アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

茶梅ができました。

2021-08-31 11:21:22 | 手作りのたべもの

   二か月前、梅シロップや梅干しなどと一緒に、台湾の「茶梅」というものを仕込みました。梅のお仕事~その2 梅肉エキス・茶梅・梅ジャム・梅味噌 - アンティマキのいいかげん田舎暮らし (goo.ne.jp)

  仕込んで一月以上たってから、自然食品店で買ってきた日本産の有機ウーロン茶を、ティーパックのままいくつか投入。それからまたときどきなめては、様子を見ていました。

  昨日、たくさんつけたシロップを漉して加熱し、瓶に小分けする仕事を始めたので、茶梅も同様に漉しました。

   香りがいい。

  梅はしわくちゃ。食べると固いけれど、塩気と甘みがほどよくて、おいしい。

  ジュースのみ加熱し、瓶に入れました。茶梅も瓶に入れ、保存します。山歩きの時など、飴の代わりになりそう。

   最初に塩漬けしているので、どうしてもぷよぷよのおいしそうな梅の実にはなりませんが、一個だけ、一部いい感じにぷわっと膨らんだ梅が見つかりました。ジュースのほうは、水で薄めても、炭酸で薄めてもいい飲み物になります。夏の間、しばしば梅ジュースに梅酢をほんの少し入れて水で薄めて持ち歩きましたが、これなら、このまま薄めるだけで十分安心して飲めるスポーツドリンクになります。またいつかたくさんの梅が手に入ったら、もっと大量に茶梅を作って、緑茶や紅茶などでも試してみたい。

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ガキ大将養成講座で草木染め講座を開きました。

2021-08-30 10:48:21 | 草木染め

   きのうは、旭地区の森の中で、ガキ大将養成講座の染め講習を開きました。

   ガキ大将養成講座は、この地区に住む安藤征夫さんが主宰する、文字通り元気でわんぱくの子供たちを育てるための講座です。拠点は彼の持ち山にあり、木々を伐採してできたさくら村と名付けられています。

   さくら村のシンボルツリーが大きな桜の木。この木を囲う形で、ツリーハウスの建設が進んでいます。この桜の木の葉を、今回は染め材料にすることにしました。

   集まってきた子供や大人の皆さんにお願いして、ツリーハウスの屋根に上って桜の小枝を切ってもらいました。

   地上で、枝から木の葉をむしります。その葉を煮て染液に。

   赤色を引き出しやすくるために、ソーダ灰(炭酸カルシウム)を加えてアルカリ水にして、1時間ほど煮ます。煮えた液の色は赤っぽいけれど少し茶味が勝っています。その液を酸化させると、きれいなワイン色に変化します。酸化の様子がこの写真。上方から液を流して、空気に触れる距離を長くします。2番液も同様に煮て、酸化。

   はじめ無色だった泡が、こんなきれいな色に変わります。

   布が空気に触れないよう、面倒を見ます。

   お昼の休憩がすんだら、媒染液に浸けます。この日はアルミ溶液のみ使いました。

   媒染ののち、再度染め液に浸けて赤みを濃くしたら終了。ざっと洗って模様付けをほどきます。この女の子は、ビー玉やおはじきで縛った後、布の半分をまだらにしたいと申し出がありました。藍と違って濃淡が不鮮明になりがちなのですが、なんとなくそれっぽくなりました。まだら模様にしたい方が結構いらして、いくつかいっしょに模様を作ったのですが、藍のようにはうまくいかず、残念な結果になった方も。ほぼ模様のなくなってしまった男の子に、「ごめんね」とあやまったら、「ううん、これもいいよ」と返事してくれました。ありがとう。

    スカーフの端を蛇腹に折って、紐でらせん状に巻いてできた模様。うまくいきました。

   こちらはきれいな板締めができました。

   昨年はじめてガキ大将講座で染め講習を開いた時は、男の子たちがいつの間にか遊びに行ってしまって、最後は大人と女の子だけになったように思うのですが、きのうは男の子たちも全員ほぼ最後までつきあってくれました。

   森の中に染め布を干す。この風景が好きです。

  陽の当たり具合によって色が違って見えるし、布の織り方や素材によって濃淡や色合いが変ったりしますが、おおむね小豆色というかレンガ色が生まれました。

  最後は記念写真の撮影。みんな満足そうで、よかった! 夏の終わりに、森の中での楽しい一日を過ごさせてもらえました。

 

 

 

 

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8月のどんぐり工房定例染め講習会、終わりました。

2021-08-30 10:41:53 | 草木染め

   夏休み最後の染め講習会は、先月に引き続き、インド藍を使いました。

   参加くださったのは、9名。インド藍はいつも人気です。遠く、豊橋や豊明からもお越しくださいました。

    インド藍は、インドのマメ科植物から取った藍染め用の粉に、ソーダ灰とハイドロサルフェイトという還元剤を入れて建てます。建てた液は緑色。そこに布を入れると液の中は緑色になりますが、数分経って外に出すと空気を触れた途端に青色に変わります。数回繰り返し、水洗いしたら出来上がり。

    大勢の方がおもいおもいに工夫を凝らして作った模様。おもわぬものが出来上がり、歓声があがります。

    まだら染めは、意外に難しい。

    同じポシェットを三者三様にそめた仲良し三人組さん。右の方は、まだらに染めたTシャツを早くも着用。

    こちらは、最初白の部分が多すぎたので、防染してあったところをほどき、全部を液につけてできた柄です。モダンでかっこいい。

   右のハンカチと同じような柄を作ったつもりが、思惑とは違ってしまった左のハンカチ。でも、これもなかなかいい。

   藍染めは、お天気がいいとより青さが増すそうです。この日は雲一つない上天気だったので、すかっとした染めができました。

   どんぐり工房の染めは、来月も第四土曜日25日に実施します。お申し込みは、どんぐり工房まで。

 

    

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藍の生葉染め~その3~塩もみ法

2021-08-25 22:33:03 | 草木染め

  きょうは、この夏三度目の藍の生葉染めを体験しました。

   場所は足助。昨年から藍の栽培をはじめた女性4人のグループの、初の生葉染めにお邪魔しました。

   よく肥えた土らしく、葉っぱは大きくて青々しています。

   前からやってみたかった塩もみ法を、こころみました。生葉120gくらいに、塩7gくらいをいれてもみもみ。

   10分ほどして漬物のように水が出てきたら、布を入れます。

   布も一緒に揉みます。袋が小さいので、布がなかなか広がりません。

   あまり強くもみすぎると、熱が出るので、適度に、しかもちゃんと力を入れてもまないと色は出ません。結構難しい。

   葉の付いたままの状態で空気に触れさせます。そして水洗い。

   出ました。美しい水色です。でも、案の定、むらになってしまった。濃く染まった部分は、とてもきれいな青です。

   こちらは手もみで汁を出しているところ。私はミキサーを使ってしか染めたことがないのですが、彼女たちはごしごしともみつづけました。

   ぬめっとしたモロヘイヤスープのような汁ができました。

    漉して浸ける。

    緑色になります。15分ほど液につけておきます。

   ちょっと空気に触れさせたらすぐに水洗い。

   できました。きれいな水色です。

   ミキサーの場合も手もみの場合も、塩もみも、手順は一緒ですが、生葉染めはとにかく鮮度が命だそう。刈り取った直後、水の入ったバケツに入れ、そこから取り出しては葉をちぎりました。そのあとも手早さが大事だとか。そうしないと、酸化の力が失せてしまう。

   この夏2回行った生葉染めでわたしが染めた布よりも、今日の生葉染めのほうが俄然色がいい。水色が冴えています。わたしのは、もう少しグレーが入っている感じがします。ミキサーで高速の撹拌をすると熱が出るので、そこでダメージが出たのかもしれません。ほかにも何かどこかで酸化のプロセスがうまくいかなかったのか、それとも染めた絹の質が違っていたのか、わかりません。

   彼女たちは、生葉を水につけて消石灰を入れて毎日撹拌し、三日目くらいにブドウ糖を加えて発酵させるという生葉建てにも着手。生葉染めでは絹しか濃く染まらないのですが、この生葉建てだと、木綿や麻が染めるのだとか。興味津々。

   今年は私も、わずかながら藍を育てました。無肥料無農薬の草のなかでの栽培ですが、意外に元気に育ちました。そろそろ花が咲き始めたので、刈り取って、沈殿藍を試してみたいと思っていましたが、今日初めて知った生葉建てのほうが薬剤を使わなくてすむので、こちらにしようかしら。でも、生葉建ては、数日間暑い陽気が続かないとうまく行かないのだそう。来週のお天気、どうなるのだろう。

 

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ヘルシーメイト岡崎店と暮らしの学校ショップに納品しました。

2021-08-17 22:30:04 | アンティマキの焼き菓子とパン

  本日、岡崎のヘルシーメイトと暮らしの学校ショップに、焼き菓子を納品しました。

    お持ちしたのは、穀物クッキー4種とニンニククラッカー、ガレットブルトンヌ、米粉と生姜粉のクッキーです。

    ニンニククラッカーは、自然栽培のニンニクをオイルで炒めたものをオイルごと練りこみました。塩はオランダのヴァージンソルト。ニンニクと菜種油と有機小麦粉と塩だけでできた味わい深いクラッカーです。   

   穀物クッキーは有機コーヒー、米粉と塩麴、そば粉とひまわりの種、オートミールとクルミ(ヘルシーメイトのみ)。ガレットブルトンヌは、有機ピーナッツクリームと自家製白味噌がアクセントになっています。どうぞお試しを。

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稲武産ホップの誕生

2021-08-16 13:41:44 | 稲武のモノ・コト・ヒト・バ

   ビールの発酵に欠かせないホップの栽培が、稲武大野瀬町で始まりました。

   近年、日本の地ビール醸造が盛んになり、ビール好きの私としてはうれしいこと。特徴はいろいろですが、ほぼ味わい深いクラフトビールが作られています。でも、大事なホップはおおかたが輸入なのだとか。北海道で作られるホップはまだごくわずか。そのホップが、ここ稲武で栽培されるというのは、思ってもみなかった朗報です。

    7月の終わりころ、豊田の週刊紙「矢作新報」の地域記者でもある友人・奥田清美さんの取材に同行して、栽培を手掛けている大野瀬町大桑集落の大山泰介さんと真記子さんご夫婦をおたずねしました。 

   愛知県内でホップ栽培ができないだろうかと、場所と生産者を探していたのは、名古屋のワイマーケットブルーイング。クラフトビールの醸造所と店舗を持つ会社です。

   ホップは暖かい場所でもできますが、暖かすぎるとはやいうちに花が咲き、実?ができてすぐに枯れてしまうのだとか。寒冷地だとその進度が緩やか。そこで愛知県で標高の高い土地のひとつ、稲武に白羽の矢が立ちました。そして、2,30年前にキュウリ栽培をはじめるために建てた温室のある、大野瀬町の大桑地区がその場所として選ばれました。温室の立派な骨組みを使って栽培をすれば、新しく蔓を誘引するための大掛かりな設備などを作る必要がなかろうと思われたからです。

   このプロジェクトを引き受けたのは、農事法人大野瀬温。これまでサツマイモを作って焼酎にしたり、トウモロコシを育てて、摘み取りのワークショップを開いたりといった実践を重ねてきたところです。ちなみに私が焼き菓子に使っている名古屋コーチンの平飼い卵も、この農事法人のメンバーから購入しています。耕作放棄地の利用を目的にしている大野瀬温のコンセプトともぴったり重なり、この春から動き出すことになりました。

   以前からホップ栽培に興味を持っていた大山真記子さんは、当初から話し合いに参加し、契約農家として名乗りをあげました。

   苗は二種類。植え付けたのは今年の4月です。

   苗は、「ゴボウの切れ端みたいなただの棒だった」と泰介さん。それを土に差します。今年はとりあえず合計100株植えました。生育は順調だったそうですが、心配なのはアズキノメイガという小さな虫とベト病。それに、カナムグラとの交配。

    写真下方左から右に這っているのがカナムグラ。ものすごく繁殖力が強く、畑の困りものなのですが、秋口にできる実のようなものが、ホップそっくり。元は同じ種なので、交配しやすいとのことです。

   ホップは、蔓が5mものびる植物なので、キュウリの温室ではいささか高さが足りません。そこで横にわたしたロープに取り付けた滑車でホップを斜めにずらしながら育てて、十分の高さに生育するよう誘引します。

   「一日で結構伸びるので、毎日様子を観察してはひきあげてやります」

    見事にできたホップ。

    「実」と書きましたが、じつは実ではなくて、毬花というもの。この中に含まれているルプリンという黄色いものが、発酵を促進させるもとになるのだそうです。

   「この毬花を砕いてビールの中に入れて飲むと、フレッシュな苦みがでてきて、おいしい」と真記子さん。

 

    「毎日毎日大きくなるので、かわいい」といとおしそうです。

     来年は、このホップを私も、また育ててみたくなりました。10年以上前に育てたときは毬花のついた枝を切り取って、リースにして愛でていました。今度は、パン用の酵母を醸してみたいとおもいます。

    ところで、大山さん一家は、昨年春、過疎地稲武の中でもさらに奥まったところにあって、限界集落となっている大桑地区の古民家に移住しました。移住後も古民家の改修をつづけ、心地よい住処に変えつつあります。

    家の隣にある畑では無農薬で野菜を栽培。今年は日本在来種のトウモロコシも育てました。もっちりした食感のそのトウモロコシは、わたしが子供のころ好きだった穀物の味のするとうもころしでした。

    近所のおばあさんたちが教えてくれる保存食づくりにいそしんだり、豊富にある草木を使って、お子さんたちと染めを楽しんだりもしています。移住後間もないのに、次々に面白そうなことを見つけて実践している彼ら。新しい仕事が、「耕作放棄地の解消につながり、人々がこの僻地を訪れるきっかけになるのがうれしい」と目を細めます。

   収穫はもうじき。稲武でできたホップで醸造した地ビール、飲める日が来るのが待ち遠しい。

          彼女たちのホップ栽培、詳しくは、真記子さんがつづる「ワイマーケットの稲武ホップファームだより | 愛知県豊田市稲武で作るワイマーケットのホップ農園から情報を発信 (craftbeer.nagoya)」をご覧ください。

 

 

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テレビ「酒と涙と女たちの歌~塙山キャバレー物語」を見ました。

2021-08-16 00:05:33 | 映画とドラマと本と絵画

   たまたま、途中から見はじめたテレビ番組が面白くて、最後まで見ました。さきほど、BSフジで放映していた「塙山キャバレー物語」。茨木県日立市にある飲み屋街の話です。5月と6月に放送された番組の再放送らしい。

   飲み屋街と言っても一軒一軒は、ちゃんとした家ではないそうで、地面にポンと箱が載っているだけなのだとか。基礎の土台のない家。だからこちらは「屋台」として営業許可の下りている店なのだそうです。店は狭くてカウンターだけ。そういう店が10数軒並んでいます。それが塙山キャバレー。まわりは、高いビルやマンションが林立していて、そこだけ終戦直後の闇市のよう。

   店のママたちの歩んできた人生は、現代のものとは思えないほどすさまじい。キャバレーのリーダー格の女性は、17歳の時、目が覚めたら置屋にいて、母親から売られていたと知り、脱走したという経歴を持つ人。20代でこの街に流れてきて、店をはじめました。年齢は私と変わらないみたいなのですが、まるで戦前の話のよう。人身売買が行われていたということは、貧乏のせいで、闇社会とつながってしまったということなのでしょうか。

   闇社会と言えば、その筋の人が出入りしたことがあり、いま最長老のママ(82歳)が彼(ら?)と勇敢に対峙して追い払ったということもあったとか(この部分はネットで知った)。このママはほかの年下のママたちから慕われている、いわばママのママ。彼女の所にやってきた別の店のママが、酔っぱらって彼女に甘えるシーンもすごかった。

   パンデミックのため、当然彼女たちの店も自粛を余儀なくされ、きびしい状態が続いています。その月の家賃も払えない店もあり、「来月年金が入ったら払う」といって、家主を帰すシーンもありました。

   常連のおじさんたちも、それぞれの理由があって、このキャバレーに通ってきます。ひとりの老人男性は、数年前までこの街でラーメン店を営んでいましたが、自店の失火で自分の店と周囲の店数軒を焼失させてしまいました。その後、彼は死のうするのですが、死にきれずにいたところを、この街のママに救われます。いまは、周囲の草むしりをし続けてすごし、夜になると店に来て酒を飲むのが唯一の楽しみ。酒を飲むというより、ママやほかの客と一緒にいるのが唯一の慰めになるようです。

   5か月にわたる取材で完成したというこのドキュメンタリー。収録中に、すごいハプニングがあります。ある一人のママが10数年前に捨てた娘さんが訪ねてくるのです。彼女は母に対する愛憎をかかえたまま、他の客の前で母とやりあい、二度と会わないと言って店を出ていきます。ママは、娘の「なぜ、私たちを捨てて出て行ったのか」という問いに、最後まで答えません。

   そして数か月後、取材スタッフの所に娘さんから連絡があります。彼女は、あらためて母との和解を試みることを決意したのです。

   この街の空き店舗に、新しく若いママがやってきます。水商売は初めてにみえるその女性が、自分でペンキを塗って店をきれいにし、開店します。そこに他の店のママたちがお祝いに訪れます。彼女たちはほんとにうれしそう。「だって若い人がいるっているだけでうれしいじゃない」娘のような年の若いママの誕生をこころから祝っていました。手ごわい競争相手ができたという雰囲気はまるでなし。人情があるというのは、こういうことなんだな、とおもったことでした。

   ママたちも客たちも、みんなのっぴきならない状況で生きていることがひしひしと伝わる映像でした。

   

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NHKスペシャル「銃後の女性たち」

2021-08-15 14:45:40 | 映画とドラマと本と絵画
 
   昨日の晩、「銃後の女性たち」NHKスペシャルhttps://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/219VJQKVYJ/~を見ました。戦争中活躍した、普通の主婦たちのあつまり~国防婦人会~のことが取り上げられました。
 
   子供のころ、家にあった戦争中の写真集で、パーマネントや着飾った女性たちを前に説教している、白い割烹着姿の女の人たちの姿を見たことがあります。怖いおばさんたち!という印象を持ったものですが、その後、漫画「あとかたの街」で、貧しい主人公一家のところにやってきた国防婦人会の面々が、主人公の母親に戦時国債の購入を強要するシーンを見て、彼女たちの力の大きさを知りぞっとしました。
 
   それでもわたしは、この国防婦人会は、軍や政府が作った婦人グループだと思っていました。そして活動の中心は、町の有力者の婦人とか元教師とか、いわば中流以上の暇な主婦たちの集まりだろうくらいにしか思っていませんでした。
 
   ところが違っていました。発端は、大阪の主婦の善意から。彼女は、地元の兵士が一人寂しく街を離れるのはかわいそう、というので近所の主婦たちに呼びかけて兵士たちの見送りを始めました。お茶やお菓子を出し、兵士たちに喜んでもらえるのがうれしくて、どんどん活動を広げていったのです。
 
   それを軍部が目をつけ、利用しました。「軍国の母」をつくる強力な補助機関になったのです。
 
   当時の主婦たちにとって、外で何らかの活動をする、というのはほぼなかったこと。日々の仕事に追われ、姑の厳しい目もあるので、めったなことではでかけられなかったのですが、この国防婦人会の活動は、彼女たちにとっては大義名分のある、はばかりなく外に出られるまたとないチャンスでもあったということです。この側面も、彼女たちを運動に駆り立てる要因になったようです。普通の主婦が、演壇に立ち、堂々と国を守る気概を述べたり、英霊となって帰還した兵士の遺族の家を訪れてほめたたえたりといった仕事を、誇らしくおもっていたようすが、記録や証言によって浮き彫りにされました。
 
   しかし、彼女たちも息子を戦地におくる当事者でもあります。出征する息子をじっと家の蔭で見送り、表に出なかった姿を見ていた娘さんの言葉が印象的でした。
 
    街中だけではなく、長野県飯田市の小さな村でも、全世帯の主婦がこの婦人会に参加し、活動にいそしんだという記録が紹介されました。沖縄のある村では、学校の教師をしていた女性が率先して活躍。村人に沖縄方言をやめさせて、日本語の学習と愛国の精神を広げることに尽力しました。この女性は戦後村を出て、だいぶたってからある刊行物に、「私は自分がしたことが醜く恥ずかしく・・」と述懐しています。
 
    映画「陸軍」のラストでは、出征する兵士たちを、日の丸の小旗を振ってにこやかに見送る人たちの姿が描かれています。その人波をかき分けて、田中絹代扮する母親が出征する息子の姿を探しながら追いかけるシーンが延々続きます。彼女の悲痛極まりない顔と、白い割烹着をつけたすきがけした主婦たちのにこやかな笑顔が対照的だなと思った記憶があります。あの笑顔の主たちが国防婦人会メンバー。海軍特別少年兵に志願するよう各戸を回って親を説得したのも彼女たちでした。驚いたことに、各婦人会に、「何名志願させるように」との割り当てがあったといいます。軍部からか役場からかはわかりませんが、ひどい話です。「志願」は名ばかり。
 
    普通の人たちが、他の普通の人たちを抑圧する側に回る裏には、大きな力の操作があることが多いと思いますが、それでも積極的に運動を進める側に属したかどうかは大きな違いだと思います。映像を見ながら、「自分も彼女たちと同じ時代に生きて、同じ境遇にいたら、もしかしたら同じことをしたかもしれない」と強く思いました。こころしないと、あぶない。
 
    ところで、当初この運動に反対を表明していた婦人参政権の運動家市川房江は、その後運動を評価するようになったとNHKでは伝えていました。「市川房枝平塚らいてうは、手放しではないものの、ある種の女性解放をもたらしたとして国婦活動に一定の評価を与えている」とウィキペディアにも載っています。「ある種の女性解放」とありますが、中身はさておき、家を出て自分の意見を述べ、社会活動をするようになったことを「解放」というらしい。どうもすっきりしない「評価」です。
 
 
    彼女たちの世代は、私の祖母とたぶん同じくらいです。寺の庫裏として、夫の後ろで家と寺を守っていた祖母は、当時、国防婦人会にかかわっていたのだろうか。世間からは「もの柔らかなおとなしいお庫裏さん」で通っていて、孫には優しかったけれど、娘や嫁にはきつかった祖母。昨日の映像に出てきた女性たちの姿と重なります。母の生前、祖母のことをもっといろいろ聞いておけばよかった。
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面の木峠を歩きました。

2021-08-14 16:38:23 | 稲武のモノ・コト・ヒト・バ

   半月以上も前になるのですが、稲武と設楽町の間にある面の木峠を歩きました。

   面の木園地の駐車場に車を止め、山へ。こちらにはブナの原生林があり、ほかにも、種々の広葉樹や灌木が息づき、豊かな自然の森になっています。

   こちらを訪れるのは3度目か4度目。何度来ても、広葉樹の森は気持ちがいい。

   夏椿の花。

   こちらが木。

   舗道は整備されているのですが、たまにこんな場所も。

   展望台です。眼下に見えるのは設楽町の津具らしい。

   枯れ木に開いている穴は、キツツキの仕業。

   トリカブトの群落です。日本ジカや日本カモシカが増えて、下草がどんどん食べられているため、彼らの嫌がる毒草が繁殖しています。

   この日は稲武でも35度近くあったのではなかったかしら。でも、森の中はさわやか。

    バイケイソウです。可憐な花をつけています。きれいですが、匂いはひどい。ハエのたかる草だそうです。さもありなんとうなづける臭さです。

    ブナの実です。面の木のブナは樹齢300年以上たっている木がほとんどだそう。ブナの寿命は400年くらいだそうなので、もうそろそろ寿命の終わるころ。こののちもブナの森として生き続けるかどうかはわからないのだそうです。このところの急激な気候変動によって、この先の森の姿がどのように変化するかは、多分見通しがつかないのだろうと思います。ブナの森の保水力には、素晴らしいものがあるのだとか。その力がいつまで保たれるかわからないとおもうと、胸が詰まります。

   昨秋も、ブナの実はあまりできず、動物たちの食べ物は相変わらず不足しているそうです。

   ブナの枯れ木。そのうち、こういう光景があちこちで見られるようになるのでしょう。

   切り倒した大木にできた穴。ほぼきれいな円になっているのにびっくり。

   頂上付近で昼食を食べてから、道なき道をひたすら下り、稲武から面の木園地に至る道の反対側に出ると、こんなきれいな山道が造られています。右手は谷川。

   適度に生えた下草。木漏れ日が差す道。

    動物の死骸か糞に集まった虫。こうして分解され、森の肥やしになっていく。昨日読んだばかりのフェイスブックの記事に、ある地方の土葬の風習についての話が載っていました。

    そこは、山の尾根伝いに亡骸を埋める習慣がずっとつづいているのだとか。その風習は、とても理にかなった方法なのだそう。つまり、山の尾根に大きな動物=人間の死骸を埋めると、長いことかかってそれが土に帰り、栄養となる。先祖代々代の知恵が受け継がれることによって、豊かな森を維持してきたのだといいます。

    森を歩くと、ときに遭遇するこんな場面。あらためて、森の大事さを痛感します。

              ところで、私が定期的にパンと焼き菓子の講習会を開いている暮らしの学校の主催で、来月、面の木原生林の散策と、稲武産木の実を使ったバスケットづくりの一日講座があります。講師はIN SILVAを主宰する高部ほなみさん。私たちの森あるきにもしばしば付き合ってくれている友人です。くわしくはこちらをどうぞご覧ください。暮らしの学校 - 講座詳細 (kurashinogakkou.org)

 

 

 

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ひつじ村の兄弟

2021-08-08 16:21:35 | 映画とドラマと本と絵画

  アイスランドの映画。https://luckynow.pics/hrutar/ 地味な映画だろうとは思いましたが、アイスランドの映画は初めてなので、借りました。

  代々、羊の飼育をなりわいにしている小さな村が舞台。主人公は一人暮らしの男性老人で、かれもやはり羊を飼っています。やせた寒々しい土地で、羊を相手に暮らす彼の隣には、兄がすんでいます。でも彼らはなんと40年以上口をきいていない。

  村の毎年恒例(らしい)羊の品評会で、兄は一等賞を取ります。しかし、その夜、弟は兄が取得した羊に伝染病の兆候が出ているのを発見します。話はここから。伝染病は蔓延の恐れがあるため、村の羊すべてに殺処分命令が下されます。騒然となった村の人たち。生活費は支給されますが、この先いつまた同じ危険がやってくるかわからない。比較的若い一組の夫婦は、廃業して村を去ることを決意します。その決意に対して、村人は引き留めるだけの強い意志を持てません。

  村人の一人がはき捨てるように言った一言。「2年後、新しい羊が来ても、どうせホルモン剤まみれのやつにきまってる」

  他の村人は押し黙るばかり。

  主人公兄弟の羊は、先祖代々受け継がれてきた優良な種。たぶん、村の他の家の羊も、それぞれ自家繁殖させた優秀な羊なのでしょう。でも、日本でも欧米でも、いまや一般の家畜は、ホルモン剤などの投与が当たり前になっているといいます。「ホルモン剤まみれ」の家畜ということばからは、「伝統的な飼育法で育てることができなくなっている」酪農の現状がほんのちょっとだけ、想像できます。でも、深くは描きません。

  一方、一見従順に家畜保健の行政の指導に従っているかに見える弟。兄は終始反抗的です。しかし、実は弟は、自分だけの秘密の仕事を始めたのでした。

  風景はほぼかわらず、雪の山々。木はほとんどなくて、草も、牧草くらいらしい。電子レンジは出てきますが、テレビは出てこなかったように思います。「結婚は?」と問われ、「(村に)女がいないから」と答えた弟。過疎の村に残る女性は極めて少なかったのでしょう。

  説明部分の極めて少ない映画ですが、「現在」の一端が、きちんと描かれていました。伝染病の蔓延は、気候変動とも関係があるのかも。抑えたタッチが最後まで続くので、想像の域を出ませんが。

  印象的なのは、主人公兄弟と村人たちの着ているセーター。質のいい羊の毛で編んだ厚手のセーターは、とてもあたたかそうでした。このセーターも、日本の着物同様、代々受け継がれているものかもしれません。このセーターが、彼らの大事にする羊と羊の飼い方の象徴のように思えたことでした。

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