【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

一票の格差

2011-02-28 18:54:35 | Weblog

 「私の一票はあなたの半分の価値しかない」というのはあまり気分がよいものではありません。だからと言って「私の一票はあなたの倍の価値がある」と言われてもあまり気分が良くなるものでもありませんが。
 ただあまりに露骨な較差(格差?)があるのも問題ですから、このさい過激な“解決法”はどうでしょう。「議決の時に、その議員が投じる票は、係数としてその人の選挙での獲得票数を乗じる」というものです。要するに「選挙でたくさんの有権者の支持を得た人は、議会で声がでかい」ということ。単純に獲得票数に比例にすると、田舎が不利かもしれませんから、どちらかの院はこれまでと同じにするとか、あるいは、ある程度は基礎点というか固定点としてそれに票数比例部分をプラスする、という手もあるでしょう。
 こうしたら、「その地域で一番になること」だけではなくて「できるだけ多くの支持者を集めること」が必要になるし、選挙での投票率も候補者は気になるようですから、これからの選挙が激変するかもしれません。

【ただいま読書中】『スピード開票実践マニュアル ──コンマ1秒の改革から始まる自治体業務改善』北川正恭 監修、早稲田大学マニフェスト研究所 編著、ぎょうせい、2010年、1905円(税別)

 北川さんは三重県知事時代に行政改革に取り組んでいたそうですが、どうしても変えられなかったことの一つが「選挙管理委員会」の名称変更とその業務の変革だったそうです。「権力構造」が安定していて、そこに手を入れることが困難だった、とのこと。
 国・都道府県の選挙業務は市町村の選挙管理委員会に委託されます。委託費は人口などで一定額が配分され、時間短縮などで経費節減をしても“差額”を返却する必要はありません(返却する制度がありませんし、もし返却したら叱られた上に来年度予算の削減になります)。さらに「迅速性と正確性は両立しない」ことから業務内容の見直しもされません。著者らはそのへんを疑うことから話を始めます。「現場で開票作業のスピードアップに取り組むことは、「現場からの民主政治への課題」も浮き彫りにできるのではないか」と。それは単に技術的な問題の話ではないのです。
 開票作業改革の“先駆者”として、東京都府中市が登場します。ここではさまざまな工夫をすることで開票時間を短縮し、1000万円以上の経費節減をしています。「経営」の視点を取り入れ、情報を公開します。それは職員の意識を変えることになっていきました。それまでは「自分の担当」だけをのんびりやっていれば良かったのが、どの人も全体を見ながら役割を流動的に分担して動き、改善するべき点が見つかったらそれをどう改善するか提案するようになったのです。面白いのは、機械を入れればいいとか人を増やせばいい、ではないこと。機械は使い方次第ですし、動線など作業内容を検討したらかえって人数は減らせるそうです。
 もしも全国で1時間開票時間が短縮されると、節約効果は11億円だそうです。お金がすべてではありませんが、やはりでかいですねえ。
 最初に戻りますが、著者は「管理」では日本は良くならない、と主張します。あるべき姿は「経営」だと。そして、何度も強調されるのが「中央集権ではなくて地方分権。自分たちに最適な方法は、中央の指示や人まねではだめ。自分たちで現状を分析し改善策を考えなければならない」ことです。こういった場合に公務員がよく言う「今までと同じでよい」「どうせ自分たちには無理だ」は著者にあっさり却下されています。著者が求めるのは「地域からの民主主義」です。そしてそこで重要なのは、職員が自発的に自分たちの仕事に取り組む姿勢です。そういった姿勢は意識改革をしない限り出てこないのですから。




ベトナム戦争

2011-02-27 17:58:04 | Weblog

 私が「歴史」を意識するようになったは、小学生の時に読んだベトナム戦争に関する本がきっかけです(タイトルはおぼろですが『ぼくのベトナム戦争日記』だったかな)。当時は「○○村で戦闘があり、南ベトナム政府軍とアメリカ軍が6人死亡14人負傷、ベトコンは223人が死亡」なんて新聞報道が毎日ありましたが、ベトナムにもベトナム戦争にもそういった新聞報道“以前”の「歴史」があることがその本を読むことで初めてわかりました。
 ……新聞って、刹那的な知識の羅列は得意でも、知的な作業には向いていないメディアなのかもしれない、と思うようになったのもその頃からです。

【ただいま読書中】『テロルの決算』沢木耕太郎 著、 文藝春秋、1978年、980円

 昭和35年10月12日、日比谷公会堂の立会演説会場で、社会党の浅沼委員長は17歳の少年山口二矢(おとや)に刺殺されました。翌日の新聞で「識者」たちは「少年は誰かに使嗾されたにすぎない」と主張しました。しかし著者は、山口を「自立したテロリスト」と見ます。そして「自立したテロリストに狙われなければならない」理由に浅沼の生涯のドラマがある、と。
 著者は、山口の父親から話を始めます。そして山口の少年時代、なぜ彼が「右翼野郎」(高校でのあだ名)になっていったのかが丁寧に語られます。16歳の山口は、赤尾敏の愛国党に入党しますが、そこでの活動は赤尾さえもがその将来を危惧するほど先鋭的で暴力的なものでした。山口から見たら、赤尾の現実主義的な運動方針は生ぬるいものに見えました。結局山口は愛国党を脱退します。
 当時の日本では安保闘争が盛り上がっていました。それは少数派の右翼から見たらまるで巨大な赤化の波が日本を洗おうとしているかのように見えます。山口は自分にできることとして「左翼の指導者」を殺すことを決意します。リストアップされたのは6人。日教組委員長小林武、共産党議長野坂参三、社会党委員長浅沼稻次郎、自民党容共派の河野一郎と石橋湛山、そして三笠宮崇仁。実は浅沼は社会党右派で右翼に受けのよい人物でした。しかし第2回訪中で「米帝国主義は日中人民共同の敵」と発言し、それが右翼の憤激をかっていたのです。右翼はその「言葉」に反応しました。しかしその言葉には「背景」があったのです。本書ではその背景に分け入っていきます。
 浅沼は人気のある「庶民派の政治家」でした。しかし著者はその人生に「不思議な昏さ」を見ます。庶子としての出自。無産運動への接近(ちなみに、ここで述べられている「戦前の無産運動の3本柱がそのまま戦後に社会党に結集して、しかし決して混じらなかった」事実は、なかなか私には興味深いものでした)。
 浅沼の軌跡を見ていると、私にはそれが山口と重なる部分が多いように見えてきます。社会への不満や未来への強い危機感。改革への熱意と連続する暴力沙汰。種類は違いますが、強く信奉する「主義」を持っていること。そして「父」とも言うべき「指導者」の存在(あるいはそれへの渇望)。なんだか“相似形”のように見えるのです。
 戦争に反対していながら国が戦争に突入してからもそこで政治家として生きていくのはしんどいことですが、浅沼の悲劇はむしろ戦後に始まりました。寄り合い所帯の社会党で、右と左に挟まれてバックとなる勢力を欠いたまま一同をまとめなければならないのです。まるで自分を罰するかのようにストイックな態度で浅沼は全国をノンストップで走り回ります。そして、昭和32年と34年の訪中団。浅沼はその両方に団長として参加します。
 当時日中の関係は冷えきっていました。岸内閣は反中路線で、中国はそれに反発し貿易も文化交流も停止していました。そこに社会党の訪中です。社会党右派は中国にうまく使われてしまうのではないか、と危惧します。しかし、左派執行部は、知事選で敗北を重ねている現状打破のために中国から何らかの“政治的な土産”を手に入れて帰り、それによって選挙戦を有利にしようと考えていました。中国の対応は冷ややかでした。それをがらりと変えたのが、浅沼の演説でした。大自然との闘いを続けている中国人民の姿に敬服した、という内容でしたが、問題はその前段階の政治的な「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部。それらを本土から分離しているのはアメリカ帝国主義。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵と見なして戦わなければならないと思う」という部分でした。中国は熱烈歓迎のムードとなりますが、日本に送られた共同通信記者の要約「米国は日中共同の敵」という部分引用に福田赳夫が抗議電報を打ったことで、日本国内では一挙に「政治問題」が発生します。中国に安易に迎合して、卑屈な態度で貿易再開を乞うた、と。
 著者は悲しく書きます。「浅沼の真の悲劇とは、このような少年に命を狙われるということ自体にあるのではなく、彼の生涯で最も美しい自己表現の言葉が、ついに人々の耳に届くことなく、すべてが政治的な言語に翻訳されてしまったことにあったのかもしれない。」
 「敵」は自民党や右翼だけではありませんでした。日本のために、党のために、馬車馬のように働いていると、社会党内部の派閥のボスのエゴイズムによって浅沼は足を引っ張られます。「今とどこが違うんだろう」と現在の自民党や民主党のごたごたを思って私は呟きます。ほとんどなにも変わっていません。大きな違いは戦前の記憶をしっかり持った「浅沼」がいないことでしょうか。
 「テロリスト」を非難し断罪するのは容易です。政治家などの発言を部分引用して非難し断罪するのも容易です。しかし、それだけでは「真実」を知ることも、世界をより良くすることもできない、それが確かなことがよくわかる好著です。



難しい思春期

2011-02-26 17:58:23 | Weblog

 「可愛い子供」と「まともな大人」の中間形は、なんと表現したらよいでしょう?

【ただいま読書中】『シェイクスピア真髄 ──伝記的試論』J・D・ウィルソン 著、 小池規子 訳、 早稲田大学出版部、1977年

 『ファインマンさん ベストエッセイ』の序文で、フリーマン・ダイソンが自分の愛読書として本書をあげていたので、読んでみる気になりました。
 シェイクスピアについては、実はあまり詳しいことはわかっていません。1564年に出生、82年に8再年上の女性と結婚。そのへんまで他にはほとんど情報はありません。そして、92~94年にはもう名声を博しているのです。絶筆は48歳で、52歳で死亡。著者は「長老」ではなくて「若々しい詩人」としてシェイクスピアを捉えます。
 さらに著者は、シェイクスピアが生きたエリザベス朝時代~ジェイムズ一世時代を単なる“時代背景”ではなくて「シェイクスピアが生き、シェイクスピアを生みだした(われわれがそこから匂いや手触りを感じることができる)時代」として扱うことで、シェイクスピアについてなにがしかのことを述べようとしています。
 例えば当時の人にとって「魔術が存在すること」は“常識”でした。だったらシェイクスピアもそれを前提に脚本を書いたはずです。劇場の狭さ(せいぜいテニスコート程度)、舞台装置の“ない”ことなども、当時の演劇について想像するときに欠かせないポイントです(だから情景描写にせりふが使われます)。その上で著者は、シェークスピアが唄う「美」について熱情的に語ります。ほとんどラブレターのように。
 シェイクスピアとパトロンのサウサンプトン公との関係にも謎が多いのですが、そこでも著者は史料と想像力を駆使します。
 『ヴェニスの商人』のシャイロックの人物造型でも、シェイクスピアは天才の主義を使いました。「ユダヤ人の皮をかぶった悪魔」であると同時に「憐れむべき老人」でもあるように描いたのです。たしかにその意図は成功しています。私が『ヴェニスの商人』を初めて読んだのは小学生だったか中学生だったと思いますが、シャイロックをどう評価するべきか迷いに迷いましたもの。シェイクスピアの掌の上でまんまと踊らされてしまったわけです。さらに著者は「シャイロック」に、当時の社会にあった反ユダヤ人感情とそれに対するシェイクスピアの働きかけの意図も読み取ります。
 「複雑な人物造型」を「シャイロック」で行なったシェイクスピアは、次には「詩的創造物としてのキャラクターの発展」にチャレンジします。ここで本書に登場するのがフォールスタッフ。陽気で嘘つきで飲んだくれのデブ。著者はこの奇怪な人物にも「美」を見ます。この人物が舞台に登場したときには観衆に大興奮を巻き起こし、女王は『ヘンリー4世』の第二部を要求し、さらにはフォールスタッフが登場する別の芝居も要求しました(伝説によるとシェイクスピアは2週間で『ウィンザーの陽気な女房たち』を書き上げたそうです)。
 ジェイムズ一世の即位によってもたらされた時代の陰鬱さと歩調を合わせるように、シェイクスピアは喜劇を書かなくなります(そのへんの時代と人間関係の分析は、ぜひ本書をお読み下さい)。そして彼が描く悲劇は、「性格の悲劇」から「運命の悲劇」へと発展していきます。そしてその最高峰は『あらし』(テンペストのことですね)。著者はこの作品を、「詩」と定義し、さらに読むのではなくて劇場で“体験”するべきものとしています。
 本書を読んでいると、シェイクスピアについても体系的に読む(あるいは体験する)ことが必要か、と思えてきました。この世にはまだまだ魅力的な分野が私が知らないままいくらでも転がっています。私に残された時間で、そのうちのどのくらいに触れることができるのでしょうねえ。



土は食べられない

2011-02-25 18:33:58 | Weblog

 イデオロギーとか信念とか宗教的心情とかは、人にとっては土壌のようなもので、絶対に必要な基本的なものと言えるでしょう。でも、「この土を食え」と差し出されても困ります。ミミズではあるまいし、人は土を食っては生きていけません。
 人は、その土に種や苗を植えて育て、収穫した作物を食って生きていけるのですから、「俺が信じているのはこんなすごい土だぞ」ではなくて「俺が収穫したのはこんなすごい作物だぞ」と言うべきでしょう。「作物の育て方」が、その人の生き方で、それが素敵だったら「どうやったら同じような作物が収穫できるんだろう。やっぱり土作りからかな」と思ってもらえるでしょうから。

【ただいま読書中】『星の船』イワン・エフレーモフ 著、 飯田規和 訳、 早川書房、1969年

 ソ連に関する本を読んだので、ソ連のSF作家の作品を読むことにしました。
 第二次世界大戦が終わってまだそう時間が経っていないとき。シャトロフ教授の弟子ヴィクトルは、戦地で宇宙に関する独創的な理論を完成しましたが、その直後戦死します。そのノートを入手したシャトロフ教授は、ヴィクトルの研究を確認するためプルコヴォ天文台に出かけます(先日読んだ『攻防900日』でも攻防の焦点の一つとなった場所です)。
 一転、話は「地球」へ。海底の活動について述べられますが、まだプレートテクトニクス理論は世界で受け入れられていないのか、あるいはソ連では受け入れられていないのか、そのへんは匂わすだけで話はまた次のフェーズへ。
 こんどは恐竜の化石です。明らかに高性能の武器によって殺されたあとのある骨の化石。7000万年前に、銃?
 なんとも凄い仮説が登場します。銀河系の中での運動によって7000万年前に地球に近づいた恒星系に住む知性体が、宇宙空間を渡って地球にやってきたのではないか、と。そしてその痕跡が、恐竜の化石が集中してみられる場所に残っているのではないか、と。そこで大々的な発掘作業が「恐竜の墓場」で行なわれます。そこでついに発見されたものは……
 ストーリーは生硬で古さも感じさせますが、天文学と物理学と古生物学とを結びつけて一つのプロットを作るというのは、当時としては画期的だったのではないでしょうか。今でも読んでいて「センス・オブ・ワンダー」の残響を感じます。



観光客

2011-02-24 18:40:33 | Weblog

 ニュージーランドの地震で、たまたま観光で現地に滞在していた人のニュースをやっていました。運が悪かったなあと思うと同時に、たとえば阪神淡路地震の時にも現地には多くの外国人旅行者がいたのではないか、と思い至りました。彼らはどうやって自分たちの国に帰っていき、何を今感じているのでしょう?

【ただいま読書中】『攻防900日(下) ──包囲されたレニングラード』ハリソン・E・ソールズベリー 著、 大沢正 訳、 早川書房、1972年

 9月8日の最初の集中的な空襲は、市の食糧貯蔵庫を焼き尽くしました。そして、ドイツ軍によるレニングラード包囲網は完成します。市民はそれぞれ食糧を備蓄していましたが、9月11~12日の公式の調査では、レニングラードに在庫されている穀物・小麦粉・堅パンは35日分、雑穀とマカロニ30日分、肉類33日分……意外とある、というのが私の感想です。たとえば今東京が突然敵軍に包囲されて、1ヶ月分の食糧が確保できてます? 約290万人の市民と約50万人の軍隊を食わしていくために、食糧配給は減らされます。
 意外なことが起きます。ヒトラーがよくやる「勢いに乗った部隊の急ブレーキ」です。ソ連正史では「勇猛な部隊がドイツ軍を撃退した」となっていますが、本書では「ネバ河(幅数百ヤードの大河)を越える装備が不足していたためと、ヒトラーが『もう勝負がついたから機甲師団を早くモスクワ方面に回せ』と求めた」からではないかとしています。
 その時間を活かしてレニングラードは守りを固めます。学童も含む市民はバリケード建設などに従事し、博物館から火打ち石銃や先ごめ銃まで持ち出されます。さらに自爆装置も。市内の重要拠点には軒並み爆薬が大量にしかけられます。もしもドイツ軍が市内に突入した場合、「パリは燃えているか」ではなくて「レニングラードは燃えている」になったはずでした。
 しかし、ソ連軍の捨て身の抵抗やバルト艦隊からの艦砲射撃によって重大な損害をこうむり、冬に備えてドイツ軍は塹壕にこもります。包囲されたレニングラードでは、ドイツ軍(空襲と砲撃)にプラスして、冬将軍と飢餓将軍との戦いが始まりました。暖房も食糧もありません。そして、最初の餓死者は、はやくも最初の冬が来る前に出ました。配給は1日500Cal。あらゆる代用食が試され、紙や壁土を食べる人もいました。
 唯一残された「道」は、ラドガ湖(ヨーロッパ最大の湖)を横断するルートでした。しかしそこを往復するはしけ舟(往きは食糧を、復路は避難民を満載)はドイツ軍機のかっこうの餌食でした。運び込めた食糧は、必要量の1/3程度です。そして11月になると湖は結氷。市の食糧在庫は数日分となります。配給はさらに切り詰められます。それはそのまま数千人の餓死を意味していました。しかし他の手はなかったのです。
 ソ連の中枢部での人間関係(たとえば、秘密警察の長ベリアを敵に回すかどうか)で戦局が左右される、というぞっとする描写もあります。
 長い冬が始まります。しかし、ソ連軍の捨て身の反攻が行なわれ、そして、厚く氷結したラドガ湖の上に「命の綱(氷上道路)」が作られます。痩せさらばえた馬でひく橇での物資輸送の開始です。食糧の残りは二日分。氷上道路が“使える”ことがわかり氷が厚くなるにつれ、トラックが投入され輸送量は増えます。それでも輸送量は必要量の1/3。12月の死者数は53000人(1940年の1年分と同じ)。市内で包装用資材の予備を持っていたのはただ一箇所、エルミタージュ美術館でした。美術館では棺桶作りに追われることになります。ただしそれも美術館の大工が死ぬまでのことでした。市内には子供用の橇が目立つようになります。それに積まれているのは、死体でした。土地は氷結し、共同墓地では工兵が爆破して作った塹壕に死体がまとめて放り込まれました(黒死病のときのロンドンを私は思い起こします)。新手の犯罪も発生します。食糧(あるいは配給手帳)目当ての強盗です。ギャングの中には、市民も軍人も、ドイツのスパイも混じっていました。「内部の戦争」も始まったのです。痩せて弱った人々の群れの中に、異常に血色がよく元気いっぱいの人も混じっていました。市場には得体の知れない「ミートパイ」が出回ります。「人食い」の噂が流れました。
 ただ、大量の餓死者(一日に数千人)によって、食糧事情はやや好転します。さらに氷上道路が機能することで食糧が流入し大量の疎開も可能となりました。
 包囲が始まって250日、春になったとき市内にはまだ110万人が残っていました。氷が溶けたら氷上道路はもう使えません。包囲はまだ続いていました。そして……
 後日談があります。ナチスに生き残ったレニングラードは、次にはクレムリンに対して生き残らなければなりませんでした。粛清と追放と歴史の改変の嵐が吹き荒れる「レニングラード事件」です。あまりの救いのなさに、ため息しか出ません。自分が生まれたのがソ連でなくてよかったと、つくづく思います。



ロシア遠征

2011-02-23 18:43:03 | Weblog
ナポレオンがロシア遠征に失敗したのは史実ですが、どうして彼は、首都であるサンクト・ペテルブルグではなくてモスクワを目指したのでしょう。日本占領を狙う軍隊が、東京ではなくて京都を目指すような感じに見えるのですが。それとも皇帝がモスクワに“疎開”していたのかな?

【ただいま読書中】『攻防900日(上) ──包囲されたレニングラード』ハリソン・E・ソールズベリー 著、 大沢正 訳、 早川書房、1972年

毛利元就は尼子の本城である月山富田城を3年間包囲して陥落させました。ただし包囲されたのは「城」です。本書では、大国の「大都市」が900日も包囲されて何が起きたか、が主にソ連人に対する膨大なインタビューをもとに描写されます。
1703年ピョートル大帝は西方への要塞として現在のレニングラードの地に都を築きました。つまりレニングラードは、歴史的に軍事都市なのです。ただし、あまりに国境(フィンランドとエストニア)に近いため、レーニンは1918年に首都をモスクワに“臨時に”移しました(1922年にはそれが“正式”になっています)。第二次世界大戦直前にレニングラードは人口300万人、ソ連第二の都市でした。
スターリンはヒトラーの約束(不可侵条約)を信じていました。西(ドイツ軍に対峙する地域)からの報告だけではなくて東からの報告(東京のゾルゲからの詳細な情報)もまったく無視。防衛の準備でさえ「ドイツ軍を挑発するのか」と叱責します。だからバルバロッサ作戦が発動して420万人のドイツ軍がなだれ込んできたとき、290万人のソ連軍は“準備”ができていませんでした。さらに、高級将校に対するスターリンの徹底的な粛清(歴戦の勇士や優秀な者を優先的に銃殺あるいはシベリア送り)が、赤軍を弱体化させていました。
レニングラードは重工業都市で、ソ連の全工業生産の10%を生産していました。後日ドイツ軍を驚かせることになる新型KV重戦車(重量60トン!)もここで生産されていました。民生工場も次々軍需品生産に転用されます。要塞工事が突貫で行なわれ、エルミタージュからは大量の美術品が鉄道で疎開しました。
ドイツ軍に殲滅された正規軍の穴埋めは、まずは志願兵でした。レニングラードで募集が始まると1週間で10万人が志願入隊しました。志願者の中にはショスタコーヴィッチもいましたが(幸いにも)彼は採用されず対空警防の仕事を与えられました。最終的に義勇軍師団は7個師団(10万人以上)の規模で計画されますが、武器が足らずライフルを持たないまま出撃する者が多くいる状態でした。人減らしも兼ねて子供たちは無計画に疎開させられますが、バルト諸国からは大量の避難民が流入してきました。
スターリンは、ヒトラーに“裏切られた”ショックで1箇月くらい引き籠もっていました。やっと“復活”したスターリンは、レニングラードの要塞責任者に直接電話して直接指令(どこそこにバリケードを作れ、市民を準備させろ、など)を与えました。いたら、極端な中央集権でしかも失敗を恐れるあまり現場の動きが停滞しますが、いたらいたで迷惑な存在です。その結果、ドイツ軍に対して身命を賭して戦った人たちが、後に“反逆”の疑い(ドイツ軍に撃破されたこと自体が“有罪”)で処刑されることになりました。手足を縛っておいて、それに逆らったら銃殺。手足を縛っておいて、それで敵に負けたらそれも銃殺、なのです。
ただしソ連軍も負け一方ではありませんでした。たとえば3倍の戦力のフィンランド軍(直前のソ連・フィンランド戦争で恨み骨髄状態でした)に対して名将メレツコフ将軍はなんとか膠着状態に持ち込んでいたのです。これにより、ドイツとフィンランドが“握手”して一挙にモスクワを抜くヒトラーの算段が狂ってしまいました。
『バルバロッサ作戦』(パウル・カレル)は“視点”をドイツ側に置いていましたが、本書はソ連側です(西側の人間なのに、冷戦下にここまで広くソ連人にインタビューできたのは、驚きです)。ですから『バルバロッサ作戦』で「工場から出荷された戦車は、無塗装で工員を乗せたまま戦場に突入した」などと簡単に描かれている“裏側”が下巻では詳細に記述されているのではないか、と期待しつつ、上巻はここまで。



パンダ

2011-02-22 18:46:48 | Weblog
昨日のニュース。パンダが到着したと盛んに言っていました。私は昔のことを思い出します。カンカンとランランが到着したときには、本当に日本中が大騒ぎだった記憶があるものですから。だけど今は、現場の記者が「檻の中で、白と黒の動物が動いています! パンダでしょうか!?」と大げさな口調で空騒ぎをしているだけ。
しかし、パンダの檻の中にいるのはパンダだと思います。別に騒ぐことではありません。むしろ、パンダの檻の中にパンダではないものがいた場合に大騒ぎするべきでしょう。マスコミもそろそろ「煽ればいい」から卒業して欲しいものです。
さて、来年にでも、スカイツリーとパンダ見物にでも行こうかな。

【ただいま読書中】『高橋是清伝』高橋是清 口述、上塚司 筆録、矢島裕紀彦 現代語訳、小学館、1997年

著者は安政元年(1854)の生まれですが、生後すぐに仙台藩の足軽高橋家に里子に出されました。父親は幕府お抱えの絵師でしたが母親はそこの侍女で幕府に実子として届けることができなかったようです。
元治元年(桜田門外の変の直後)、仙台藩は若者を洋学修行させることにします。選ばれたのが12歳の著者です。横浜でヘボン夫人に英語を習い、アメリカに留学することになります。しかし著者はヤンチャです。よからぬ者と交際したり大酒をかっくらってせっかくもらった餞別の大金を飲み干してしまったり……って、まだ14歳の時ですよね。で、アメリカではなかなか思うようにならず、とうとう身売りの証文にうっかりサインをしてしまいます。奴隷売買は公式には禁止されていたはずですが、東洋人にはOKだったのかしら。
日本からは明治維新の話が伝わってきます。日本人留学生たちは気が気ではありません。著者も急いで帰りますが、仙台藩は賊軍。著者は一時森有礼のところに身を寄せて教育を受け、明治2年に大学南校(東大の前身)ができるとそこに入学。ところが英語ができるものだから“教える側”に回されてしまいます。さらに、降伏した仙台藩では尊王攘夷派が台頭していて洋学者は危険だったため、森有礼が著者らの身をもらい受けます。かくして著者は鹿児島藩士族森有礼附籍となります。ところがまたヤンチャの虫がうずうずと。著者は茶屋遊びを覚えてしまったのです。身を持ちくずしてしまいますが、そこで唐津藩の英語学校教師の口が。攘夷気分が濃厚な地へ著者は乗り込みます。
東京へ戻ってきたのは明治5年(19歳)のとき。これまでも「運命の変転」を嫌と言うほど味わっているはずなのに、ここからもまたあっちに行ったりこっちに行ったり、著者の運命は大忙しです。酒を飲み過ぎて血を吐いたり、詐欺に引っかかったり、翻訳で大忙しだったり、相場に手を出して大損をしてみたり……ただ、そこで「ちぇっ」でやめないところが著者の性格でしょう。相場を研究しようというので自分で仲買の店を出して実地に金を動かしてみています。そうこうしていたら、またお役所から口がかかり、専売特許所長を拝命。特許の調査研究で欧米諸国を回り、日本の特許制度を整備します。するとこんどは、ペルーの銀山経営の話が降ってきます。山師によって話がふくらみすぎ、結局著者(たち)は大損をすることになります、というか、美味い話で大損をするのは著者はこれで何回目でしたっけ?(新聞は面白可笑しく書き立てますが、内情はけっこうシビアな話が並んでいます) 
たとえ金を失うにしても、これまでは再起ができるだけの財産を著者は残すようにしていました。だから官途についても平気で上司と喧嘩できます。いつでもやめられるわけですから。ところがこんどは財産がとことんなくなってしまっています。そこで、官途ではなくて、実業界に著者は出ていきます。日本銀行本館建築の管理です。そこでの働きぶりは、木下藤吉郎のエピソードを思わせる痛快ぶり。ダテにこれまで苦労はしていません。人と金を上手く使うことがどんなことか、著者は身をもって示します。その効が認められ日銀に正式採用、ついで横浜正金銀行に日銀から派遣されます。そして、日銀の内部紛争で危機となったときに副総裁に。日露戦争の戦費調達で外債発行がどのくらい可能かも、戦争のずいぶん前から日本帝国政府が探っていたこともわかります。そして実際に外債を募集する難事業は、著者に任されました。著者は「日本という国そのもの」と「戦争の行方」を危ぶむ銀行などを相手に、担保として提供できる関税や専売の益金をいかに有効に使うかに腐心します。幸い米・英・独で募債は大人気。予定どおりの資金調達ができます。しかし、ポーツマス条約での賠償金なしを不満に思った人による東京での争乱によって、海外の投資家は日本に不安を抱きます。困った著者はパリに飛び、パリ・ロスチャイルド家を説得してしまいます。
印象的なのは、著者が「耳を傾ける姿勢」を示すことです。もちろん主張するべきは頑強に主張する。しかし、情報を広く集め、利益と論理だけではなくて情も重要視した交渉を行なっています。
本書はここで終わりますが、このあと著者は、総理大臣を2回、大蔵大臣は7回もやって(やらされて)います。日本が難局に直面するたびに「あんたしかいない」と言われて。
本書のもとになった『高橋是清自傳』が発行されたのは昭和11年2月9日。「2・26事件」で高橋是清が殺される17日前のことでした。日本が困ったときには「私、事態をこじらせる人、あなた、それを何とかする人」と常に何とかすることを求められ続けた人は、最後に「私、あなたを殺す人」に殺されてしまったのでした。



レール

2011-02-21 18:43:47 | Weblog
「レールから外れることを許されない人生なんて!」と言う人がいます。たしかにそれはつまらない人生かもしれませんが、その「レール」を敷く(そしてその保守点検の)ために先人がどのくらい苦労したのか、もちょっと考えてみる価値があるような気がします。

【ただいま読書中】『ミラーニューロン』ジャコモ・リゾラッティ/コラド・シニガリア 著、 柴田裕之 訳、 茂木健一郎 監修、紀伊國屋書店、2009年、2300円(税別)

「行為」が「目的指向」のものである以上、それは単なる「運動」ではありません。知覚プロセス/認知プロセス/運動プロセスは密接な関係を持っているのです。本書は「脳科学」の本で、昨年9月に読んだ『ミラーニューロンの発見』(マルコ・イアコボーニ)よりもずいぶん「硬い本」となっています。なにしろ第一章が脳の運動野についての詳しい解説なのですから(私だったらツカミは「驚くべき実験結果」から始めて、なぜそれが「驚くべき」なのかの解説につないでいくでしょうね)。ただ、ここで掴むべきは「脳は複雑」「運動は脳のあちこちで“分業”して担当されている」「それぞれの運動はどこかで“連合”している」といった概念だけで充分でしょう。そしてその「連合」の一つの手段が、ミラーニューロンです。
他者の行為を見たとたん、それはミラーニューロンの働きによって私たちの「内部」で意味を持ちます。その逆も成立します。私たちの行為を見た瞬間、それは他者にとって意味を持ちます。ミラーニューロン系によって「行為の共有空間」が構築され、そこで「他者(行為と意図)の理解」が行なわれるのです。
ところで「模倣」とは何でしょう。本書には二つの定義が登場します。「個体が自分の運動レパートリーにすでに属する行為を他者が実行するのを見て、それを再現する能力(実験心理学)」「個体が観察によって新しい行為のパターンを学習し、以後それを細部に至るまで再現できるようになるプロセス(動物行動学)」。さらにそこにコミュニケーションの話が絡みます。まずは「動作による言語」がありますがそれは不完全でほとんどは「模倣的表象」と結びついています。それがのちに音声体系と統合されて、人は言葉によるコミュニケーションが可能になった、と言うのです。実際に言語に関係するミラーニューロン系は、口だけではなくて手にも存在しています。ノンバーバルコミュニケーションがいかに重要なものか、神経を研究するだけで見えてくる、というのは感動的ですらあります。
マルコ・イアコボーニがまるで知的な冒険家のように想像の翼を広げるのと対照的に、本書で著者は堅実な科学者のスタンス(細かい事実の積み上げ)を崩しません。そういえば、マルコ・イアコボーニはフッサールをよく引用するのに対して、こちらではポアンカレがよく引用されています。これは研究者のキャラクターによるものなのでしょうね。読み物のような入門書を読みたかったら『ミラーニューロンの発見』を、詳しい説明とカラフルな脳の絵をたくさん見たかったら本書をお薦めです。



注目

2011-02-20 18:06:10 | Weblog
マスコミはよく「世界中が注目しています」なんて言い方をしますが(最近だったらエジプト革命とかその後のイスラム世界関連のニュースとかで)、その「注目」だけで何かが劇的に変わったことって、どのくらいありましたっけ?

【ただいま読書中】『ボリビア移民の真実』寺神戸嚝 著、 芙蓉書房出版、2009年、1900円(税別)

1959年、財団法人日本海外協会連合会(JICAの前々身)の職員だった著者(当時26歳)は、移民の営農支援のためにサンファンに着任し、6年半在勤しました。
サンファン入植地は、サンタクルス市から130km。移民たちは荷物を牛車に積み徒歩で移動しました。もちろん道は未舗装で、川には橋はありません。さらに、サンファン地区内には(事前の説明に相違して)道そのものがありません。「約束が違う」と怒る移民たちに、日本政府は「測量はする。道路は自分たちで造れ。緊急融資で金は貸す。ちゃんと返せ」と。
日本の役所では「移民」ではなくて「海外移住者」と呼ぶそうです。「者」が「移住」を決断したのですから、その決断の結果については自己責任だ、と。ただ、海外で農業をする訓練もなし、生活に関する情報提供もなし、販路開拓もなし、ではさすがに気が引けたのか、「海外移住」再開後3年経ってから、外務省の外郭団体である日本海外協会連合会に、新卒農学士を8人採用させます。それで採用された著者は「研修」で「そのへんの本でも読んでおいて」と指示されます。さらに、毎週土曜日に東大の農学部で熱帯農業の講座が受けられました。それでめでたく「外地要員」の誕生です。
日本政府がいかに「移民」に興味がなかったか、よくわかります。現地の状況も調べずとにかく移民を送り出し、悲鳴が聞こえてきてから「調査」を始めるのですから。それも自分でやるのではなくて外郭団体にお任せで。(これはボリビアだけの話ではありません。同時期のドミニカ移民の裁判(日本政府のやり口がひどすぎる、という訴え)が、2006年に判決が出たのを覚えている人は多いはずです)
移民が住むのは掘っ立て小屋。ジャングルは強い酸性土壌のため焼き畑農業ですが、切り開いた頃に雨期になります。日本では考えられないほどの強い雨が降り続き、農業はできません。著者は営農に関する「責任者」として苦闘しますが、それに余分な圧力を加えるのが、政治家や官僚が唱える「自説」「机上の空論」です。本書にもとんでもない言動をする国会議員や高級官僚が実名で登場しますが、もの知らずで自信たっぷりの権力者って、有害無益な存在であることがよくわかります。さらに、入植者の現状よりは自分の昼食の心配をしているらしい“視察者”、宗教(「S学会」ですって……)の目に余る折伏運動。暴力事件、殺人事件…… 著者の苦労は絶え間がありません。
日本政府がどのくらい自国の国民に対して興味を持っているのかを知りたかったら、その“参考書”として役に立ちそうな本です。お役所の無責任ぶりは、そのへんの不条理ギャグマンガを突き抜けていますよ。



自然なレース

2011-02-19 17:54:13 | Weblog
マラソンで、いつのまにか「ペースメーカー」が公認の存在となっています。
設定されたスピードで走るペースメーカーに従って、有力選手たちは前半は無用な争いはせずに先頭集団を形成して、勝負は後半で、というストーリーなのでしょう。こうすれば前半から駆け引きだけやってスローペースになってしまって、ということが避けられます。ただ、ペースメーカーの選手の腕(というか脚)によって、きちんとしたペースが出せない場合があります。
いっそ、たとえばASIMO(高速走行タイプ)に「1kmを3分3秒」とか設定してペースメーカーとして走らせるのはどうでしょう。あまりに機械的すぎて面白くない? というか、機械仕掛けの兎を追うドッグレースみたいになっちゃうかな。もっとも「機械仕掛けの兎」を人間のペースメーカーがやっているマラソンレースが、隅から隅まで「自然」なものか、と言われたら私は迷ってしまうのですが。

【ただいま読書中】『ガルガンチュワとパンタグリュエル 第二之書 パンタグリュエル物語』フランソワ・ラブレー 著、 渡邊一夫 訳、 白水社、1947年(51年3刷)、450圓

「作者の序詞」は77ページに置かれていますから、「第一之書」よりは訳者の解説は短くなっていますが、それにしてもたくさん言いたいことがある訳者だなあ、と思います。資料(というか、史料?)として読むにはありがたいんですけどね。
パンタグリュエルの先祖列挙は、聖書のパロディでしょうか。ともかく、パンタグリュエルは、ガルガンチュワが524歳の時の子供です。出産がまたお祭り騒ぎ。パンタグリュエルに先立って、騾馬一頭ずつ引いた騾馬引きが68人、荷物満載のヒトコブラクダ9頭とフタコブラクダ7匹、荷車が25両も出てきて産婆たちを驚かせます。それからやっとパンタグリュエルが生まれ出てくるのですから、母親のバドベックのお腹の中は一体どうなっていたんでしょうねえ。
父親のガルガンチュワの気持ちは複雑です。息子の誕生は歓びですが、そのためにお妃のバドベックが死んでしまったのです。ガルガンチュワは、泣き、笑います。
ふつうだったらここで、父親と対比させながらパンタグリュエルの成長ぶりの異様さが述べられるところでしょうが、本書が「第一之書」より先に書かれているため、ここではパンタグリュエルのことだけが次々述べられます。「第一之書」と同工異曲に感じてしまいますが、これは発表されたとおりの順番に読まない読者の“わがまま”かな。
長じてパンタグリュエルはパリの大学で学びますが、そこで読んだ本一覧がすごい。バカ田大学の必読書一覧よりも凄いのではないでしょうか。『救ヒノ竿』『強直法理股袋』『法令集上靴』『宮仕へして欺かる』『般若湯寄せ』……などの面白そうな本のタイトルだけが10ページにわたって列挙されているのですよ。もう、まともに読んでいたら笑い転げてなかなかページがめくれません。私にはわかりませんが、たぶんどの本にも元ネタがあるのでしょうね。
パンタグリュエルはパニュルジュという家来というか友人を得ますが、これがまたとんでもない変わり者。キャラ立ちの点で、パンタグリュエルを食っているかもしれません。そうそう、パニュルジュが知恵自慢のイギリス人との“対決”で、身ぶり手真似で“議論”をしてぺちゃんこにしてしまう挿話があるのですが、片方の勝手な解釈で思いもかけぬ勝ち負けとなる、というのはたしか日本(の落語だったかな?)にもありましたね。本書の方ではジェスチャーの解釈が秘密にされているので、イギリス人がどんな誤解をしたのわからないのが残念です。
そして「戦争」。家来たちが大活躍で、パンタグリュエル王は詩を書いたりおならをしたりで忙しくしています。なにしろそのおならで、転失気から5万人の小人が、透屁からは5万人の小人女が生まれてくるのですから……って、日本神話ですか?
戦争は大勝利。しかし家来のエピステモンが、首を切り落とされて死んでしまいます。パンタグリュエルの悲しみようと言ったら。そこでパニュルジュが秘術を尽くして生き返らせます。さて、エピステモンがかいま見た「あの世」とは……歴史上の有名人や法王たちが筆舌に尽くしがたいひどい目に遭っているのです。これ、“真面目”な教会人が見たら、自分たちに対する「宣戦布告」に思えたのではないでしょうか。もっとも著者は「貧しきものは幸いなるかな」を書いただけだ、と抗弁するつもりだったでしょうけれど。ただ「一體全體この世の王様方と申すものは、要するに頓馬な犢野郎にすぎませず、何にも出来ず何の値打ちもございませぬ」とパニュルジュに言わせているのは、もしつつかれたらどう抗弁するつもりだったのか、興味があります。「イスラムの王、限定」かな。