魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

哀の賛歌

2012年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

懐メロと感じる歌は自分の親時代の歌だ。(港の上海
親の青春時代の歌は、潜在意識にある自分の「前世」のようなもので、確かに「どこかで聞いた懐かしさ」がある。
しかし、自分の青春時代に、ノスタルジーを感じる人はいない。
思い出ではあっても、ノスタルジアでは無い。

ノスタルジアは「郷愁」と訳されている。文字通り、故郷を懐かしく思う感情であり、それも、もう帰れない故郷のような、どちらかと言えば、少し悲しい。もっと言えば、「悲」しいより「哀」しいの方だ。
悲しみは、直接自分の感情だが、哀しみは、他者への思いやりの感情だ。
自分の昔は、自分の記憶の中に存在するが、「郷愁」の故郷は、確かに存在しながら、現実にも記憶にも無い、直接知らない他所だ。

自分が生まれる前や、定かな認識の無い幼児期に存在した時代であり、親や世の中を通して、「確かにあった」ことを否定できないが、体験することができない故郷であり、しかも、ぬぐいがたい自分の一部だ。

自分の体験していないものに「懐かしい」と思う気持ちは、知識や想像力によるのであり、幻の故郷への想いだ。
記憶も定かでは無いものに持つ気持ちは、それに関わる写真や歌で、揺り動かされる。特に歌は、あいまいな「感情」を直接刺激する。

諸々の人生
懐メロ番組は、年寄りのための青春歌として放送されるが、歴史番組であってこそ意味がある。(視聴率が稼げる)
一くくりに懐メロと言っても、実は、同世代の歌は少ない。5年ズレると、自分の歌ではなくなる。

にもかかわらず、それなりに視聴者がいるのは、ただ単に、懐かしいから聴いているのではないはずだ。
むしろ、どこかで聴いたような歌を、ある種の歴史物語のような興味で聴いている。
また、往年の歌手などが出て来ると、同世代の視聴者は「老けたなあ」とか「歌い方を変えたな」とか、同窓会のように楽しむが、これは決してノスタルジーでは無い。

自分の親世代の歌を聴く時、想像力の無い人は「こんなジジイの歌なんか止めろよ」と、思うだろうが、情緒のある人は、親の青春を想像しながら聴く。
しかし、自分の青春時代の歌は記憶が生々しすぎて、想像の余地は無い・・・

そう思っていたのだが、歳を取ったせいで、思いがけない発見をした。
もう既にベテランになった歌手が、次々とカバー曲を歌い、しかもそれが、年寄りにとっては、生々しい青春時代の歌なのだ。
自分の時代が、カバー曲となって、ノスタルジアになっている。

自分の時代が、歴史上の想像の対象になることによって、自分をも含めて、どの時代にも有り得た人生として相対化され、体験を客観的に感じることができるのだ。

理屈では解っていることなのだが、時代というものは、決して誰も見ることができない。
現役には客観性がなく、逆に、時が異なれば、想像や思い込みでしか見ることができない。

喜びも悲しみも抱えて生きる一人一人の人生を、人は誰も、共有し体験することはできない。例え同じ時代に生きていても、違う時代の人生への思いと同じで、本当のことは知ることはできない。
しかし、違う時代への思いやりを持てる想像力や情緒のある人のみが、隣人を思いやることができる人なのではなかろうか。


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