
この本は、大橋家に伝わる大橋家文書(もんじょ)という古文書の解析の結果、明らかになった江戸の将棋家の生活について綴られた力作である。大橋家だが、大橋家の初代は大橋宗桂(1555‐1634)。将棋関係者で知らぬもののない将棋初代名人である。この初代宗桂から12代目大橋宗金(1839‐1910)まで、将棋家三家の頂上で将棋というゲーム(あるいは文化)を確立していった名門である。12代目宗金で将棋家が終わったことから、大橋家は断絶したものと長く信じられていた。が、あるきっかけで、この大橋家文書が発掘されるに至り、さらに将棋博物館に寄贈されることになり、300年の眠りから起こされたわけだ。
では、この大橋家文書が陽の目を見ることになったきっかけだが、30年ほど前、将棋連盟の棋士数名が、都内のある小料理屋、一説にはかなり名の知れた天麩羅屋の暖簾をくぐる。座の中の長老棋士に対して「先生」と呼ぶのを小耳にはさんだ女主人が、「さて、どちらの先生?」と問うたところ、将棋の棋士と答えたところで、「うちも先祖が将棋の先生だった」という女主人に、名前を尋ねると「大橋」と即座に答えたので、びっくり仰天という図だったそうだ。まさに、水戸黄門の印籠が登場したようなものだ。
そして、事情を聞けば、12代目の大橋宗金には5人のこどもがいて、将棋家を継がなかったものだから歴史から消えていったのだが、実際は女主人は宗金の曾孫ということだったそうだ。そして、家に長く保管されていた柳行李3本分の貴重な資料が世に現れたわけである。
実は、最近、江戸の武家屋敷の大福帳を分析した本を読んだのだが、大橋家の実態もかなり似ている。経済的には、屋敷の一部を貸家にしたり、免状発行料や指導将棋で細々と収入を上乗せし、支出の最大項目は交際費。祝い金とか接待費である。どうも江戸時代は現代以上の接待文化だったように思える。
もともと京都にいた大橋家は、「囲碁・将棋関係者は江戸に集合」と呼びたてられ、現在の御徒町(おかちまち)の近くに屋敷を構えたそうだ。増川氏の説では、江戸に将棋所が開かれたことにより、参勤交替の地方武士が国元に帰り、将棋の全国普及に貢献したと書かれている。私には判断できない。なお、屋敷跡には現在、「大橋歯科」というのがあるそうだが、大橋家とはまったく無関係ということらしい。
そして、幕末の混乱について、増川氏はきわめてあっさりと記しているが、本当は西郷=勝会談の前後の江戸市民の混乱について、どう書かれているのか興味がある。なにしろ、西郷は「江戸を焼き払う」気であったし(英国公使からは「焼かない方がいい」と言われていたらしい)、勝の方も会談が決裂したら「江戸を焼払って戦おう」と思っていたのだから、まさに江戸市民は九死に一生だったわけだが、幕府中枢部以外の武士や町民はそういう危機状態をどれだけ認識していたのだろうか、ということ。最近、「江戸はその時、焼払われた方が良かった」という意見の人がいたので・・

ここで、個人的興味だが、その都内の有名天麩羅屋に行きたくなったわけだ。この本を読んでから、その天麩羅屋(あるいは小料理屋)についての情報を探しているのだが、今のところ手がかりなしである。30年前の女主人はまだ健在なのだろうか。案外、三ツ星店になっていて、行きたくても財布の事情で・・・とか・・
さて、2月23日の出題分の解答
▲9五飛 △同角(王手)▲8六飛 △9八玉 ▲8八角成まで5手詰
二手目が逆王手。移動合いで空王手をかけるのだが、3手目▲6八飛では△7七歩で失敗する。
こういうのは、配置に苦労する。とかく双玉問題は、かつては逆王手を食らうと失敗とされ、逆王手を受けないようにするのが一般的だったが、それも最近は、逆王手をかけさせてから詰めるようなものも現れてきた。

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では大橋文書はどこに消えてしまったのでしょうか. 不思議なこともあるものです.
ということは、大商大の手に渡る前に誰かが・・?