仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

危機の時代の宗教論

2023年07月24日 | 現代の病理
『危機の時代の宗教論: ヒューマニズム批判のために』(2021/1/27・冨岡幸一郎著)の「あとがき」に「クライシスの本質」と記し、次の様にある。


「患者」となるとそうした主体性を奪われてしまう。それは身体性の次元だけでなく、精神の、心の領域においても、受動的であるように主体は強いられる。つまり、内面の危機であり、ここにクライシスの本質がある。今われわれが体験しているコロナ禍は、ある意味ではたまたま感染していない人間もふくめて、全ての人間の主体性を奪っているといってもいい。ワクチンが開発されても、新たに到来する監視社会は、これを日常化するだろう。
 しかし、ここでより根本的な問いが浮上する。それは、「みずからの力を完全に掌握した主体である可能性」とは、そもそも何であるのか。われわれは、この言葉の意味を理解しているのか。たしかに人間は、その「主体性」において、自らの存在理由を発見する。生きる意味を見出すことができる。だが、人間は果たして、「みずからの力を完全に掌握した主体である可能性」を、完全に保持した者なのか。それはもしかしたら「人間」が世界の、宇宙の中心として存在すると思われてきた、最近の時代の表層のことなのではないのか。この時代を厳密に定義するのは難しいが、おそらく「近代」といってもよい。本書の第1章で詳述した「人間至上主義」の時代と呼んでもいい。

(中略) ポストコロナの時代において、問かれなければならないのは、「人間が世界の主体であり宇宙の中心である」という近代的な妄想そのものであろう。混乱と混沌の時代と状況のなかから生れて来るものは、新しい人間の思想ではなく、旧い思想の未来へのよみがえりであり、その「過去の生成」としての宗教論ではないか。(以上)

本の結論は単純です。「「人間が世界の主体であり宇宙の中心である」という近代的な妄想そのもの」と言うことです。
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