DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

藤枝静男(1907-1993)『空気頭』(1967、60歳):私の考案した「人工気頭装置」に改良を加え、空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります!

2023-05-22 17:41:57 | 日記
※頁は『田紳有楽/空気頭』講談社文芸文庫、1990年。
(1)妻は1938年に私(31歳)と結婚し、1941年(34歳)に結核にかかった!今、1966年(私59歳)、妻は極めて重篤な病状でM結核療養所に入院している!
A  私はこれから「自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って」、「完全な独言で他人の同意を期待せぬもの」として「私小説」を書く。(143頁)
B 今、1966年(59歳)、私の妻はM結核療養所に入院している。私の妻は1938年に私(31歳)と結婚し、1941年(34歳)に結核にかかった。(145頁)
B-2 戦争中(1941-45)、妻は私が軍医だったので、勤めていた海軍の病院に入院していた。妻は「気胸療法」で軽快し退院した。(146-147頁)
B-3  妻の2回目の入院はT療養所だった。人工気胸術により妻は1年足らずで退院した。(154頁)
B-4  1954年(47歳)、妻が気胸を始めて11年目、「気胸療法」は医師の判断で終了した。あとは「左肺の上空の空洞」を「手術で取り除く以外に方法はない」と宣告された。(156頁)
B-5  ストマイ等で病菌はいったん退却し、下熱とか食欲の増加とかもあったが、結局、結核は進行した。8年余りの長い間、慢性的な不安に満ちた生活が続いた。妻はしばしば「私に対する不満と怒り」を発現し、私は何度となく「爆発的な憎悪」を妻に覚えた。(156-157頁)
B-6   1962年(55歳)、妻は結核による左肺上葉の空洞のため「胸郭整形手術」を受け、肋骨5本を切り取られた。5か月後、妻は退院し家に戻った。(157頁)
B-6-2  だが結核菌の排菌が続いた。医師が時々訪問し、対症療法を続けた。「何もかも、妻の病状も、ヒステリーも、私のそれに対する憎悪も、もとのままであった。」(159-160頁)
B-6-3  私は「情味の乏しい、理屈一辺倒の押しつけがましい云い方で、妻を慰めていた。」妻は「あなたはどんな時でも御自分が正しいと思っていらっしゃるのよ」と云って涙を流した。「けど、私がこれまで生きてこられたのはそのためかもしれない」と別のとき云った。(161頁)
B-7  1963年(56歳)、妻はM療養所に入院し「肺葉切除手術」を受けた。(161頁)
B-7-2  しかし1年半後、1965年(58歳)、妻は新たに「気管支結核」であるとわかった。(165頁)
B-7-3 今、1966年(59歳)、私の妻は極めて重篤な病状でM結核療養所に入院している。ストマイ、カナマイによって妻の聴神経の一部が失われている。(168頁)

(2)1966年(私59歳):一週間に一回くらいの割りで私は妻の病床を見舞っていた!
C 1966年(私59歳)、妻がM結核療養所に極めて重篤な病状で入院している。私は、「今日は妻の死んだときのことを楽しく空想した。・・・・そしてやがて私も死んで、妻の墓へ入っていくときの光景を楽しく空想した。」(169頁)
C-2  「私は大木を眺めるのが好きなので・・・・見当をつけたあたりを尋ねることを習慣にするようになっていた。」(171頁)
C-3  「一週間に一回くらいの割りで私は妻の病床を見舞っていた。」(173頁)
C-3-2  「私は、妻の全身がゆっくりと、ボロボロに犯されて行く苦しい妄想にしばらくとらえられていた。」(174頁)

(3)33年前(1933年、26歳)私は警察に1か月留置された!妻が「わたしはこのお墓に入るのはいやです」と言った!
D ある時、散歩して飲み屋かギョーザ屋の揚げ油の臭いを嗅いだ時、33年前(1933年、26歳)、「共青」と疑われたNに家族救援のカンパの金をだし警察に1か月留置されたことを思い出した。(176-179頁)
D-2  私はまた、何か月か前、妻と私の故郷の墓参りに行ったときのことを思い出した。私が亡くなった父母兄たちの墓の掃除に没頭していると、妻が「わたしはこのお墓に入るのはいやです」と言った。「すると反射的に(裏切られた)というような、異様な不快感が私を襲った。」(180頁)

(3)-2 「上半盲」の発作:「私の考案した人工気頭装置」で完全な視野がもどる!「上半盲」の発作が起きると、同時に「性的欲望の昂進」が起きる!
D-3  この日、散歩からもどると「上半盲」の発作が起きた。「自分の視野の上半分が、ちょうど薄靄を通してみるようにかすんできた。」あ(183頁)
D-3-2  私は診察室に入り「私の考案した携帯用の人工気頭装置」とりだした。麻酔・消毒後、ゾンデ(針金状の器具)を眼球に差し込み、私の頭蓋底から浸出液を体外に排出した。そしてついで「空気」を頭蓋底に送り込む。すると「上半盲」は回復し完全な視野が戻った。(184-188頁)
D-3-3  私の「上半盲」の発作が明確に現れたのは1944年末(37歳)か1945年初め(38歳)だった。妻が1941年に結核を発病し3年経った頃だ。ただし実際は、私はもっと以前、小学生の頃から視野の異常に気づいていた。(188頁)
D-3-3-2 「上半盲」の発作が起きると、視野の「上半分」は「ただの暗黒に変わってしまう」。(193頁)
D-4  「上半盲」の発作が起きると、同時に「性的欲望の昂進」が起きる。(194頁)

(4)1944-1945年(37-38歳)、私にはAという名前の19歳の看護婦の「恋人」がいた!
E その頃、1944-1945年(37-38歳)、私には「恋人」がいた。Aという名前の19歳の看護婦だった。私は「医者」で「先生、先生」とおだてられていた。戦争末期で空襲警報がしばしば鳴り、「誰しもそうでしたでしょうが、当時の私はなりゆきにまかせてその日を過ごしておりました。」(194-195頁)
E-2  「私はA子と、夜のレントゲン室や防空壕や材木置場で快楽をともにしていました。」(196頁)
E-3  1945年(38歳)、間もなく終戦の日が来ました。(197頁)
E-3-2  A 子と私との情交はあいかわらず続いていました。しかし「戦争という緊縛が私から脱落して行けば行くほど、私の肉欲はゴム風船の空気が漏れるように衰弱しはじめていた。」(200頁)
E-3-3 「不能者的傾向が、自分の活力の消滅と自信喪失とに結びついていることを感じました。そして性欲的の妄想だけが劇しくなって行くにつれて、反対に実際の能力は上半盲の起こる時に限られはじめました。」(201頁)
E-3-4 「私は結局A子を捨てて、というよりはA子の肉体に敗退して、妻の実家のある田舎の村に引き上あげて行きました。」(202頁)

(5)1945年(38歳)私にB子という女ができた!私は好色なだけで実力を欠いた中年男だった(不能者的傾向)!
F 1945年(38歳)東海道沿いの中都市に診療所を開設。妻は療養所に入院。子供を又も妻の両親に託し、私は一人きりの生活に戻りますと、私には再びB子という女ができた。(B子は、はじめ3か月は私のところの看護婦だったが出奔し、バーで再会し私の女となった。)(202-203頁)
F-2  だが私の貧弱な肉体は、A子におけると同様に、今回もB子によって完全にうちのめされてしまった。私は毎度のように敗退し、B子の憫笑をかいながらも、彼女を離す勇気がない好色なだけで実力を欠いた中年男だった。(203頁)

(6)1947年(40歳)から私の努力は、専ら「この憎悪すべき敵、下等にして汚穢オワイな生きもの」(女)の征服にむけられることになりました!
G 翌々年(1947年、40歳)の或る春の日、私はレオナルド・ダ・ヴィンチの「人類交合断面図」を発見した。(203-204頁)
G-2  この図は男性の性感は大脳内に終わるが、女性の性感は膣子宮と乳首の間を往復するばかりで脳髄とは無関係と語っていた。(207頁)
G-2 -2 翌日からの私の努力は、専ら「この憎悪すべき敵、下等にして汚穢オワイな生きもの」(女)の征服にむけられることになりました。(208頁)
G-2-3  私はこの時、私の大学で戦争中(1942年、35歳)に行われたインドのヨガの行者のデモンストレーションを思い出した。この行者はペニスに自由自在に膨張と緊張を与えることができた。(209-210頁)

(6)-2 記憶:①1954年(47歳)「人造直立ペニス製造法」の話!②「秋石」という媚薬(男子の小便から作る)の話!③「豚の眼球」・「人糞」をもらいに行く話!
H  1954年(47歳)、母校の教授から「人造直立ペニス製造法」の話を聞いた。これは脛骨の局部移植術だった。(210-214頁)
H-2  その日、私は産婦人科の医者の友人を訪ねた。彼は自分が大学時代、教授から「秋石」という媚薬(漢方薬)を作らされたことを語った。その媚薬は男子の小便を3カ月間壺に密封しその沈殿物から作る。(214-218頁)
H-2-2  この友人と私は研究のため、1941年(34歳)頃、毎週金曜日、金町通いをした。私は「屠殺場」に実験用の「豚の眼球」をもらいに行き、友人は実験用に「屎尿シニョウ処理場」に「人糞」をもらいに行った。(219-226頁)

(6)-3  1947年(40歳)以来の強精薬に関する私の研究!「上半盲」の発作が起きると、同時に、「性的欲望の昂進」が起きる!
I  さて1947年(40歳)以来の強精薬に関する私の研究は、いっこう進捗しませんでした。それは女性の征服というより、B子に征服されまいとする、生への執着に追いつめられた消極的な要請に促されていた。(226頁)
I-2  B子は、もはや平生の私には彼女を性的に満足させる力の失せていることを知っていました。B子は私の「上半盲」発現のときだけを狙って近づくようになった。「上半盲」の発作が起きると、同時に、「性的欲望の昂進」が起きるからだ。欠落した視野をカヴァーするために伏目になって顎を突き出した私のみじめな恰好が、私の発情期を示すものとして、B子の襲撃を促す標識となっていた。(228頁)

(6)-4 私は中国「糞尿学」の文献を読み、「糞尿」から作る「金汁」が強精剤として、自分でも作れることを見出した!
I-3  1年ばかりたった夏のある夕暮れ、ある五十がらみの貧相な小男が、強精剤として「人糞の粉」をふりかけにして食べていた。「女房も喜ぶしな。仕方ないさ」と言った。(228-229頁)
I-4  私は中国「糞尿学」の文献を読み、「糞尿」から作る「金汁」が強精剤として、自分でも作れることを見出した。(233頁)
I-4-2  私は2つの小学校と1つの中学校の糞壺を利用し、竹筒を1年間沈め、その竹筒の中から透明な無臭な液体、「金汁」を得た。「金汁」は味も香もない強精剤だ。飲むとじきに「上半盲」の発作が生じ、「私の精神と陰茎は喜びの声をあげて躍り狂いました。」B子は私に征服され、ギャ、ギャという泣き声を立てました。B子を手に入れてから3年目で(1948年41歳)、やっと私は彼女と対等の位置を得ることができたのです。(235-238頁)
I-5  私とB 子との幸福なバランスは、それから約3年間(1951年44歳まで)保たれていました。(237頁)

(6)-5 「糞尿」から作る強精剤「金汁」により糞臭がB子の体臭となった!
I-5-2 ところがB子との幸福な3年間が終わりに近づいていたころ、私は妙なことに気づきはじめました。B子の皮膚からほのかな糞臭が漏れるようになってきたのです。ついには糞臭がB子の体臭となった。「糞尿」から作る強精剤「金汁」(糞汁)が私を素通りしてB子の体内に蓄積され、そこで本来の臭気を発散するのだ。(239-240頁)
I-5-3 この出来事は、私に「B子からの解放」また「性欲からの解放」をもたらした。私とB子との関係は終わった。(241頁)

(7)「精神の充足と、外界への全肯定の境地」(1951・52年頃?44・45歳頃?)!
J  その後、わたしに「上半盲」の発作が起きると今度は「幻視のB子」があらわれた。(244頁)
J-2  また或る夏の夜(1951・52年頃?44・45歳頃?)、B子の勤めるキャバレーで、友人の安富君がずれて半透明に重なり合ったもう一人の安富君として宙に脱出し、ぴたりと丸天井に貼りついた。(245頁)
J-2-2  ついで私の体が気泡のように昇りはじめ天井にはりついた。その時、「私は、自分の頭蓋が空っぽになっていることを自覚しました。全視野が健康に解き放たれ・・・・ました。・・・・満足と喜びの情が潮のように私の胸を浸しはじめました。私は、自分の精神が今、空白であると同時に残る隈なく充足していることを感じました。自分がB子からも、糞尿からも、すべてのこれまでの煩わしい苦悩から、まったく解放されているのを信ずることができました。」(245-246頁)
J-2-3 これは「禅の悟り」の瞬間における心象風景、つまり「空頭」に相当する。「精神の充足と、外界への全肯定の境地」だ。あるいは癲癇の発作のまえのドストエフスキーの「恍惚と全肯定の世界」だ。(249頁)

(7)-2 「完全な視野」を「人工的に作り出す」のだ!私の考案した「人工気頭装置」に改良を加え、「結局は空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります」!
J-2-4 私は「完全な視野」を「人工的に作り出す」のだ。(251頁)
J-2-5 私は私の発明した「気頭療法」によって「私の脳下垂体と視神経交叉部との中間に空気を導入し(視神経繊維束を侵食しているヴィールスによる腐敗組織を剥がし)その接触を『離断』しなければならない。」かくて「上半盲」は回復し完全な視野が戻る。(251頁、Cf. 187頁)
J-2-5-2 私に遺伝し過去から私につきまとって来たヴィールスの増殖は制圧される。(251頁)
J-2-6 私は努力して私の考案した「人工気頭装置」に改良を加え、「結局は空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります。」(252頁)
《参考》私は診察室に入り「私の考案した携帯用の人工気頭装置」とりだした。麻酔・消毒後、ゾンデ(針金状の器具)を眼球に差し込み、私の頭蓋底から浸出液を体外に排出した。そしてついで「空気」を頭蓋底に送り込む。すると「上半盲」は回復し完全な視野が戻る。(184-188頁)

(8)1967年(60歳):「人格者と云われたのが癪にさわってならない」!私は「人格者」でない!
K  1967/4/24(60歳)の私の日記:この日、私は夜、市長選挙事務所を訪れた時、知人のKが「先生のような人格者に支持してもらうと心強い」と云った。しかし「人格者と云われたのが癪にさわってならない。」私は「人格者」でない。(254-255頁)
K-2  私は「平気で弱い者に冷酷になれる人、味方に似たふるまいを見せていて裏切る人」だ。(258頁)
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