【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

滞らせるもの

2020-11-30 06:57:05 | Weblog

 「GoTo」に関して、政府と地方自治体の意見が食い違っています。その結果かどうか、COVID-19は勢いを増しています。
 「GoTo」に関して、政府の政治家と医療現場や専門家との意見が食い違っています。その結果かどうか、COVID-19は勢いを増しています。
 ということは、政府の政治家がCOVID-19の勢いをつけて終息を遅らせている、ということに?

【ただいま読書中】『黒死病 ──ペストの中世史』ジョン・ケリー 著、 野中邦子 訳、 中央公論新社、2008年、3200円(税別)

 著者は、黒死病が猛威をふるった中世の書簡・年代記・回想録から、「歴史」と「人間」を浮かび上がらせようとしています。著者が執筆していたのは、「エイズ」が恐れられていた時代でした(皆さん、あの頃のことを覚えていますか?)。そして著者は「これから新しいパンデミックが生じるだろう」「その時人々は、中世の人々と同じように振る舞うだろう」と予測しています。実際にCOVID-19では「中国が悪い」と「ワルモノ」を名指しして非難している人がいます。14世紀の黒死病の時に「ユダヤ人が悪い」と非難し虐殺していたのと同じように。ペストは「腺ペスト」「肺ペスト(咳ペスト)」「敗血症ペスト」の3種に分類されます。腺ペストが一番生存率が高いのですが、それでも(適切な治療がされない場合)死亡率は60%! 咳ペストの場合、そばで咳をされただけで感染が広がりばたばた死者が出るそうです。ペストの嵐が3年半かけてヨーロッパ全体を吹き荒れたとき「ペストの影響を受けなかったヨーロッパ人は一人もいなかった。三分の一が犠牲になり、残る三分の二が悲嘆と涙にくれた」そうです。本書にはその「世界的な悲劇」に直面した人々の苦痛と悲痛な声が満ち満ちています。そしてそれは、現在COVID-19に襲われている人たちが感じている苦痛とまったく同じはず。「当事者の声」はもっと広く知られた方が、悲劇は早く終わりやすくなるのではないか、と私は思います。

 


流行の責任

2020-11-27 07:37:01 | Weblog

 新しい病気が流行すると、「どこからやってきたんだ」が話題になります。「自分たちは悪くない、誰かほかのところに責任がある」と言いたいのかもしれません。しかし人が交流する限り病気は必ずどこかからやって来るものですし、それが流行するかそれともしないかは、たとえばその社会の公衆衛生がきちんとしているかとか人々の病気に対する意識がどうか、なども大きな要素になっているはずです。少なくとも公衆衛生とか人々の基礎的な健康状態とかは、「自分たちの責任」でしょ?

【ただいま読書中】『ペスト大流行 ──ヨーロッパ中世の崩壊』村上陽一郎 著、 岩波書店(岩波新書黄225)、1983年、430円

 ペストは中国が起源、という説が有力だそうです。それがおそらく元の勢力拡張に従って西に向かい、さらにヨーロッパに住んでいた鼠が(ペストを媒介する蚤が好む)クマネズミに入れ替わったことによって、ヨーロッパでペストが流行する条件が整えられました。さらに、都市への人口集中、交通網の整備、十字軍などでの国際的な人口移動によって、エピデミック(局地的な流行)がパンデミック(世界的な流行)に“昇格”する条件も揃います。ですから、中世ヨーロッパでペストが流行するのは、これは“必然”だったのかもしれません。
 ペストの原因は「有毒な気体」とされました。ならば病気に罹らないためには「病気から逃げる(有毒な気体に触れないようにする)」「空気を遮断する(換気の逆)」が有効と言うことになります。だから人々は病人を隔離したり流行地から逃げ出したし(隔離は有効だったでしょうが、避難はその結果各地に流行を広げることになりました)、窓を閉めたりそこにタペストリーをぶら下げたりマスクをしたり有毒な気体が肌に触れないように(肌を空気に露出する)入浴を避けるようになりました。その他にも、接触感染とか星の「合」なども疑われましたが、これについてはけっこう冷静な反論がおこなわれています。人気があったのは「ユダヤ人が病気をばらまいている」。その具体的手段についての言及はありませんが、ともかく「ユダヤ人が悪い」はユダヤ人以外の共通認識となり、その結果は虐殺でした。
 「感染症であることははっきりしているが、その経路を断つことが難しい」「有効な治療法がない」点で、中世の黒死病と現代のCOVID-19とは似ています。だとしたら、「歴史に学ぶ」ことは無駄ではないはず。さて、現代の医療関係者や為政者は、学んでいるかな?

 


雨乞い

2020-11-27 07:37:01 | Weblog

 「自分は雨男(雨女)だ」という主張はよく聞きます。そういった人が「干ばつ地域に雨を降らせに行ってくる」と言っているのは聞いたことがありません。

【ただいま読書中】『気象を操作したいと願った人間の歴史』ジェイムズ・ロジャー・フレミング 著、 鬼澤忍 訳、 紀伊國屋書店、2012年、3200円(税別)

 先日読んだ『きょうも上天気』に収載されていた「コーラルDの雲の彫刻師」(J・G・バラード)には、彫刻師達が雲を“刈り込む”ことで彫刻を空に出現させるが、そのとき地上には雨が降ることが描写されていました。それに影響されたわけではありませんが、今日の本は「気象操作」がテーマです。それも「歴史」。テクノロジーの進歩によって、人は「空の操作」が可能になった、と自信を持つようになっています。しかし、そういった自信を持つ前に、まず「気象操作の歴史」についてまず学ぼう、というのが著者の主張です。自分が何をやろうとしているのか、客観視をするために。
 文学の世界では、ギリシア神話からSFまで「気象制御」は人気のテーマでした。ただ、本書に紹介されている作品群で、あまりハッピーエンドがないのが気になります。
 科学の世界では「自然を支配しよう」とする試みは、少なくともフランシス・ベーコンまで遡れます。19世紀前半、アメリカの高名な気象学者エスピーは「大規模な山火事によって降雨が発生する」という仮説を立て、州議会にその実験の請願を出しました。議会はそれを拒絶、というか、黙殺しています。その他にも、煙・大音響・空中での爆発・戦闘などで降雨が発生する、と主張する人が続出。その動きは「レインメーカー」(科学的な雨乞い)と「レインフェイカー」(雨を降らせる、と言って金を巻き上げる詐欺師)とをたくさん生み出しました。ちなみに両者とも使う手段は驚くほど似ているそうです。さらに「科学」の中に「病的科学」が出現。たとえば「常温核融合」で大騒ぎになったときのようなものです。これで「雨を降らせる」という試みが、どこまで「まとも」な者なのか、ややこしくなってきます。
 軍も気象を「兵器」として使う可能性に注目、1947年からアメリカ軍は「巻雲プロジェクト」で人工降雪・降雨の可能性を探ります。さらにハリケーンへの干渉(進路変更や威力を落とす)実験も考えます。47年にはヨウ化銀が雲の中で人工核として作用して人工降雨に使えることが発見されます。ただし、環境中でヨウ化銀はそのまま残ってしまいます。だけど多くの人は「後のことは考えない」態度で人工降雨に熱中しました。「後のことを考えない」どころか「今のことも考えない」恐ろしい話も載っています。「チェルノブイリ」直後、放射性物質をたっぷり含んだ雲が気流に乗ってモスクワ方面に流れようとしていたとき、人工降雨作戦が行われて放射性物質をたっぷり含んだ雨がベラルーシに降り注いだののです。ベラルーシには一切の警告抜きで。パイロットも高い放射能に汚染されましたが、彼らは「作戦の成功」を誇らしく語っています。イギリスやアメリカで気象に干渉する実験後に大災害が起きたとき、関係者は皆口をぬぐって知らん顔をしています。
 軍は気象に関するデータをせっせと集め始めます。それによって天気予報は飛躍的に進歩しましたが、逆に言えば、軍はそれまではデータ抜きで気象を「兵器」にしようとしていたわけです。無謀です。子供が安全装置のかけ方も教わらずに拳銃を玩具にしている姿を私は思います。
 1960年代はじめに「二酸化炭素排出の増加によって、人類は意図せずに気象を改変している」「塩素と臭素がオゾン層を破壊して“穴”を開ける」とウェクスラーという学者が着想を得ました。しかし彼はそれを正式な論文にする前に亡くなり、十年以上後に気象学者達を驚かせることになります。
 1988年ジェイムズ・ハンセンは「地球は温暖化しており、それは人為による」と主張しました。これが「地球温暖化への懸念」の出発点とされています。それに対して「否定論者」もいますが、「肯定論者」の中に恐ろしい存在が。地球環境そのものをテクノロジーによって人為的にいじくり回してそれで温暖化を解決しよう、という「地球工学」の人たちです。これはかつての、大気についてまったく無知だったのにとにかく雨を降らせようとしていた態度と瓜二つで、著者はそこに「倫理の欠如」「全体像を見ようとしない態度」の危険性を感じ取っています。「地球環境」をきちんと理解していない人が、単純な思いつきで地球全体に影響を与えようとしている、と。
 かつて「レインフェイカー」は、実に弁舌爽やかに人々を魅了し、自らが降らせることができない「雨」をネタに金を巻き上げていきました。今、弁舌爽やかに人々を魅了しようとしている人は、「レインメイカー」なのでしょうか「レインフェイカー」なのでしょうか、そして雨が降らなかったら、あるいは雨が降ったら降ったでどんな良いことと悪いことが起きるのでしょうか?

 


良い天気

2020-11-25 07:17:31 | Weblog

 雨が降ったら私はついつい「天気が悪い」とがっかりしてしまいますが、過度の晴れは干ばつになるけれど、適度なお湿りは農業のためには良いことです。すると「天気の良し悪し」って、何?

【ただいま読書中】『きょうも上天気』浅倉久志  訳、 大森望 編、角川書店(角川文庫)、2010年、629円(税別)

目次:「オメラスから歩み去る人々」アーシュラ・K・ル・グィン、「コーラルDの雲の彫刻師」J・G・バラード、「ひる」ロバート・シェクリイ、「きょうも上天気」ジェローム・ビクスビイ、「ロト」ウォード・ムーア、「時は金」マック・レナルズ、「空飛ぶヴォルブラ」ワイマン・グイン、「明日も明日もその明日も」カート・ヴォネガット・ジュニア、「時間飛行士へのささやかな贈物」フィリップ・K・ディック

 「翻訳者」に注目して編集された短編集です。私は青春時代からこの訳者にずいぶんお世話になったと思っていましたが、たしかにこの本のラインナップを見ていると「やあ、お久しぶり」と言いたくなる作品ばかり。
 私は「SF作家の作品」を読んでいた、と思っていたのですが、実は「翻訳者の日本語」を読んでいたわけです。カート・ヴォネガット・ジュニアは大学教養課程の課題で原文でペーパーバックを何冊か読みましたが、やはり日本語で読む方が楽ちんです(ちなみに当時はまだ翻訳が少なくて、ズルができませんでした)。
 各短編はそれぞれ有名なものですから内容については触れません。ただ、若い頃に読んだときと大きく印象が変わったものもあります。その代表は『オメラスから歩み去る人々』でしょう。初めて読んだのは大学生の時だったと思いますが、その時には「ふーん」程度だったのが、今では「なんじゃ、こりゃ!」の衝撃を感じます。ル・グィンはやっぱりすごいや。

 


どこに行く?

2020-11-25 07:17:31 | Weblog

 「GoTo」キャンペーンが日本経済へのカンフル剤、と政府は言わんばかりでしたが、「人を動かさずに経済を回す」方策を示すのが「ニュー・ノーマル」の対応策でしょう。もちろん、コロナ禍が落ちついたときにホテルが全滅、というのは困りますから、たとえば各地の観光協会に一時交付金とか有利な貸付金(もしかしたら返済不要になるかも、というお金)をざらっと配って「これでなんとか1年耐えていてくれ」と延命策を手当てして、経済を回すのは人を動かさずに、の政策を別に具体的に示した方が、結局「トータルで日本が蒙る損害」は少なくなる、と私は考えています。今の「GoTo」は「JTBを潰さないためには、日本国民が少々死んでも良い」と言っているように私には見えます。「GoTo」の“目的地”は「JTBを潰さない」ではなくて「日本を潰さない」ではないんですか?
 ちなみに「カンフル剤」は、病気は治しません。弱った心臓を一時的に無理やり元気にするだけで、それは結局「死に馬に鞭打つ」になる危険性が大です。

【ただいま読書中】『東京オリンピックへの遙かな道 ──招致活動の軌跡1930-1964』波多野勝 著、 草思社、2004年、1600円(税別)

 NHKの大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺」を思い出しながら読むと、“立体的”に楽しめる本です。
 1929年の年末、ロサンゼルスオリンピックに参加するにあたって日本水連では「予選を複数回行う」「合宿を行う」などのスケジュールをあらかじめ決定しました。世界ではロンドン軍縮条約が締結される直前で、「平和な時代」の一つの象徴として日本では空前の「スポーツ・ブーム」が到来していました。そして1932年ロス大会で日本水泳界はアメリカに圧勝します。それを受けてアメリカでは、「日本水連と同様の組織を作る」「オリンピックのための50mの練習プールを建造する」「若手選手を強化する」といった「日本に学べ」の方針が決定されます。
 しかし、1931年には満州事変、33年にヒトラーが首相に就任。
 オリンピックの視点ではヒトラーは面白い存在です。彼は首相就任当時はオリンピック開催に反対していました。しかしゲッペルス宣伝相の進言を受け入れてオリンピックに積極的になったのです。もしベルリン大会がなければローマ大会となりその次の第12回大会が東京になるかもしれない、と期待していた日本人はがっかりします。
 ベルリン大会は「ナチスの大会」で、聖火リレーがはじめて行われ、記録映画「民族の祭典」「美の祭典」が注目されました。そして「前畑がんばれ」。
 「東京オリンピック招致」はその数年前から始まっていました。しかし日本国内でも積極派と消極派が延々と議論をしていて話がまとまりません。難点は「スポーツの中心地ヨーロッパから日本は遠い」こと。さらにローマがすでに立候補を表明していました。しかし交渉するとムッソリーニは立候補を辞退してヒトラーと共に東京を支持。「三国同盟」です。なぜか英米も日本を支持して、ヘルシンキに競り勝って「東京!」となります。そう決まれば日本中はお祭り騒ぎ。しかし、体協が東京市を無視して準備委員会の人選を進め、東京市長が激怒。こういった内部のドタバタは、戦後の「東京オリンピック」の時にも繰り返されたそうです。「お山の大将」が集まるとどうしてもこういったことが起きるようです。さらに軍部は「欧米スタイルのスポーツ」ではなくて「質実剛健」「建国二千六百年に行う特殊の意義に鑑み国民精神の発揚と古今諸文化の示現に留意」を求めます。さらに1937年に盧溝橋事件から日中戦争。戦時体制となり競技場などの建築資材は入手困難になり、国内では「このような時局に若者が運動に熱中しているとはいかがなものか」、国外では日中戦争に対する反発が広がり不参加を考える国が増えます。結局東京は辞退。代替とされたヘルシンキ大会も戦火に飲まれて中止となりました。
 敗戦国にも希望の星がいました。古橋広之進です。1942年浜松二中の時に県大会で新記録をマーク、勤労動員で左手中指を第二関節から切断するという選手生命に関わる怪我をしましたが、45年に日本大学に入学、全日本選手権の400メートル自由形で優勝していました。
 戦後最初のオリンピックは、1948年のロンドン大会。IOCの理念は「政治とスポーツは別物」ですが、戦勝国イギリスでは独日に対する拒絶感が強く(イタリアは友好国扱いでした)、日本水連はロンドン大会の期間中に同じ日程で全日本選手権大会を開催します。そこで古橋と橋爪が世界記録を出したことは、日本国内では有名ですね。
 日本水連は1949年に国際競技連盟に復帰、他の競技もそれに続いて国際競技連盟に復帰しました。日本水連はすぐに全米屋外水泳選手権に選手を派遣することにします。障害は様々ありますが、国内国外の多くの人の協力で選手派遣が実現。その出発前にスポーツ好き(1928年のアムステルダム大会でアメリカ選手団長)のマッカーサーは「みじめな負け方をするな。アメリカ選手をやっつけてこい」と日本選手を激励しました。サツマイモで食いつないでいた日本選手達は、ロサンゼルスでは飯におかずがつくことに大喜び、そのおかげか10個の世界記録を出しました。こうして古橋は「フジヤマのトビウオ」になったのです。驚いたのは、アメリカのマスコミの対応です。大会前には日本選手団を「敵」扱いしていたのが、活躍をするとそれを素直に評価して驚嘆の声を上げ、一夜で評価を逆転させたのです。そして、52年のヘルシンキ大会に日本選手団は久しぶりに参加をします。
 平和な世界でないと、オリンピックは開催できません。では逆に「オリンピックを開くために世界に平和を」と言うのはどうでしょう。オリンピックでは“動機”としては弱い? でも、どんな動機でも「平和」のためだったら使えるものは使いたい、と私は思います。

 


へたれるかへたれないか

2020-11-24 07:10:20 | Weblog

 「桜を見る会」疑惑でテレビでは「検察が公設秘書などから事情聴取」「ホテル側に支払われた金額と参加者からの会費の差額を安倍事務所が補填していた」「立件の可否を検討」なんてニュースをやってました。さて、政治家とずぶずぶのへたれマスゴミとは違って、検察はへたれないかあるいは人事権を握られているからやっぱりへたれるか、どちらでしょう?
 「河井は好きにやらせてやるから、安倍はもうやめろ」という電話が行っている、と私は推測します。

【ただいま読書中】『汚れた桜 ──「桜を見る会」疑惑に迫った49日』毎日新聞「桜を見る会」取材班、毎日新聞出版、2020年、1200円(税別)

 もう1年経つんですね。関係者は「シュレッダー」と「何も問題はない」で逃げ切ったつもりなのでしょう。だけど、大慌てで証拠を隠滅した、という行為そのものが「有罪」であることの証拠だと私は見ています。
 意外だったのは、マスコミは「SNSでの騒ぎ」で初めて「これは追う価値のあるニュースだ」と認識した、という点です。あまりに政治に近いところにいると「これくらい、普通だろ」という感覚になってしまうのかもしれません。この「SNSの騒ぎ」の中に「これだけの問題をなぜマスメディアは取り上げないのだ」という批判が多いことに毎日新聞の記者が改めてこの「問題」の重要性を認識するところが、ある意味リアルです。
 昨年11月に最初にこの問題を取り上げたのは共産党の田村参院議員。国会質問で使った資料はほとんどが「公開資料(参加者のブログや公園会報など)」だったことが、これまでの疑惑追及とは違うスタイルでした。政府はこれから「デジタル化」を進めるそうですが、デジタル庁がなくても世の中はすでにデジタル化が進んでいます。
 参加者の証言も印象的です。特に安倍首相がまめに“ファンサービス”をしているのには「この人は基本的に真面目で律儀なんだろうな」と思わされます。いや、それは良いことなのです。ただそのために、税金を私物化していることが、問題。予算の三倍も使って自分の後援会員を大量に招待して“優待”しているわけですから。
 山口の議員達などは、次々ブログを削除します。まるで残していたらなにか都合が悪いみたいに。そして政府は「桜を見る会」そのものの“削除”を決定。残しておいたらなにか都合の悪いことがあるみたいに。
 首相や官房長官の答弁が詭弁だ、と私は1年前に感じていました、これは次々出てくるニュースを追いながらの刹那的な感覚でしたが、今回まとめて読んで、論理的にも破綻した答弁を繰り返していることがよくわかります。
 「私人」であるはずの「首相夫人枠」、そして「前夜祭」。この前夜祭でも「詭弁答弁」が連発されます。私が大笑いしたのは「宛先が無記名の領収書」を首相が“公認”したことです。これ、昭和の時代に脱税対策として税務署が必死になって潰していたものなんですが。税務署の努力を首相が台無しにして、良いのかな?
 「政治部の記者と政治家の癒着」を指摘する声はネットに溢れています。それに影響されたのか、毎日新聞のデジタル取材センターの記者は「自分の会社も含めた政治部記者と首相や官邸の関係」も取材の対象に入れています。特に容赦なく描写されたのは「総理番」と呼ばれる(総理に張りついていることが仕事の)若手記者を相手に「ぶら下がり」で総理が記者達に“圧勝”した場面です。準備不足の記者達は総理に翻弄され、まともな質問が全然できなかったのです。政府発表をただ垂れ流すだけの“取材”に慣れきった怠け者たちには、総理に対する真剣勝負の質問は荷が重かったようです。そして、問題の幕引きを狙う政権は「キャップ懇」を記者に持ちかけます。これは各報道機関の官邸キャップ(中堅記者、多くはデスク直前の人)を集めて首相と会食をしながらの懇談会ですが、その内容は「完全オフレコ(一切報道しない)」となっています。それに毎日新聞は不参加を決定。参加したら追及をやめなければならないことを恐れての決断だったそうです。さらに記者会見は動画で流れるようになっていて、一部の記者は「自分たちも国民に見られている」ことに気づき始めます。
 参加者の中に「反社」がいるのではないか、という疑惑も浮上。これに対しては安倍政権は「知りませんでした」と「『反社会勢力』の定義を変更する」でやり過ごします。本書にもありますが、吉本興業の芸人達が暴力団のパーティーに呼ばれて“営業”をしたことで無茶苦茶非難されたことを思うと、政治家のこの態度はなんだ?と思いますね。
 そして安倍首相支持者からの「いつまで『桜』をやってんだ」。疑惑の解明って、一部の人には人気がないようです。でも「やってはいけないことはやってはいけません」ではないですか? それを子供に教えるのは親の役目だし、社会に徹底させるためには“上の人”がまずその姿勢を実際にやって見せなきゃいけないのでは?

 


今川氏は滅亡したか?

2020-11-23 08:38:53 | Weblog

 桶狭間の戦いの後、今川氏はさっさと滅びた、なんてことを私は思っていましたが、NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」では今川氏真がしぶとく生き延びていて、織田信長の前で蹴鞠をしてみせる、なんてシーンがあって「あら、今川は滅亡していなかったんだ」と驚きましたっけ。そういえば「本能寺」のあと、織田信長の弟の一人は織田有楽斎として生き延びていましたっけ(武将としてより茶人として有名で、「有楽町」の地名の由来だそうです)。「歴史」に無視されても、有名人の一門の人たちは生き続けていくもののようです。

【ただいま読書中】『今川氏滅亡』大石泰史 著、 KADOKAWA(角川選書)、2018年、1800円(税別)

 著者はまず「国衆」に注目します。戦国大名は「中央集権」ではなくて地方豪族である国衆の連合体をまとめる立場だった、と。それを改革したのが織田信長でしょう。彼は国衆を根こそぎ「領地」から引きはがしてしまいましたから。すると、戦国大名を研究するにあたって、国衆の研究は避けて通れないことになります。
 今川氏は足利氏の一門です。系図を遡ると鎌倉時代前期の御家人足利義氏に到達するそうです。室町幕府によって駿河や遠江の守護職を与えられたり奪われたり、なかなかややこしい権力闘争が行われています。その過程で、井伊氏や松平氏といったおなじみの名前も登場します。
 今川家当主の氏輝とその後継者と目されていた彦五郎が同日に急死する、という不思議なことの直後、出家していた栴岳承芳(氏輝の弟、後の義元)と義元の庶兄玄広恵探の間で「花倉の乱」が発生、家督を継いだ義元は自身を後援してくれていた北条家と手切れをして武田信虎の娘と婚姻します。怒った北条氏綱は出兵、「河東一乱」が起きました。武田信玄による父信虎の追放にも今川家が関わっていて、武田家の仲介で今川と北条は和解することになります。
 北と東がふさがっている今川が目指すは当然、西。三河侵略を始めますが、大義名分は「援助を求む」の三河の国衆。ところが尾張の織田信秀も三河に手を伸ばします。なかなか厄介な相手です。三河衆としては、ナチスドイツとソ連に東西から同時に侵攻されたポーランドと同じような気分だったでしょう。さらにそれぞれの“背後”の安全を固めるために、今川・武田・北条の三国同盟が結ばれます。
 本書では「発給された文書」が重視されています。一次史料です。ただ、戦国時代に文書がどこまで保存されたか、偽書の可能性は、とか考えると、なかなか確定的なことは言いにくい。それでも視野を広く保って文書を見ていけば、「歴史の一断面」は見えてくるようです。私は一般的な戦国もので育ったので、ついつい「今川」は「桶狭間」でだけ(つまりは織田信長の敵役として)見てしまいますが、今川には今川の苦労があって、そう気楽に出兵したわけではないようです。そもそも出兵の目的も「西三河の安定」「尾張への領土拡張」「伊勢・志摩まで進出」「上洛」と各種の説が唱えられています。
 本書後半部の主人公は今川氏真です。桶狭間で義元を失った今川家ですが、それでも駿遠両国は落ちついていました。しかし永禄四年(桶狭間の翌年)松平元康が離反、武田・北条との三国同盟維持のために今川は東方に兵を派遣しなければならなくなり、三河国内は「三州錯乱」と呼ばれる渾沌状況になってしまいます。永禄六年には遠江で今川に対する挙兵が相次ぎます(遠州忩劇(えんしゅうそうげき))。その先鋒となったのは井伊氏でした。3年かけて遠州忩劇を鎮めた氏真は、何を思ったのか上杉謙信と交流を始めます。信玄はそれに対して駿河への侵攻で応えます。信玄から逃げて掛川城に入った氏真を攻めたのは徳川家康。家康は氏真が北条に亡命するのなら命を保証することを約し、かくして「今川氏滅亡」が始まります。氏真の正室は北条氏康の娘だから、実家を頼った、ということでしょう。しかし氏康が死んで後を継いだ氏政が武田と和睦したため居場所がなくなった氏真は、こんどは徳川家康を頼ります。こう書くと、まるで「どんどん落ちぶれていくバカ殿」のようですが、実は氏真は「徳政令」「楽市」「用水開発」などの“善政”も行っていました。三河を失っても駿遠をきちんとまとめようとしていたのです。しかし、「自分の一族のサバイバル」を優先する国衆の中から今川から離れるものが続出。弱ったところに、武田と徳川が侵攻してこんどは今川が「ポーランド」になってしまいました。
 今川氏真を「ダメ大名」と評する向きは多いのだそうです。その根拠が「今川家を滅亡させた」「信長の前で蹴鞠をして見せた」だそうですが、「家」を滅ぼしたのが「ダメ」の根拠だとすると豊臣秀頼も「ダメ大名」ということになりますよねえ。彼をそこまでくさす向きは少ないようですが。また、著者は「当時の大名にとって、蹴鞠は“大名のたしなみ”の一つだった」と文献を挙げて“反論”しています。まあ、だからこそ信長が蹴鞠に興味を持ったわけでしょう。
 ちなみに今川氏真の子孫は江戸・明治までは追跡可能だそうです。今川氏は滅亡はしていないようです。

 


偽善

2020-11-20 08:06:45 | Weblog

 「エッセンシャル・ワーカーに感謝を」と言っている人があちこちにいます。もちろん「本気」で感謝している人もいるでしょうが、「風」を読んで「こう言っておけば間違いないだろう」ととってつけたように言っている偽善者がけっこう混じっているのではないか、が私の“見立て”です。
 もし本気で言っているのだったら、コロナ禍の前から言っていて欲しいし、もちろんコロナ禍が終息した後も言い続けて欲しい。さらに言うなら、実際に手伝いに行って欲しい。とりあえず今だけ言うだけ、の人は、やっぱり偽善者じゃないのかな。

【ただいま読書中】『日本海海戦 悲劇への航海 ──バルチック艦隊の最期(上)』コンスタンティン・プレシャコフ 著、 稲葉千晴 訳、 NHK出版、2010年、2100円(税別)

 世界史に残る5つの大海戦は、レパントの海戦(1571)・トラファルガーの海戦(1805)・ユトランド沖海戦(1916)・ミッドウェー海戦(1942)、そして日本海海戦。
 著者はロシアとイギリスの公文書を活用して「西洋から見た日本海海戦」を描写しました。日本語ができないので日本語の公文書が使えなかったそうですが、すべての視点から戦争を描くのは最初から困難でしょうし、一つの視点からでも一次史料による考察があるのは良いことです。
 ロシアは、植民地競争で列強に後れを取っていましたが、それを「東」(シベリア、満州、チベット、朝鮮)で取り返そうと狙っていました。さらに歴代のロシア皇帝は、大陸国家であるのに、海軍に熱中していました。巨大戦艦・高速武装巡洋艦・水雷艇・潜水艦・無線通信などの“新兵器”が次々登場し、各国の元首も、軽騎兵の行進より「シーパワー」を見せびらかす方に熱中していました。
 極東の黄色い猿の小国など一捻り、とロシアの指導者たちは意気軒昂。必要なのは、日本軍の兵站線(日本ー朝鮮)を断ち切る(日本海の制海権を確保する)ことですが、太平洋艦隊は旅順港に閉じ込められてしまいました。そこでバルチック艦隊から稼働可能な艦船を選択して「第二太平洋艦隊」が編制されます。しかし極東まで、石炭や水などをどこで補給するか、が大問題となります。途中にイギリス領はたくさんありますが、ロシア領はないのですから。
 艦隊司令官に任じられたロジェーストヴェンスキーは、ほとんど孤軍奮闘です。皇帝、その取り巻き、軍の上層部、貴族たち、造船所、水兵、皆さんそれぞれ好き放題のことばっかり言って、ロジェーストヴェンスキーの足を引っ張ることに異様に熱心なのです。かくしてロジェーストヴェンスキーに与えられた(押しつけられた)のは、新鋭の戦艦・老朽戦艦・新造巡洋艦・老朽巡洋艦・皇族の娯楽用の軽装艦・水雷艇、等からなるごちゃ混ぜの“大艦隊”でした。それにさらに足の遅い輸送船団がくっつきます。素人目にもツッコミどころ満載の大艦隊。物見遊山だったらこれで良いでしょうが、本当に戦いに行く気なのか?と言いたくなります。
 日露戦争でイギリスは中立を宣言しましたが、日英同盟に基づいて日本に協力する気満々でした。そもそも日英同盟は、ロシアを凍土地帯に封じ込めるためのものです。ロシアはスエズ運河を通過しようとしたらイギリスに公然と妨害されるかもしれない、と恐れ、主力はアフリカ回りとしました。それでなくても長い移動距離が、さらに延長されます。
 老朽艦は次々とあちこちが壊れ、新造艦は細かい調整がまだできていません。航海途中に戦闘訓練をしようとしても、搭載された弾薬は1回の実戦分しかなくて、実弾を使っての訓練がろくにできません。やる気のない提督、無能な士官、勇気と無謀を取り違えている船長、練度不足の水兵……これで勝て、と? 王宮では無責任な議論が繰り返されますが、皇帝はロジェーストヴェンスキーの忠誠を確信しています。ここだけがロジェーストヴェンスキーにとっての救いですね。
 フランスは、ロシアもイギリスもドイツも嫌いなのですが、最終的にロシアに制限付きで協力することにしましたが、イギリスを怒らせる気はありません。そこでしつこく情報を求めます。喜望峰を回るのか、それともホーン岬を回るのか、とか、どことどこに寄港するのか、とか。ところがこの情報は日本も欲しがっているわけで、ロジェーストヴェンスキーはそう簡単に情報を漏らす気はありません。しかしフランスを怒らせて「ならば協力しない」と言われるのも困る。そこに「日本海軍の水雷艇船団が北海で待ち伏せをしている」という噂が。それを信じたバルチック艦隊は、闇夜で漁をしているイギリス漁船団を水雷艇と勘違いして発砲、イギリスの世論は沸騰し、大英帝国海軍は戦闘準備を始めます(ドッガー・バンク事件)。海峡艦隊(19隻の戦闘力の高い軍艦)に加えて、地中海艦隊もジブラルタルに呼びよせたのです。ロシアでは「日本の水雷艇を撃退したことを、イギリスが政治的にねじ曲げて利用している」と激高します。すでにこのころから「フェイク・ニュース」とか「オルタナティブ・ファクト」は活用されていたんですね。イギリスとロシアの外交交渉がまとまるまで、艦隊はスペインに足止めとなります。おそらくこの「噂」は日本の諜報戦によるものだろう、と著者は推測をしています。
 南西アフリカのアングラ・ペケナで「203高地が日本軍に占領された」ニュースが艦隊に届きます。これはつまり、数日後には旅順が陥落することを意味しています。まだ艦隊は喜望峰も通過していないのに。
 スエズ運河を通過した支隊は、本隊よりも距離は短いはずなのにトラブル続き、士気は下がり続けます。あまりに士気が下がっていたため、マダガスカルで本隊と合流する前に赤道を越えるときの赤道祭さえ省略した、というのですから、これはもうすでに末期状態でしょう。
 マダガスカルで手に入れたイギリスの新聞には、「旅順陥落」と「ロシアで革命の動き」のニュースが載っていました。さらに「日本艦隊がバルチック艦隊迎撃のためにインド洋に進出」という“ニュース”も。本国からも悪いニュースが届きます。旅順陥落で泡を食った皇帝は、バルチック艦隊に「増遣艦隊」を送る、と決めたのです。艦隊の主力は、出発前にロジェーストヴェンスキーが受け取りを断固拒否した老朽艦ばかり。その到着をマダガスカルで待て、という命令です。熱射病などで水兵が少しずつ死んでいく状況で、ロジェーストヴェンスキーは増遣艦隊など待たずに出発することを願います。しかしそのためには皇帝の許可が必要です。しかし、マダガスカルとペテルブルクとの間の電報のやり取りのほとんどはイギリスが敷設した電線や海底ケーブルを通っていく、というのは、なんともやりにくかったことでしょうね。そのさなか、「血の日曜日」事件が起きます。革命がついに始まったのです。マダガスカルに無為に足止めされている艦隊では、軍紀は乱れ放題となります。そして、革命が身近に迫ってきた皇帝は、マダガスカルをすぐ発つか増援を待つかはロジェーストヴェンスキーの判断に任せる、と命令します。それだったら最初からそうしておけば良かったのにね。その間に東郷の艦隊は各艦の大修理が済んでしまったのですから。

 


o.1でも100倍したら10になる

2020-11-20 08:06:45 | Weblog

 政府は「万全の対策を立ててGoToをじゃんじゃんやれ」と言っています。ところで具体的に「万全の対策」って、何?
 「自助」の社会だそうですから、みんなが個人で頑張って「これまでよりも感染リスクを10分の1にする努力」をしたとしましょう。しかし、GoToで人がこれまでの100倍動き回ったら、結局トータルのリスクは「0.1×100=10」つまり「10倍」になります。ここまではあくまで理論上の話で、数字は仮置きですが、実際に「第三波」を見ていると、「皆はリスクを10分の1にはできていない」「それでもGoToでこれまでの10倍以上の人が動き回っている」の結果が厳然と出現しているように見えます。(もしも、陽性率・重要者数・病床使用数、などのグラフを見て何もわからない人がいたら、そういった人は脳ミソをほじくり出して糠味噌でも詰めておけば良い、と私は思います。どうせ同じことですから、と言うと糠味噌に「使わない脳味噌はただのデッドウエイトだが、糠味噌はぬか漬けなどで役に立つぞ」と反論されちゃうかな)
 政府は「人出を100倍にする」つもりなのだったら同時に「リスクを100分の1にする具体的な方策」も示すべきではないです? 「個人の努力に任せる」のではなくて。もしも「政府の中の人」の頭蓋骨に脳味噌が入っているのだったら、ですが。
 ところで、旅行や飲食以外に「回すべき日本経済」は存在しないのですか? なんでそこまで「GoToにだけ」固執するのかなあ。

【ただいま読書中】『日本海海戦 悲劇への航海 ──バルチック艦隊の最期(下)』コンスタンティン・プレシャコフ 著、 稲葉千晴 訳、 NHK出版、2010年、2100円(税別)

 「第二太平洋艦隊」は2箇月以上も足止めされたマダガスカルからインド洋を一気に横断して(というか、イギリス領のインドを避けたらどこにも寄れません)フランス領インドシナを目指します。シンガポール駐在のロシア領事は「艦隊を支援せよ」と命令されましたが、石炭貯蔵や食糧調達やスパイを雇うための予算も人員も十分な支給はありません。
 イギリスのスパイは「第二太平洋艦隊」がマダガスカルを出発した後まったく消息不明となったことで途方に暮れます。日本に向かっているのか、それともロシアに帰国しているのか、不明です。「第二太平洋艦隊」を支援せよと思いつきのような命令で急遽編制された「第三太平洋艦隊」もジブチで途方に暮れます。合流するべき「第二太平洋艦隊」がどこにいるのかわからないのですから。もうロシアの戦争体制はぐだぐだです。それでもロジェーストヴェンスキーは彼にできる最善を尽くします。少なくともシンガポール沖は、整然と隊列を崩さずに通過して、イギリス人たちに戦闘準備ができていることを見せつけました。世界の多くの人は、艦隊はマラッカ海峡を通過しないだろう、と予想していました。あまりに待ち伏せが容易だから、別のルートを選択するだろう、と。しかしその予想の裏をかいて、ロジェーストヴェンスキーはマラッカ海峡を通過。さらにもう一つ、世界の予想の裏をかこうとロジェーストヴェンスキーは画策しますが、それはアレクサーンドル三世号の間抜けな艦長の行動によって潰されてしまいました。いやもう、ロジェーストヴェンスキーがお気の毒です。もしこのときロジェーストヴェンスキーの大胆な作戦が発動できていたら、艦隊の主力はウラジオストクに到着することはできたかもしれません。
 カムラン湾でまたもや無為な日々。日本はフランスに対して「中立を守れ」とプレッシャー。しかしロジェーストヴェンスキーは「第三艦隊の到着を待て」の皇帝命令を無視できません。マダガスカルでクリスマスを過ごし、そしてインドシナでは復活祭。カレンダーはどんどん進みます。ウラジオストクまで一気に行けるように石炭が船室にまで詰め込まれ、士官は士官室に入ることができなくなります。熱帯の病気が蔓延し、士気はどんどん下がります。
 各国の専門家は「東郷が得意の丁字戦法を使うだろう」とすでに予想していました。連合艦隊は実践経験を既に積んでおり、さらに戦闘時に15ノットを出せます。バルチック艦隊も最新鋭艦は15ノットが出せますが、もっと遅い艦が多く含まれていて、艦隊行動をする場合には8ノットくらいとなります。さらに乗組員の練度と疲労度と士気の問題。それはロシアでも把握していたらしく、日本海海戦前の特別会議ではアレクセーイ大公は、艦隊決戦に負けるだけではなくてウラジオストクも失うのではないか、との危惧を表明していました。そして、会議に参加した他の大臣たちは沈黙。誰も反論をしなかったのです。好戦的だったのは、皇帝だけでした。
 増援の支隊がやっと合流、数だけは増えた艦隊(「第一」はもう壊滅しているのに「第二太平洋艦隊」、バルト海にいないのに「バルチック艦隊」)は、しずしずと日本海を目指します。東郷には信頼できる部下がいましたが、ロジェーストヴェンスキーは唯一の信頼できる司令官が航海途中に脳卒中で倒れて以来誰も頼れなくなっていました。
 足があまりに遅くもう用がなくなった輸送船6隻は艦隊から分離して上海へ、欺瞞工作として巡洋艦を日本の太平洋岸へ派遣、病院船だけはそれを明示するために船内灯をつけ他の艦船は灯火管制、とできる準備はおこなってから、艦隊は漆黒の対馬海峡に突入します。前日から急に静かになっていた日本軍の無線が急に再開されます。バルチック艦隊は発見されたのです。
 午前2時45分にバルチック艦隊を発見したのは、仮装巡洋艦信濃丸。クリスマスツリーのように輝く病院船の明かりを頼りに近づいて、おぼろげな船影を多数確認したのです。東郷は直ちに出陣しますが、即座に戦うのではなくて、バルチック艦隊を対馬海峡の一番狭いところに誘い込むことにします。ロジェーストヴェンスキーは連合艦隊の出方に応じて陣形を再編成しようとしますが、「無能な艦長」(3箇月前にロジェーストヴェンスキーが下した評価)が進路変更に失敗、バルチック艦隊の戦艦は変な陣形で突進することになってしまいます。
 大方の予想通り、東郷は丁字戦法を採用。ただしこれは、一定の位置ですべての艦船が向きを変えるからそこは絶好の射撃ポイントになってしまうのです。連合艦隊に同行したイギリスの観戦武官は「日本のやり方は最悪」と評しています。ロジェーストヴェンスキーは砲門を開きます。タイミングは最高、砲手の腕は拙劣。旗艦三笠の回りは砲弾によって激しく沸き立ちますが、最初の15分で命中弾はたった19発でした。ロシア艦隊が打ちはじめてから3分後、東郷は反撃を命令。戦艦と巡洋艦が手分けをして、獲物を狩り始めます。ロシア艦隊はまだ戦闘隊形が整わず、後方の艦は前方の味方が邪魔で砲門が開けないのです。さらに、ロシアの砲弾は徹甲弾ですが、日本の砲弾は新開発の下瀬火薬を詰め込んだ炸裂弾でした。ロシア艦の上は灼熱地獄になります。旗艦スヴォーロフ号は行動不能となりますが、砲手は砲撃をやめませんでした。ところが他の戦艦は、縦隊から離れ蛇行する旗艦に従順に従おうとします。もっともさすがにこれはまずい、とアレクサーンドル三世号が先導艦となって艦隊を率いますが、即座に集中攻撃をくらい、45分間で炎に包まれて縦列から離脱することになります。その次はボロディノー号で4時間保ちましたが大爆発。そして夕暮れがやって来ます。
 『ツシマ』というバルチック艦隊に水兵として参加していた人の本があります。これはあくまで「水兵からの記述」ですが、本書は「公文書」からのもので、両者を合わせ読むと「ロシアから見た日本海海戦」がより深く理解できるでしょう。

 


中華料理

2020-11-19 07:16:37 | Weblog

 日本だと「中華料理」で通じますが、中国では自国の歴史や伝統がある料理のことをなんと呼んでいるのかな?

【ただいま読書中】『横浜中華街 ──世界最強のチャイナタウン』田中健之 著、 中央公論新社(中公新書ラクレ323)、2009年、820円(税別)

 ペリーの「黒船」の2回目の来航には、首席通訳官としてサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズが同行していました。日本人漂流者を届けようとしたモリソン号に浦賀奉行所と薩摩藩が砲撃した「モリソン号事件」で、同船に乗り込んでいたウィリアムズは中国語やポルトガル語を学んでいてさらに船内で日本人から日本語も習得していたのです。ただ彼は庶民の口語は学びましたが、漢語は無理です。そこで通訳補佐として清国人の羅森が選ばれました。彼は英語が堪能で、もちろん漢文も書けるから日本の役人との交渉では役に立つだろう、という狙いでした。実際に交渉の場では「日本語 ー オランダ語 ー 英語」「日本語 ー 漢文 ー 英語」の二種類のルートが使われています。さらに重要なのは、羅森が「日本を、列強に食い物にされている清の二の舞にしてはならない」と考えていたことでしょう。そのためでしょう、和親条約が無事まとまったとき、「横浜で両国が会して、歓楽を共にす」という喜びの漢詩を読んでいます。羅森は太平天国で乱れた祖国について本を著しており、それを吉田松陰は獄中で和訳しています。羅森は帰国後『日本日記』を出版、それを読んだ清国人が新しい開港地の箱館や横浜などに続々来日しました。ちなみに、この時箱館に持ち込まれた養和軒の広東風「ラーメン」(さっぱり味)が函館塩ラーメンのルーツではないか、と著者は推測をしています。
 華僑には「帰葬」(亡骸を中国の故郷に送り届けて葬ってもらう)という風習があります。日本でもそれは行われていましたが、関東大震災で大量の死者が出て船が出しにくくなり、さらに日華事変によって完全に中断してしまいました。
 横浜に最初にやって来た清国人の多くは、欧米商人の「買弁(通訳や交渉をする役目)」でした。ただし「使用人」というよりは、契約に基づく独立商人としての性格が強かったようです。清国は「条約」を結んでいないから「外国人」として正式な商活動はできないはずなので、「欧米人の雇用」を隠れ蓑として活用していたのでしょう。これなら外国人居留地にも住めますから。特に彼らが集まっていたのが、130番地から160番地で、ここが「唐人街」と呼ばれ、やがて南京町と呼ばれるようになり、のちに横浜中華街となります。なお孫文が日本人女性薫と結婚して住んでいたのは居留地121番地(のちの山下町121番地)だそうです。
 関東大震災で横浜は大きな被害を受けました。南京町では建物は軒並み圧壊・炎上し「在留した支那人四千人中約半数の死者を出すに至った」(内務省)「5721人中1700人が犠牲になった」(中華民国総領事館)と記録されています。関東大震災直後に朝鮮人が虐殺されたことは有名ですが、中国人もまた標的とされました。中国政府に対して日本政府は「虐殺の事実はない」としましたが、実際には中華街を警護するために陸軍部隊が派遣されています。
 震災から復興した横浜中華街は賑わいを取り戻します。しかし日華事変が。中国人は「敵国人」となってしまいます。中国国民党の横浜支部は解散、1904年(明治三十七年)に制定されてから一度も発動されたことがなかった「支那人労働者取締規則」が1939年に発動され、華僑の行動制限が始まります。ところが「日本語も中国語(北京官話だけではなくて広東語や上海語)もわかる人」は貴重な人材です。そこで横浜中華街から警察に強制徴用されて香港や上海の税関で働かされたのは21人、その内生きて横浜に帰れたのは3人だけだったそうです。大陸から日本への強制徴用は知っていましたが、日本から大陸への強制徴用もあったんですね。そして、1945年5月の横浜大空襲で、中華街も壊滅します。
 戦後中華街は、町全体が闇市のような状態となって復興しました。なにしろ「戦勝国民」ですから日本人に課せられた流通に関する厳しい規制も無関係、物品販売などはやりたい放題だったのです。日本の警察は手を出せない「治外法権地帯」で治安は悪化、中華マフィアも麻薬密売などを始めます。
 ベトナム戦争の時代には、米兵が町に溢れ、やはり治安は悪化。これでは良くない、と中華街は明るく健全な街になろうと努力をします。共産党と国民党が対立すると、その対立は中華街にも持ち込まれました。文化街革命の時には「紅衛兵」が横浜中華街を練り歩き、暴力沙汰が横行しました。さらに日中国交正常化によって、中華民国籍の人たちは「日本から国外追放されるかもしれない」という不安を抱きます。しかし少しずつ「中国」と「台湾」の平和共存が実現していきます。
 私にとって横浜中華街はレストラン街ですが、中華街がそれを目指して発展してきたわけではないことが本書でよくわかりました。ただ「日本の中華料理」は実によいものだと思うので中華街のこの面は未来につないでいってもらいたいと願います。