ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

3年が終わりました。

2012年03月31日 23時13分29秒 | いろいろ
今の仕事に就いて丸3年。学んだことも多いけど,そぎ落とされてしまったことも
多い。

現実として,「人が生きる」ということに伴う喜びや痛みが自分の仕事の中心にない現状を
何とも思わない時間が長くなってきている現状は何とも言いがたい。

でも,その一方で,とてもとても薄い形だけど,そういったいろいろな営みがやりやすく
なるように働きかけることができる立場にあることを考えると,それを一生懸命やらない
といけないし,自分の立場だけでなく,経験やら属性やらを考えると,それができるように
やらんとあかん。

現場に戻りたいなという思いと,でも,役割分担として今までに積み重ねてきた経験を生か
した仕事をしないといけないんだろうなという思いとが錯綜しています。直接,顔を突き合わ
せてやって空間を共にしていたところと,そういったところから一番遠いところ。

自分はどこにいるんだろうな。

ってことを改めて思ったところで,ふと思い出したもの。去年の3月ぐらいに転載したもの
だけど,もう一回転載。

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「どっか別なところ」の感覚は、
たとえば、
ロシア革命が勃発したときに宮廷で
相変わらず流行の紅茶や宝石について話す貴族たちの精神性や、
カミュのペストに出てくるような「自分だけは大丈夫」という世間の感覚や、
リーマンショックを導いた流行の経済学が80年代に説いていたような声色や
そのような声色に似た形で垂れ流される「被災地でも当面身体に影響はありません」
という声色と無関係ではないように感じます。

すべての人が、
自分の身体の成立の条件を
根源的に再考することを迫られているのかもしれません。
もっとも深く、もっともか細い
「具体的でない声」こそが
もっとも、いま、根源的なものかもしれません。

相対的には「安全」な場所にいながらできることの一つは
「記録」をとることと併せて
自分のポジションから全身全霊をかけて絞り出せる自分の声を、
「声にならない声」に
なんとか、つらねようとすることだと思います。

べらべらしゃべることからも、
立ちすくんでだまりこくることからも
できるだけ距離をとることだと思います。
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自分が「今,ここ」で何をするのかということ。何を見ようとするのか,何に
耳を傾けるのかということ。

これまでの3年を一つの区切りとして,一旦ここで,これまでの自分を整理して,
多分,自分のいろんなことを組み替えながら,次に踏み出さないといけないんだろうな。

今年はいろいろと新しいことにチャレンジしてみようと思います。それが簡単に結果を
生むものであっても,生まないものであっても,直接現場に関わるものであっても,
関わらないものであっても,遠く見ているところはずれないように。

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あかん,やっぱちゃんと学ばなあかんな。
一からやり直しやな。


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