ナボコフ『賜物』(32)
「時間の武装」とは何だろうか。駅では時間は厳密に全体を支配している。列車の出発、到着は決められている。時間の支配力を「武装」と呼んでいるのだろうか。だが、それが「感銘を与える」とは? ものごとが「時間」の支配にしたがって動く--そのことにナボコフは感銘を受けるということだろうか。そうであれば、ナボコフの性質(?)、あるいはロシア人の性質のひとつに時間のルーズさがあることになる。時間感覚がルーズだから、時間が厳密に行動を支配しているような世界に感銘を受けるのだ。時間に厳密なひとは、時間に厳密な行動様式には感銘など受けないだろう。当然のことと受け止めるだろう。
ここに描かれている三人は、時間に対してルーズというか、時間をあまり気にしないということかもしれない。そしてそれは時間だけではなく、「生活」や「世界」に対しても厳格さを求めていないということにつながるかもしれない。「新年」という区切りを、「駅の軽食堂」という「正式な場」から遠いところで迎えるというところに、その性質が暗示されている。
そして、それはさらに、それに続く文章で強調されている。
「色とりどりのぬかるみ」とは雨上がりのぬかるみに街の明かり(ネオン)が映り、色とりどりになっているということだろう。「色とりどり」という華麗なものと「ぬかるみ」の結合、さらに「ぞっとするような」という否定的気分と、「お祭り」という違和感のあることばの結びつき。
ここには「厳格さ」はない。むしろ、「気まま」「自由」という匂いがひしめいている。
ナボコフの文章の細部は「厳格」「厳密」である。しかし、そのことばの結合は、私たちが一般的に「厳格」「厳密」と呼んでいるものを否定するようにして動いている。そのために、一種の逆説的な効果のようなものが生まれ、その細部がいっそう輝かしく見える。
新年をなぜか三人はベルリンの駅の軽食堂で迎え--たぶん、駅では時間の武装が特に強い感銘を与えるためだろうか--そのあとで色とりどりのぬかるみの真っただ中に出ていき、ぞっとするようなお祭り気分の街路をぶらついた。
(72ページ)
「時間の武装」とは何だろうか。駅では時間は厳密に全体を支配している。列車の出発、到着は決められている。時間の支配力を「武装」と呼んでいるのだろうか。だが、それが「感銘を与える」とは? ものごとが「時間」の支配にしたがって動く--そのことにナボコフは感銘を受けるということだろうか。そうであれば、ナボコフの性質(?)、あるいはロシア人の性質のひとつに時間のルーズさがあることになる。時間感覚がルーズだから、時間が厳密に行動を支配しているような世界に感銘を受けるのだ。時間に厳密なひとは、時間に厳密な行動様式には感銘など受けないだろう。当然のことと受け止めるだろう。
ここに描かれている三人は、時間に対してルーズというか、時間をあまり気にしないということかもしれない。そしてそれは時間だけではなく、「生活」や「世界」に対しても厳格さを求めていないということにつながるかもしれない。「新年」という区切りを、「駅の軽食堂」という「正式な場」から遠いところで迎えるというところに、その性質が暗示されている。
そして、それはさらに、それに続く文章で強調されている。
「色とりどりのぬかるみ」とは雨上がりのぬかるみに街の明かり(ネオン)が映り、色とりどりになっているということだろう。「色とりどり」という華麗なものと「ぬかるみ」の結合、さらに「ぞっとするような」という否定的気分と、「お祭り」という違和感のあることばの結びつき。
ここには「厳格さ」はない。むしろ、「気まま」「自由」という匂いがひしめいている。
ナボコフの文章の細部は「厳格」「厳密」である。しかし、そのことばの結合は、私たちが一般的に「厳格」「厳密」と呼んでいるものを否定するようにして動いている。そのために、一種の逆説的な効果のようなものが生まれ、その細部がいっそう輝かしく見える。
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若島 正 | |
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