ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

教員

2016年06月04日 21時23分39秒 | いろいろ
昨日は午前は教育委員会、午後は児童虐待関係の会議、市内の教頭会で事業のプレゼンをした後、夜は市内で外国人教育をがんばっている先生らと交流会。

めまぐるしく話をする相手が変われば、そこでの自分の立場や役割も変わる。そんなタイプではないんだけれども、瞬発力勝負の毎日にちょっと息切れ気味。ま、息が切れるぐらいがんばらないと、力はつかないだろうから、いいことなのかもしれないけど。

頭の中をゆっさゆっさと揺さぶられて、その中で組み立て直しをしているところかな。本当にいろいろな角度から人が生きるということを考えさせられることは、ありがたいんだけど、それ以上に責任も感じる。

何ができるのか。一生懸命考えたい。考えるだけでなくやっていきたい。
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対話を続けるために。

2016年06月04日 21時16分23秒 | いろいろ
ほんまに毎日ばたばたとしているのは、いいけど、間に立たされて倒れそうになるわ(苦笑)

市民、行政、中間支援組織、学術・研究機関、事業者…などなど、同じことを目指していても、同じことをしようとしていても、立場も違えば、ものごとをどうやって整理するか、どうやってゴールに近づいていくか、それはどれぐらいのペースかということは違う。

うまくいってるときはいいけど、1度でも、ネガティブにスイッチが切り替わると、今度は全ての発言や行動が「全く理解がない」とか「つぶそうとしている」とか「やる気がない」って見えたりする。でも、実際はそうではないこともたくさんある。むしろ、そう見えてしまった瞬間から対話が終わるということもある。早く言えば、どこまで信じることができるか、どこまで待つことができるかってことでもあると思う。

多分、何かが違うときに一歩踏み込んでなんで違うのかなってことを探ろうとするかどうかということが違うんだろうな。決めつけずに、一回探ってみることができるかどうかということが対話の継続に大きく関係すると思うし、それこそが正に対話の姿勢なんじゃないかなって思うときがある。

多文化共生が大事とか言いながら、違いを一切受け付けられないって変やもんな。

…と、まぁ、市民と教育委員会の間での板挟みにしばらく苦しんでるし、しばらく苦しむやろうけど。倒れないようにがんばるしかないな。
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