詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎『名井島』

2018-10-13 12:32:33 | 詩集
時里二郎『名井島』(1)( 思潮社、2018年09月25日発行)

時里二郎『名井島』。読まずに書くのだが「名井島」を私は「ない/島」は読む。「ある」「ない」の「ない」である。「ない」が「ある」ということが発見された(?)のはギリシャにおいてであると言われている。哲学、つまり「ことば」発祥の地である。「ない」のに、「ない」が「ある」と「ことば」で言うことができる。そういう「矛盾」のようなもので、時里の詩は動いている。これは、私がこれまで時里を読んできた「記憶」をもとに想像していることである。何も想像せずに、初めて時里のことばに出会うことができればいいが、そういうことは難しい。つまり、私は「偏見」をもって「誤読」する 
「島の井」は、「主語」がわかりにくい詩である。

山羊のゐる家を過ぎて
島の井に寄つたのはきのふ

穴井の底の暗い水影から
まだもどらないわたしを待つて
けふが過ぎる

一連目に主語は見当たらない。「わたし」を補って読む。「わたし」は「きのふ」「島の井に寄つた」と。二行目を「倒置法」として解釈する。
しかし、二連目を読むと「けふが過ぎる」とある。ここから逆に読み直すと、一連目の主語は「きのふ」ということになる。人ではなく「時間」を主語にしてことばが動いている。「わたし」は補語である。「わたし」が存在しながら、「わたし」は主語ではなく、「わたし」以外のものが主語となっている。
 しかし、そうなのか。

この島では
山羊の数だけのよろこびがあると
教へられたが
人のうれひについては
だれも口にしない

 「教へられた」のは「誰」か。「時間」か。そうではなく「わたし」だろう。書かれない主語として、「わたし」は存在する。書かれないことによって「わたし」は存在する。書かれないの「ない」は、「ある」「ない」の「ない」と同じである。「ない」という「わたし」が「ある」のだ。

目覚めつついまだ夜深く
荒浜に出でて
なほも帰らないわたしをうたふ

 「わたしは帰らない」ではなく「帰らないわたし」というもの、「ない/わたし」が存在し、それを「うたふ」。誰が? 「書かれないわたし」である。虚構のなかに、「書かれないわたし」が動いている。つまり、登場人物ではなく「作者」が。
 「目覚めつついまだ夜深く」は奇妙な言い回しである。目覚めるのは「朝」であり、「夜」なら眠られぬままだろう。もし夜に「目覚めた」としても、目覚め「つつ」とは言わないだろう。
 しかし、ことばは、どう書いてもかまわない。いままでの表現では言えないことを言うには、どうしてもことばを別な方向に動かしていくしかない。ふつうは言わ「ない」ことば、その「ない」を浮かび上がらせながら、虚構を進めていくしかない。その運動の中で、「書かれないわたし/作者」が見えてくる。

あすは半島のさきの
きのふの島の井の水の行方のはて
山羊ひとつなく漁の住まひに
島をみなの尻のやうに甕の底をのぞきに行くだろう

わたしといふ舫の先に
すでに舟はなく
島も見えないといふのに

 「わたしといふ舫」の「わたし」は「比喩」である。比喩とは、いまここに「ない」ものをここに「ある」ものに覆い被せることである。隠すことで、隠されたものの本質を語るのが比喩である。
 「ない/わたし」が「舫」を隠すのだから、その先には何も「ない」。何も見え「ない」。見えないことによって、逆に「ない/わたし」が「見える」。

 こういうことは、あまり「理屈」で考えてはいけない。「論理」にしてしまってはいけない。なんとなく、感じればいいのだろう。

















*

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名井島
時里 二郎
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(97)

2018-10-13 09:24:34 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
97 遺跡

 ギリシア人は山づたい、海づたいにポリス、コロニアを増やしていった。それが現代極東の都市(東京)にまで飛び火した。

新宿 渋谷 新橋 上野 浅草 飛び飛びの店店
若い私は夜ごと漂流 止り木に纜を結んでは
沢山の目と 唇と 腿と 出会っては 別れた

 それから年月が経て、

目をつぶれば甦る 数かずの燃える眼差 熱ある睦言
私自身 愛のコロニアの 時経た 歪な遺跡

 「目」が「眼差」に、「唇」が「睦言」にかわっている。つまり動いている。「燃える」「熱ある」は、動詞の動きを補強している。補強というよりも、動詞の本質、エネルギーのあり方を語っている。「目」「唇」と肉体の部位は異なるのに「燃える」「熱ある」と共通のもの、「熱い」で貫かれる。
 ギリシア人がポリス、コロニアを広げていったときも、同じようにポリス、コロニアを「貫く」ものがあったはずだ。
 愛と欲望、だけか。
 「遺跡」ということばが最後に出てくる。それは「ポリス」の動きをやめてしまった「肉体」である。残っているのは、都市の若さだろうか、老いだろうか。「56 断片を頌えて」「57 断片」は、残された断片を完璧を想起させるものと書いていたが、ここに書かれている「遺跡」はどうか。高橋の「肉体」の比喩としての「遺跡」はどうか。

 「断片」になりきれていない。つまり「歪な遺跡」ということばからは、「理想」を想起させるものが浮かび上がらない。

 「燃える」「熱ある」が「動き」として一貫していることはわかるが、それが「断片」として具体化されていない。「断片/遺跡」になっていない。高橋は、高橋という「固有名詞」を隠したまま、「歴史(概念)」を書いている。
 「歴史」を超越していく固有名詞、個別の目、唇、腿がない。カヴァフィスならば、どこかに「固有」のもの、彼自身の「肉体」の跡を残す。いまも生き続けている固有を描くことで、肉体に歪みが出てくる。その歪みを読者に発見させる。歪みこそが永遠への入り口だと告げる。
 高橋は「歪な」と書くことで、「歪」を「肉体」ではなく「概念」にしてしまった。







つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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