臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(008:深・其のⅥ・みずからの澱を確かめ・決定版)

2012年06月18日 | 題詠blog短歌
(北爪沙苗)
○  みずからの澱を確かめそのドアを深い記憶の海に封じる

 作中の「澱」の意味するものは何でしょうか?
 作者の北爪沙苗さんは、いかなる事象を指して「みずからの澱」という抽象的な言葉を用いているのでしょうか?
 ごく平凡に解釈するならば、作中の「みずからの澱」とは、「それまでの自分自身の生活の中で生じ、体内に沈殿している“ストレス”或いは“疲労”」といったことになりましょうか?
 それはともかくとして、本作の作者は、詠い出しで「みずからの澱を確かめ」と述べている。
 そのことは、彼女、即ち本作の作者たる北爪沙苗さんの“心中”乃至は“体内”には、彼女自身がその存在を意識し、その分量を「確かめ」ておかなければならないと自覚している程の「澱」が存在していることを証明するものであり、それと同時に、その「澱」はともすれば、彼女自身の体内に備わっている「ドア」を蹴破って噴出し、彼女自身の言行を乱したり、世間様に悪臭を放って迷惑を掛けたりする恐れがあることをも証明するものであり、更に付け加えて言うならば、それを事前に防止するべく、彼女が自分自身の戒めとして体内に備えている「ドア」に頑丈な鍵を掛け、「深い記憶」のなかの「海」の底に「封じ」てしまわなければならないことをも証明するものである。
 と、ここまで書いて来て、たった今、気が付いたことであるが、作中の「みずからの澱」とは、彼女自身の単なる“失恋の痛み”程度のものであり、“噴出してしまって、辺りに悪臭を放ってしまう”ような大袈裟なものでは無かったのかも知れません。
 〔返〕  みずからのドブに手を染め汚れちゃえ自業自得というものである   鳥羽省三


(松木秀)
○  生き物は見ることは無し深海の生き物にあてられた光は

 本作を“倒置法”という特殊な構文から解放し、「上接語を、他と区別して特に取り立てて強調する」という、係助詞「は」の働きに留意して解釈すると、大よそ、次のような意味になりましょうか?
 即ち「当然のことながら、深い海の底にも生き物たちが生息していて、その生き物たちにも微かながらも光が当てられているのである。ところで、その深い海の底に生息している生き物たちを照らす、という殊勝な役割を果たしている光のことであるが、彼は、海底の生き物たちを照らすという貴重な役割を果たしていながらも、自分が照らし出している生き物たちの真実の姿は自ら見ることはないのである」と。
 以上、本作を真面目に解釈しようと試みてみたのであるが、私の本心を述べさせていただくと、作者の松木秀さんは、作中の三つの係助詞「は」の働きに十分に留意しながら本作をお詠みになったのであろうか、という少なからぬ疑問を感じている。
 〔返〕  文意などどうでも宜し音のみを言葉の韻きのみを愛でつつ   鳥羽省三


(佐藤紀子)
○  春浅く雪の残れる深大寺 人また人のだるま市立つ

 上掲の二首、即ち北爪沙苗さん及び松木秀さんの御作と比較すれば、本作には、それほどの深く込み入った意味が在るわけでも無く、作者の佐藤紀子さんご自身からしても、「お題『深』を織り込んだ上での季節詠」といった感じの作品なのかも知れません。
 「春」未だ「浅く」「雪の残れる深大寺」に、恒例の「だるま市」が立ったのであるが、ご高齢かつ最近視力衰退気味の作者の目を以てすれば、「だるま市」を目掛けて遣って来た人並みそのものが、ダルマ以上の達磨に見えたのでありましょうか?
 失礼をも顧みず、つい、うっかり冗言を弄してしまいましたが、短歌という文芸形式は、僅かに三十一音に過ぎません。
 僅か三十一音の言葉の中に、どれだけの情報を盛り込むことが可能でありましょうか?
 察するに、北爪沙苗さんや松木秀さんは、僅かに三十一音に過ぎない短歌形式に過大なる期待を抱いており、あまりにも多くのことを盛り込もうとしたのである。
 それと比較的に言うならば、本作、即ち佐藤紀子さんの作品は、短歌形式に相応しい程度の情報を盛り込んだ作品である、ということが言えましょうか?
 〔返〕  春浅く雪まだ消えぬ深大寺冷掛け蕎麦など食う気がしない   鳥羽省三


(廣田)
○  明滅をつづけるいのちの残像を都市最深部のカメラは映す

 ごく最近、地下鉄サリン事件の関係者として全国的に特別指名手配中であった男女が相次いで逮捕されましたが、彼らの姿を映したテレビ画面に見入りながら、私は「明滅をつづけるいのちの残像を都市最深部のカメラは映す」という本作を思い出してしまいました。
 地下鉄サリン事件が発生したのは、1995年3月のこと。
 あれから17年余りの長い歳月を、彼ら二人の男女は、何処でどうして「いのちの残像」の「明滅」を保って来たのでありましょうか?
 〔返〕  居酒屋で缶チュウハイを飲んだともカシラを三本食べたとも云う   鳥羽省三
      女子会でカラオケなどにも行ったかな?オムツ替えなどしてたのかしら?


(新藤ゆゆ)
○  シナプスの深いところをこじらせて私はいまだ靴が履けない

 常識人ならば、「右足の小指の先が痛むから私はいまだ靴が履けない」とでも言って済ませばいいところを、さすがは才女の誉れ高い新藤ゆゆさんである。
 当世はやりのカタカナ語などを使って「シナプスの深いところをこじらせて私はいまだ靴が履けない」とまで、込み入った言い方をしてしまうのである。
 短歌の世界に巣食う病根もいよいよ極まる所まで極まり、末梢神経の底の底まで刺激し合わなければ気が済まないような段階に至ってしまったのでありましょうか?
 〔返〕  瘤状のシナプス一個抉り取り煎じて飲めば靴も履けよう   鳥羽省三
      瘤状のシナプス一個毟り取りサラダにすれば痛みも増そう


(本田瑞穂)
○  深川といえば下町雨傘にきちんと雨の音がしている

 本作の作者は、「『深川といえば』下町中の『下町』、本格的かつ正統派の『下町』であるから、雨の降る日に『雨傘』に当たる音も本格的かつ正統派的なものである」とでも言いたいのでありましょうか?
 〔返〕  蛇の目傘 赤い長靴 本田家の瑞穂ちゃんは雨の日大好き   鳥羽省三
 本作の作者・本田瑞穂さんの御ブログのタイトルは「赤い長靴」である。


(やや)
○  初恋は初恋は闇深くなる公園に置きっぱなしの赤いスコップ

 「初恋」と「闇深くなる公園に置きっぱなしの赤いスコップ」との接点を探ろうとしても、本作の解釈に資する点は、何一つ見出すことはできません。
 案じるに、本作の作者・ややさんは、「初恋」の相手の男性と夕方の「公園」で待ち合わせをするつもりであったのであるが、相手の男性の変節に因って、深夜まで待ちぼうけを食らったのでありましょう。
 〔返〕  初恋に言の葉たちが弾けそう赤いシャベルで穴を掘りたい   鳥羽省三
 本作の作者・ややさんの御ブログのタイトルは「言の葉たち」である。

 
(藻上旅人)
○  深閨の吾妹子の髪撫でさせよ途絶えることの無き風なれば

 「深閨」に於いて「吾妹子」と一戦を交えるに当たって、本作の作者・藻上旅人さんは、その前戯として、彼女の翠成す黒髪を愛撫したくなったのでありましょうか?
 だとしたら、折からの「途絶えること」無く吹く「風」に拠って、彼女の肌の匂いが閨房一杯に蔓延しているので、さすがの藻上旅人さんも我慢がならなくなってしまったのでありましょう。
 〔返〕  旅にあれば締めたままなる下帯を家にしあれば解かむとぞする   鳥羽省三
      家にあれば解いてばかりの下帯を旅にしあれば解くこともなし
 察するに、本作の作者・藻上旅人さんは、俗に云う「一穴主義者」、即ち「吾妹子」一本槍の真面目人間でありましょう。

 
(七生)
○  お互いに深刻な表情(かお)して「今日のうどんはちょっとコシがたりない」

 意味するところは、「『お互いに深刻な表情』をしているわりには、話す事柄が少し下らない」といった事でありましょう。
 でも、人間にとって食物というものはとても大切なものであり、また、何処のご家庭でも、夫婦二人の共同作業として、手打ち饂飩を作ったような場合は、決まったようにして「今日のうどんはちょっとコシがたりない」などと、どちらからとも無く言い出すようですから、本作の題材となっている事柄は、短歌の題材としてならばともかく、一般的な家庭での出来事としては、それほど珍しいことではありませんし、恥じることでもありません。
 〔返〕  夫婦とは如何なるえにしサムシング?手打ち饂飩のコシが足りない!   鳥羽省三
 本作の作者・七生さんの御ブログのタイトルは「サムシング」である


(鳥羽省三)
○  深間には嵌るまい!とは思ひつつ「紀香いのち」と二の腕に彫る

 よくよく考えてみると、あの藤原紀香さんも御年、既に四十歳である。
 この鳥羽省三が、今更、自分の「二の腕」に「紀香いのち」と彫ったとしたならば、「深間に嵌った」と云うよりも「年増に嵌った」ということになり、大阪市の公務員試験の受験資格さえも失ってしまうことにもなりかねません。
 〔返〕  「年増には嵌るまい!」とは思いつつ「紀香いのち」と腕に彫りたい   鳥羽省三