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穢れと芸能民 ~その6~ 團十郎の【にらみ】

2016-10-11 05:05:20 | 歴史・民俗





戦国時代末期、彗星の如く登場した出雲阿国によって始められた「傾奇踊り」は、多分にエロティックな内容を含んでいたようです。

これが好評を博し、阿国一座の傾奇踊りは連日の大盛況、当然これを真似るもの達が乱立することになります。

このダンサー(?)さんたちはいわゆる「春をひさぐ」行為も行っていたようです。女性芸人と売春行為は、古来よりセットであった一面もあったようです。すべての女性芸人がそうであったわけではないでしょうが、そういう一面があったことは、否定し得ない事実であったようですね。



女性による傾奇が人気を博すと、続いて美少年たちによる「若衆傾奇」なるものが台頭してきます。この若衆たちは、いわゆる「男色」の対象ともなっていたようです。

この時代、男色は必ずしも珍しいものではなかったようです。森蘭丸が織田信長の「お稚児さん」であったことは有名ですし、武田信玄など、多くの戦国武将に、そういう対象の男たちがあったらしい。


評論家の橋本治氏は日本には古来より、性の「タブー」はなかったが、性の「モラル」はあったと、上手い事をおっしゃっております。性癖はあまり表ざたにするようなものではなく、どちらかといえば秘するべきものでありますが、最低限のモラルさえきちんと守れば、男色女色その他その他、様々な性癖は必ずしも恥ずべき行為ではなかったようです。



あくまで、この時代はの話ですよ、もちろん現代とは違います。

この時代がそうだったからといって、今もそれでいいということにはならない。その点勘違い無きようにね。



歌舞伎ににはその当初から、このような性的要素が多分に含まれていた。現代における梨園の現状などを鑑みるに、なにやら感じるものがあるのは、私だけでしょうか。





それはともかく、このように乱立してきますと、当然守るべきモラルすら守ろうとしない輩が出てきて、公序良俗が乱れてくる。幕府は当然これを取り締まり、女性や若衆による傾奇を禁止し、壮年の男性のみによるものだけが許されることになる。

ここに「歌舞伎」の原型が出来上がるわけです。



歌舞伎は徐々に演劇性を増してきます。幕府は乱立していた歌舞伎の「座」を纏め、四座(のち三座)のみを公認の座とし、歌舞伎興行を認めました。

以後、歌舞伎役者たちはこの三座のいずれかに属することになります。




ところで、歌舞伎役者たちもいわゆる「芸能民」であり、身分に属しておりました。

江戸には「弾左衛門」を代々名乗る、の統率者がおり、源頼朝より関八州のの統率を認められたとする由緒書を所持していました。

これに噛み付いたのが、初代市川團十郎だったようです。歌舞伎は出雲阿国によって始められたものであり、頼朝が弾左衛門に統率を認めた職掌にはあたらないとして、江戸町奉行所に訴え出たのです。

この訴えが認められ、歌舞伎役者は晴れて弾左衛門の統率下から離れ、身分から脱却したのでした。


しかし、身分から脱却したからといって、すぐに差別はなくなるわけではありません。「役者は千両稼いでも乞食」という言葉があるように、事実上と変わらないような扱いを受けていたわけだし、「河原乞食」なんて言葉は、未だに役者を揶揄する言葉として残っています。


そういう意味では、いわゆる「芸能人」に対する「差別」意識は、今でも根強く残っているのかも知れませんね。




さて、その市川團十郎の父親は、「菰の十蔵」といい、甲斐出身の侠客だったと伝えられているようです。「菰(こも)」とは乞食の被っている菰から来ていると思われ、つまりは出身であったが故の通称であることは、ほぼ間違いないと思われます。

その十蔵が江戸で住んだ場所のすぐ近くに、江戸三座の一つであった森田座があった。

十蔵の息子、のちの團十郎は、同じであった歌舞伎役者たちとごく自然に親しくなり、そのまま役者となっていったのでしょうね。





ところで、私は常々、芸能民の芸事は「祓い」に通じると申し上げてきましたが、果たして、歌舞伎にもそのような性格があるのでしょうか。




市川團十郎を襲名した者、あるいは襲名が決まっている者のみに代々伝えられる、特別の技が伝わっています。


それが、團十郎の「にらみ」といわれるものです。






市川海老蔵の「にらみ」






襲名や正月などの祝儀の際に「祝賀」として行われる特別の芸で、このにらみは睨まれた者の厄を落とし、福を呼ぶのだとか。


ここに、であるがゆえに「神」に近いとされた芸能民の神聖性が垣間見られ、歌舞伎に内包された「祓い」の要素がはっきりと表されていると思います。


多分に世俗化した歌舞伎ではありますが、かつて「神」にその芸を捧げ、「祓い」を行っていた芸能民の片鱗が伺える技。


それこそが、團十郎の「にらみ」であろうと、



私は思います。





続きます。