク・アベル

 なぜか昔懐かしい「2 本立て」上映である。「アイスバーグ」から上映された。メインは「ルンバ!」ということになるのだろう。
 しかし初めて見る監督の作品はやはり最初に見た作品の印象が強い。
 「アイスバーグ!」はサイレントといっていい作品である。事故で(?)冷凍庫に閉じ込められた女性が一夜を生き延び、ふいに「氷点下の世界」に目覚める、というような変なストーリーである。何としても北極へ行くんだ、という決意をもって、それを実行に移す。「タイタニック」という小さな船で。この「タイタニック」という名前が端的に表しているのだが、これはナンセンスなお遊びの映画である。
 だから、楽しむのはナンセンスである。
 この映画は徹底的にクールである。冷めている。
 主役の女性が冷凍庫に閉じ込められるところから映画はスタートするが、閉じ込められてもあわてない。死んでしまうかもしれないのだけれど、何ができるか考え、それを冷静に実行する。冷凍庫のなかの商品の段ボールを壊して段ボールハウスをつくるとか、ビニール袋で体を保温するとか。
 画面の色彩計画もクールだ。主役の女性の赤いマフラー、寝室の赤い色と、その対極にある白の対比。余分なものがない。
 このなにもない感じが、感情をさっぱりさせる。倦怠期の夫婦の関係、さらにはそれが伝染(?)したような、母の不在をなんとも感じない子供たち。深刻ということもできるが、深刻にならずにさっぱりし、それがおかしい。
 妻が去って初めて妻の存在を取り戻そうとする夫の悪戦苦闘。今度は妻が、夫がそばにいてもいないかのようにふるまってしまう冷酷(?)な人間関係のおかしさ。浮気相手(?)の船長の何も気にしない感じ。このどたばたが面白い。
 タイタニックが氷山にぶつかり沈む。女性は氷山に乗って漂流するが、その氷山が割れて沈んで、女性も沈んでゆくなんて、とてもいい。どたばたしないのである。

 「ルンバ!」も似た感じ。ルンバで優勝した2 人が、帰り、自殺志願の男を避けようとして大けが、記憶喪失、さらに失業と最悪の人生を歩むのだが、ぜんぜんめげない。愛はかわらず、日常がクールに描かれる。
 ふたつの作品が成功しているのは、ひとつには台詞がない、ということがあるかもしれない。ことばは不必要な「意味」を抱え込んでいまう。不必要な「意味」を排除すると、肉体の強さだけが生きてくる。それを強調するような、2 人の肉体がいい。シンプルでむだがない。すべてがルンバではないが「ダンス」に見えてくるのである。
 あ、そうなんだ。「ダンス」と書いて分かったが、この映画は「文学」でいえば「詩」なのだ。「ストーリー」はない。そこでは「肉体」が踊り続ける。どこにもいかず、一点をまもる肉体――その美しさが輝いているのだ。





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広瀬弓『水を撒くティルル』

2010-11-19 12:29:33 | 詩集
広瀬弓『水を撒くティルル』(思潮社、2010年10月31日発行)

 広瀬弓『水を撒くティルル』には広島を書いた詩がある。「ときわ園」が私には一番印象に残った。
 原爆の火を防いだイチョウの木について書いている。

「あの樹よ、あのいちょうがおったけぇ、火が止まったんじゃ。対岸は火の海、なんものうなるまで舐め尽くされとった。恐ろしい勢いで迫って来る火の高波に、もう仕舞いじゃ思うて家を捨ててみんな逃げよった。火は川を越えそこまで来た。それがどうした訳か、あの樹のところでぴたり止まったんよ、不思議じゃろう?」
原爆の火と戦ったいちょうが思い切り広げた腕、焼け焦がされようと踏み止まった胴体。それを思うと温かい水が湧いて来て上気する、誇らしげなおじいさんの顔。この地に生えて来たことで備わった単純な何かに、わたしたちはつながっていた。

 「誇らしげな」ということばに胸が熱くなる。生まれてきたこと、生きてきたこと。それは何よりも誇らしいことなのだ。誰に対しても誇ることができることなのだ。木は「この地に生えて来た」、そして人間は「この地に生まれてきた」。それは私は生きている、と誇るためにである。
 誰に対して?
 一緒に生きている人に対して、である。

 その「誇り」に対して、原爆は何を言うことができるだろうか。広瀬は、それを問うている。


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満ち干
広瀬 弓
新風舎
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ナボコフ『賜物』(16)

2010-11-19 11:09:18 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(16)

 眠れない夜、主人公が姉と謎々をする場面がある。主人公が独自の奇抜な謎々を出すのに対して、姉の方は「古典的な手本に従って」謎々を出した。たとえば

 私の最初の音節は貴金属
 二番目の音節は天の住人
 全部合わせると美味しい果物
                                (27ページ)

 この部分には訳者・沼野充義の注がついている。その注が非常におもしろい。

フランス語の原文だけが掲載されており、訳も謎解きもついていない。答えは、or「金(=貴金属)」+ange「天使(天の住人)」で、orange「オレンジ」となる。なお、この謎はよく知られているもので、ナボコフによる創作ではない。

 私がおもしろいと感じたのは「ナボコフの創作によるものではない」という部分である。
 小説にかぎらず、あらゆる「芸術」は作家の創作である--というのが基本だが、だが、創作など言語においては存在しない。どの言語もかならず誰かが語ったことばであり、なおかつ共有されたものである。そうでないと、ことばはつうじない。ことばが通じる、他人に理解されるというのは、それがオリジナル「創作」ではないからだ。
 創作とは、それでは何になるか。
 既存のものの「組み合わせ方」である。
 姉の謎々が「古典的な手本に従っていた」とことわって、ナボコフは、すでに知られた謎々をそのまま引用している。引用を姉の行為に結びつけ(自分自身ではないところが絶妙である)、そこにひとりの人間を造形している。
 ナボコフのことばが魔術的なのは、それが創作されたことばではなく、創作された組み合わせだからである。

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ヨーロッパ文学講義
ウラジーミル ナボコフ
阪急コミュニケーションズ
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