Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

母体より出でて死に始める芸術

2017-05-30 | 
承前)オペラ「タンホイザー」において、この二幕のフィナーレを理解するかどうかで終わってしまうと言われている。それは内容的に音楽的にも頂点を迎えているからで、最大の山がそこにある。その前に付け足されるような形で奏されるのが所謂「ジングクリーク」と呼ばれるそのもの「歌合戦」である。

後年の楽劇「マイスタージンガー」においても同じような光景が展開されるが、ここではタイトルロールのタンホイザーはヴィーヌス丘での所業から生き地獄に突き落とされることになる。そこからのフィナーレに全てが集約されて、主調で築かれる二つの山を経過的に繋ぐエリザベートの父領主ヘルマンの「ローマへ」が休止を挟んでト調で歌い始められる。そして、一小節のアッチェランドで短くモデラート60からプュモート76へと急加速されるとともに主調の合唱へと戻る。

そこでチェロと第二ヴァイオリンが先導するアッチェランドが、フィナーレをバッハの中部ドイツのプロテスタンティズム音楽を模倣するかのように弾かれることで、初めてこのオペラの意味合いが認識されるとしても良いだろう。FAZなどは演出をして、ルターの記念年を「母体より出でて我々は死に始める」と挙げて、カステルッチ演出はヴァルトブルクからルターと連想したものではないかとしているが、音楽的にどうも全く理解していないようだ — それもその筈で初日の演奏では充分なアッチェランドが掛かっていなかった。

そしてフィナーレが閉じられるのだが、この場面を経験して楽匠の真意が読めなければ、もはや楽劇「ジークフリート」より前の創作について言及することなどは無意味だろう。それどころか所謂ヴァークナー愛好家と自称することなどもおこがましい。そして当夜の公演は初日と比較できないほど、その意味が明らかとなっていた。いつものように、電光石火の加速などはたとえ天才指揮者でも管弦楽が手慣れて来ないと出来ないことで、初日には出来なかったものなのであり、弾けば弾くほど決まって来る。

序に言及しておけば、三幕では反対に小さな事故もあった。木管楽器が落ちて穴が開いてしまっていた。少なくとも生で聞いたペトレンコ指揮では初めての光景だったが、如何に木管楽器が前回以上に苦慮して吹いているかであって、レコーディング風景と同じように自己の要求が高まれば高まるほど一寸した一節が吹けなくなるのである ― 今年ベルリンのフィルハーモニー初日でのポカも同じようなものだったろう。

二幕でその内容を掴めた聴衆は、当夜の管弦楽団も合唱団も何もかもが引けてからも ― 既にその前の通常のカーテンコールでペトレンコが奈落を覗き込むと誰も居ないので「もう帰っちゃったの」という仕草をしていた ―、最後の最後まで恐らく数十人以下の人は握手を続けたのである。指揮者自身も満足していたことは間違いなく、ソリスツ陣と一緒に大聴衆が引けたあとの大劇場でカーテンコールを浴びながら、聴衆の一人一人の顔を確認していた想いは充分にこちらにも想像がついた。どう見ても玄人筋の顔ぶれであった訳だが、それもミュンヘンの聴衆でありその質であることには変わりない。

そして、その支持を集めた対象が、決して演奏技術的な結果やベルリンに将来君臨するスター指揮者の功績では無く、だからと言って楽匠の創作における音楽的な成果や効果などでもなかった。その対象となるものは、楽匠が心残りとなっていた創作の本質に関するところであり、今回のカステルッチの演出がどれほどその本質を突いているのか、どうか?

初めて所謂「出待ち」らしき人々を確認した。最後まで拍手していた人々と重なるのだろうか。その対象となるものを考えると、あまりに蛇足のように感じるのは私だけではないと思う。(続く

TANNHÄUSER: Video magazine (Conductor: Kirill Petrenko)


参照:
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
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