臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

「父祖四代の和歌の名門、家名断絶の危機か?」再訂版

2016年02月06日 | ビーズのつぶやき
 去る二月二日付けの朝日新聞夕刊の「あるきだす言葉たち」欄に、昨年度の角川短歌賞に応募された五十首連作の『シャンデリア まだ使えます』が次席にランクされた佐佐木定綱の「死骸」と題する連作短歌八首が掲載されていたので本ブロクに転載させていただいたうえ、それに対する私の感想なども述べます。

      『 死 骸 』  佐佐木定綱
〇  十二時に存在しなくって八時には存在している死骸
〇  チャリの上からまじまじと猫を見るあらぬ方向見ているねこを
〇  ぼんやりと昼飯のこと考える我に生死をつきつけるねこ
〇  死んだねこ段ボールに詰め運びゆく君の黒目に入らぬように
〇  人々の深き憎しみ聞きしのち結婚式の日取りをメモる
〇  いつもより陽気な声を出すときはぼくはなんだかさみしくなる
〇  茹ですぎた即席ラーメンにひとつぶの涙が落ちても変わらねえよな
〇  ねこの血を我が腕より拭うとき流れていた歌口ずさむかな

 佐佐木定綱は1986年生れで、人も知る<男歌>の元祖家元にして父祖四代に亘る和歌(短歌)の家柄の御当主たる佐佐木幸綱氏の御曹司である。
 短歌ブログ「橄欖追放」の記事に於いて京都大学教授の東郷雄二氏は、先般、書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」の一巻として、第一歌集『それはとても速くて永い』を上梓された法橋ひらくに就いて、「法橋は世代的にはいわゆるゼロ年代の歌人に属する。1981年生まれの五島諭・永井祐と1歳しかちがわない。物心のつく小学校高学年の頃にバブル経済が破綻し、その後長く続く低成長とデフレの時代に青春を送った世代である。穂村弘は『ゼロ金利世代』と呼んでいる。作歌の面で五島らと共通する特徴は口語・フラット・低体温だろう。一世代上の加藤治郎らが推し進めた短歌の口語化はほぼ所期の目標を達成し、口語それも日常的話し言葉がこの世代には多く使われている。『フラット』にはいくつもの側面があるが、韻律面では内的な短歌韻律の喪失、調子の面では『歌い上げる』『ドヤ顔で決める』ことへの含羞、内容面では身近な日常の拡大が挙げられる。これは3つ目の特徴である「低体温」と密接に関連している。法橋の歌にもこれらの特徴がほぼすべて当てはまる」と述べている。
 思うに、法橋ひらくや永井祐及び五島論が、穂村弘氏が謂うところの「ゼロ金利世代」の住人であり、「ゼロ世代の歌人」であるならば、本連作の作者・佐佐木定綱は、「少し遅れて駆け付けて来た『ゼロ世代』の歌人」の一人であり、「ゼロ金利世代」の住人でもありましょう。
 そして、彼ら「ゼロ世代の歌人」たちの作歌上の特質として東郷雄二氏が列挙された「口語・フラット・低体温」などの特質が、佐佐木定綱に拠るこの連作にも少なからず見受けられるのであるが、この連作に見られる佐佐木定綱の作歌上の特質なるものをもう一点だけ付け加えて上げるならば、この連作に於ける作者の口語使用は、必ずしも徹底している訳では無くて、五句目の表現に文語の助動詞「し」を用い、八句目のそれに文語の助詞「かな」を用いるなど、文語と口語のご都合主義的な混用も指摘されるのである。
 時、恰も「マイナス金利時代」が到来したばかりである。
 私たち常識人には思いもしなかった時代、即ち、「マイナス金利時代」という新時代に即応にして、その直前の時代の住人、即ち、「『ゼロ金利世代』の最終ランナー」とも言うべき彼・佐佐木定綱が、今後、いかなる足跡を記し、如何にして名門・佐佐木家の名を更に更に高からしむるべく成長して行くかが、私にとっては真に興味深いところではありますが、今日のところは、その興味の赴くままに、その手始めとして、過日の朝日新聞夕刊に掲載された、件の八首連作の鑑賞を試みるとしよう。

 一首目、「十二時に存在しなくって八時には存在している死骸」の表現上の特質は、一に「常識的な時間意識の欠如」であり、二に「口語と漢語、及び、喃語とでも言うべき幼稚な言葉の混用」である。
 それでは先ず、この一首の表現に見られる「常識的な時間意識の欠如」という点に就いて説明しますと、通常、私たち常識的社会に棲息している人間は、「『十二時』になれば、『午前・午後・一日』と限定された時間の流れが一旦はそこで停止し、その後にまた新たな十二時間が始まる」ものとして意識しているのであるが、本作の作者の場合は、そうした常識人としての時間意識が完璧に欠如しているものと思われ、「十二時に存在しなくって八時には存在している死骸」などという、凡そ理屈にもにも合わない言辞、屁理屈ともいうべき言辞を臆面も無く弄しているのである。
 一考してみるに、父祖四代に亘って詠歌を家業としている、彼の佐佐木家に於いては、時間進行が逆進しているのかとも思われるのであり、一例を上げて説明してみると、例えば、佐佐木家の父祖伝来の柱時計の音が午前十二時を告げるべく、「ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン」と十二回鳴った後、もう一時間経つと「ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン」と十一回鳴って、午前十一時を告げるのでありましょうか?
 次に、本作表現上のもう一つの特質たる「口語と翻訳語及び喃語とでも言うべき幼稚な言葉遣いの混用」という点に就いて説明します。
 作中の「存在」なる漢字二字の語は、彼の文明開化の明治の代に、和魂洋才を以って欧米列挙に追い付き、追い越そうとした藩閥政府の要請などに基づいて、彼の西周氏などの有能な学者諸氏の中の何方かが、ドイツ語の「sein」、或いは、英語の「being.existence」の我が国での翻訳語として用いたのがその起源であると推測されるのであり、また、「(十二時に存在)しなくって」などという、一見すると「喃語かと思われるような幼稚な言葉遣い」は、少なくとも、「ゼロ金利世代」以前の歌人たちの短歌表現には見受けられなかったものであった。
 したがって、「十二時に存在しなくって」とする件の一首の一、二句目の表現は、読者諸氏(取り分けて所謂、歌人ちゃんたち)の関心を呼び拍手喝采を呼ぼうとしての試み、殊更に斯く為したような、真に低俗な印象を私たち読者に与えるのである。

 二首目の「チャリの上からまじまじと猫を見るあらぬ方向見ているねこを」に就いて説明すれば、この一首の最大にして唯一の取り得は、自動車運転に意欲も資力も失ってしまった、「ゼロ金利世代」の都会の若者たちの自家用車たる「自転車」を「自転車」とせずに「チャリ」とした点でありましょう。
 だが、こうした殊更にフラット短歌流を装った表現を以ってしても、元々が「無味乾燥・衛生無害」といった感じの本作の意味内容になんらプラスするところが無いのである。
 ところで、これも亦、冗談半分に申し上げるのでありますが、作者の佐佐木定綱は、本作の下の十四音を「あらぬ方向見ているねこを」としているのであるが、件の「ねこ」なる存在は、第一首目に於いて既に「死骸」と化している訳であるから、その死骸たる存在が、この場面に於いて、「あらぬ方向」だろうと、今年の恵方の「東南東の方向」だろうと、到底「見ている」訳はありません。
 従って、これも亦、何かの間違いでなければ、「ゼロ金利世代」の読者たちへの迎合策の一つとしての試みでありましょう。

 三首目の「ぼんやりと昼飯のこと考える我に生死をつきつけるねこ」に就いて述べます。
 作中の「我」なる存在は、即、本連作の作者の佐佐木定綱を思わせるのであり、佐々木家と言えば、畏れ多くも、彼の宇多源氏の流れを汲む尊き御家柄であり、その中でも取り分け「佐佐木定綱」と言えば、源頼朝の伊豆配流時代からの有力な家臣であり、近江佐々木家の基礎を築いた英雄ではありませんか!
 その英雄豪傑の「名にし負う」存在が、児童生徒の乗用に供するべき「チャリ」に跨って、滅多矢鱈に何処と無くほっつき歩いたり、「ぼんやりと昼飯のこと考え」たりしていてはいけません。
 思わず知らずのうちに、本稿の本来の目的を忘失してしまい、作者の人格批判といった内容にも及んでしまいましたが、その点に就いては、曲げてお許し下さい。
 話題を本題に戻しますが、要するに、この一首はあまりにも中身が無いという事であって、件の「猫」の死骸を目にして「我に生死をつきつけるねこ」などと詠むのは、あまりにもジェスチャーが派手過ぎるという事でもあります。
 結社誌「心の花」の連載記事の「時評」に拠りますと、本作の作者は烏賊の解体をするなど、お炊事もなさって居られるようですが、その佐佐木家の「おさんどん」たる存在の佐佐木定綱君が、「ぼんやりと昼飯のこと考え」たりしていて、挙句の果てには「我に生死をつきつけるねこ」などと被害妄想狂的なことを口にするとは、一体全体、何をか言わんや!
 人間、苟も「我に生死をつきつける」事態に出遭ったと表現するならば、それは中東砂漠の戦場に於いて「累々たる屍の山」を実見した場合などに限定されましょう。

 四首目の「死んだねこ段ボールに詰め運びゆく君の黒目に入らぬように」に就いて述べます。
 作中の四句目に「君の黒目に」とありますが、「君」なる存在が作者と如何なる関わりがあるか、などという些末的なことは問題外にしても、この七音を、作者が「君の瞳に」とせずに、敢えて「君の黒目に」としたのは、恐らくは、件の猫の「白目」と君の「黒目」とを対比させ、命ある者の「黒目」を一方に示すことに拠って、命無き者の「白目」の虚ろさと空しさとを印象付けようとしての試みでありましょう。
 だが、こうした先人の手垢塗れになった表現こそは、「今年やっとはいはいする事を覚えたばかりの赤ちゃんが、江ノ島海岸の砂浜でやっとの思いで積み上げた砂の山の一廓をも崩せぬ無駄な試み」、即ち「虚しき抵抗」でありましょう。
 要は、「一合桝には一合の米しか入らない」ということでありましょう。

 五首目の「人々の深き憎しみ聞きしのち結婚式の日取りをメモる」に就いて述べます。
 あんなそんなの佐佐木定綱君に於かれましては、目出度くも「結婚式の日取り」の決定をみたのでありましょうか?
 それはともかくとして、末尾の三音「メモる」とは、何のことかいな?
 苟も「結婚」と言えば、人生上の通過儀礼の中の最重大事でありましょう。
 その最重大事の日取りが決まったというのに、恰も「教授が風邪をひいたので講義時間に変更があった」という板書を目にしたが如くに「結婚式の日取りをメモる」などとするとは、人間として、しかも、男性として、決して許されるべき行いではありません。
 作者の意図としては、この末尾三音の「メモる」で以って、この無内容な一首を、当世風な短歌表現として完成させた、という心づもりなのかも知れません。
 歌人ちゃん短歌の特質たる「口語・フラット・低体温」とは、こうした無気力な表現を指して謂うのでありましょう。

 六首目の「いつもより陽気な声を出すときはぼくはなんだかさみしくなる」に就いて述べます。
 作者・佐佐木定綱の言うところの「いつもより陽気な声を出すときはぼくはなんだかさみしくなる」という思いに就いては、本感想文の筆者の私も全く同感でありまして、本作を以って佳作としなければ、本連作の八首の孰れをも否定せざるを得ません。
 この一首の表現に認められるが如き、鋭くて且つ哀れな「人間観察・自己観照」を通して、白面の青年・佐佐木定綱君が、軈て、父祖四代の和歌の家柄たる佐佐木家の五代目当主・佐佐木定綱氏として成長して行くのでありましょう。

 七首目の「茹ですぎた即席ラーメンにひとつぶの涙が落ちても変わらねえよな」に就いて述べます。
 末尾の「変わらねえよな」といった歌人ちゃん風な表現をすることに拠って、本作の作者は、「佐佐木家云々とは関わりなく、自分も亦、時代を生きる若者の一人であること」を主張しようとしているのかも知れません。
 しかしながら、作中の「茹ですぎた即席ラーメン」とは、名門・佐佐木に於いて過保護状態に置かれている現在の佐佐木定綱君そのものでありませんか!
 定綱君がどんなことを口にしようが、例え、定綱君が佐佐木家との関わりの一切を断とうとしようが、佐佐木定綱君はあくまでも佐佐木定綱君でしか無く、佐佐木定綱君以外の何者でもありません。
 そんなことも知らずに、「茹ですぎた即席ラーメンにひとつぶの涙が落ちても変わらねえよな」は無いでしようが!
 例え、何処へ行こうが、何処へ隠れようが、佐佐木定綱君はあくまでも佐佐木定綱君でしか無く、佐佐木定綱君以外の何者でもありません。
 御父君・佐佐木幸綱氏に、人も知る「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子と映れよ」という傑作が在ります。
 十年後、否、二十年後の定綱君も亦、そうした切なき思ひに捉われることが必定でありましょう。

 八首目の「ねこの血を我が腕より拭うとき流れていた歌口ずさむかな」に就いては、何も申し上げるつもりはありません。
 だが、たった一言だけ申し上げますと、末尾に詠嘆の終助詞「かな」を付け足すと、世間並の短歌が出来るなどと思っていたら大間違いである、ということである。
 歌人として、苟も「口語短歌」を詠もうとしたならば、文語表現の端くれにさえも頼ったりしてはいけません。
 私がこの一首を傑作と評価した上で、「何も申し上げるつもりはありません」と言ったのとは、少しちゃいますで!
 その辺りのところは、ちょいと覚悟して置きんさい! 


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