みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

北方の親族

2017-02-23 | おきにいり

ラジオで数日間サーミ人の伝統音楽が紹介されていました
その伝統音楽はヨイクと呼ばれ、キリスト教以前の原始宗教として禁止されてきたのですが、本当の伝統というものは、単なる禁止で滅びるものではないのですね。今も歌い継がれ、むしろ貴重な伝統文化として評価されているようです。

ヨイクの一例


サーミ人の伝統的な居住地域はラップランド、その住民はラップ人と呼ばれていました。でもラップランドは平たく訳すと「ど田舎」、ラップ人は「ど田舎者」ということになるので、今では使われなくなっています。

ジプシーロマあるいはシンティ・ロマ人と呼ばれるようになっているのと同じですね。

サーミ人は、アメリカ・インディアンエスキモーあるいはイヌイット、アイヌなどとも民族的・文化的に縁戚関係にあります。つまり、この方々は広い意味での北方の親族と言えるでしょう。


アイヌの伝統文化も、大切に守り受け継ぐべき日本の宝と言えるでしょう。
熊などの木彫や織物、ムックリは極めて特徴的でひと目でそれと分かります。

YouTubeで見つけたユーカラ





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猫のプーさん

2017-02-21 | かりねこ

これもオーストリアの新聞HPに載っていた猫のプーさんです





プーさんは去年の4月に事故で両足を失いましたが、その後、義足を付けてもらい、今では普通に暮らしているそうです


明日はニャンニャンニャン日本の猫の日ですね

ウィキのネコも内容豊富で楽しいです



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ヤルムークの人々

2017-02-19 | その他

ヤルムークヨルダン川に注ぐ支流の中で最大のものです。




第一次世界大戦でここも戦場となりました。遠くに見える壊れた橋は、第二次大戦後の1946年にハガナーに破壊されたものです。


もうひとつヤルムークがあります。ダマスカスの最南部にあるパレスチナ難民の居住地区でヤルムーク・キャンプと呼ばれますが、初期のパレスチナ難民が住み着いて、長年のうちに普通の市街地に発展しました。



ダマスカス地区見取り図の一番下、Al-Yarmoukと書かれたダークブルーの地域で、内戦勃発前には約14万人が住んでいました。この地域は2015年からテロリストの組織イスラム国家に占領され、戦闘が続いているため大半の人々(殆どパレスチナ難民)は国内外へ逃れ、現在残っているのは7000~8000人とされます。


土曜日のアラビア語コースのとき、私のクラスの部屋半分にコースの後半から20人くらいの人たちが集まりました。アラビア語の先生が「この人たちはダマスカスのヤルムークから避難したパレスチナ人で、これからドイツ語を勉強するのです」と教えてくれました。皆パレスチナ難民の孫世代と思われますが、彼らは二重の意味で難民なのです。パレスチナを追われ、ダマスカスのヤルムーク地区で安定した生活をしていたのに、更に命の危険があるためヨーロッパへ逃れ、その一部の人たちがオーストリアで戦争難民と認定され、更にその一部の人たちがアフリカ・アジア研究所でドイツ語を学ぶことになったわけです。

以前の記事難民の顔にも、ソマリアからイエメンに逃げ、イエメンで内戦が始まったため又逃げなければならなくなった人が登場します。

以前の記事川を渡る人々にみみずボログの関連記事がリンクしてあります。



Yarmouk Camp
パレスチナ問題
国連パレスチナ難民救済事業機関




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めねてける

2017-02-17 | ことば

メネテケルに驚くナポレオン


ジョゼフィーヌやフランス兵とともに酒宴のテーブル(イギリス)に座るナポレオンと、警告する「空中の手」。

1803年の風刺画で、1806年の大陸封鎖令以前に描かれています。つまり、飛ぶ鳥を落とす勢いのナポレオン絶頂期に描かれたもので、ナポレオンを絶対倒してやるという決意を物語っているのでしょうか


メネテケルMenetekelというのは「不吉な知らせ」の慣用句で
旧約聖書のダニエル書に由来します

ベルシャザル王の饗宴に現れた手

レンブラントの絵

新バビロンのベルシャザル王が快楽的な饗宴を開いていると、突然、空中に手が現れて壁に字を書くのです。誰も読めず、賢者ダニエルが呼ばれて謎解きをします。

書かれているのは「メネ、メネ、テケル、パルシン」で、王の権勢は終わり、王国はペルシャ人とメディア人の間で分割されるという意味である、とダニエルが説明。

そして、その夜、ベルシャザル王は殺されます。


ダニエル書は主役のダニエルが様々な謎解きをし、あるいは難局を切り抜け、冒険物語のようで私は好きです




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75年前

2017-02-15 | その他

1942年2月22日シュテファン・ツヴァイクがブラジルで自殺してから、今年は75年目にあたります。これを記念して、ラジオでも作品の一部が朗読されたりしています。

歴史的に文学者の自殺は時々ありますが、シュテファン・ツヴァイクの場合は共感する人も多いかと思います。


ツヴァイクが自殺した家:ペトロポリス

今はカーサ・シュテファン・ツヴァイクとして記念館となっています


シュテファン・ツヴァイクはユダヤ系の富裕な実業家の子としてウィーンに生まれ、ウィーン大学に入りましたが、授業に出席するよりは、当時ヨーロッパ一流の新聞であったディ・プレッセ(編集者のひとりがテオドール・ヘルツル)に投稿する詩を書くことに熱心だったようです。それでも博士号を取得しています。
第一次大戦の体験やロマン・ロランとの交流などによってツヴァイクは徹底的な平和主義者になりました。

第一次大戦後からナチスによる政権奪取までツヴァイクはザルツブルクに居住し、多くの著作のほか、各国の文筆家や学者と交流しています。
ナチスの政権奪取後は1934年からロンドンに滞在、イギリス国籍も取得しています。しかし第二次大戦勃発によって、オーストリア人がドイツ人とともにイギリスの「敵国人」となってからは、収容所に入れられるのを恐れて、ニューヨーク、アルゼンチン、パラグアイを経て1940年ブラジルのペトロポリスに住み着きました。

当時のツヴァイクは既に世界的な名声を得ており、他のユダヤ系文化人の亡命者とは違って、経済的にも恵まれた状態にありました。しかし、ヨーロッパを自分の精神の拠り所としたツヴァイクにとって、ヨーロッパが戦争によって互いに殺し合い崩壊していく様子が耐えられなかったのでしょう。オーストリアを離れてから8年間の「亡命生活」は、経済的問題はなくても、精神的には耐え難い歳月だったと思います。
ツヴァイクは身辺を整理し、バルビツール製剤の大量服用によって自殺しました。

1945年まで、あと3年待てば戦争は終わっていたのです。しかし「この戦争の後、二度と再び往時のヨーロッパは戻ってこない」という恐れを持っていたとも思われます。確かに、第二次大戦末期は既に冷戦の始まりでした。それでも、ツヴァイクの理想に似た精神で、フランスとドイツの和解を軸にヨーロッパの統合が進み欧州連合EUへと発展してきたのですが、先を競ってEUに加盟した国々が、今では自国最優先のエゴイズムでEUを敵視するようになっています。ツヴァイクが今のヨーロッパに帰ってきたら、やっぱり悲観するかもしれません。


私はツヴァイクの「昨日の世界」しか読んでいませんが、大変印象的でした。この作品には少年時代からの思い出が綴られ、ウィーンの歴史的ガイドになっているとともに、交流のあった多彩な文化人が登場します。フーゴー・フォン・ホーフマンスタールエミール・ヴェルハーレンマクシム・ゴーリキー、そして上記のロマン・ロランなどなど。

高い単行本ですが日本語訳もあるようです。
昨日の世界I
昨日の世界II





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