Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「タンホイザー」パリ版をみる

2017-04-27 | 
承前)シノポリ指揮のパリ版「タンホイザー」を聴き始めた。案の定序曲から第一幕へとバレーが続き、そして二場に加えて、三場になって羊飼いが「Schauen」と歌うと、ドルチェのイングリッシュホルンを一節書き加えてから、オリジナルへと戻る。更に四場で、重唱からアレグロへとタンホイザーが「Zu ihr」と急き込んで歌う前の12小節の管弦楽が書き換えられている。

第二幕になると、「ゼンガークリーク」の重唱からタンホイザーのソロ部分だけを歌わせて他のパートを落としてしまうのはパリ版でなくてもコンヴィチニー指揮盤でも採用されている。寧ろそれに合わせるようにコーダにおいて、パリ版では激しい後奏に書き換えられていてバランスが取られているのが重要である(譜例)。第三幕のフィナーレでは、第二幕同様の重唱マエストーソの前に女声を膨らましている。演奏自体はやはり聞き通すのが苦痛だ。

ドミンゴの歌うドイツ語よりも、ドイツ語圏でも活躍したアグネス・バルツァの歌にはそれ故に余計に失望するしかない。それを言えばシュテューダーの歌唱も彼女が如何に便利屋として売れっ子になっていたかが分かる歌唱内容で、自己管理が出来なかったゆえにキャリアーを終えたことで歌劇場を訴えても話にならない歌唱である。サルミネンなどを含めて核を作る歌手が歌っておらず、ベルリンでの録音よりも悪い合唱団でこれも話しにならない。

作曲家でもある指揮者は流石に楽譜を読み込んでいるようだが、残念ながらシュターツカペレドレスデンのコンサートで聞いた時のように、音符のシステムの中にすべて音が塗りこめられてしまっていて、明晰な音像が浮かび上がらない。同時に音楽的な表情がイタリアオペラのような歌い込みになっていて、ここぞというときに律動感が暈ける。更に意味不明なアゴーギクが使われて、知的な音楽実践であるよりも情感的な表情付けとなっていて全く感心しない。氏の作曲もそうした塗り込めた音色とベルカント的な表情が聴かれるのが特徴である。

こうして第二幕のフィナーレを聞くと、リズム感が鈍かった筈のコンヴィチニー指揮のそれの方が来たるペトレンコ指揮のそれを想像させてくれて興奮させてくれるだけの演奏となっている。要するに原則がはっきりしていてドイツ的な美しさとなっていたが、このシノポリ指揮には全くそれが無い。第三幕ではよって冗長な面が強調されていて、作曲の問題であるかのように響く。バイロイトでの公演後にレコード会社の要請で自信満々で指揮しているのだろうが、アーティキュレーションやリズムの精査などを練習させるだけの企画になっておらず、市場の評判通りに出来の悪い録音制作となっている。

しかしこのおかげで、一番長いパリ版については大体分かった。先ずは第一幕との和声的連関の詳細を調べて、またパリ版のフランス語上演も参考にすればよいだろう。作曲家がその死の直前まで躊躇した理由もじっくりと見ていきたい。基本的にはやはり1860年版が妥当な選択のように思われるのだが、確かに全体のバランスがあまり良くないようにも感じる。まだ時間はある。(続く)



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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