大阪天満宮と大塩の乱と東芝

2017-03-14 00:00:09 | 歴史
南森町駅から大阪造幣局に向かう道は、国道一号線である。東海道なのだろう。大阪天満宮があり、大塩の乱槐跡がある。

まず、大阪天満宮だが右大臣だった菅原道真が藤原氏の謀略により太宰府に左遷された際、道中無事をこの地で祈ったとされる。大将軍社という社があったそうだ。京都を出て、大阪で早くも祈らなければならなかったのだろうか

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そして太宰府で道真公はあっけなく2年で亡くなってしまう。京都よりも福岡の方が健康的で住みやすいはずなのだが、なにか怪しい感じもある。そして、道真公が亡くなった後、雷をはじめとする天災が多発し、疫病が蔓延し、藤原家の多くが感染して亡くなる。

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そして、50年近く経ってから、この大将軍社の前に松の木が生えてきたそうで、天皇家では菅原道真の悪霊を慰めるためにここを天満宮として定めたそうだ。当時は学問の神様ではなく、復讐に燃える悪霊だった。

そして、さらに東に向かうと造幣局の塀の前に石碑が建っている。

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大塩の乱 槐(えんじゅ)跡となっている。1837年2月19日に発生した大塩平八郎の乱では大阪の町の20%が灰燼になる。大阪天満宮も全焼。ばちあたりだ。そして、この造幣局の前にあった樹齢200年の槐(えんじゅ)の木に大塩軍の砲弾が命中し、樹木が倒れたそうだ。相当の威力があったのだろう。

そして、この大塩平八郎の乱と東芝にはわずかな関係がある。

東芝の創業者である田中久重は幕末ドラマの中で最も長老だ。1799年生まれ。幕末には60代後半になっている。実は大塩平八郎も1793年生まれなので、6歳違いに過ぎない。

実は、田中の実家は久留米のべっ甲細工であり、若い時から大阪に出ていて大塩の乱の時は37歳。すぐれた細工師だったが、焼け出されてしまう。というか大樹が二つに折れるというような砲弾の威力をまざまざと見たのだろう。その後、佐賀に戻り、鍋島家とともに武器の製造を始める。大塩の乱がなければ、田中は単なるべっ甲細工師で平和な人生を終えただろう。

この田中が海外の武器をマネして作ったと言われるのがアームストロング砲。鉄砲伝来の時と同様に日本人が模造品を作り始める。そして討幕運動の際に活躍。上野の山を吹き飛ばすほど強力攻撃で彰義隊を破る。田中はきっと大塩の使った大砲よりも射程距離が長く正確な大砲を目指したのだろう。

そして、上野の山で木っ端みじんにされた江戸幕府方の数々の怨念がついに東芝を粉砕することになりそうだ。