詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(25)

2010-11-30 11:16:47 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(25)

果たして書評家は実際に詩のすべてを理解し、そこには悪名高い「絵画性」の他にもなお特別な意味というものがあって(理性の彼方に隠れた心が新たに発展した音楽とともに帰ってくるということだ)、それだけが詩を人の世に出すことになる、ということを理解したのだろうか。
                                 (47ページ)

 このことばはナボコフの「音楽」に対する意識を明確に語っている。この作品の詩の部分は、たとえば直前に書かれている詩をみると、

磁器の蜂の巣が青、緑、
赤の蜜を蓄えている。
最初はまず鉛筆の線から
ざらざらと庭が形づくられる。
白樺の木、離れのバルコニー--
すべては陽光の斑点の中。ぼくは筆先を
絵の具に浸し、ぐるっと回して
オレンジがかった黄色でたっぷりくるもう。
                              (46-47ページ)

 色が次々に出てくる。はっきりした名詞で存在が書かれ、いかにも絵画的な詩である。そうであることを認めて、ナボコフはなおここで「音楽」について語っている。そのことばの音楽そのものについては、訳文を読むのとロシア語の原文を読むのでは違うだろうが、「ざらざらと庭が形づくられる。」や「ぐるっと回して」「たっぷりくるもう。」ということばのなかに何か刺激的な音楽が隠れているのかもしれない。「ざらざら」は視覚でも(絵画でも)伝えられるが、日本語の場合、触覚に属する。視覚から触覚への移行があり、その移行を聴覚がとらえる「ざらざら」という音が後押しする。そういうことがロシア語でもおこなわれているのかもしれない。 
 私は詩も小説も音読はしないが、音読はしなくても、発声器官や聴覚は無意識的に動く。そのときたしかに音楽というもの(音というもの)の効果は大きい。音楽的ではないことばを読むのは、とてもつらい。
 音の中に「隠れた心」があるというナボコフの指摘は、とてもうれしい。


ロリータ
ウラジーミル ナボコフ
新潮社

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1 コメント

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ナボコフー賜物25 (大井川賢治)
2024-05-16 22:30:56
/音の中に隠れたこころがある/う~ん、難しい^^^

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