【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

エネルギー

2020-03-31 06:46:12 | Weblog

 「エネルギー」って、日本語ではなんと言うんでしたっけ?

【ただいま読書中】『エネルギーの科学史』小山慶太 著、 河出書房新社、2012年、1300円(税別)

 元素が出す光を分光器に通すと固有のスペクトラムが生じることが発見され、1860年代に「分光学」が確立しました。1868年の皆既日食で、太陽本体が月に隠されたとき、その周囲のコロナのスペクトラム分析で、未知の元素が発するスペクトラムが発見され、その元素は「ヘリウム」と名付けられました。地球上でヘリウムが発見されたのは1895年のことです。1852年ケルヴィンは「自然における力学的エネルギーの普遍的な散逸傾向について」という論文で、「変換によってもエネルギーの総和は保存されるが、変換によってエネルギーの有用性は減少する方向に一方通行的に進行する」と述べました。1846年ニュートン力学理論の応用によって、海王星が発見されました。物理学者たちは自信過剰となり、物理学は完成した、と考えます。
 古典物理学に衝撃を与えたのは、1903年ピエール・キュリーが、ラジウムの発熱量がそれまでの物理学では説明できないくらい莫大でしかも時間によって減少しないのを発見したことでした。まるでエネルギー保存則が破られたかのように見えます。
 電気の研究には、フランクリン、ヴォルタ、ファラデーなど“有名人”が次々登場します。その「電気」と「磁気」を統一したのがマックスウェル(マックスウェル方程式は、電場と磁場の相互作用を表わす連立方程式です)。この方程式を解くことで、「光は電磁波である」という解が導かれました。
 「化学反応」とは「電子のやり取り」と言うことができます。つまりは原子の表層部での出来ごと。ところが「錬金術」は原子の内奥、核の部分をいじる必要があります。だから「化学反応」に頼る錬金術は、絶対に目標を達成することはできません。それでも人は原子の内側に切り込んでいきます。「偶然」を武器として。たとえば1895年レントゲンによるX線の発見、そして1896年ベクレルによる放射能の発見はどちらも「偶然」の産物でした。こういった「偶然」が連続する確率って、どのくらいなんでしょうねえ。
 そこから核エネルギーが解放され、ついで反物質が生成され、宇宙では「真空のエネルギー」やら「暗黒のエネルギー」が論じられ…… 核エネルギーさえ持てあましている現在の人類の“実力”では、それ以上のものは「知る」にとどめて「扱う」はまだやめておいた方がよい、と私は思うのですが、これは慎重すぎる態度ですか?

 


砂漠の指揮官

2020-03-30 07:20:40 | Weblog

 2月28日に読んだ『砂漠の戦争 ──北アフリカ戦線 1940-1943』(アラン・ムーアヘッド)はイギリス軍から見た北アフリカ戦線でした。今日の本はドイツ軍の側から見ています。というか、本書はロンメルその人が書き残し(そして散逸した)記録をまとめたものです。編者は「砂漠」「指揮官」「機動力重視」「文才がある」というキーワードから、ロンメルと(アラビアの)ロレンスを並べています。なるほど、ドイツとイギリスの違いはありますが、その「本質」は似ているのですね。

【ただいま読書中】『ドキュメント ロンメル戦記』リデル・ハート 編、小城正 訳、 読売新聞社、1971年(72年3刷)、800円

 ヒトラーがロンメルに注目したのは、ロンメルが著した『歩兵の攻撃』という優れた本によりますが、彼はそれを書くときに第一次世界大戦時の日記以外にきちんとした記録を残していなかったことに問題を感じており、第二次世界大戦では少しでも余裕があるときには作戦に関して家族に手紙を書いたり口述筆記を残すようにしていました。また、命令書などの公文書や自分で撮影した写真も多数保存していました。つまり、戦後にこんどは砂漠の戦車集団戦についてまた本を書く予定だったわけです。ロンメルがヒトラーによって死に追いやられたあと、妻と息子はドイツの親衛隊から、次いでソ連軍から、その膨大な記録を分散させて疎開させることで守ろうとしました。実際にはアメリカ軍が発見できた記録を次々押収してしまったのですが。それでも家族は戦後に粘り強く記録を回収しました。本書でそれはほんの数ページの記述ですが、本当はこれだけでも1冊の本が書けるでしょう。いつか誰か書いてくれないかなあ。
 1940年5月10日、グーデリアン指揮のドイツ機甲軍団はミューズ川を渡河しました。ロンメル指揮の第七戦車師団はディナン近郊に配置されました。ロンメルはそれまで「歩兵重視(歩兵を機動部隊のように使う)」でしたが、その前の教育および実戦で戦車師団の機動力に目覚めます。この戦いに、のちのロンメルの戦い方の基本が見えます。自ら戦車に搭乗して最前線に身を置き、敵の砲弾を浴びながらも的確な指示をリアルタイムで出しているのです。これが後方の本部にいて、前線からの報告を聞きながら暗号化した命令を前線に送っているのだったら、フランス軍はもう少し抵抗ができたかもしれません。
 この電撃戦で、ドイツ軍と仏英軍の戦力は、実は連合軍の方が上回っていました。それがあれほど一方的な結果になったのは、ドイツ軍が「戦力の集中」と「速度重視」を貫いたからです。そしてロンメルは、それをさらに徹底させました。
 1941年はじめ、イタリアは北アフリカに大部隊を置きました。しかしそれは、植民地支配のための仕様で、ほとんどが自動車化されていない歩兵部隊でした。数では圧倒的に劣勢のイギリス軍は、その機動力の無さを突きました。イタリア軍は散々に打ち破られ、ロンメルにイタリア軍救援のための派遣命令が下されます。ロンメルはまずベンガジを占領しているイギリス軍に対する空襲を要請しますが、イタリア軍がそれに反対。高級将校の多くがベンガジに自宅を構えているため、それを破壊されることを嫌がったのです。『砂漠の戦争』でイタリア軍のキャンプがいかに贅沢品に満ちていたかが描写されますが、イタリア軍は戦争を真剣に戦う気が無かったのか、と思わされます。戦車部隊が到着するまで、ロンメルが使えるのは、イタリアの残存部隊とドイツ空軍だけ。それでも使えるものをフルに活用して、ロンメルは戦い始めます。
 「一頭のライオンに率いられた羊の群れは、一頭の羊に率いられたライオンの群れに優る」なんてことばを私は思い出します。
 ロンメルは情報を重視しています。毎日空中偵察を行い、イギリス軍の戦車の優秀性もちゃんと把握していました。北アフリカ戦線でのイギリス軍の欺瞞作戦は有名ですが、ロンメルもまた偽戦車(フォルクスワーゲンに外枠をつけて戦車っぽく見えるようにしたもの)をたくさん並べます。ただ、ロンメルはイギリス軍を過大評価していました。ギリシアに派遣したため兵力は半減していたのです。それでも「敵は弱いぞ」と根拠無く過小評価して猛進するよりはマシでしょうけれど。それでも、イギリス軍の動きが鈍く決戦を避けようとしていることを知り、ロンメルは進撃を命令します。
 しかし、本書の主力である手紙が「親愛なるルー」と夫人宛であることが、殺伐とした戦場の雰囲気を和らげます、というか、妻宛にここまで詳しく戦争について述べていることに私は驚きます。検閲はなかったのかな。そして、途中から「親愛なるマンフレッド」と息子宛の手紙も登場。
 イギリス軍は歩兵まで自動車化されていましたが、ドイツ軍は補給は自動車化されていないイタリア軍に頼っていました。これがロンメルの弱点となります。日本海海戦でも、バルチック艦隊の長征で足の遅い輸送艦が足手まといとなりましたが、一つの軍団が同じペースで動けないとそこには自ずから無理と隙が生じるのです。ただ、イギリス軍は「歩兵と騎兵」の古い用兵術に従って「自動車化された歩兵と機甲部隊」を運用しようとしました。古い発想をしないロンメルは、そこを突きます。戦争とは、人と人、武器と武器の戦いであると同時に、発想と発想の戦いでもあるのです。
 エジプトに向けて進撃するにつれ、補給はますます難しくなります。イタリア軍はロンメルに要求はしきりにしますが、ロンメルの要求(もっとスピードを!)にはなかなか従ってくれません(それどころか、イタリア本国からイタリア部隊への補給が最優先とされ、ドイツ軍への補給は後回しにされていました)。そして、残り少なくなった戦車はイギリス空軍の絶好の目標になってしまいます(この車両の多くが、鹵獲したイギリス軍のものだった、というのが笑えます。そういえば、イギリス軍がイタリア軍を破って進撃していたときにはイタリア車両も活用した、と『砂漠の戦争』にありましたが、どこの軍人もとにかく使えるものは使うんですね。
 そして、激戦によって燃料や弾薬が欠乏し、砂漠を自由に通って活動するイギリス軍遊撃隊によって補給線がさらに脅かされ、戦線は膠着状態からドイツ軍の劣勢に変わっていきます。しかし、ヒトラーとムソリーニは「頑張れ、退却は許さない」と命令します。ロンメルは命令よりも武器燃料弾薬兵士を送って欲しいのですが。
 ここまでロンメルは「相当に忠実なプロの兵士」を貫いていました。しかしこのあたりから、ヒトラーに対する表現に何か含むものが見えるようになってきます。こんな現実知らずの人間の命令に従っていたら、兵士が無駄に死ぬだけだ、と悟ったからでしょう。プロの兵士は仲間を大切にするものなのです。
 アフリカでの敗北で、ナチスの上層部ではロンメルを誹謗する声があったそうですが、現場に十分なものを手当てせずに「頑張れ」のひと言で戦争に勝てるのなら、その人は「神」です。人間だったら、その能力がフルに発揮できるようにしないとね。
 そしてそれは、戦争の時だけではありません。平和なときでも、現場を知らない指揮官が現場のことについて脳天気なことを命令しているのは、ヒトラーの二の舞でしかないでしょう。

 


地理

2020-03-29 09:06:37 | Weblog

 私が最後に地理の授業を受けたのは、高校一年の時です。ちょっと変わった高校で、文系も理系も社会科5つ(日本史、世界史、地理、政治経済、倫理)理科4つ(物理、化学、地学、生物)を学ばされたのですが、今にして思うと学んでおいて良かった。現在、どの分野の本を読んでも、取りあえず基礎知識があるのでどれも楽しめますから。

【ただいま読書中】『新しい地理の授業 ──高校「地理」新時代に向けた提案』千葉県高等学校教育研究会地理部会 編、二宮書店、2019年、2500円(税別)
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 「新しい地理」と言われても、私はもう「古い地理」さえしっかり覚えていないのです。で、目次を見て驚きます。3つの章から成るのですが、「地図や地理情報システムで捉える現代世界」「国際理解と国際協力」「持続可能な地域づくりと私たち」。なんだ、これ。今の高校生はこんな授業を受けているの? 退職したあとは放送大学にでも入ろうかと思っていましたが、高校に編入できないかなあ。こんな授業なら受けたいぞ。
 具体的な内容も面白そう。千葉市に、利便性と採算を考えながら都市モノレールを敷設する計画を立てるのは、まるでゲームのような感覚ですが、様々なことが学べそうです。大気循環について学ぶところでは、対流や低気圧や前線についてまるで理科の授業のように学ぶことになりますが、その結果世界の気候についての理解が深まります。そして、そこから恒常風について学ぶと、こんどは歴史(たとえばコロンブスが貿易風を巧みに活かして航海したこと)への理解が深まります。
「アルプスの少女ハイジ」を題材に、アルプスの山の険しさの理由やスイスでの人々の衣食住などを学ぶ授業も楽しそうです。もっとも今の子供たちは「ハイジ」を見ているのかな?
 ハザードマップについても実に興味深い展開です。
 私が習った地理は、2次元の地理だったことがよくわかりました。今の地理は4次元ですね。時空間をフィールドとし、さらに学問の境界も軽々と越えています。とても面白そうだし有益な授業ですが、教師は大変でしょう。教養と教材造りのスキルにとても高度なものが求められます。これは教師の方をサポートする体制を、学校関係者以外も考えた方が、結局子供たちのためになり、そしてそれは日本の未来のためにもなりそうです。

 


お金で買えないもの

2020-03-28 07:05:02 | Weblog

 「資本主義の世界ではたいていのものがお金で買えるが、それでもお金で買えないものって、何?」と聞かれて「尊敬」とか「愛情」とか答える人がいますが、こういったときに真っ先に登場する回答が「その人が欲しくて欲しくて、金で買えるものなら買いたいと思っているもの」ではないでしょうか。少なくとも「欲しくないもの」は答えないでしょう。

【ただいま読書中】『三越 誕生! ──帝国のデパートと近代化の夢』和田博文 著、 筑摩書房(筑摩選書0183)、2020年、1600円(税別)

 明治37年(1904)合名会社三井呉服店の営業を引き継いで「株式会社三越呉服店」が設立されました(日露戦争で第三軍が203高地を占領した翌日)
。三井家が「越後屋」という呉服店を創業したのは1637年のことでしたが、20世紀になって三井家の事業を銀行・物産・鉱山に絞り込むことになり、呉服店は三井家の重役が引き継ぐことになったのです。名前は「三井」と「越後屋」の組み合わせです。
 越後屋は、三井呉服店に改称する前の1888年に越後屋の西側に三越洋服店を開業したことがありました。鹿鳴館が83年ですから、ずいぶん早く洋服店を作ったものですが、残念ながら時期尚早、全然売れず95年に閉店となっています。三井呉服店自体も「近代化」を目指し、ガラス張りのショーケースに商品を展示しましたが、これは店が選んだものだけを見せられる従来の座売りと比較するとずいぶん先進的な試みです。そこには、輸入もののティーポット保温カバー、クッションなど当時の日本人にはずいぶん目新しいものも並べられていました。女性店員の採用にも積極的で、明治32年(1899)に試験的に採用、翌年電話女子(交換手?)、明治36年に売り場の職員を募集したら、採用26人に449人が応募してきたそうです。女性の社会進出が日本で(というか、世界の先進国で)目立つようになったのは第一次世界大戦のあとですから、三井呉服店は本当に先進的だったようです。
 日露戦争の“戦勝パレード”では空前の人出となり、三越や白木呉服店の前もぎゅうぎゅう詰めの雑踏となりました。
 日英同盟の締結で日本は「帝国」としての自信を深め、日韓議定書(韓国が日本の保護国となる取り決め)が締結されます。イギリス艦隊が日本を訪問したときには、艦長は三越を訪れて多額の買い物をしたそうです。セオドア・ルーズベルト大統領の娘アリスがタフト陸軍長官と来日したときにも、アリスと婚約者ニコラスは三越を訪れ種々のお買い物をしました。欧米列強では浴衣を羽織ることが流行し始めていて、「本場のきちんとした、外国人を歓迎する呉服店」は人気のスポットになっていたようです。植民地や半植民地からの賓客も、三越で遊びました。
 19世紀の欧米には「デパートメントストア(百貨店)」がありましたが、三越も自身がそうなることを目指していました。まずは、呉服だけではなくて、洋服・小間物・化粧品なども扱いますが、それではとても「百貨」とは言えません。そこで世界中の大きなデパートを視察、三越は“お手本”としてロンドンのハロッズを選択します。
 ヨーロッパからの商品仕入れは大変です。船だと100日かかります。そこで三越はシベリア鉄道を使いました。これだと20日で商品が到着しますから。こうして三越は最新流行を輸入できるようになりました。
 帝国劇場の内装や衣装も三越が担当しました。人気役者が着る「三越の服」はそのまま顧客への宣伝でした。
 1907年東京勧業博覧会に合わせて、三越では映画の映写会による「小博覧会」を開催しました。客が消費だけではなくて他にも楽しめるスポットであることを目標としたのです。ただこの時の三越の建物は、昔ながらの土蔵造り二階建てのままでした(客は下足を脱いで上がったそうです)。シベリア鉄道経由でヨーロッパから仕入れた商品が並ぶようになったのは1907年末。内部に食堂や座敷、写真場も設けられていましたが、もう手狭だったことでしょう。
 東京市では市区改正計画が進行していて、三越もそれに合わせて、1908年にまずはルネサンス式三階建ての仮営業所を設けました。これが、三越が呉服店からデパートに変わっていく、具体的な第一歩と言えます。文学作品(小説や和歌、俳句)にも三越はよく取り上げられ、逆に小説に登場したファッションが三越で売られることもありました。たとえば「虞美人草浴衣」です。また、和服によく似合うベールとして「三越ベール」がニューファッションとして登場し、流行しました。美術品の展覧会も頻繁に開催されました。室内装飾としての絵画(日本画、洋画)を購入した人は、次に絵に合った家具も欲しくなります。また、洋食の普及で、洋食器の需要も出てきました。日本が西洋化する過程で、三越が「百貨店」になるのは、歴史の必然だったのかもしれません。
 従業員も増えましたが、1909年11月6日に三越呉服店は全店休業として、鎌倉で「大慰労会」を催しました。本店従業員750人、工場300人、来賓200人が特別仕立ての列車に乗っての日帰り旅行です。運動会や地引き網体験など、地元の人にも門戸を開いたので5000〜6000人が参加した大イベントになってしまいました。
 1914年三越呉服店本店新館がオープンします。入り口には青銅のライオン像が2頭、地下一階地上五階、屋上には屋上庭園と高塔(4階分の高さ)があります。屋上からの写真では、東京市が一望の下です。これは気持ちよかったでしょうね。内部にはエレベーターもエスカレーターもあります。ライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督のコラム(円柱)(ネルソン提督がトラファルガーの海戦でフランス・スペイン合同艦隊に勝利した記念)を囲むライオンを模して作られました。ただ、仕事を依頼した彫刻家のメリフィールドは「トラファルガー広場のライオンには老若がいて、若い方がどう猛な顔つきをしている。日本のような進取的な国の猛進していく商店には、若いライオンの方がふさわしい」とどう猛な顔つきでライオン像を仕上げたそうです。
 こんど三越に行ったとき、じっくりとライオン像を眺めてみることにしましょう。「若い帝国」だったころの日本のイメージがそこから見えるかもしれません。

 


四つめ

2020-03-27 08:18:12 | Weblog

 「夜目遠目傘の内」と俗に言いますが、もう一つ、そして最強なのは「ひいきめ」ではないでしょうか。これさえあれば、昼に近くでまじまじと見ても「美人だ」と心から言えます。

【ただいま読書中】『ゼロ年代の想像力』宇野常寛 著、 早川書房、2008年、1800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4152089415/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4152089415&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=672d5d159972da650d7c7e25b4996d23
 著者は1990年代の「想像力」を「古い想像力(社会的自己実現への信頼低下、「行為」ではなくて「状態」をアイデンティティーとする)」と規定し、その代表作を『新世紀エヴァンゲリオン』とします。
 たしかにエヴァは、90年代のオタクたちには絶大な支持を寄せられましたっけ。私は「面白い」とは思っていましたが、そこまで熱中はできませんでした。それは作品のせいではなくて私のせいだったのでしょうけれど。
 ともかく、90年代、若者には「引きこもり」や「本当の自分探し」が人気のある言葉でした。しかし21世紀になると時代のムードが変わります。引きこもっていたら社会に抹殺されてしまう、という危機感が出てきたのです。「社会が何もしてくれないから、引きこもろう」ではなくて「社会が何もしてくれないのは当然の前提。そこで自分が何をするかを探そう」と若者の意識は変わっていきます(それを先取的に描いたのが『バトル・ロワイヤル』(1999年))。そして、ゼロ年代には「バトル・ロワイヤル的状況をいかに生き抜くか」をモチーフとした文芸作品やテレビ番組が続々登場しましたが、「古い想像力」に生きる批評家たちはそういったものを完全に無視していました。本書では「東浩紀とその劣化コピーたち」とキツい言葉でその批評の視野の狭さを批評しています。
 とまあ、けっこう厳しい言葉で著者は時代を規定しています。ただ、70年代から「時代」を生きてきた私には、そこまで明確に「時代の雰囲気が変わった」という実感はありません。たしかにその要素が強くなった、という感覚は得ていますが、それが時代を推進する原動力になった、とまでは言えない、というのが私の印象です。
 私はオタク成分はずいぶん薄い人間だったので、そのへんの感覚が鈍いだけかもしれません。ただ、『カリオストロの城』のクラリスにヤられちまった人間としては、その後に出てきた「二次元の少女にしか萌えない」と主張する人たちも「ま、そんな人もいるだろうね」と容認してしまうのですが。人は自分の理想を世界に投影しながら生きている面がありますが、理想と現実にあまりに大きなギャップがあった場合、自分を防御するためには、世界を変えるか、理想に生きるか、になることもあるだろうね、と。
 80年代は「バブル」とひと言で言えます。しかし91年にバブルが破裂、著者は90年代(特にその後半)を「引きこもりの時代」と呼びます。時代は絶望に彩られていますが、それを個人の力で変えることができるとは思えない。ならば個人にできることは何か? それが、引きこもりであり薬物使用や自殺でした。そして「95年」。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を私はすぐ思い出しますが、それ以外にも、金融機関の破綻が続き、日本の戦後社会が変貌した「特別な年」です。そして「文化」におけるエポックメイキングな“事件”は95年10月のテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」でした。このとき、コンピューター通信の世界で、碇シンジに共感する若者が非常に多いことに私は驚きました。著者はこのアニメを「設定によって規定されるキャラが、社会的自己実現を拒否し、過去の精神的外傷に対する承認を求める物語」とまとめます。ただ、劇場版エヴァは最終的に「他者とのコミュニケーション」を“最終回答”として用意しましたが、多くのファンはそれを拒絶し、徹底した自己愛の「セカイ系」へと進んで行きます。これは「二人の恋愛が『世界の終わり』という大きな物語と直結する想像力」のことで、つまりは「シンジはめでたくアスカと結ばれ、それで世界も救われる」というお話です。「世界の運命を背負った美少女から無条件の熱愛を捧げられる少年」って、いやあ、自己愛の極致かな。
 同じ95年、少年ジャンプでは「ドラゴン・ボール」と「幽遊白書」が終了しました。そして少年ジャンプもまた「引きこもりの時代」に突入しますが、著者が注目するのは「トーナメント・バトル」から「カードゲーム」への移行です。トーナメントバトルでは、戦闘力が低い者は高い者に勝てません。勝つためには努力あるのみ。しかしカードゲームでは、能力が低いキャラでも相手の弱点を突くことができたら、勝てます。つまり「自分が強くなること」ではなくて「相手の弱点を突くこと」が重視される社会に日本はなっていったのです。
 これは、「自分が生きる世界は“戦場”である(自分が生き残るためには戦わなければならない)」という認識を抱く若者たちが増えてきたことを意味しているようです。トーナメントの場合「絶対的な強さを持たない自分」の居場所は観客席にしかありませんが、カードゲームだと自分ももしかしたら戦えることになる、というか、すべての“カード”は“戦場”に配置されるものなのです。
 懐かしい名前や私が全然知らない名前が次々登場しますが、私は今「では10年代は?」という疑問を持っています。2011年の東日本大震災によって大きな刻み目をつけられた時代は、一体どんな10年だったのか、と。すぐ思いつくのは「フェイク(ニュース)」でしょう。あるいは「炎上」。この「10年代の想像力」は人の想像力がどんどん貧相になっていく時代のものなのかもしれません。ちょっとさびしいですけどね。

 


巧言の巧者

2020-03-26 07:04:37 | Weblog

 「100%」とか「完全」とかをやたら発言に散りばめる人は「(自分が)反省しなければならない」と言うときにはそういった言葉を一切使いません。

【ただいま読書中】『罪刑法定主義(新訂第二版)』大野真儀 著、 世界思想社、2014年、6800円(税別)

 「罪は罰せられなければならない」「罰は法によらなければならない」は、私にとっては“常識”で、「それはなぜか?」と尋ねられると「ぼーっと生きていてごめんなさい」と言わなければならない状態です。そこで役に立ちそうな本を読んでみることにしました。
 「罪刑法定主義」は「マグナ・カルタ」から始まる、という説と、そうではないという説が論争をしているそうです。私自身は「罪刑法定主義」の本質がいかなるものか、がある程度わかれば良いので、マグナ・カルタをラテン語で読んだらどうのこうの、という論争にはあまり興味を覚えません。
 1801年フォイエルバッハは教科書に「法律なければ刑罰なし、犯罪なければ刑罰なし、法定の刑罰なければ犯罪なし」というラテン語のスローガンを掲げました。素直に読むと、犯罪があるから刑罰が必要になるのではなくて、刑罰があるからそれに合わせて犯罪が規定される、ということになりそうです。しかし、このスローガンを形式的にだけ遵守すると、個人や社会に有害な行為でも「法律で禁止されていないから、やっていいのだ」と主張する輩をはびこらせることになってしまいます。さて、そんな社会が望ましいものかどうか。ただ、フォイエルバッハにはフォイエルバッハの言い分があります。彼は「個人の自由」と「国家の刑罰権」の対立という自由主義的な考え方を持ち込んだのです。国が好き放題個人を罰してはいけないぞ、ということかな。すると刑法は、個人だけではなくて、国家をも縛ることになります。ただ、フォイエルバッハはドイツ(というか、統一前のドイツ)。マグナ・カルタはイギリス。全く違う社会・歴史・思想の産物を同じ舞台の上で比較するのは、ちょっと無理があるのではないかなあ。
 マグナ・カルタの「自由」は、「中世イギリス貴族」の自由を「国王」の専制から保証することを意味しています。ああ、これは高校の世界史で習った覚えがあります。その「自由」が“ひとり歩き”をして、時代が変わり近代国家が成立して「国民」の概念が成立したあとに、“別の文脈”で使われるようになった、ということなのでしょう。となると「“ひとり歩き”や“別の文脈”」の部分を「現代につながっている」と判断するかしないかで「マグナ・カルタが現代法制度の直系の御先祖か否か」の判断が分かれるでしょう。すると、研究するべき対象は「マグナ・カルタ」だけではなくて「(歴史に連なる)現代の我々」も含まれるはず。
 ややこしい主題を巡る論文集ですが、意外に読みやすい文章で驚きました。著者は相当工夫をしてくれたようです。なんとなく「罪刑法定主義」について少しわかったような気はしています。もっとも私が盛大に誤読をしている可能性は大ですが。

 


掛け売り

2020-03-25 07:04:46 | Weblog

 私は田舎にいたときに、本屋でつけで買っていました。徒歩通勤だったし、昼食は職員食堂での給食だったので財布を持ち歩かない習慣がついてしまって、仕事帰りに本屋によって「あ、財布を忘れた」「あとで良いですよ」から始まった掛け売りです。当時、毎月1冊出る全集を2種類と、月刊誌を2冊定期購買、あとは文庫本を不定期に、程度の購入だったのですが、田舎では珍しくたくさん購入する人間だったらしく、「こんど転勤するので定期購買は今月まで」と挨拶したときにお餞別をもらえました。本屋さんから餞別をもらったのはこれが最初で最後です。

【ただいま読書中】『ナチス 破壊の経済(下)』アダム・トゥーズ 著、 山形浩生・森本正史 訳、 みすず書房、2019年、4800円(税別)

 1940年5月10日「西部戦線」が急に活気づきます。ベルギーとオランダがドイツの特殊部隊や落下傘兵と陸軍集団Bの猛攻撃を受けたのです。第一次世界大戦でベルギー経由の攻撃で痛い目に遭ったフランスは「それは想定済み」とイギリス軍と急行します。しかしドイツ軍は同じ手を使ったわけではありませんでした。北での攻撃はおとりで、メインは100km南のアルデンヌの森だったのです。フランス軍は「前の戦争」を戦ったけれど、ドイツ軍は「今度の戦争」を戦った、ということでしょう。挟み撃ちに遭った連合軍は、オランダとベルギーの陸軍すべて・イギリス遠征軍のすべて・フランス軍のほとんどの170万人以上。ダンケルクから37万人が脱出、10万人のフランス兵は南方になんとか撤退、しかし120万人が捕虜となりました。
 「勝利」はドイツ国民にとって、ヒトラー政権のすべての「正しさ」の証明となりました。「電撃戦、素敵」です。ところが実際の「ドイツ再軍備計画」と「産業構造」を著者が精査すると、明確な電撃戦戦略など存在せず、「とりあえずいろいろ作ってみたものから場当たり的に使えるものを使った」のが「電撃戦の実状」だったようです。そういえばソ連侵略にも馬が大量に動員されていましたね。それ以外でも先の大戦ではドイツの装備と戦争計画がちぐはぐな面が目立ちましたが、これも「戦略の不在(ヒトラーの気まぐれ)」と「産業構造」のミスマッチ、というか、最初からマッチさせようとする努力がなかったことの当然の結果のようです。
 しかし「電撃戦神話」は、ドイツにとっては「自分たちの強さを誇る」ため、英仏軍には「自分たちの敗北を正当化する(軍事的無能を隠す)」ために、実に有用でした。実際には運命のサイコロがどちらに有利な目を出してもおかしくはなかったのですが。
 鉄鉱石は占領したノルウェー(と協力的な中立国スウェーデン)から、石油はルーマニアから、高精度工作機械はスイスから、と強大な経済ブロックを形成して戦争継続が可能なようにして、ドイツは次の一歩を踏み出します。さらにフランスなどからの略奪品(武器、機関車や貨車、原材料(銅、ニッケルなど)、燃料、オイルなど)でドイツ国防軍は備蓄を数箇月〜1年分上積みすることができました。ほとんど放火強盗ですが。ドイツが次に考えたのは「ドイツを盟主とする西ヨーロッパ経済共同体」の形成です(バルカン半島は購買力が低い、と無視されました)。会議で論争が行われた議題を見ると、EUの奇形的な御先祖様の姿を見るような気分になってしまいます。さらにドイツは意図的に「貿易赤字」をため込みました。他国の民間業者はドイツに“輸出”するとき自国の中央銀行から支払いを受け、中央銀行はその負債をドイツの決済口座につけます。しかしその口座が精算されることは終戦までついにありませんでした。ただ「やらずぼったくり」だったわけではありません。ドイツの輸出は(イギリスとは対照的に)戦争中高水準で維持されました。輸出は実はドイツ経済にとっては負担だったのですが、同盟国の生活水準を維持させるためという政治的な利益が重視されたようです。
 ドイツ資本は西ヨーロッパの各企業に入り込もうとしました。フランスではロレーヌ地方のフランス資本企業は接収され、フランス全土でユダヤ資本が接収されました。しかしそれ以外のものは「植民地支配型の接収」が行われなかったため、ドイツの資本家は失望することになりました。それどころか、巨額の貿易赤字(債務)を素直に評価すると「ドイツ経済が他国に所有されている」と言うことも可能な状態になってしまいました。資金が必要となったドイツは「占領費用」という名前の「賠償金」を取り立てることにします。兵士を駐留させるための費用を、占領国に支払わせるわけで、これの子孫が「思いやり予算」かな。ドイツはフランスに対して、1日2000万ライヒスマルクの支払いを要求し、金がないならフランス企業の株式でも支払いを認める、と申し出ましたが、フランスはそれは断りました。フランス企業がすべてドイツ国有企業……軍事占領だけでも悪夢なのに、この経済状況は悪夢の自乗です。
 フランス占領という華々しい“大勝利”のあと、戦争は膠着状態に陥ります。英仏海峡をはさんでの戦いは、陸軍ではなくて空軍と海軍にゆだねられましたが、ドイツもイギリスも、相手に対して決定的な優位性を示せませんでした。その間にアメリカは着々と戦争の準備をしていました。
 ドイツ(とその占領地)では複雑なトレードオフがされていました。炭鉱の熟練炭坑夫を兵士にしたら石炭の生産性が落ちます。外国人労働者を投入したら未熟練でやはり生産性は落ちます。カロリーを投入しないとさらに生産性は落ちます。農地には窒素肥料が必要ですが、化学肥料の増産をするためには爆薬の生産を落とさなければいけません。食糧生産が落ちたら、備蓄を取り崩すか家畜の大量屠畜ですが、するとそれは将来に非常に悪い影響を与えます。ならば配給を厳しくする? それは戦意が落ちます。そして、西ヨーロッパ諸国では、1940年に次々経済活動が崩壊していき、ドイツの「原材料・燃料・食糧のソ連依存」を生み出しました。そのソ連を攻撃するのですから、ヒトラーは一体何を考えているのでしょう。
 バルバロッサ作戦は、フランスでの勝利の再現を狙っていました。(予備兵力を残さない)全力での一撃で撃破してしまう、というイメージです。問題は、戦車と馬車の組み合わせがフランスでは有効だったのが、ソ連では距離のオーダーが10倍になって燃料輸送が厳しく(そもそも燃料は絶望的に不足していたのですが)、さらにソ連軍は素直に一撃で撃破されてくれなかったのです。さらにヒトラーは、モスクワ攻略(政治・軍事目的)・ウクライナ攻略(穀倉地帯からの食糧調達)・コーカサス攻略(油田)を同時に全部達成しようとしました。軍の分散です。
 さらに「人種戦争」もヒトラーは戦っていました。ソ連侵攻が成功したら、ポーランド(やソ連のレニングラード付近まで)は“空っぽ”にしてドイツ人移民の受け入れ(ゲルマン化の)場にできます。この“事業”のモデルになったのは、アメリカの西部開拓でした。ヒトラーは演説で、アメリカがインディアンを殲滅したように、ドイツはスラヴ人を殲滅する(「優秀な入植者」が「劣等な先住民」に取って代わる)と何度も述べているそうです。つまり、ナチスの「ジェノサイド」は「ユダヤ人の最終計画」と「スラヴ人の殲滅」の二種類があったのです。ただ、予定通り年内にモスクワとレニングラードを陥落させていたら1100万人を殺せていたはずでしたが、ソ連軍の抵抗で作戦は不調となり、その半数しか殺戮はできませんでした。抵抗が強いわけです。ドイツの“見積もり”ではソ連軍が投入できるのは装備が不十分な200個師団のはずでしたが、41年後半に実際にソ連が投入したのは装備が不十分な600個師団だったのです。
 ドイツの補給線は限界に達し、10月に秋雨が降り始めると地面は泥濘となり、ドイツ中央軍集団の脚は止まります。モスクワのわずか100km手前で。そして、ドイツ軍内部で崩壊が始まります。お決まりの部局間の小競り合いではなくて、各軍が原材料を奪い合うようになったのです。
 スターリンもチョンボをします。ドイツ軍の進撃を食い止めたことで過剰な自信を持ってしまい、戦線で全面反撃を命じたのです。そのためドイツ軍は撤退して守りを固め、またまた膠着状態に。これがドイツ軍の弱いところを一点突破だったら、状況はもっと変わっていたことでしょう。ヒトラーもスターリンも、有利だと軍を分散させる、という愚策を採用する点が共通だったのです。
 奴隷経済は不経済は、昨日書きましたが、本書でも「奴隷経済は40%安く生産ができるが、結局その40%は奴隷管理のために必要になる」とナチス自身が試算していたことが書いてあります。すると強制労働は「経済」のためにやっていたのではないことになります。
 ドイツは人員不足にも悩んでいました。20代の男性は根こそぎ徴兵され、10代の徴兵も始まっていましたが、これは赤軍による損耗(東部戦線だけで毎月6万人)を補充するのがせいぜいでした。すると中年の徴兵ですが、ここは熟練工が多い世代です。兵器生産にとっては大打撃でした。そこで女性の動員です。第一次世界大戦でも、女性が工場や鉄道で働くようになり、これが男女平等運動にプラスに働きましたね。第一次世界大戦時、ドイツ女性の労働参加は45.3%でしたが、1943年の統計ではドイツ女性の戦争活動参加は34%(イギリスは33.1%、アメリカは25.4%)でした。もちろんそれだけでは足りません。そこで、42年1月からの1年半でドイツは280万人の外国人労働者を“輸入”しました。主に東欧、それから西欧、数は少ないがロシアからも、若い男女が動員されたのです。43年夏には外国人労働者の総数は650万人となっています。約150万人は戦争捕虜で、他は「文民(一般人)」でした。ただ、ドイツから見たら「強制労働」とか「奴隷」とかではなくて「第三帝国内での(強制的な)労働力の再配分」だったことでしょう。しかしこれが、大量虐殺と同時に進行していたというのですから驚きます。生産性優先なら、「労働力の無駄な損耗」は避けるべきだと私は思うんですけどね。さらに人種差別も同時進行ですが、「ドイツ産業の基盤」を「劣等民族」に依存して良いんですかねえ。
 それでもなんとか論理的整合性をとって、ダッハウ・アウシュヴィッツなどの大規模強制収容所から軍需工場に「労働力」が大量に派遣されました。するとこんどは「食糧問題」が浮上します。十分食わせなければしっかり働けません。しかし食糧は絶対的に不足しています。しかも、人種差別の観点からは、十分食わせたくはない。でも生産はさせたい。あら、困った。
 1943年5月まで、ドイツの軍備生産は月5.5%の成長率をほぼ維持していました。しかしルール地方へのイギリス空軍の爆撃が始まり、鉄鋼やコークス、それに重要な中間部品の生産が打撃を受け、以後軍備生産はほぼ0%成長となってしまいました。しかし英米の生産はますます絶好調。その差を少しでも縮めようと「過大な期待」がかけられた新兵器の開発が加速されますが、原材料と燃料と時間と人員の不足によって、どれも期待通りの性能が発揮できないか、十分な大量生産ができない、という結果になってしまいました。だけど、一つ一つを見たら、ナチスドイツの兵器は、それなりに優秀です。私自身、ティーガー戦車(ドイツ)とシャーマン戦車(アメリカ)のどちらに乗りたいかと問われたら、ティーガーを選びます。
 44年はじめ、米空軍は圧倒的な物量を投入、ドイツ空軍はどんどん磨り減らされていきました。そして、制空権を失ったら、こんどは工業地帯が連合国の空軍部隊に蹂躙されます。ドイツ軍需省はなりふりかまわぬ増産体制を取りますが、それは金融システムの崩壊を招きました。そして工業生産が崩壊した後になって、英米軍の爆撃はピークを迎えました。それは瓦礫の山にさらに穴を開ける効果しかありませんから、ずいぶん“不経済”な行為でした。ただ、人的そして精神的な効果は絶大だったようです。
 「工業統計」からナチスドイツの戦いを見る、という試みは、非常に実り豊かなものです。私自身、これまでの思い込みの訂正をいくつかしなければなりませんでした。
 そういえば日本の戦いも「経済学」から見たら、どうなるんでしょうねえ。

 


奴隷制度や強制収容所のコスト

2020-03-24 06:32:59 | Weblog

 この「労働」は給料を払わなくて良いから「安くつく」と一瞬思えますが、熱意も元気もない人たちの労働効率は悪いし、見張りの人間が余分に必要だし、脱走防止の設備投資も必要だし、飯も食わせなきゃいけないし、実はものすごくコスパが悪い労働形態なんじゃないです? そういえば昔の北朝鮮の宣伝映画で、労働者が必死に働いているすぐそばで、若い女性たちが踊ったり歌ったりして“激励”をし、さらにその隣には武装した兵士たちが見張っている、というのを見て、私は「画面に映っている30人の内働いているのは10人だけか? これでは経済成長は悪いぞ」と思いましたっけ。北朝鮮の労働者は奴隷でも強制収容所の収容者でもないのでしょうけれどね。

【ただいま読書中】『ナチス 破壊の経済(上)』アダム・トゥーズ 著、 山形浩生・森本正史 訳、 みすず書房、2019年、4800円(税別)

 「ナチズム」を「経済」の観点からきちんと分析した研究は、この60年間なかったそうです。だから著者が何年もかけてこの本を書きました。
 第一次世界大戦を塹壕で経験し、アメリカの工業力や巨大市場についてもしっかりわかっていたヒトラーは、「ドイツの敵」はアメリカ、と想定していました。しかしドイツ単独では対抗は無理。そこでまず東方(ポーランドやチェコなど)を「生存圏(レーベンスラウム)」として確保(人は追放あるいは殺害し、そこに「ドイツ人」が移住)、イギリスと同盟を組むことでアメリカと対等に戦えるようにしよう、と構想を持ちます。しかしドイツの有権者は1928年の総選挙でヒトラーの党に2.5%の得票しか与えませんでした。しかし大恐慌が発生、通貨危機により各国は次々金本位制を放棄し、通貨の自由発行を許します。しかし、ハイパーインフレの悪夢に怯えるドイツ帝国銀行はライヒスマルクの切り下げを渋り、結果は、法令によって強行されるデフレ・行政支出削減・増税・政治デモ禁止・賃金削減でした。しかし負債への支払いはデフレ前の高水準のまま。ドイツ経済に破綻の嵐が吹き荒れます。ドイツ国民は「世界秩序」に幻滅し、ナショナリズムが力を得ます。「自国ファースト」は他国も同様だったようで、英仏は1932年にドイツの賠償支払いを(アメリカの反対を押し切って)終了させましたが、同時に自分たちのアメリカへの戦債返済取り消しもそれと連動させました。「戦勝国」の間は、経済的に分裂します。アメリカも「自国ファースト」でヨーロッパに対する影響力を減じ、ヒトラーには“絶好のチャンス”が生まれていました。
 1933年、首相になったヒトラーは、行政改革・経済復興・再軍備を目指します。「失業根絶」のために東プロイセンをモデル地区として「雇用創出資金」から大金を投入、失業者を徴用して「同志キャンプ(実際には強制収容所)」に集め、厳しい土木作業と政治教育が行われました。その結果、わずか6箇月で東プロイセンの13万人の失業者は消滅したのです。少なくともメディアの目にはそう見えました。アウトバーン建設は、雇用創出とは無関係で、国家再建と再軍備とに結びついていました。常に東部戦線と西部戦線を意識しなけらばならないドイツにとって、東西の国境を2日の強行軍で結びつけることができるアウトバーンは「軍事のライフライン」だったのです。もちろん平時にもそれなりに有用ですし。
 外国への長期債務の返済は「ドイツ帝国銀行の口座にライヒスマルクで返済をするが、外貨に替えられないからドイツの対外貿易が健全な黒字になるまで返済はストップする(金を返して欲しかったら、ドイツの製品を輸入しろ)」という手口で返済拒否をしました。33年6月ロンドンの世界経済会議で、ルーズヴェルトはドイツ帝国銀行総裁シャハトを「ろくでなし」と形容しています。同じ時期の閣僚会議で、8年間で350億ライヒスマルクの軍事費が決定され、ドイツの再軍備が本格的にスタートします。これは国内総生産の5〜10%というとてつもない軍事費で、当然他の産業を圧迫し、だから軍事産業が主要な「産業」になる必要が生じます。しかしそれは、実体経済には悪い影響を与えました。
 ドイツ帝国銀行の外貨準備高は減少し続け、34年に危険な水準に到達。イギリスとの貿易戦争も深刻化します。ドイツ政府とマスコミはドイツの輸出が振るわないのは「不公正な制限」のせいだと論じました。しかし、保護主義によって貿易制限の報復の悪循環を始めたのは、実はドイツでした。さらに、ドイツのユダヤ企業ボイコットによって、アメリカのユダヤ人組織がドイツ製品ボイコットを始めたことも(実質的にはどうだったかは不明ですが、少なくとも感情的には)ベルリンに悪い影響を与えました。ユダヤ人を追い出そうと移民を促進すると、ユダヤ人の資産も国外に流出、それを防ごうと厳しい出国税を課すとユダヤ人の移民は激減。まったく、何をやってるんだか。外貨問題の根幹はライヒスマルクの不安定なレートにあり、解決策は通貨切り下げなのですが、ヒトラーはそれを嫌がりました。インフレになる、と。35年、ドイツの輸入量は激減しますが、工業生産は100%近い上昇を示しました。原料や燃料を輸入に頼っていたのに、と思いますが、“手品の種”は「原材料の在庫をとことん使ったこと」でした。するとその成長にはいつかは終わりが来ることになります。しかし世界経済の復興とナチス党の輸出助成策によって、ドイツ経済は破綻を免れました。
 産業界を味方にするためにヒトラーが使ったのは、左派の労働運動でした。これを弾圧する代わりに、自分に献金しろ、というわけで、「産業」は「産業政治」になってしまいました。「国民自体を国有化できるなら、ドイツ企業の国有化は必要ない」とヒトラーは語り、その言葉の通り、ドイツの経済エリートたちは次々喜んで政権の“パートナー”になっていきました。
 ドイツ国民は貧乏でした。リベラルな政治体制の下で勤勉に働いていたのに、平均的なアメリカ人から20〜30年遅れた生活水準を甘受していました。統計などから具体的な数字が並んでいますが、その「貧乏ぶり」には同情を感じます。そして、ヒトラーはそこにも上手くつけ込んだのです。
 私は「ドイツ経済が好調になったから国民はヒトラーを支持した」と思っていました。しかしそれは誤解だそうです。有名な「国民ラジオ」も、たしかにそれまでの物に比較したら安価になっていましたが、貿易をきちんとしていたら同価格ではるかに高性能なアメリカ製のラジオを購入できたのです。つまり、プロパガンダの壁の内側に隔離され、ドイツ国民は国際競争力の無い製品を買わされていたのでした。国民車フォルクスワーゲンも、購入と維持ができる資力がある人はごく少数の人だけでした。税金は重く、ガソリンは国際価格の倍(しかも国内生産のアルコール添加が義務)でした。そこで「フォルクスワーゲン購入のためにドイツ労働戦線の口座に積み立てる制度」が始まりました。27万人が契約し、ドイツ労働戦線は2億7500万ライヒスマルクを得ましたが、市民が購入できたVW車はゼロ台でした。ポルシェの工場は軍需製造専門となったのです。そして積立金は戦後のインフレで消えてしまいました。
 4年間で戦時陸軍を構築するためには軍需転換をした工場でのフル生産が必要です。そして、一度それを始めたら、工場を民需に戻すことは困難となります。かくして「戦争」は「目的」であると同時に「手段」になってしまいました。本気で再軍備を始めたら、政治的にも経済的にももう開戦は不可避なのです。

 


よげん者

2020-03-23 06:57:10 | Weblog

 予言者はけっこうたくさんいますが、その多くは間違った予言も平気でしています。
 預言者は予言者よりは数が少なくなりますが、その真贋がわかるのは神だけ、というのが困りものです。
 現実社会にはびこっているのは、余計なことだけ口走って事態を混乱させる、余言者かな?

【ただいま読書中】『武士道とキリスト教』笹森健美 著、 新潮社(新潮新書505)、2013年、680円(税別)

 小野派一刀流の宗家で同時に牧師でもある著者は、武士道とキリスト教は相反するものではない、と言います。
 文明開化の明治初期、日本にやって来た宣教師たちに強く影響を受けたのは、主に士族でした。まだ宗教の自由が認められる前に、殉教も厭わず来日した彼らの「覚悟」に、若い士族は武士道に通じるものを見たようです。そういった中に、内村鑑三や新渡戸稲造がいました。忠節を尽くすべき主君が失われたとき、その空隙に「神」が置かれたのかもしれません。
 著者は「武士道」が日本の道徳の規範なのではないか、と述べます。そういえば日本の道徳は、明確に成文化されてはいませんが、たしかに武士道に通じるものが多いように私も感じます。但しこの武士道は、江戸時代、つまり日本が平和になってからの武士道です。「武」の文字を「戈(ほこ)」を「止める」と読むもの。
 そういえば、日露戦争で日露の講和に(どちらかと言えば日本寄りの立場で)尽力してくれたセオドア・ルーズベルト大統領は、「忠臣蔵」の英訳本を読んで日本に親和感を抱くようになったそうです。「主君への忠誠」と「神への忠節」とに通じるものを感じていたのかもしれません。
 だからといって、この二つは「同じもの」ではありません。著者も「キリスト教は切腹を認めるか?」「武士道に愛はあるか?」という問いを立てています。ただ、このへんは「解釈」の問題になってしまうのではないか、と私は感じています。「覚悟」という共通点に親和性を認め、無理に「同じもの」にしなければ良いのではないかな。信仰心と科学を両立させている科学者もいるし、武道と宗教心を両立させる人がいても良いのではないか、と私は思っています。

 


有用な人はとことんこき使う

2020-03-22 07:52:45 | Weblog

 日本では教師には残業手当が支給されない制度だ、と聞いてあきれたことがあります。最近では医師の残業は年間2000時間まで、というとんでもない“規制”が屁理屈とともにまかり通りました。
 そして今回は、自衛隊員。なんと予算不足で足りなくなったトイレットペーパーを隊員が自腹で買っているのだそうです。
 日本って、素敵な国ですね。

【ただいま読書中】『自衛隊員は基地のトイレットペーパーを「自腹」で買う』小笠原理恵 著、 扶桑社(新書310)、2019年、840円(税別)

 「自衛隊は安月給に見えるが、食費と住居費は国が持つからその分は貯金ができる」は自衛隊勧誘でよく使われた言葉だそうです。ところがこれは大嘘で、あらかじめ食費と営舎経費が天引きされているから安月給になっているだけ、なのです。しかも、食費は引かれるのに、自分が好きなものを食べることはできません。
 防衛省は、思いやり予算とかアメリカから輸入する正面装備には大金を惜しみませんが(そういえば最近は沖縄での基地建設にも大金を投入していますね)、隊員の待遇についてはものすごく金を惜しんでいます。PKOに派遣されるときには隊員は自腹でPKO保険に入ります。死んだり後遺症が残ったときに国がきちんと最後まで面倒を見てくれる期待ができず、一般の生命保険は紛争地での死傷に対しては支払いが拒否されるからです。緊急用の医療キットもあまりにしょぼい物です。米軍の物との比較がされていますが、日本のは日露戦争時代の発想か?と言いたくなりました。
 「資格」に関しても「自衛隊内の資格」はそのままでは民間で通用しないものが非常に多いそうです。海外のドキュメンタリーを見ていると、海外の航空会社ではパイロットに軍出身者がけっこうな数いるようですが、日本では航空自衛隊を退官してもそのままでは民間航空会社に就職できません。まず事業用操縦士の免許を取り(これは自衛隊内でも可能)、さらに、計器飛行証明・航空無線通信士・航空英語検定を取得する必要があります(国内だと、500万〜1000万円かかるそうです)。さすがに重機の免許などは民間でも使えるでしょうが、定年が早い(53〜56歳)自衛官は再就職がしやすい方が士気は上がり定着率も上がる、かもしれません。
 一般の自衛官は失業保険にも入れません。「地位が安定した国家公務員だから、失業の心配をする必要はない」という理屈からの決まりだそうです。
 著者は「まず撃たれなければ撃ち返せない」ことに非常な不満を表明していますが、これは自衛隊だけの話ではないはずです。米軍の交戦規則でも「撃ってよいのは撃たれてから」となっていたはず。その規則の非人間性を扱ったのが映画「英雄の条件」です。あ、自衛隊は「軍隊」じゃないから「交戦規則」と言っちゃいけないのかな。
 自衛隊はまだ「軍隊」ではないから、自衛隊員は「軍人」としては扱われません。だったらせめて「国家公務員」あるいは「人間」として扱うようにしたら良いのになあ。