魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

天の摂理

2014年10月23日 | 占いばなし

占いで、頭が良い星というのはあるが、どうもあまり意味が無いように思う。
占いでも、一般でも、頭が良いという概念は、テーマを解決する能力のことだろう。学校では、問題に答える能力であり、社会では、生きていくための問題を解決する能力だ。

学校での能力は、必ず教師の想定内の答えであり、限られた問題しか無い。
しかし社会では、遭遇する想定外に答えることが、人より頭が良いことになる。
ところが、仮に正しい答えを出しても、他の誰もそれを理解せず、賛成しなかったとすれば、埋もれてしまうことになる。

コロンブスの卵は、結果が見えてから、みなが理解する。
しかし、集団行動の中では、卵の尻をつぶすことが許されないから、誰も結果を見ることがない。

科学的な研究のように、個人でも結果を出せることならまだしも、政治や経済など、人間の営みの判断となると、いかに知識、論理、推理に優れていても、他人に認めてもらえなければ発揮することができない。逆に、いかにボンクラでも、人受けする能力があれば、ほどほどに頭の良い人のような顔をして生きていくことができる。

結局のところ、賢い人を活用できるできないは、社会のレベルに比例するのであり、どんなに賢い人がいても、その社会に似合った人しか頭角を現さない。
これはスポーツチームのようなものから、企業、国家、ひいては人間社会全体に通じる。
だから人類は、賢いようで、結局は、愚かな歴史を繰り返す。

占いで、頭の良い星という場合。基本的には問題解決能力であり、運が良いとか、お金持ちになるとか、出世するとかとは関係ない。
逆に、運が良いのも頭が良いのとは関係ない。
しかし、運の良いのは、計り知ることのできない、その人の能力による。

勉強もできない、仕事もできない、怠け者で、スケベで病弱・・・そんな人が、スイスイと裕福に暮らしていけるのを見れば、誰でも「運が良いだけだ」と思うだろう。きっと、本人もそう思う。
しかし、これには人間世界の常識や価値観では、計ることのできない能力が働いている。
どんなに頭が良い優秀な人でも、「運悪く」悲惨な状況に追い込まれるのと、ちょうど逆の「ニーズ」に応えているからだ。

天網恢々疎にして漏らさず。人間は自然の摂理に逆らうことはできない。人間界で定めた価値観とは全く関係の無い原理が動いている。理解できない運の良さや悪さは、その原理にマッチしているかいないかであって、「あってはならない」運の良さは、天の摂理に応える「能力」によるものだ。