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日常性が持つ特有の存在傾向である「見る」こと!つまり「好奇心」!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「【B】」「第36節 好奇心」(その1)

2019-08-02 12:00:58 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第36節 好奇心」(その1)

《参考》【B】では、「現の日常的存在」の3つの実存論的様態を扱う。(133-4頁)
一、「世間話」(第35節):「話(Rede)という構成的現象」の問題。
すなわち現存在は日常的な既成的解意(世間話)のなかへ生い立っていき、終生その影響を脱しきることができない!
二、「好奇心」(第36節):「了解に含まれている視(Sicht)」の問題。
了解(※意識)における「視(Sicht)」は、①(用具的存在者への)配慮(Besorgen)の配視(Umsichit)、②(共同現存在への)待遇(顧慮)(Fürsorge)の省視(Rücksicht)、③現存在の存在そのものへの視すなわち透視性(Durchsichtigkeit)が区別される。これは普通、「自己認識」(Selbsterkenntnis)と呼ばれる。「透視性」とは、「世界内存在を、そのそのすべての本質的構成契機を《つらぬいて》くまなく開示し、この開示態を了解的に掌握する」ことだ。(146頁)
三、「曖昧さ」(第37節):「了解にそなわる解釈(解意)」の問題。

(1)視(Sicht)と現存在の明るみ(Lichtung)!
A 視(Sicht)は、「現存在の明るみ(Lichtung)」とよぶべき内存在の開示態(※自己意識)のなかで初めて可能になる。(170頁)
《感想1》ハイデガーは第28節で次のように述べている。「この存在者(※現存在)は、そのもっとも固有な存在において、閉ざされていない。」「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」「この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在している。(※かくて了解が可能となる!)」(132頁)「現存在はおのれの開示態(Erschlossenheit)を存在する。」比喩的に言えば「人間(※現存在)は内に『照明』を含んでいる」「人間(※現存在)は・・・・・・みずからその明るみ(Lichtung)を存在する。」(133頁)

(2)日常性が持つ特有の存在傾向である「見る」こと!つまり「好奇心」!
B 視(Sicht)という根本的構成は、日常性が持つ特有の存在傾向である「見る」こと、つまり「好奇心」において現れている。(170頁)
B-2 「見る」とは、広く「覚知的態度で世界に接しようとする傾向」のことだ。(170頁)
B-3 「われわれはこの現象を、原理的に実存論的=存在論的な意図で解釈するのであって、認識を標準とする狭い見地で解釈するのではない。」(170頁)
《感想2》ハイデガーは第33節で言う。「すべての解意(※類型化、《として》)は了解(※ノエシス=ノエマ構造をもつ存在という出来事、つまり意識という出来事!)にもとづいている。」(154頁)そもそも了解は、最広義の「見る」こととしてのノエシスを構成契機とする。意識は、ノエシス、つまり「見ること」なしに成立しない。Cf. ノエシス(※受動的および能動的な「視」)の働きにより、ヒュレー(※質料)を素材にノエマ(※意味)が構成される。

(2)-2 「すべての人間は本性上、見知ることを欲する」(アリストテレス)!
C 古代ギリシアでは、認識は「物見だかさ」をもとに理解されてきた。(170-1頁)
C-2 アリストテレスは言う。「すべての人間は本性上、見知ることを欲する。」(171頁)
C-3 これは、「人間の存在のなかには、本質上、見ることの関心が含まれている」ということを意味する。(171頁)

(2)-3 「思惟することと、存在することとは同一である」(パルメニデス)!
D パルメニデスは言う。「思惟することと、存在することとは同一である」。(171頁)
《感想2-2》独我論は、存在(物)が意識(思惟)の外にあるとする。この場合、意識は決して存在(物)に達することがない。意識の内には存在(物)の像しかない。だが実は意識の内に存在(物)そのものが出現しているのだ。この場合、存在(物)が意識(思惟)の内にある、あるいは意識の内に存在(物)そのものが出現する。だからパルメニデスは「思惟することと、存在することとは同一である」と述べた。

D-2 「パルメニデスによれば、存在とは純粋な直観的な覚知のなかで現れてくるものであり、このような見るはたらき(※ノエシス)だけが存在を発見する。」(171頁)
《感想2-3》ノエマは存在そのものでない。存在そのものはヒュレーである。ノエマは意識(思惟)のうちにのみある。存在そのものであるヒュレーが、意識の内に出現する。

(2)-4 真理は、純粋な直観に宿る!
E 「根源的な真正な真理は、純粋な直観(※見ること)に宿る。」このテーゼは、それ以後、引き続きヨーロッパ哲学の基礎をなしている。(171頁)

(2)-5 「感能一般の経験が《眼の欲》と呼ばれる」(アウグスティヌス)!
F 「見ること」(※視覚)の優位をアウグスティヌスが指摘する。「感能一般の経験が《眼の欲》と呼ばれる。」Ex.「ひびく(※聴覚)のを見よ、かぐわしい(※嗅覚)のを見よ、よい味がする(※味覚)のを見よ、いかに堅いか(※触覚)を見よ」と言うことができる。(171頁)
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