Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

一体どうなっているのか?

2014-05-15 | SNS・BLOG研究
XPを立ち上げるとまたアップデートが出てきた。一体どうなっているのか分らないが、一つはオフィース関連のKB2825635で、もう一つはアンインストール関連のKB890830であった。XPプロもホームも同じようである。いい加減安全を期して自動アップデートを停止しようと思っていたのだが、この調子ならば当分はアップデートが続きそうである。そもそも市場があれば市場にあわせた供給が為されるのが市場経済に違いない。

フクシマ鼻血「風評被害」問題でBLOGを見ていると面白い。やはり、「風評」を叫べば叫ぶほど少なくともネットでは「実害」が話題になり、恐らく広くその実態が世間に知られることになるのだろう。

福一のバイパス放水問題にしてもあまり知られていなかったことを、日本からメールを貰うことで確認する。テプコは、基準値を超えない時点で自己判断して海洋に放水するとしていたが、先日から一部で基準値を超えていたことから結果的に希釈効果で対応すると発表していた。こうした情報も多くの日本人に知らせれば、まともな知能を持った人間ならば誰でもおかしいと思うに違いないのである。しかし汚染の総量規制がない以上基準値以下の汚染は理論的に無尽蔵に出来る法体制になっているのである。

そこで気がつくのが所謂閾値と言う概念で、最終的には科学的であるよりも認知の概念であるのだろうが、それが社会通念というよりも似非科学が関与した洗脳に類するものだと感じさせるのが、低放射線被曝のそれである。そのことはフクシマの鼻血の原因解明の科学的な見地以上に興味深く思った。

永遠の時を把握しないでも - 永遠の垂れ流しのように - その場限りで処理していくことで自らの役目を全うしていると感じるこうした日本人の精神構造や、同じような認知の共同体で生きることで生を全うしていると感じる日本人の精神構造がそのまま日本社会の特異性を示している。

なぜか不思議なことに、米国の主導する核の世界が、こうした日本人の精神構造に適合することになっている。広島・長崎を楯にとって自らの正当性を主張しているとも言われる日本人であるが、その人体実験を含む研究成果の結果を自らの認知として享受していることの不思議さをフクシマ禍に考えずにはいられない。

このように振り返って眺めると、フクシマ禍に関して、新たに気がつくこともある。その一例は、明仁天皇の避難民へのオファーで、「那須の御用邸」を解放しようとしたことである。今そのことを考えれば、宮中においても「那須の無視できない汚染」が共通認識として語られていなかった傍証となっていることである。外交筋とも親密な交流のある宮中においても世界中で知られていた汚染状況すらが共通認識となっていなかった状況をどのように説明すればよいのだろうか?歴史的にもとても興味深い事象であるとともに、それを取り巻く権力の中枢内部を含めて、そこになにか日本の精神構造が反映されているように見えるのである。



参照:
原発の安全神話こそ最大の風評被害 (猫のひとりごと)
世にも奇妙な鼻血の社会 2014-05-13 | 雑感
活性化とは被曝すること 2014-05-11 | アウトドーア・環境
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音

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