魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

亡国の民

2017年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム

愛知の東名事故。映画のような事故だが、それにしてもスゴイ映像だ。高速を横切った台湾の飛行機墜落事故に、勝るとも劣らない。バス側の死者が出なかったのは不幸中の幸いどころか、奇跡的だ。

事故の状況を聞いて、路肩が傾斜になっていたことに驚き、「それは、アカンわ」と、思ったら、やはり自動車評論家が問題視していた。
ところが、もっと問題なのは、それに対する一般の反応だ。
「スピードの出し過ぎに責任がある。どんな道路だろうと、スピードを出さなければ良いことだ」と、事故死した運転手の責任とするのが大方の意見だったという。

この評論家も直ちに反論し、道路上で起こりうる様々な事態に備えるのが、道路を提供する側の義務であることを説いていた。
全くその通りだと思う。
今回の事故も、何が原因で起こったのか、何も解っていない時点で、「スピードの出し過ぎ」と決めつけるのは、何でも良いから、誰かを悪者にして、血祭りに上げ、憂さ晴らしをしたい野次馬的視点であり、韓国の前大統領叩きと同じ、精神の貧困だ。

世の中が停滞すると、必ず、弱者イジメ、弱者探しが始まる。学校を始め、イジメが蔓延し始めたのは、高度成長が終わってからだ。人々が「違う明日」に希望を待つ時には、他人より自分の発展に関心があるから、他人をイジメる暇など無い。
しかし、自分の未来が見えなくなると、比較進歩を感じるために、他者を貶めようとする。「あいつより上だ」と。
学校でイジメが起こりやすいのは、学校は、子供を型にはめる場だから、その価値観にはまらない多くの子が、劣等感を持つようになるからだ。
その学校を経て形成された日本社会は、社会そのものが、画一的なイジメ社会と化している。

画一社会に溢れる劣等感は、優越感を求めて、常に攻撃の種を探し、何か事件が起こると、直ちに犯人を求め、血祭りに上げたがる。
魔女狩り、鬼退治、山姥と、それは人間の常ではあるが、問題はその度合いだ。
科挙の文化圏の影響を受けている日本は、中韓よりマシかも知れないが、やはり相当ひどい。
マイスターやアカデミーなど、技や思考を磨く場として発展させた欧米式の学校も、東洋に入ると進級の具になってしまった。

そこに、ネットのような情報システムが加わったことで、システムとしてイジメや差別が増幅されるようになった。野次馬が、どこからでも石を投げるようになったのだ。
事の真相などどうでも良い。とにかく、自分が安全と思える、単純な正義の側に立って、石を投げたい。まさか自分が石で撃たれる側になるなどとは、考えたこともないだろう。
こんな貧困な精神が蔓延る社会は、決して発展しない。落ちるところまで落ちる。それが歴史の興亡だ。

これを書いていると、ニュースで、「事故死した件の乗用車は、法定速度で走っていたとみられる」と伝えていた。まだ、何も解っていないのだ。


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