ぱそらぼ (ぱぁと1)

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2022年04月17日 | 社会派らぼ
このところ、ネットニュースの上位にはいつも「ロシア」「ウクライナ」関連の記事が並びます。現実にこの世界で、銃弾が飛び交っているのかと思うと心が痛みます。残念ながら、地域的な紛争はこれまでからもそこここで止む事はありませんでした。ですが、今回の「ロシア」侵攻は、中国や北朝鮮をも視野に入れて、改めて「力」に秀でている者こそが世の中を支配するに足る存在であるという「力の論理」を主張しているところが、時代に逆行する不気味さを示します。

今回のロシアの振る舞いは、無抵抗な市民を巻き込む「犯罪」であると非難の声が上がっています。ルールを無視したそのやり方を、世界中の多くの国が断罪しています。ロシアも「それのどこが悪い」といった論調でなく、事実そのものがねじまげられている…と主張しています。そのような犯罪行為は決して行っていないというのが、ロシアの言い分です。

翻って、だいたい「戦争」そのものが犯罪なのではないかと感じています。ルールがあってその範囲内で競うのであれば、それはきっと「スポーツ」ではないでしょうか。戦争そのものには、ルールなど存在する余地がありません。自国が攻める場合は、一般市民を巻き込んではならない、病院などの施設を攻撃してはならない…など、自分たちを正当化するためのルールは作れるでしょうけれど、ルール下での話し合いではらちが明かない…からと攻め込まれた場合、ルールが云々と求める余地は最初から存在しないような気がします。戦争とは、それほど野蛮なものなのだと認識すべきです。

このような行動は裁かれるべきだ…と、西側諸国が声を揃えています。が、戦争というのは、勝った側の論理で事が進むものですから、ロシアの行為が裁かれる前提にはロシアが戦争に負けるということが必要になって来ます。戦争のような無益な野蛮な事で力を誇示し合うのを避けるために、スポーツが生まれて来たと考えるのは暴論でしょうか。ルールを作ってそのルール下で力を競い合って、相手を倒すことによって、力の誇示が正当化されます。傷つけられて命を落とす者はありません。古代オリンピア競技は、慢性的な戦争状態にあったギリシア圏のポリス(小国家)の実戦を休戦させるためのものだったのかも。。。

ロシアは「ドーピング」スキャンダルで、オリンピックから締め出されていました。2016年のリオデジャネイロ五輪では、陸上や重量挙げなど有力選手を含む100人以上が出場禁止となり、パラリンピックではロシア選手団が全面的に参加停止という事態になりました。東京オリンピックでは、ロシアでなくロシアオリンピック委員会として、出場しています。ルール下で正当に力を誇示する機会さえ奪われていたロシアが鬱屈した思いを抱えていたと考えても不思議ではありません。それならルールなど無視すればよい…というのが、今回の戦争でしょうか。

17世紀のフランスの哲学者パスカルは「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」という言葉を残しています。ゆえに正義と力は平行しなければならない…と。人間はその時代から何一つ進歩していないのだと思います。海を隔ててロシアと中国と北朝鮮が構えている日本の国が、この「力の論理」が台頭しつつある時代を潜り抜けていけるでしょうか。