詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Joaquín Llorens

2022-07-16 22:32:39 | tu no sabes nada

Joaquin のアトリエを3年ぶりに訪問することができた。
私をスペインの芸術家に導いてくれたフェニックスはきょうも私を温かく迎えてくれた。
フェニックスの子ども(?)も元気だった。このアトリエは私にとっての古里のようなものかもしれない。帰省するように何度も何度も訪ねたい場所だ。

Visito el estudio de Joaquín por primera vez en tres años.
Phoenix, que me presentó a los artistas españoles, me dio una cálida bienvenida hoy.
El niño Fénix (?) también gozaba de buena salud. Este estudio puede ser como un viejo hogar para mí. Es un lugar que quiero visitar una y otra vez, como si volviera a casa.

だれのアトリエでもそうかもしれないが、アトリエにある作品には、展覧会の会場では見せない表情がある。
それぞれの作品が、他の作品がどうやって生まれてきたかを知っている。
兄弟の感覚。
気取ってみても、その気取りさえ似通ったところがある。
ここでは、寛いだ方が勝ちなのだ。
自然な呼吸がアトリエをさらに落ち着かせる。
その呼吸に合わせてみる。
すると私のからだのなかに、その空気が入ってきて、少しうれしくなる。
私はホアキンの作品ではない。作品をつくったホアキンでもない
でも、こうやって呼吸を合わせると、ここで生きている作品の兄弟になれるかもしれない、と錯覚するのだ。

Como puede ocurrir en el estudio de cualquier persona, las obras en el estudio tienen un aspecto que no se muestra en la sala de exposiciones.
Cada pieza sabe cómo surgieron las otras.
Ellos tienen un sentimiento de hermandad.
Incluso las pretensiones son similares.
Aquí, cuanto más relajado estés, más importantes.
La respiración natural calma aún más el estudio.
Intento igualar esa respiración.
Entonces el aire entra en mi cuerpo y me siento un poco feliz.
No soy el trabajo de Joaquín. Yo no soy Joaquín, que creó la obra.
Pero cuando respiramos juntos así, me siento como si pudiera ser un hermano de la obra que está viva aquí.


 

時間がたって……。
ホアキンのアトリエ訪問の記録としてどの作品を選ぶか。
どれにする?とホアキンが聞いてくる。
私はアトリエでこの作品を見たときから、これ、と決めていた。
ホアキンはこれ? と聞いたが。
彼は代表作と思っていないのかもしれない。
でも、私はこの作品が好き。
フェイスブックで初めて見たときも書いたが、折り鶴を連想する。日本人は祈りをこめて鶴を折る。
ホアキンも祈りをこめてこの作品を作ったと感じたのだ。
何を祈った? 世界の平和、かもしれない。
もっと身近な祈りかもしれない。
作品の背景に家族の写真がある。両親、祖父母かもしれない。家族の安全、健康、無事を祈っている、と私は強く感じた。
地味な感じだが、祈りは地味な方がいい。
欲望のまじりこまない、素朴で誠実なものがいい。
ホアキンの作品には、身近な、親密な温かさがある。
私はいつもそれにひきつけられる。

Despues de la conversacion .......
¿Qué obra es major para sacar foto de recuerdo de visita al estudio?
¿Cuál obra? me pregunta Joaquín.
Me decidí por éste desde el momento en que lo vi en su estudio.
Joaquín pregunta: "¿Este? Pregunté.
Tal vez no cree que sea su obra maestra.
Pero me gusta esta obra.
Yo ya la he escrito cuando la vi por primera vez en Facebook, me recuerda a las grullas de papel dobladas. Los japoneses doblan las grullas con la oración.
Sentí que Joaquín también hizo este trabajo con una oración.
¿Por qué rezó? La paz mundial, tal vez.
O quizás una oración más familiar.
Hay una foto de familia en el fondo de la obra. Pueden ser los padres, los abuelos. Tuve la impresión de que rezaba por la seguridad, la salud y el bienestar de su familia.
Parece sencillo, pero las oraciones deben ser sencillas.
Debe ser sencillo y sincero, sin rastro de deseo.
Hay una calidez familiar e íntima en la obra de Joaquín.
Siempre me atrae.

 

 

 

 


何度もブログやフェイスブックで書いてきたことだが、もう一度書いておこう。
ホアキンの作品には、他の彫刻家とは違う独特の雰囲気がある。
先に家族のことを書いたが、家族と関係している。彼の一族の仕事と関係している、と私は感じている。
ホアキンの身の回りには、彼が小さいころから鉄があった。
その鉄をつかってホアキンは作品をつくっている。鉄を「素材」として買ってきて、それを加工するというよりも、そばにあった鉄、工場でつかいきれなかった鉄をつかってつくっている感じがする。
そういう鉄は様々である。三角形であったり、四角い柱形だったり、丸い棒だったりする。
ホアキンの作品には、そういう、言わば余った鉄をつかってつくったという印象がある。
しかも、そのときホアキンは、手でそれを加工するのだ。もちろんハンマーや金床、火もつかうだろうが、なぜか、手の力だけで形をととのえたのではないかと思わせる不思議な「肉体感覚」がある。
特に地中海の波をテーマにした作品(と、私が勝手に思っている作品)がそうだ。
二枚、あるいは三枚の錆びた鉄板が組み合わされている。そのカーブ、その表面の滑らかな感じ。それは、手で、粘土を伸ばして形作ったような印象がある。
手の力、というか、ホアキンの肉体の力だけでつくったような、不思議な手触りがつたわってくる。
もちろん手の力、肉体の力だけでは鉄は加工できないから、私の「印象」は間違っている。
けれど、私は、そう感じたいのだ。
ホアキンは幼いころから、そばにあった鉄に触れながら、鉄がどういうものかを知識ではなく、暮らしとしてつかみ取ってきた。
平たい板ならどう組み合わせることができるか。円柱ならどうか。細い針金ならどうか。
捨てられたものというと変な言い方になるが、何かをつくりだしたあと、はみ出してしまったもの、取り残されたものに、視線を注ぎ、それに新たな命を吹き込む。
そこにあるものすべてを生かす。何一つ無駄にしない。どんな断片にも命を与える。
そういう芸術のあり方。暮らしそのものを芸術にしていくあり方。
「工芸」にいくぶん通じるかもしれない。特別なものをつくるわけではない。そこにあるものを美しくととのえることで、もっと大切につかいたいという意識を呼び起こす存在。

He escrito sobre esto muchas veces en mi blog y en Facebook, pero lo escribo de nuevo.
Las obras de Joaquín tienen una atmósfera única, diferente a la de otros escultores.
Tiene que ver con su familia, como he mencionado antes, yo creo.
Joaquín ha estado rodeado de hierro desde que era pequeño.
Joaquín hace su trabajo con hierro. Más que comprar el hierro como "material" y procesarlo, me parece que Joaquin hace sus obras con el hierro que estaba a su alrededor o que no se utilizaba en la fábrica.
Hay varios tipos de hierro. Pueden ser triangulares, columnas cuadradas o barras redondas.
Las obras de Joaquín dan la impresión de estar hechas con esos excedentes de hierro.
Además, Joaquín los procesa a mano. 
Por supuesto que utilizó un martillo, un yunque y el fuego.
Pero me da impression extrano que él armó las formas utilizando sólo el poder de sus manos.
Esto es especialmente cierto en las obras sobre el tema de las olas en el Mediterráneo.
Se juntan dos o tres placas de acero oxidadas. Las curvas, la suavidad de la superficie. Da la impresión de haber sido formado a mano.
La obra tiene un aire misterioso, como si estuviera hecha únicamente por el poder de la mano, o mejor dicho, por el poder del cuerpo de Joaquín.
Por supuesto, mi "impresión" es errónea, ya que el hierro no se puede procesar sólo con la fuerza de las manos o la fuerza física.
Pero así es como quiero sentirlo.
Joaquín ha estado en contacto con el hierro desde que era un niño, y ha captado lo que es el hierro, no a través del conocimiento, sino como una forma de vida. Un martillo, un yunque el fuego, ellos son manos de Joaquín.
¿Cómo se pueden combinar las placas planas? ¿Y los cilindros? ¿Qué pasa con los cables finos?
Las cosas que han sido abandonadas o dejadas atrás después de haber creado algo, y Joaquín les da nueva vida.
Aprovecha todo lo que hay. No se desperdicia nada. Da vida a cada fragmento.
Este es el camino del arte. Una forma de hacer arte a partir de la vida misma.
Puede ser algo parecido a la artesanía. No se trata de hacer algo especial. Es una existencia que evoca la sensación de querer cuidar mejor las cosas que hay haciéndolas bellas.


 

もう少し語りなおそう。
たとえば、私が大好きな、この波が絡み合ったような作品。
二つの波が対話している。交流している。愛し合っている。そういうことを感じさせる。
どの作品にも、ある部分と別の部分との対話がある。絆がある。
それを強く感じる。
それは基本的に、家族の愛なのだと思う。親子の愛、夫婦の愛、兄弟の愛。一家の愛。
愛れが奏でる音楽がある。

私がホアキンの作品から感じるのは、その愛が、彼の家族を支えた鉄の血、鉄の肉というものと一体になっている感じだ。ホアキン一家のの血、肉が一体になった魅力である。
塊には塊の魅力が、変形したものには変形したものの魅力が、錆びたものには錆びた魅力がある。
鉄は強靱だが、なかには細く繊細なものもある。
だから、ホアキンはときに強靱なものを、ときに繊細なものをつくる。
それぞれの表情をホアキンは、鉄から大事にくみ取っている。

Voya hablar un poco más de ello.
Por ejemplo, me encanta esta pieza de ondas entrelazadas.
Las dos olas dialogan. Están interactuando. Se están queriendo. Eso es lo que me hace sentir.
En cada pieza, hay un diálogo entre una parte y otra. Hay un vínculo.
Lo siento mucho.
Creo que es básicamente el amor a la familia. El amor entre padre e hijo, entre marido y mujer, entre hermanos. El amor de una familia.
Hay música interpretada por el amor.

Lo que siento de la obra de Joaquín es que ese amor está unido a la sangre y la carne de hierro que sostenían a su familia. Es la atracción de la sangre y la carne de la familia de Joaquín convirtiéndose en uno.
Un bulto tiene el encanto de un bulto, una cosa deformada tiene el encanto de una cosa deformada, y una cosa oxidada tiene el encanto de una cosa oxidada.
El hierro es duro, pero parte de él es fino y delicado.
Por lo tanto, Joaquín hace a veces objetos fuertes y a veces delicados.
Joaquín extrae cuidadosamente cada expresión del hierro.

 

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岡井隆『あばな』

2022-07-16 16:05:06 | 詩集

岡井隆『あばな』(砂子屋書房、2022年07月10日発行)

 岡井隆『あばな』は遺稿歌集。「あばな」は「阿婆世」と書く。

ああこんなことつてあるか死はこちらむいててほしい阿婆世といへど

 という歌に出てくる。「阿婆世」を私は「あばよ」と読んでしまうが、それは死と向き合っている、死んでいく人間の声として聞こえるからである。
 この歌だけでは、何が書いてあるかわかりにくいが、この歌の前には、この歌がある。

死がうしろ姿でそこにゐるむかう向きだつてことうしろ姿だ

 これは、すごいなあ、と思う。
 死んだことがないからわからないが、よく「お迎えがくる」という。「お迎え」というからには、向こうからだれかが岡井のところへやってくる。そう想像する。しかし、岡井はそうではない、という。「お迎え」なら、当然、岡井の方を向いているはずなのに、その誰かは岡井の方を向いていない。
 死は「お迎え」にくるのではなく、岡井を知らない場所へつれていくのである。それがどこかも知られず、「ついてこい」と背中で岡井を導いていく。
 「うしろ姿」と書いて、「むかう向き」と書いて、もう一度「うしろ姿」と書いている。だれもこんなことを書いていない(言っていない)から、自分のいいたいことをなんとしても正確に伝えたいという「欲望」(聞いてほしい)が、ここにこもっている。
 そのうえで

ああこんなことつてあるか

 と嘆く。しかも、口語で嘆く。
 私は、この岡井の、露骨な口語の響きが大好きである。
 そして、こんなことを遺稿歌集の感想として書いていいかどうかわからないのだが、思ったことなので書くしかない。この露骨な口語(俗語、というか、地口、というか……)に、それに拮抗するような「文語(雅語)」をぶつけて、ことばを活性化するところがとても生き生きしていておもしろいと思う。
 いつでも岡井は、ことばを活性化したいのだ。知っていることばを最大限に輝かせたい。そのためには「枠」にはめるのではなく「枠」を破ることが大事なのだ。「枠」を破ったあと、どこへ出て行くか、それは知らない。しかし、まず「枠」を破る。それがことばを活性化する第一歩だ。

 それにしてもね。
 死が、岡井の書いているように、顔もわからない誰かのうしろ姿についていくしかない「未知」の世界なら、これは、つらいね。「あばよ」と後ろを振り向いて、知っている誰かにあいさつしたいけれど、振り向いているうちに「死の背中」を見失って、どこへ行っていいかわからないということにでもなったらたいへんだ。真剣に、「死の背中(うしろ姿)」をみつめて、おいかけていかなければならない。振り返って「あばよ」と言えない……。
 
 この他の歌では、

魚焼いた臭ひを逃すべく空けし窓ゆ見知らぬ夜が入り来ぬ

ひむがしの野にかぎろひの立つやうに新年よ来よ つて言つたつてよい

 が、私は好きだ。
 「魚焼いた」の「焼いた」という口語活用のことばが「臭ひ」からつづく日常的な動きにぴったりだし、それが「ゆ」という古語を経由することで「見知らぬ夜が入り来ぬ」の「見知らぬ夜」が実は、ことばの奥底(伝統)のなかで知っているものであることを告げるところがとてもいい。「ことば」にとって「知らぬ」ものなどない。ことばみんな知っている。その「知る/知らぬ」の交錯のなかに「魔」が動いている。ことばは「魔」だ。「魔」を目覚めさせるのが「詩のことば」だ。
 「ひむがしの」は、この歌集で、私がいちばん好きな一種。最後の「つて言つたつてよい」が強い。何を言ったってよい。それは短歌にかぎらない。私はこの「つて言つたつてよい」に励まされる。

 

 

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読売新聞の「文体」

2022-07-16 09:46:51 | 考える日記

 2022年07月16日の読売新聞(西部版、14版)に安倍銃殺事件のことが書かれている。
 なぜ、容疑者は安倍を狙ったか。(番号は私がつけた。)
↓↓↓
①山上容疑者が理由として挙げるのが1本の動画だ。
 「朝鮮半島の平和的統一に向けて、努力されてきた韓鶴子総裁に敬意を表します」。昨年9月、民間活動団体「天宙平和連合(UPF)」が韓国で開いた集会で、安倍氏が寄せた約5分間のビデオメッセージが流された。
(略)
②安倍氏を巡っては、首相在任中から同連合とのつながりを指摘する声が一部にあった。そうした中、安倍氏が公の場で韓氏を称賛する動画が流れたことで、SNS上では安倍氏と同連合が深いつながりがあるかのような根拠不明な投稿が広がった。
(略)
③「動画を見て(安倍氏は同連合と)つながりがあると思った。絶対に殺さなければいけないと確信した」と供述する山上容疑者。安倍氏の殺害を決意したのは、昨秋のことだった。

④ビデオメッセージは、同連合と関わりがあるUPFが安倍氏側に依頼して実現したという。しかし、安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。
↑↑↑
 ①から③までは、すでに何度も報道されていることである。容疑者の「動機」を語っている。安倍は、容疑者の家庭を崩壊させた統一教会と関係がある。だから、殺そうと思った。要約するとそういうことになる。
 そういう一連の報道を踏まえた上で、読売新聞は④以下の「作文」を書き始める。①から③までは、事実だが、④は事実ではない。「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いているが、そのときの「事実」とは何か。「事実」を確認したのは、誰か。
 「確認されていない」にはふたつの意味がある。
 調べたが「確認できなかった」と、「調べていない」である。
 読売新聞は、だれが、いつ、どのようにして調べたかを書いていない。つまり、「調べていない」のである。「調べていない」から「確認できていない」。これを「確認されていない」とあいまいに逃げている。この「確認されていない」は、主語を補って言えば「捜査機関によってか確認されていない」なのだが、それを捜査機関が調べない限り「確認されていない」はつづく。なぜ、捜査機関はそれを調べないのか、ということを不問にして「確認されていない」と言っても意味はない。
 本来ならば、なぜ、捜査機関はそれを調べないのかを追及しないといけない。そして、捜査機関が調べないことを、読売新聞が独自に調べ、「事実」を明らかにしないといけない。ジャーナリズムとは、そういう存在である。「権力」が捜査しないなら、自分たちで調べる。そこから「特ダネ」も生まれる。捜査機関が発表したことだけを、そのまま垂れ流していたのでは、捜査機関にとって都合のいい「情報」だけが流布することになる。
 ④では「事実」ということばもつかわれている。ここでいう「事実」とは何か。安倍はすでにビデオメッセージを送っている。それは「支援」ではないのか。私から見ると「支援」である。読売新聞は「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いている。この文章を補足すると「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、直接支援したりした事実は確認されていない。」。つまり、ビデオメッセージは「間接支援」であり「直接支援」ではない、といいたいのである。
 ここでは「直接」の定義が問題になる。「事実」の定義と同様に。
 こういう部分を厳密にせずに、雰囲気で「作文」している。ここに大きな問題がある。最初から、安倍は統一教会と無関係であるという方向で「作文」しており、それを論理づけるために「事実」とか「直接」ということばが、あたかも「客観的視点」を代弁しているかのようにつかわれている。
 「直接関係」「直接支援」、あるいはその「事実」とは、ではいったい何が想定されているのか。金をもらっている。その代償として安倍が動いている、ということだろう。金の動きが証明されない限り「事実」はない、というのが読売新聞の立場である。ビデオメッセージの代償として金が動いていれば、安倍と統一教会は「直接」関係している。金をもらってビデオメッセージを送っていれば、「直接」支援したことになる、という考えである。
 しかし、「金」というのは、現代では単純に「円(札束)」を指すとはかぎらない。金を動かさず、人員を無償で送り込み、活動させるというのは「金」の動きを隠すための「方便」である。「ボランティア」を装い、無償という「金」の流れをつくりだすことができる。安倍のビデオメッセージにしても「無償」を言い張るかもしれないが、なぜ、宗教団体に(私は悪徳商法団体と思っているが)、「無償」のビデオメッセージを送るのか。なぜ、その団体なのか。その団体を選んだ段階で、それは「直接支援」になるだろう。

 この作文のあとで、読売新聞は、こうつづけている。
↓↓↓
⑤動画を見ただけで、安倍氏を殺害するというのは、動機としてはあまりにも不可解で、論理に飛躍がある。
⑥精神科医の片田珠美氏は「動画やSNS上の根拠不明な情報を見て、『怒りの置き換え』が生じたのではないか」と指摘する。
「怒りの置き換え」とは、元々怒りを向けていた相手にぶつけられず、他の人物に矛先を変えることを指す。
(略)
⑦片田氏は「容疑者は恨みの感情に長年とらわれ、相手を置き換えてでも復讐を果たさないと精神の安定が保てない状態に陥っていたのだろう」と推測する。
↑↑↑
 ⑥は読売新聞(記者)の考えである。記者には「動機」が理解できず(不可解)であり、「論理(動機)に飛躍がある」ように見えた。(私には、容疑者の動機も論理も、自然なことのように思える。合理的に見える。)
 読売新聞(記者)は、その「理解不能な論理」の説明するために、⑥のように精神科医の「分析」を持ってきている。代弁させている。精神科医も、こう言っている、というわけである。
 この手法は、なんというか、私には「墓穴」のように見える。
 もし容疑者が、⑦で精神科医(これが、問題)の指摘するように、「精神の安定が保てない状態」だったとしたのだとしたら、容疑者は裁判では「無罪」になるかもしれない。罪は問われないことになるかもしれない。安倍を擁護する一方、容疑者を裁けなくなる可能性が出てくる。
 読売新聞(記者)は、そこまでは考えずに精神科医を取材し、「作文」を書いている。ただ、安倍を擁護するためにだけ、記事を仕立てている。

 新聞記事には、「事実」を書いたものと、「事実」というよりも「意図的な作文」がある。
 「事実」には、第三者(捜査機関、あるいは、今回のような精神科医)の調べたこと、主張していることがある一方、記者が独自に調べた「事実」がある。そのなかには、今回の「作文」のように、記者が独自に(単独で)精神科医に取材したもの(他社の記者が同席していたわけではないだろう)もある。
 この関係を見極めながら報道を読む必要がある。

 

 

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