【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

だしの素

2019-05-31 07:50:32 | Weblog

 我が家にあるだしの材料は、昆布(利尻と羅臼が現時点ではあるはず)、鰹節、干し椎茸、いりこ(カタクチイワシの煮干し)くらいかな。そういえばこの前家内が、旬のアスパラガスの皮を茹でてそのだしでスープをこしらえてくれましたが、これも「だしの素」と言って良いでしょうか? 保存は利きませんが。

【ただいま読書中】『宗達 だし噺』小山鐘平 著、 ゆめメディア、2014年、1000円(税別)

 本書は皮肉で始まります。「イノシン酸やグルタミン酸の量が科学的に多いこと」が「美味さ」なのだったらインスタントラーメンがこの世で最高の美食になる、とか、だしをきちんと引けない人が「あの店のミシュランの星がどうのこうの」と言っている、とか。
 そういえば「○○を丸ごと粉砕して美味さを全て引き出した」なんて宣伝をテレビで見ることがありますが、著者は「昆布を粉砕したものとまともにだしを引いたものとでは、美味さの点で後者の方がはるかに勝る。味わったらすぐわかる」と断言します。私はそういう実験をしたことがありませんが、たしかに「おぼろ昆布の味」と「きちんとひいた昆布だしの味」は別のものですね。栄養的には全部食べた方が勝るのでしょうが美味さはそれとは別のものなのでしょう。
 昆布には天然物と養殖物があり、だし昆布は「真昆布」「利尻」「羅臼」でそれぞれに特徴があるのでだしのひき方や水や用途を違える必要があるそうです。すると、我が家に利尻と羅臼があるのは“正しい"ということに? うちの奥さん、すごいなあ。だしよりも食用としては「日高」「なが」「細目」などで、おでんのネタなどに向いているそうです。
 鰹節に向いたカツオは、日本近海の脂がのったものではなくて、南洋の脂がのっていないものの方だそうです。昆布は乾燥・熟成に天然物なら1年くらいかけるそうですが、鰹節も手間がかかります。三枚におろして煮て燻して乾燥、3週間で「荒節」が完成。これにカビづけして天日干し、を半年くり返して「枯節」が完成します。
 水も重要です。著者は「軟水(それもノルウェーのミネラルウォーター)」を推奨しています。そういえばこの前は、pHがちょっと違う水で家内が豆を煮たら色合いが全然違っていて驚きましたが、水もまた料理では重要なんですね。
 本書は、著者が販売しているだしパックの宣伝も兼ねているようですが、我が家ではパックは不要なのでそこは読み飛ばしました。失礼。



宇宙は重力波に満ちている

2019-05-30 07:08:25 | Weblog

 重力は弱い力のくせにしぶとくて、宇宙の反対側からの重力波であっても理論上は観測可能だそうです。ということは、宇宙は重力波に満ちていることになります。するとその重力波が宇宙の構造そのものに影響を与えている、なんてことはないのでしょうか。だけど宇宙の構造が変化したらそれはまた重力波に影響を与えますよね。あれれ?

【ただいま読書中】『重力波・ブラックホール ──一般相対論のいま』(別冊日経サイエンス215)日経サイエンス編集部 編、日経サイエンス社、2016年、2000円(税別)

 1916年アインシュタインは「重力波」の存在を予言しました。しかしその考えはなかなか受け入れられず、というか、アインシュタイン自身が自分の予言に懐疑的で1936年には「計算をし直したら重力波は存在しないことになった」と論文を書いてしまいました。もっともその計算が間違っていたので(アインシュタインが数学を苦手にしていることは有名です)最初の予言は生き続けることになりました。物理学者が重力波の存在を受け入れるきっかけになったのは1957年リチャード・ファインマンの講演によってです。しかし実際に重力波が直接観測されたのは2015年のことでした。理論が受け入れられるのに40年、証拠が直接確認されるのに100年もかかったわけです。(ただし1970年代に連星の公転周期が短くなっていくこと、およびそれがアインシュタインの「予言」の計算通りであることを観測したラッセル・ハルスとジョセフ・テイラーの報告が重力波の最初の「間接的検証」で、ふたりは93年にノーベル賞を受賞しています)
 観測に使われたのはLIGOという重力波望遠鏡。発見されたのは14億光年先に存在するブラックホール連星ですが、一つずつは太陽の30倍くらいの質量のブラックホールで、お互いの回りを1秒間に100回も回転しながら合体するときに発生した重力波だというのです。ほとんどの研究者は、発見できるとしたら銀河ではわりと多く存在する中性子連星からのものだろう、と予測していたので、大ハズレです。ただ、ブラックホールからの強烈な重力波だったからこそ、背景の雑音に埋もれずに明確に認識できたわけですが。
 日本でも、本書出版時に「KAGRA」という重力波望遠鏡が建設中です。これが完成し、アメリカの二つのLIGOおよびヨーロッパの「Virgo」とネットワーク(「地球サイズの望遠鏡」)を組めば、宇宙観測は新しいステージに突入すると期待されています。
 LIGOによって物質の加速運動による重力波が観測されたことにより、「もう一つの重力波」も注目されています。ビッグバンで宇宙が誕生した直後、インフレーションで爆発的に急速に膨張したときの「原始重力波」の検出です。宇宙誕生から38万年後に放出された宇宙マイクロ波背景放射は全天から地球にやって来ますが、原始重力波によって「Bモード偏光」という渦巻き状のパターンが検出できるはずだそうです。
 本書では「ビッグバン」について面白い仮説が紹介されています。この宇宙のビッグバンは、4次元宇宙でブラックホールが形成されたことが3次元宇宙で「影」(「プラトンの洞窟」の「影」と同じようなもの)として投影されてそれを私たちは「ビッグバン」と認識している、というのです。私は、ビッグバンの「裸の特異点」が、異質なブラックホールの蒸発ではないか、なんてことを思ったことがありますが、4次元ですか。ところで、その4次元宇宙はどこ(何)から始まったんでしょう?
 重力波の研究がビッグバンの研究を加速させ、そこに一般相対性理論が“現役"としてしっかり仕事をしているのには、一種の感慨を覚えます。アインシュタインはやはり偉大だなあ。なお、本書の後半では、アインシュタインに対するオマージュや彼の欠点も含めての業績の再検討が述べられています。アインシュタインはかつては「理解されない天才」扱いでしたが、やっと時代が彼に追いついて「理解されきちんと検証される人」になったのかもしれません。



全国区の人気

2019-05-29 06:49:53 | Weblog

 広島カープの野球中継を見て驚くのは、広島のマツダ球場の客席が全面真っ赤のカープカラーに染まっているのは当然として、全国どこの球場でも三塁側からレフト側の客席が真っ赤になっていることです。普通「ホーム」では地元のファンが球場を埋め尽くすものじゃないです?
 かつて讀賣ジャイアンツは「人気は全国区」と言っていましたが、それはテレビの野球中継がジャイアンツ戦しかなかったからで、ずっとジャイアンツの選手ばかり観ていたらそこのファンになるのは当然、ということの結果だったのでしょう。しかし今の広島カープの人気は、それとはずいぶん異質なもののように私には感じられます。特定のマスコミのバックアップもありませんし、「王・長島」のような「全国区」の人気者がいるわけでもありません。さらに、強いから人気がある、ではなくて、強くなる前(3連覇をする前の弱い時代)から「全国区の人気」は始まっていました。この現象はいったい何なんでしょうねえ。
 ちなみに私も広島カープの試合を観に行きたいとは思うのですが、マツダ球場はどうみても空きがないので、他の球場に潜り込もうか、なんてことは思っています。出張なんかがうまく絡んでくれたらいいんですけどね。もちろん「赤」は着ません。「アウェイ」だし私に赤は似合いませんし。

【ただいま読書中】『ノートル・ダム・ド・パリ(下)』ユゴー 著、 辻昶・松下和則 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1957年、120円

 人は変わります。信仰が僧服を着ているようだったクロードは、恋を知りますがその熱情を扱いかねて実に不適切な行動に走ってしまいます。クロードに絶対服従だったカジモドは「自分の意志」で行動するようになります。
 ただ、変わらない人もいます。たとえば軽薄で考えなしで女たらしのフェビュスは刺された後も相変わらずです。
 ユゴーは「変わる人」と「変わらない人」を対比させるために、これだけ大勢の「名前のある登場人物」をこしらえたのかもしれません。
 そして、ユゴーは「変わらない人」で構成された社会が「変わる」ためには、個人が少しずつでも「変わる」必要がある、と言いたかったのかもしれない、と私は感じています。本書で群集が登場するシーンを読むと、現代のインターネットで「炎上」している場面を読むのとよく似ている、と感じることがあります。もしかしたら人の本質はそれほど変わっていないのかもしれません。それでも少しでもよい方向に向かうためには、単に流されるのではなくて、「宿命」という言葉で思考停止するのではなくて、自分で何かできることをしなければ、と本書を読みながら私は思います。
 最後のシーンもまた、ずいぶん「映画的」です。それも特撮が必要です。ユゴーはすごいや。



親不孝者は好まれない

2019-05-28 07:16:23 | Weblog

 親の言うことに逆らうのは親不孝。すると、「セックスするぞ」と父親に言われたら、いそいそとパンツを脱いで大股を広げる娘が、親孝行者ということになります。日本の裁判官は、そういう「父親に抵抗しない」娘がお好みのようですが。

【ただいま読書中】『ノートル・ダム・ド・パリ(中)』ユゴー 著、 辻昶・松下和則 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1957年、120円

 ノートル・ダム寺院の高みからはパリがよく見えます。しかしその見方は「鳥の目」「神の目」「人間の目」によって様々。理性と信仰の人であるクロード・フロロと彼を養父と慕う鐘つき男のカジモドは、同じ場所から同じ「パリ」を見ても、見えるものは全く違います。もっともカジモドは音が聞こえず片目は潰れているので、彼がどんな風に「世界」を認識しているのかは想像するしかありませんが。
 古代から中世に「自由思想」を文字にするのは身の危険があったから、それらは「建築物」として表現された、という不思議な考察が突然登場します。そして「印刷」が登場することによって思想は「普及」という武器を手に入れ、破壊しづらいものになった、とも。本書は思索小説になっちゃいました?
 遊女を襲い憲兵に抵抗した罪でカジモドは裁判にかけられます。まるで茶番の裁判で、裁判官が徹底的な風刺の対象となっていますが、ともかくカジモドは鞭打ちと晒し刑の判決を受けてしまいます。さあ、パリの民衆には「お楽しみ」の始まりです。この頃には死刑でさえ皆が集まって楽しむ娯楽でしたからね。鞭の痛みとさらし者になった屈辱、拘束されたまま炎天下でからからになっていくのど。おいおい、これはイエス・キリストの磔刑の再現か? カジモドは“救世主"を求めます。驢馬に乗ったクロード・フロロ猊下が登場しましたが、カジモドに近づいたところで気後れしたのかさっさと退場。その代わりに登場したのが、聖母マリア、じゃなかった、エスメラルダです。カジモドが襲った女性が、ひょうたんの水をカジモドに与えます。エスメラルダは「他人の苦痛」を放置できないタイプのようです。しかし「ジプシーの娘」というだけで、彼女は嘲られます。
 ノートル・ダム寺院の高みから、クロード・フロロはじっと眼下を見つめています。彼が見ているのは「パリ」ではありません。広場で踊るジプシーの踊り子です。彼は「神の目」ではなくて「人間の目」それも「欲望の目」を使っているのです。そしてクロードは石壁に「宿命」というギリシャ語を彫ります。
 広場で踊るエスメラルダが目障りな人たちは、彼女の踊りは魔術だから彼女は魔女だ。彼女が連れている山羊がおこなう大道芸は魔術だから彼女は魔女だ。だから彼女には死刑がふさわしい、と考えます。クロードはその情報を得て考え込みます。
 エスメラルダは憲兵のフェビュス隊長にぞっこんです。フェビュスもエスメラルダを憎からず思っていますが、彼は浮気者で他にも女がいます。そしてクロードは二人の逢い引きの部屋に潜り込んでしまいます。一体何を考えているんだ? 聖職者でしょ? そして、エスメラルダの眼前でフェビュスは短剣で刺されてしまいます。
 そしてまた裁判(あるいは茶番)が始まります。被告として引っ張り出されたのは、エスメラルダと彼女の山羊。山羊はさっさと“白状"しますが、白状しないエスメラルダは拷問にかけられ、すらすらと「自白」してしまいます。さて、これで「有罪」が確定しました。死刑前夜、牢獄を訪れた僧の顔を見てエスメラルダは驚きます。ずっと広場で自分をつけ回し、フェビュスとの逢い引きの部屋に乱入してきた僧ではありませんか。彼(クロード)はエスメラルダに告白します。自分の恋心を。自分の苦しさを。自分の行為の正しさを。そして、自分のものになるのなら牢獄から救い出してやる、という提案と、自分をお前は憐れむべきだという要求も。
 悪質なストーカーですね。中世にもストーカーがいたんだ。
 死刑執行に向かっていく行列。そこにロープを巧みに使ったカジモドが乱入してエスメラルダを奪い取り、ノートル・ダム寺院に飛び込むと「避難所だぞ」と叫びます。群集も「避難所だ!避難所だ!」と喜んで叫びます。普段とは違う娯楽を見ることができて、大喜びなのです。当時のノートル・ダムの大伽藍は、一種の治外法権で、司直の手は及ばない領域とされていました。江戸時代の町奉行は寺院には入れなかったのと、発想がちょっと似ているかな。キリスト教世界では「俗」は「聖」を侵してはならないのでしょう。しかしこの救出劇のシーンはわずか数行ですが、まるでアクション映画のように頭の中に「映像」がむくむくと立ち上がります。著者は「小説の展覧会」だけではなくて「映画」も本書に取り入れているようです。
 自然界の最下層の男が、社会的に最下層の女(それも死刑囚)を公然と聖域にかくまう。これって、「上の人」には耐えられないことでしょうね。
 そうそう、エスメラルダは茫然としていますが、もう少ししたら、死刑から救われたことの喜びと同時に“ここ"がストーカーのクロードの“領域"でもあることに気づいてまた混乱するはずです。
 蛇足ですが、本書の中ほどで「エスメラルダ」が「スメラルダ」になっている部分が数カ所あります。単なる誤植か、ふたりの翻訳者の連絡不足か、原文がそうなっているのか……



火事のニュース

2019-05-27 06:42:14 | Weblog

 「ノートルダム大聖堂が火事」のニュースを見たとき、私は「『ノートル・ダム・ド・パリ』を読まなければ」と瞬時に思いました。これは天啓?それとも宿命?

【ただいま読書中】『ノートル・ダム・ド・パリ(上)』ユゴー 著、 辻昶・松下和則 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1956年、120円

 著者がノートル・ダム寺院を探索したときに「宿命」と石壁に深く刻まれた文字を見つけたことが、本書を書く動機になった、と前書きにあります。もっともその文字は、のちに補修(あるいは破壊)によって失われてしまったそうで、どこにあるのかの確認は誰にもできません。もしかしたら、本書を執筆した後になって、その“意味づけ"のためにその「宿命」を“発見(と喪失)"をしたのではないか、なんてことも私は思いますが、まあ、素直に読んだ方が良いですよね。
 1482年1月6日、パリで公現祭と道化祭とが開催される日、パリ裁判所の広間では恒例の「聖史劇」が開幕しようと(あるいはその邪魔をされようと)していました。ここで著者は「群集」を丹念に描写します。描写するのは良いのですが、あまりに多くの「名前」が登場するものですから、75ページ読む頃には私はもう“お腹いっぱい"となってしまいます。人々は騒ぎヤジを飛ばし威嚇し、ネットでの「炎上」を現実世界で演じているようです。
 「カジモド」が登場。顔だけではなくて全身で“しかめ面"をしているような、ノートル・ダム寺院の鐘つき男です。そして「エスメラルダ」。美の化身のようなジプシーの踊り子。いやあ、「美女と野獣」ですね。
 劇を滅茶苦茶にされてしまった劇作家グランゴワールは、エスメラルダの後を追いかけています。彼の肉体は空腹を訴えていますが、彼の魂は別のものを訴えているようです。エスメラルダはカジモド(と謎の相棒)に襲われ、グランゴワールはカジモドに殴り飛ばされてしまいます。美女の窮地を救ったのは王室親衛隊長のフェビュス大尉。エスメラルダは命の恩人で格好良いフェビュスに一目惚れをしてしまいます。劇的な展開の恋愛小説です。
 ここで「カジモドの謎の相棒」は誰か?という謎が読者に提示されます。19世紀のサスペンス小説ですね。
 パリの夜をさ迷っていたグランゴワールは「奇蹟御殿」に迷い込んでしまいます。パリ社会の陰部、罪人や物乞いや浮浪者たちが集結する悪の巣です。そんなところによそ者が侵入して、ただですむわけがありません。グランゴワールは死刑を宣告されてしまいます。ただし、誰か奇蹟御殿に住む女性が「あいつが欲しい」と言ってくれた場合は、死刑は執行猶予。しかし、梅干し婆でさえグランゴワールを欲しがりません。いよいよ死刑執行か。そこにふらりと登場したのがエスメラルダ。同情から「あたし、この人を亭主にするよ」と言ってくれます。グランゴワールは地獄から天国に登る気です。
 いやもう、この辺の一幕は、喜劇そのものです。「新婚夫婦のお床入り」も喜劇の一場面。
 そこから著者は「350年前のノートル・ダム寺院の荘厳さと当時のパリ市街の様子」について細かく描写を始めます。19世紀のフランス人が350年前のパリを振り返るのは、明治の東京人が江戸時代初期の江戸について述べるような感じかな。ここでは「パリの歴史」が小説の主人公となります。
 「宿命」についての物語、という宣言があったはずですが、本書は様々なジャンルの「物語」が次々登場して「小説の博覧会」の様相です。というか、この頃にはまだ「小説のジャンル」がきちんと確定していなくて、著者は「確定しない領域」を自身の才能だけを頼りに好き放題開拓しているのかもしれません。
 いやあ、楽しい「小説」です。
 本巻の最後で著者は急に16年時間を遡ります。その直前にパリの数百年の歴史について悠々と述べていたから「16年」くらい簡単だろ、と言わんばかりに。そこで鐘つき男カジモドの悲しい身の上が縷々語られます。怪物のような奇形の捨て子を、若い僧クロード・フロロが拾って育て、そしてノートル・ダム寺院の鐘つき男にしたのです。フロロはキリスト教信仰が体内に結晶となっていて、そこに手足が生えているような存在でした。「魔法使いの子供」とか「化け物」と呼ばれるカジモドとは対極の存在です。さて、これで「役者」はそろったようです。



球体上の二地点の距離

2019-05-26 06:57:53 | Weblog

 「地球の反対側の○○まで1万6000km」なんて言い方をする場合がありますが、この「距離」は、(地球を貫く)直線距離? 地表を這った場合の地図上の最短距離? 航空機を乗り継いだ場合の実際に体が動いた移動距離?

【ただいま読書中】『季節の救急』山本基佳 著、 日本医事新報社、2018年、5000円(税別)

 私が住む地域では、10年前に比べて救急車のサイレンが鳴り響くことが明らかに増えています。10年前には年に数回だったのが、最近は数日に1回は確実にサイレンを聞きます。おそらく地域の高齢化が順調に進んでいるのでしょう。もちろんどこの誰が何で救急事態になったのかはわかりません。ただ、季節によってその中身にある程度の傾向があるだろうことは想像ができます。たとえば冬だったら脳卒中が多い、とか。本書はそういった「季節の救急(通称「キセキュー」と言うそうです)」について特化した本です。
 ぱらりとめくると、たしかに「季節を感じる」ものが並んでいます。たとえば「春」だと「アルコール中毒(送別会、歓迎会、花見、新入生に一気飲みの強制など)」「ハチ刺され」、夏だと「熱中症」「高山病」「溺水」、秋は「ぎんなん中毒」「キノコ中毒」、冬は「低体温症」「一酸化炭素中毒」「フグ中毒」などなど。ただ、必ずしも「季節ネタ」ではなさそうなものもあります。たとえば「ハチミツ」「サバアレルギー」「火事場からの搬送」などは通年性じゃないかな。
 そうそう、上記に「搬送」とあったことからわかるように、本書は「救急を受ける医療者」を対象として書かれているようです。ただ、一般人が読んでも役に立つことが実に多く含まれています。たとえば「ハチミツ」のボツリヌス毒素は有名ですが、ツツジ科の植物からのハチミツ(主に輸入物)によるグラヤノトキシン中毒なんて知りませんでした。これはつまり、ハチミツを食べた後にショック症状になったら医者に行ったときに「輸入物のハチミツを食べました」とかこちらから申告した方が診断や治療が早くなる、ということになります。言わなきゃ医者は絶対わかんないよね。そうそう、あしらいのアジサイの葉っぱを青じそと間違えて食べたら中毒になるそうです。これはニュースで聞いた覚えがありますが、きれいに忘れていました。食物関係では「柿」が腸閉塞をよく起こすことで知られています。「柿が赤くなると医者が青くなる」なんて諺がありますが、柿の実は必ずしも「万能の健康食」ではないようです。お好きな人も、ほどほどに。そういえば「柿の腸閉塞」の前の項が「柿の木からの転落」。これは昔から広く知られているはずですが、柿の木は堅いけれどもろくて登ると枝が折れやすいのです。実は私の父親も子供時代に柿の実を取ろうと登って枝が折れて見事に転落。下が石垣で、頭に大怪我をしています。いやあ、死なないでくれてよかった。父が柿に殺されていたら、私はここに存在していません。



理解

2019-05-25 06:36:19 | Weblog

 電車などで、説明が下手な人間と理解が下手な人間とが話をしているのを聞いていると、こちらが勝手に絶望的な気分になることがあります。というか、複数の人間の間で「理解」が成立しているって、実はすごいことなんですね。

【ただいま読書中】『俺たちに明日はない』デビッド・ニューマン 著、 三谷茉沙夫 訳、 二見書房、1973年(74年4刷)、800円

 アメリカが禁酒法と大量の失業者で暗かった時代、刑務所から出たばかりの小悪党のクライド・バローと、しがないウェートレスのボニー・パーカーが出会い、ふたりはまるで遊びのように強盗を始めてしまいます。そこに、自動車に詳しい少年モスとクライドの兄夫婦(バックとブランチ)も加わります。クライドは銀行強盗で殺人を犯したためほとぼりを冷まそう潜伏しましたが、それをヤミ酒業者が隠れていると勘違いした警察が無雑作に襲撃、激しい銃撃戦となり警官がふたり死亡。「バロー・ギャング」は悪名を全米にとどろかせることになってしまいました。
 本書でふたりは「新しい人生」を夢見続けています。だけどやっているのは、強盗と銃撃戦と逃走。新聞はそれを面白おかしく書き立て、彼らがやっていない銀行強盗も「バロー・ギャングの仕業」とでっち上げ、彼らの人生についてもいろいろでっち上げます。そして大衆は、「バロー・ギャング」を英雄視し始めます。当然警察は苛立ち、血眼で彼らの足取りを追います。地元で巨大な悪事に従事している大物は放置して。
 時代に希望があったら、「取りあえず悪事」ではなくて別の選択肢もあったでしょう。だけど「個人の努力」がまったく無意味の感じられる時代には、悪に転落するのは容易で、転落しない人もチンピラギャングを非難あるいは喝采することで「自分もああなったかもしれない。だけどならなかった」という安心感を得ていたのかもしれません。
 これは1世紀近く前の話ですが、現代も閉塞感が漂っているように私には感じられます。すると、また第二第三の「ボニーとクライド」が登場するのかもしれません。もちろん「個人の罪」は「個人の罪」ですが、それを“後押し"する社会は「無実」なのかな?



ダムの底

2019-05-24 06:43:31 | Weblog

 渇水でダムの底が露わに、というニュースが時々あります。
 ところで「長年使っているダムの底」にはヘドロが大量にたまっているはず。せっかくのチャンスですから、渇水期には底をさらっておいたらどうでしょう。ついでにダム本体のチェックもしておく。そうしたらそのダムが延命できます。

【ただいま読書中】『お家相続 ──大名家の苦闘』大森映子 著、 吉川弘文館、2018年、2200円(税別)

 徳川家は相続に苦労していて、15代で「実子」相続だったのは少数派だった、は有名な話ですが、それは他の大名家でも同様で、江戸時代を通して実子だけで相続できた家は皆無だそうです。そこで「養子」を立てることになりますが、問題は物忌(忌日五十日、服喪十三箇月)の間にその養子が急死した場合です。大名は死亡・まだ大名になっていない後継者も不在となるのですから、幕府は「その家は断絶」とできるのです。それでも「養子の養子」を立てることができればいいのですが、そこで立ちはだかるのが「十七歳の壁」です。「死亡した養子(候補者)」が十七歳未満の場合には「その養子」が認められない規定だったのです。もちろん幕府は「何が何でも駄目」ではなくて、温情で認める場合もありましたが、「断絶」の例もあります。ついでですが「五十歳の壁」もあります。大名が五十歳以上で死亡して後継者が定まっていない場合「五十にもなって後継者問題をきちんとしていないのは、武士の不覚悟」と「断絶」なのです。そこで、幕府に対する「丈夫届け(出生後ある程度育ったところで幕府に「我が家にはこんな男子が後継者候補として存在します」と届ける)」で年齢詐称が横行しました。これは、幕府に保存された届けの書類と藩内に残された文書を突き合わせたらすぐわかることです(著者はその調査で「年齢のずれ」を発見したそうです)。また、幕府は慶安四年(1651)から「急養子(臨終間近になって養子を指名すること)」を認めるようになり、そのおかげで「無嗣断絶」は減ることになります。もっとも「急養子願書」は「当主が生きていること」「願書作成には幕府の役人(大目付や幕府医(幕府から扶持を与えられている医師)の立ち会いが必要」という縛りがかかっていました。さらに「懐妊中の女性がいない」という証明書の添付も必要です(あとになって「実子」が生まれてお家騒動が起きない、という幕府に対する保証です)。
 ところが、実際には当主が死亡後にこの「願書」が作られることが多く、それで話がややこしくなります。なぜなら「急養子願書」を作成できるのは「当主のみ」なのですから。そこで様々なテクニックが弄されることになります(もっとも、幕府も事情はわかっていて“グル"なのですが)。そして、幕府によって願が受理されて数日後に「当主の死亡届」が出されることになります。
 また、江戸屋敷で重病になったのだったら大目付や幕府医を呼べますが、国元の場合には困ります。そこで大名や旗本は江戸を離れるときには「仮養子」を届けておくことにしました。一種の「保険」ですね。たとえ「仮」でも後継者として指名された事実は重く、指名者をころころ変更することなどは許されませんでした。
 しかし、幕府への届け書いた文面が最優先ですから、大名家の系譜では、年齢詐称などかわいいもので、長男と次男が入れ替えられたり、系図から抹消される者がいたり、あきらかに「現実」よりも「文書の整合性」の方が優先されています。さすが江戸時代、と言おうとして、実は現代日本でも官僚の文書で似たようなことがありましたっけ。「日本人の体質」は「伝統芸」としてしっかり保存されているようです。
 「家制度」は「個人>家」の制度、と私は理解していましたが、私が見聞した程度の「田舎のイエでの相続問題」などをはるかに超越したトンデモ世界がここにありました。



移民

2019-05-23 06:58:29 | Weblog

 私が小学生のときには教科書で「帰化人」、今は「渡来人」と呼ばれている人たちは、つまりは「移民(または難民)」です。もっとも彼らをそう呼んでいた「土着民」も元を正せばどこからかの「移民(または難民)」だったはず。
 日本に生命が自然発生したのだったら、話は別ですが。

【ただいま読書中】『世界史を「移民」で読み解く』玉木俊明 著、 NHK出版新書575、2019年、780円(税別)

 ユーラシア大陸は「移民」の大陸でした。もっと厳密に言えば「遊牧民」ですが。中国の五胡十六国の時代(西暦4〜5世紀)には、遊牧民が大暴れをしていて、その影響か日本に対して多くの移民が発生しました。同時にユーラシア大陸の西方では、ゲルマン民族の大移動が起きています。モンゴル帝国もまた「遊牧民の帝国」ですが、数多くの「移民」を発生させました。モンゴル帝国による東西交流の活性化は、人だけではなくて別のもの(たとえば黒死病の大流行)ももたらしてしまいました。
 ヴァイキングは「海賊」「略奪者」だけではなくて「移民」でもありました。本書にはノルマン人が海路・陸路を使って移動していった地図が示されていますが、西はグリーンランド(さらには北米)から東はトルコあたりまで、実に広範に居住地を拡大させています。
 日本人も古くから移民をしています。ポルトガル人が日本にやって来た頃、「南洋日本人町」が東南アジアの各地にできました。そこで活躍した中での有名人はシャムの山田長政ですが、彼以外にも多くの商人や武士が新天地を求めて移住をしています。秀吉は「新天地」を武力で求めて朝鮮半島の侵略をしましたが、武力以外での進出を考えた方が実はよかった、ということなのでしょう。政権による「管理」は難しいですけれど。
 カリブ海の砂糖貿易は奴隷制に支えられていましたが、そこにユダヤ人が絡んでいます。旧大陸で弾圧されていたユダヤ人は新天地を求めて新大陸に渡りました。特に15世紀末にイベリア半島を追放されたユダヤ人(セファルディム)はオランダで貿易に従事し、さらにカリブ海に砂糖を普及させました。その結果は「ユダヤ人の奴隷所有者」という悪評でしたが。追放者と奴隷が「砂糖革命」に寄与していたのです。
 著者はスコットランド人にも注目しています。彼らは大英帝国内だけではなくてその外(たとえば極東)にも移民をしていました。スコットランド人に限らず、ヨーロッパ人は大量に植民地に渡りました。個々には個々の事情があったでしょうが、その結果「世界」が塗り替えられていきました。1900年の植民地世界地図が掲載されていますが、アフリカはまだ「空白の大陸」でアジアもまだ無事。しかし新大陸やオーストラリアはべったり色を塗られています。そしてここからアフリカやアジアが次々植民地になっていくわけです。そして、こういった「ヨーロッパの帝国主義」で構築された「人が移動する道」が“逆流"したのが現在の「難民問題」だ、と著者は述べます。「道」は両方向に人が移動可能なのです。ということは、「難民問題」はかつてヨーロッパが植民地を盛んに“経営"していたことが今頃になって「負の遺産」を花開かせているのかもしれません。



表現の自由と賛否両論

2019-05-22 08:03:49 | Weblog

 賛否両論があるからこそ、表現の自由が重要になります。
 たとえば「あなたが莫迦であるかどうか」について賛否両論がある場合には「あんた、莫迦ぁ?」を疑問形として示すことができますが、「あなたは莫迦である」が確定の場合には「あんた、莫迦ぁ?」なんてことを言うことはまったく意味がなくなります。

【ただいま読書中】『チキンラーメンの女房 ──実録安藤仁子』安藤百福発明記念館 編、中央公論新社、2018年、1200円(税別)

 NHKの朝ドラ「まんぷく」の原作かと思ったら、2018年9月初版です。するとドラマ人気にあやかっての出版かな。本書のネタは、安藤仁子さんが残した2007年(安藤百福さんが亡くなった年)の手帳で、それまでほとんどの人が知らなかった彼女の人生(の特に前半部)についてのメモが書かれていたのだそうです。
 ドラマで印象的だった「私は武士の娘です」とか「馬に乗って求婚に来る歯科医」などが実話だったことに私は小さく驚きます。また、チキンラーメンが日本で発売される前に、試しに食べたアメリカ人が気に入って注文を出してきたため、輸出の方が先行していた、というのは知りませんでした。
 安藤百福は、アメリカ視察で「アメリカ人が麺を食べるのに、丼も箸も使用しない(かわりにチキンラーメンを二つに折って紙コップに突っ込んでお湯を注ぎ、フォークで食べる)」ことに気がつき、5年かけてカップヌードルを開発しました。「高すぎる」「立ったまま食べるとは日本人の公序良俗に反する」などの反対意見で最初は売れませんでしたが、銀座の歩行者天国で若者に受け、浅間山荘事件では機動隊員が雪の中で美味しそうに食べているテレビの画面から人気に火がつきました。
 「自由気ままに振る舞う男を支える古風な女」の像のようにも見えますが、この男は「日本の伝統」を次々破壊しているわけで、安藤仁子さんはその“共犯"です。「日本の伝統」とか「公序良俗」とかの言い分からは完全にはみ出た存在なんじゃないです? まあ、そのおかげで私はインスタントラーメンやカップラーメンにいろいろ助けられてきたわけですが。