『サンデー毎日』(2017/7/2号)保阪正康「橘孝三郎の昭和史②農村救済から国家改造運動へ」を読む。
橘孝三郎(1893-1974)は、大正時代の人道主義者、トルストイアン、農本主義者、理想的農村共同体建設運動(愛郷(アイキョウ)塾)の実践者。
彼は、協同組合運動もめざしたが、結局、海軍の国家改造運動を志向する士官の側に立ち1932年5・15事件に参加。愛郷塾生7人を率い東京の変電所を襲撃。無期懲役の判決を受けた。1940年恩赦。
彼は、権藤 成卿(ゴンドウ セイキョウ)(1868 – 1937)を、農本主義者として尊敬した。
北一輝に対しては、「地主対小作」図式で農村問題を見る社会主義の立場だと、批判。「都市対農村」図式で見るべきだとする。
橘は、井上日召(1886 - 1967)から国家改造運動への参加を勧誘された。
(※井上日召は1932年「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」20余名を標的に血盟団メンバーに「一人一殺」を指令、実行させる。1931年井上の構想:「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」。)
橘が、5・15事件に参加した理由は、国家改造運動への参加を説得する海軍士官の「目には曇りはなかった」からだという。
《感想》
明治維新は1867年。1932年5・15事件は、65年後である。当時、天皇主権の帝国憲法のもと、国民主権を意味する「民主主義」の語は聞かれない。
1945年敗戦の68年後、2013年安倍首相は「自由、民主主義、人権、法の支配」 を普遍的価値と呼んだ。時代が変わり、政治的価値観の変化を思う。
橘孝三郎(1893-1974)は、大正時代の人道主義者、トルストイアン、農本主義者、理想的農村共同体建設運動(愛郷(アイキョウ)塾)の実践者。
彼は、協同組合運動もめざしたが、結局、海軍の国家改造運動を志向する士官の側に立ち1932年5・15事件に参加。愛郷塾生7人を率い東京の変電所を襲撃。無期懲役の判決を受けた。1940年恩赦。
彼は、権藤 成卿(ゴンドウ セイキョウ)(1868 – 1937)を、農本主義者として尊敬した。
北一輝に対しては、「地主対小作」図式で農村問題を見る社会主義の立場だと、批判。「都市対農村」図式で見るべきだとする。
橘は、井上日召(1886 - 1967)から国家改造運動への参加を勧誘された。
(※井上日召は1932年「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」20余名を標的に血盟団メンバーに「一人一殺」を指令、実行させる。1931年井上の構想:「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」。)
橘が、5・15事件に参加した理由は、国家改造運動への参加を説得する海軍士官の「目には曇りはなかった」からだという。
《感想》
明治維新は1867年。1932年5・15事件は、65年後である。当時、天皇主権の帝国憲法のもと、国民主権を意味する「民主主義」の語は聞かれない。
1945年敗戦の68年後、2013年安倍首相は「自由、民主主義、人権、法の支配」 を普遍的価値と呼んだ。時代が変わり、政治的価値観の変化を思う。