仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

穴から見える景色

2021年05月26日 | 日記

2021年5月15日(土)第12回がん患者・家族語らいの会オンライン講演会は、講題 「コロナ騒動から学ぶ仏教」  講師 田畑正久先生でした。

そのレジメのなかに下記の言葉がありました。お裾分けです。

#4.「置かれた場所で咲きなさい」渡辺和子著より

人生にぽっかり開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。「順風満帆な人生などない」私たち一人ひとりの生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリと開くことがあり、そこから冷たい隙間風(漠然とした不安)が吹くことがあります。それは病気であったり、大切な人の死、他人とのもめごと、事業の失敗など、穴の大小、深さ、浅さもさまざまです。

その穴を埋めることも大切かもしれませんが、穴が開くまで見えなかったものを、穴から見るということも、生き方として大切なのです。私の人生にも、今まで数えきれないほど多くの穴が開きました。これからも開くことでしょう。穴だらけの人生だと言っても過言ではないのですが、それでも今日まで何とか生きることができたのは、多くの方々と有り難い出合い、いただいた信仰(仏・法・僧まします僧伽を頂いていること)のお陰だと思っています。

宗教というものは、人生の穴をふさぐためにあるのではなくて、その穴から、開くまで見えなかったものを見る恵みと勇気、励ましを与えてくれるのではないでしょうか。

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吉川英治『講演集』より

2021年05月24日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

 

吉川英治『講演集』より

 

大阪の真宗青年会というのがあると聞いて、僕はその点、愉快なんですよ。ほかになんのことも知りませんが、その点で愉快なんです。僕も初めはですよ、この自分が二十歳くらいでしたか、それまでにいろいろな職業を転々したんですが、ある新聞広告を見まして、ある製薬会社の広告文案係という募集があったので、えー使って下さいっていったわけです。
 と、もう、こう志願の書類がこんなに積んであるんです。だめだなーと思ったんです。僕は小学校しか出ていないから、だめだなあ、と思ってあきらめたんですが。まあとにかく「学歴なし、賞罰なし」とだけ書いて出した。
 すると、そのテストに当たってた三番目の人が、僕がもどろうとすると『君ちょっと待ち給え』『ハッ』『君は宗教をもってるか?』ときくんです。つと、つまったんです。僕のところは真宗なんです、昔から。ところが『君は宗教をもってるか』っていわれたときに、出ないんです。こりゃ家は真宗だというだけじゃ『私の宗教です』というわけにゆかん。ですから『宗教はありません』といったんです。そしたら、その人が『そうか、じゃだめだ』って目をむいて、妙にそっけないんです。
 一度、ドアのところまで出かけたんですが、あんまりあっけなく『そうか、だめだ』といわれたんで、ちょっとムカッとしたんで、もう一ぺん戻った。『思い出しましたが』といったんです。『なにを思い出した』『私は宗教をもっておりません。宗教はありません。けれども、僕の胸にはいつも死んだお母さんが住んでいる。でお母さんさえあれば、僕は決して悪いことはできない。決して怠けられない。決して人をあざむけない。――そんなことじゃいけないでしょうか』『フーン』とこうなんです。
 それからなにか、その人もどこか変わってたんでしょうな。「明日より出社すべし」という速達がきて、僕はそこに一年半いました。山崎帝国堂というんです。あのよく梅毒の薬を売っている。そこに一年半おりました。が、しかし、私はそれもやっぱり若気のいたりだと思うんです。たいへん恥じています。単純にそうはいいました。自分の胸に死んだお母さんさえあれば、と、こういまでも思いたいくらいの時があるんですが、多岐です。さまざまです。いつでも、こんないろんな場合において、それだけでは足りません。ただそれで一人、自分がなにか、しっかとすがっているだけです。小さいんです。それはむしろ、小我な愛に自らおぼれているようなもんです。
 いろんな人生を経てくると、私は自分の胸に持っている母親の姿を、ありし日を思い出してみますと、僕の父はたいへんな大酒飲みでした。ええ、横浜で貿易商をやっておりましたが、たいへんないわゆる暴君でした。ですからいろんなお母さんの苦労はあったんでしょうが、僕の少年時代に、ふとして“おや、お母さんどこへいったかな”と思ってさがすと、一人仏間におりました。そして、こう仏壇に向かって、じっとすわっている母の姿をよく見ました。
 親鸞さんのお言葉に、親鸞はいつも同行と二人だというようにおっしゃったのがありますね。その親鸞はいつも、その同行と二人だという、一人はたれかと思いますと、一人はみ仏ですね。釈尊ですね。
 私はあとになって、母が思いあぐねてですね、それから父のことにも苦しみですね、一人その子供のそばを離れて、仏間にすわっていたときには、ああなるほど、お母さんのそばには、もう一人いつもだれかいたんだなと思うんです。
 そしてあの信仰、あの長い間、七人の子供をかかえての慈愛をもって、私たちがどうやら世の中に出るまで、生きたえて、生き通しておられたんだな、と思いましたら、私が多少、親鸞のことに関心をもち、そしてそのたとえ半行半句でも、なにか親鸞さんのお気持を、そのご恩情からでも説いて、母と合わせて胸にもったら、これはほんとうに母をもったことになり、母の喜ぶことでもあろうと思うようになりました。
 母によって、いささか私は、この宗教にも、また親鸞にも、特別な関心をひそかにもつようになりました。しかし現代人は、とくにこの文壇人は、とかく宗教に対してこの意識に対して、そっぽを向くんです。文芸家は一宗教、あるいは一方的な立場の上に立つと、ほんとの文筆につけないという。本当はそうじゃないんですね。対決できないんですね、と思います。
 

(昭和三十六年 講演速記)

 

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ものを見る三つの原理

2021年05月23日 | 日記

法話メモ帳より

物の考え方にというものに三つの原理がある。

その第一に、物を目先で見るのと、長い目でみるのと両方あるということ。
目先で見るのと、長い目でみるのと、非常に違う。
どうかすると結論が逆になる。
ある人は非常に長い目で見る議論をしている。
ある者は目先で見る議論をしている。
これでは話が合いっこないですね。

しかし、我々は目先ももとより大事であるけども、
原則としては、やはりできるだけ長い目で物を見るということを尊重しなければならない。

目先を考えるということは、うまくやったつもりでも、大抵の場合じきに行き詰る。
物を目先で考えないで、長い目で見るということ、これを一つの原則として、我々は心得ておかなければならなん。


その次に、物を一面的に見る見方と、多面的あるいは全面的に見る方とがある。
物を一面的に見るのと、多面的あるいは全面的に見るのとでは、全然逆になることがある。
どんな物だって一面だけ見れば必ず良いところがある。
と同時に必ず悪いところがある。
そして結論は出ない。

ある人は、あのひとはいい人だという。
ある人は、彼奴(あいつ)はいかんという。
一面だけ見ておると結論は出ない。
これを多面的に見れば見るほど、その人間がよく分かってくる。
いわんや全面的に見ることができればはっきり結論が出る。


第三には、物を枝葉末節でみるのと、根本的に見るのとの違い。
枝葉末節に捉われる場合と、根本的に深く掘り下げて考える場合、往々にして結論が正反対にもなる。
しかし、これもまた同じことで、枝葉末節で見たのではすぐ分かるようであって、
実は混乱するばかり、矛盾するばかり。
やはりできるだけ根本に帰って見れば見るほど、物の真を把握することができる。

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◯◯家△△家披露宴

2021年05月22日 | 現代の病理

『なぜ日本人は世間と寝たがるのかー空気を読む家族』(佐藤直樹著)出版は2020/11/06とありますが、改訂版で初版は2013年なの年なのでデータがみな古いのが残念です。

 

まえがきに、

挙式会場にはなぜ個人名ではなく「◯◯家△△家披露宴」と書いてあるのか。事件の加害者家族がメディアで謝る理由とは。「世間学」の第一人者が、プライベートな領域であるはずの家族にまで影響を与える「世間」の正体を大胆に分析。世間からの「同調圧力」はどのように「家族」のあり方を歪めているのか。日本人が集団になったときに発生する力学を、歴史、法律、メディア、年中行事などから徹底解剖!

 

とあります。1975(昭和50)年は、日本の大きな転機点だと言われています。良く私が話すのは、マンガが巨人の星やアタックナンバーワンなでの根性物から、東大一直線のようなひょうきんものに変わった。などと話すことがあります。

 

標記の本には次のようにあります。

 

 戦後に日本の合計特殊出生率は、50年には四・五で、五五年までは高水準を維持してきた。つまりひとりの女性が一生の問に、平均四、五人の子どもを生んだ。芹沢は、このときの家族を、複合した世代が同居しているという意味で「多世代同居型」とよぶ。

 ところが、55年ごろを境として数値が下がりはじめ、それからはほぼ20年にわたって二・一いう数字を上下して推移してゆく。これを夫婦一組の核家族が中心になっているという意味で、「単世代同居型」とよぶ。この20年問は核家族の「安定期」であるといえる。

 問題なのは、75年を境にして二・一という数値がどんどん下がりはじめたことである。

これを芹沢は、夫婦がそれぞれお互いの個別性を尊重しながらパートナーを組んでいくという意味で「個別-同居型」の家族がはじまったと考える。ここで、それまであった家族(対)を第二義と考えるという考え方から、「個」「自分」を第一に考えるという変化があったという。

 

 

合計特殊出生率の変化を近代家族との関係で考えたとき、日本の家族が、芹沢のいう「単世代同居型」から「個別―同居型」へ変わる75年というのが、きわめて重要なターニングーポイントとなる。

  山田昌弘も、「非婚化」と「晩婚化」がはじまった時代であるとして、75年がターニングポイントとなっていることを指摘する。

1975年まではほとんどの人が結婚していただけではなく、結婚年齢のばらつきが少なかった、つまり、だいたい同じような歳、二十代半ばに結婚していました。これに対し、75年以降、たしかに平均初婚年齢は上がってきています。それが晩婚化と呼ばれるゆえんですが、一方で、20代初め、あるいは10代の「できちゃつた婚」も増えています。

 つまり、結婚が、みんな一斉に同じような年齢でするという画一的なものではなくなつてきているのです。統計的に見て結婚年齢がばらつき始めたのです。ばらつき始めているなかで、全体的には平均して遅くなっている。これが、1975年を節目に起こっていることのポイントの一つです(『「婚活」時代』)

 

ようするに七五年までは、結婚は画一的なもので安定したものであった。言いかえれば、日本において近代家族は、55年から75年ぐらいの「単世代同居型」の時代、すなわち核家族の「安定期」に、最盛期をむかえていたと一応いえる。

 この最盛期を迎えた近代家族とは、落合にいわせれば、「無垢でかわいらしい子供、家の外に働きに出て一家を養うに足るだけの給料を獲得してくる頼り甲斐のある父(夫)、家庭にあって愛情を込めて夫と子供の世話をする母(妻)。専業主婦は、まさに近代化の産物である」というイメージになる(『近代家族の曲がり角』)

以上

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一年半ぶりの法話

2021年05月21日 | 日記

今月16日、昨20日は、コロナ渦以後、一年数ヶ月ぶりに法話に出向しました。16日は法事の後、和装でそのまま出向。昨日は一年何ヶ月ぶりにネクタイをして車で出掛けました。通常、私はメガネをしています。強い近眼ではないので、法話や葬儀の折、簡易のフェイスガードをするとメガネがくもることがあるので外すことが良くあります。一月前、これはラーメン店でしたが、食事が終わって駐車場を歩いていると、定員さんが走り寄ってきて「メガネお忘れですよ」とのこと。やはりメガネがくもるのでメガネを外して食事をして、そのまま忘れてきたのです。

その様なことがあるので、外したメガネを忘れないように、食事の時はバックに入れたりして気をつけています。

 

昨日の法話出向の折のことです。法話中はメガネを外してお話ししました。法話を終えて、靴を履き寺の玄関からでました。メガネを忘れていないか、内ポケットに手をやるとメガネがない。あれ、とバックの中を探してもメガネがない。これはきっとメガネを忘れてきたのだと、寺の玄関に入りなおし、お寺の人に「メガネを忘れてきたようです」を告げると、「いまお掛けになっているメガネとは別のメガネですか」と言われました。手を目に近づけると、メガネはあるべき場所にありました。

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