【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

精神論

2015-01-31 06:58:27 | Weblog

 雪の朝、テレビの画面が少し小さくなってその周囲に文字情報が出ています。見ると「雪に注意」なんて書いてありました。
 あのう……雪が降っていることは外を見たらわかります。私が知りたいのは、道路での渋滞状況とか交通機関が動いているかどうかの「情報」であって「気をつけろ」の「お説教」ではないのですよ。

【ただいま読書中】『トワイライトゾーン ──超次元の体験』ロバート・ブロック 著、 安達昭雄 訳、 角川書店、1983年、1200円

目次「ビル」「ブルーム」「ヘレン」「ヴァランタイン」
 全部、素っ気なく人名です。

 「ビル」……ユダヤ人と黒人とアジア人を憎悪するビルは、何の因果か、ナチスにはユダヤ人と間違えられ、KKKには黒人と勘違いされ、米軍兵士にはチャーリー(ベトコン)として追われることになってしまいます。必死に逃げ回るビルは「自分は米国人で白人だ」と主張しますが、誰も聞いてくれません。悪夢の中を逃げ回り、そして最後に彼が捧げた祈りの内容は……
 「ブルーム」……老人施設に入居したブルームは、窓の向こうの黄昏(トワイライト)の中で遊ぶ子供たちの姿を見つめます。そして、新しく同居することになった人々に尋ねます。子供の頃にどんな遊びをしていたのか、と。ブルームが提案したのは、深夜の缶蹴りを実行することでした。童心に返って遊びに興じる老人たち。すると、不思議なことが起きます。「子供たち」が出現したのです。そしてブルームは旅立ちます。
 「ヘレン」……それまでの自分の生活から逃げ出した教師のヘレン。彼女は田舎のドライブインで不思議な少年と出会います。少年に案内されて訪れた彼の家には、不思議な家族が住んでいました。まるで少年に支配されているかのような異様な雰囲気の家族が。ヘレンはそこで、少年が持つ超常的な能力を知り、そしてある重大な決心をします。
 「ヴァランタイン」……私が知る限り、「トワイライトゾーン」の中では最も有名なエピソードかもしれません。トワイライトの中を飛ぶ飛行機。飛行機旅行が死ぬほど嫌いなヴァランタインは、仕事で仕方なくその中に座っていました。飛行機は雷雨に突っ込み、ヴァランタインは自分が「墜落」に対する病的な恐怖を持っていることを自覚します。そして、窓から外を見たヴァランタインは信じられないものを目撃します。エンジンにまたがっている全身銀色の人間……あるいは人間の形をした何か。そいつは、エンジンにまたがっているだけではなくて、それを破壊しようとしているのです。
 いやもう、「アメリカの日常生活」からほんのちょっとシフトしたところにある異次元の恐怖、といった感じの話が続きます。これは、丹念に描かれた「日常生活」をよく知った人でないと、その恐怖を本当に味わうことはできないでしょうね。私もぼんやり想像できるだけですが、それでもこれだけの恐怖と不条理感を味わうことができるのですから、アメリカ人だったら本当に楽しめそうです。


捏造で儲けた人

2015-01-30 07:23:50 | Weblog

 最近印象的だった“事件”の中に「論文の捏造」と「難聴の作曲家であると周囲を騙る」ものがありました。もちろん「その“主犯”」についていろいろ思うことはありますが、こういった場合にあまり語られることがない“主犯の周囲にいて、ちゃっかり利益を得た人間”についても見過ごしてはいけないのではないか、と思うことがあります。そういった“共犯者”は絶対いると思うんですよね。上手く立ち回って“利益”を得て、捏造がばれたらまたまた上手く立ち回って「責める側」あるいは「騙された被害者」の立場に自分を置いて、“損害”を被らないようにしている人たちが。
 ただ、そういった人たちって、「自分に利益をもたらしてくれていたものを告発によって世間にその正体をバラしてくれた人」に対しては絶対に恨みを抱いているはずです。だから告発者に対しては、極力辛く当たるようにしているのではないかしら。

【ただいま読書中】『考古学崩壊 ──前期旧石器捏造事件の真相』竹岡俊樹 著、 勉誠出版、2014年、3200円(税別)

 1949年に岩宿遺跡が発掘されてから、前期旧石器時代の遺跡発掘競争が日本では始まりました。ここで「発見された“石器”は本当に人工物か」「発見された地層は確かか」で激しい論争が繰り広げられます。しかし20世紀末に主に宮城県で次々と石器が発見され、考古学史は大きく塗り替えられていきました。
 このときの“熱気”を私は覚えています。数万年前がすぐに10万年前、20万年前、と数字がどんどん大きくなっていき、そのうち100万年前の遺跡も見つかるのではないか、という“景気”のよい話も言われていましたっけ。しかし、ヨーロッパでネアンデルタール人が現生人類に置き換わっていったのは10万~20万年前のことだったはず、日本列島では現生人類の“前”に、誰が住んでいたのだろう、とも私は思いましたっけ(ちなみに現生人類の御先祖がアフリカを出たのは20万年くらい前のことです)。
 そのとき盛んに喧伝されたのが「神の手」藤村でした。彼が行く先々で、石器が次々発見されるのです。しかし著者の目からはそれは縄文時代の石器がなぜか旧石器時代の地層から都合良く発見されるだけに見えました。著者は批判論文を書きますが、学会は「神の手に対する個人攻撃」として相手にしません。そして、毎日新聞のスクープが。「捏造発覚」です。
 捏造が発覚して、それで事態はさらに混沌とします。鮮やかに“転身”した人たちは、攻撃は最良の防御、と攻め始めます。その対象は“スケープゴート”となった藤村や彼に極めて近い人たちのこともありますが、あろうことか、捏造発覚前から疑念を公表していた著者らもまた攻撃の対象になったのです。人間は保身のためならなんでもやるんだな、と感じます。また、そこまでやらなければ“出世”は望めないのでしょう。
 本書で語られるのは「個人の犯罪」だけではありません。それを“サポート”する学会やマスコミの“病理”がけっこう強い口調で語られます。これを読んでいて私が連想したのが「STAP細胞騒動」です。“病理構造”は、ほとんど同じではありませんか?
 おっと、STAPよりもっともっと前のことも思い出さなければいけませんね。たとえば太平洋戦争の敗戦です。きちんとした検証もせずうやむやにスケープゴートにだけ責任を押しつけて解決するべき本当に重要な問題を隠蔽する態度は、この石器捏造とよく似ていますから。日本人の態度は、実は歴史的には首尾一貫しているのかもしれません。


こまごま

2015-01-29 07:30:43 | Weblog

 「どんな単語を使うかなんて、こまごまとした議論」と公言する政治家もいますが、どのような単語を使うか/てにをははどうするか、なんてことに細かく神経を使うのが「言葉で“商売”するプロ」の基本姿勢、と私は思っています。作家とか評論家とか学者などはそういった「プロ」ですが、政治家もまた「言葉で“商売”するプロ」の一員ではないのかな?
 もし本当に「どんな単語を使うかなんてのはこまごまとした問題」なのだったら、「敗戦」「侵略」「反省」なんて単語を使うかどうかも気にせずにあっさり使ったら良いのに、と思います。本当に「こまごまとした問題」と思っているのなら、ですが。その場合には「どんな単語を使うかは細々とした問題」なんでしょ? 気にしなくて良い。
 だけどもしも本心では「こまごまとしたものではない」と思っているのに口では「そんなのはこまごまとしたもの」と言っているのなら、そんな人の言葉がどこまで信頼できるのか、と私は思います。

【ただいま読書中】『証言=明治維新 11月5日大村益次郎暗殺さる』川野京輔 著、 ビッグフォー出版、1977年、1700円

 戸籍帳によると、文政八年(1825)五月三日周防国吉城郡鋳銭村の村医者村田家に大村益次郎は生まれました。幼名は宗太郎。宗太郎の生家は漢方医でしたが、蔵六と名をあらため十八歳で蘭方医に弟子入りします。蔵六の知識欲には果てがなく、二十二歳で大阪適塾に入門。しかしすぐに長崎に遊学します。著者は、当時の適塾のオランダ語の水準を蔵六がすでに越えていたからではないか、と推測しています。伝説ではそこでシーボルトとの出会いがあるのですが、実際にはそのときシーボルトはすでに国外追放をされていました。しかしオランダ人や通詞との交流は豊富にできました。そこで蔵六は、蘭方医学だけではなくて、西洋の合理主義などを吸収します。
 大頭で怪異な風貌から、適塾では「火吹きダルマ」とあだ名された蔵六は、群を抜いた蘭学の知識と西洋流の合理主義でも、有象無象とは一線を画する存在になります。
 嘉永三年(1850)蔵六は突然帰郷して開業しますが、医者としては全然はやりませんでした。そこで嘉永六年、宇和島藩からの誘いに乗って仕官をします。なんと百石という破格の待遇でした。武士でも上士の待遇です。富国強兵に熱心だった藩主宗城は、高野長英の後継として蔵六に期待をしていたようです。そして、村田蔵六を宇和島藩に推薦した一人、二宮敬作の家には、シーボルトの娘おいねが養育されていました。ここから二人のロマンスの伝説が始まります。
 蔵六は医者ですが、原書が読めました。その原書の中には軍事の本も含まれています。そこで人々は「軍事の原書を読める」→「軍事の専門家」という期待をします。蔵六もその期待に応えようとして盛んに勉強をしました。安政年間には、宇和島藩士の身分のままで幕府の講武所の助教授に任じられます。その有能さと勤勉さでどんどん世に知られるようになりましたが、粗衣で無礼、怪異な容貌、しかし口を開けば理路整然という、ある種の人間には大いに煙たがられるタイプの人間です。これがスポーツの世界だったら、「熱血指導」だけが売り物の指導者には「自分の言うことを聞かない優秀で有能なアスリートやコーチ」ということでひどく憎まれるでしょう。江戸で蔵六は知己を増やしますが、その中で特に重要だったのが、久坂玄瑞と桂小五郎でした。蔵六は尊皇攘夷にも開国にも興味はありませんが、自分の軍事専門家としての能力は現場で試したいと思っていました。そして、自分の故郷の人間とのつながりが、そのために重要なものになっていくのです。ちなみに桂小五郎も「理性」を重要視するタイプの人間で、だから後に大村益次郎が暗殺されたときに、政府要人の中で一番悲しんだそうです。ちなみに、薩摩の出身者たち・長州も含むこちこちの尊皇攘夷派などで、益次郎の死を喜んだ人間も多かったそうですが。ともかく桂小五郎の尽力で蔵六は宇和島藩から長州藩に異動、兵学と医学の教授となります。そこで高杉晋作が組織した奇兵隊が「戦闘は武士に限定」という「江戸の常識」を覆したのを現実のものとして目にしたことは、蔵六、おっと、この時にはもう藩命で益次郎に改名していたから大村益次郎に、大きな影響を与えたことでしょう。益次郎は「長州国民戦争」の構想を立てます。「国民皆兵」です。これは「武器を持つ特権」によって「自分たちが一番エライ」と思っている侍には大きな衝撃でした。しかし幕府の征討軍が押し寄せてきている以上、どんな手でも使って戦わなければなりません。益次郎は石州口の指揮官として“実戦デビュー”をします。局地戦の戦況だけではなくて、大局を見ながら作戦を立てるのですから、実に鮮やかな勝ち戦です。
 そして「官軍」でも大村益次郎の活躍は続きます。しかし「村医者上がりの長州者」に対する反発はどんどん盛り上がっていきました。上野の彰義隊を攻めるときも、薩摩の参謀たちは益次郎が何を言ってもすべて反対します。しかし益次郎はそういった参謀を解任し、とうとう自分の意見を通し、さらに快勝をしてしまいます。反対者の立場は根底からなくなってしまいます。こうして益次郎に恨みを抱いた人物の一人に海江田信義がいますが、彼がのちに大村益次郎暗殺の舞台となった京都で弾正台の責任者をやっていて、犯人の処罰を避けようとしたのには、いろいろきな臭い噂が流れました。
 大村益次郎がもう少し世渡りが上手だったら暗殺はなくて明治維新はもう少し違った形になっていたかもしれない、と私は夢想します。「ご親兵」を出すとなると「どの藩から兵を出すか」で熱い議論になる時代に、「藩ではなくて国」「武士による武力ではなくて国民皆兵」を構想できる人間だったのですから。
 こういった人は、幕末~明治期に限らず、平成の世でも人気はないだろう、と私は感じます。だけど、自分の大言壮語に酔って刀を振り回すだけの人間と、どちらが日本にとって有為の人かは、明らかだと思うんですけどね。


自由の代償

2015-01-28 06:34:05 | Weblog

 自由のために死ぬ、よりも、自由のために生きる方が良さそうだし、自由に生きている、はもっと良さそうです。

【ただいま読書中】『ベロ出しチョンマ』斎藤隆介 著、 滝平二郎 絵、理論社、1967年(96年100刷)、951円(税別)

 「涙をいっぱいためてしんぼうすると、そのやさしさと、けなげさが、花になって咲き出す」「命を捨ててやさしいことをしたら山が生まれる」とプロローグで語られます。本書はそうして生まれた山あいのお花畑の物語です。
 子供時代に初めて読んだときに感じた心の震えが、何十年も経っての再読でも再現されます。「ベロ出しチョンマ」「モチモチの木」「もんがく」……
 子供の時にこういった作品を読んでいるから、今でも心が動くのか、優れた童話には年齢に無関係に人の心を動かす働きがあるのか、そのへんはわかりませんが、たまにはこうやって懐かしい作品を読み返すことは、少なくとも私にとっては必要な時間だったようです。


ピアノの音色

2015-01-27 06:53:48 | Weblog

 先日ラジオからガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」が流れてきました。よく聞くのはピアノとオーケストラの演奏ですが、今回は珍しいことにピアノ独奏版です。曲の後ピアニストは「ガーシュウィン自身が編曲した、ピアノ独奏用のものです」と言っていました。
 ピアノ独奏版があるとは初めて知ったことですが、同時に私はオーケストラ抜きでばんばん聞こえてくる「ピアノの音」の方にも注目していました。私がなじんでいるオーケストラのパートもピアノがやってくれるので、本当に良く「ピアノ」が聞こえるのです。そこであらためて気がついたのが「ピアノは『ド』とか『ミ』とか『ソ』とか言っていない」こと。それぞれの音の高さで特徴的な「ピアノの音色」が耳に聞こえるだけで、それが脳に達したら「ド」とか「ミ」に私が勝手に翻訳しているようなのです(私は絶対音感を持っていないから相対音感での話ですが)。すると、私がピアノ演奏を聴いて「ドミソミド」とか聞こえている「音」や「音色」は、一体どこで生まれているのでしょう?

【ただいま読書中】『江戸時代の医師修業 ──学問・学統・遊学』海原亮 著、 吉川弘文館、2014年、1800円(税別)

 江戸時代は身分社会でしたが、医師はその中で扱いに困る存在でした。武家・平民・賎民のどこにも医師がいるのですから。これは西洋でも事情が似ていて、上流階級から奴隷まで医師が存在していて、しかもイギリスでは貴族を相手にする医師は同時に貧民街でボランティア医療も行なったりする、という一見訳の分からない状態になっています。
 国家試験も大学もありませんから、当時の医師は師弟関係で育てられた(「学統」を形成していた)ため、誰でも医師に勝手になることができたわけではありません。西洋でのギルドに相当するものと言って良さそうです。
 18世紀は杉田玄白らが「蘭方」を打ち立てようと苦闘していた時代です。ここには、患者がきちんとした診断と治療効果を求めるようになったことが時代背景としてあります。従来の漢方医学や名ばかりの見よう見まねの蘭方(長崎通詞がオランダ人医者の手技を見よう見まねで“学ん”で「蘭方医」を開業する、ということも平気で行われていました)に対する不満から、杉田玄白らは「本物の蘭方」を求めたのです。「市場原理」が日本の医学にももたらされた、とも言えそうですが、そういった社会の変化を反映して、開明的な藩では藩校として医学校を設立するところがあちこちにありました。本書では彦根藩が例として挙げられています。ここでは漢方医学の授業が行われていましたが、興味深いのは、優秀な村医を藩医として抜擢した例があることです。『解体新書』改訂版で知られる大槻玄沢は仙台藩江戸屋敷で藩医として勤めていましたが、藩の医学教育制度を改革しようとしました。カリキュラムだけではなくて、藩の医療環境の拡充まで視野に入れた提言です。
 テレビドラマで「医師が遊学をする」と言えば長崎ですが、実際には京都も人気の遊学先でした。本書には越前から京に遊学した医師の日記が紹介されています。勉学も頑張っていますが、日常生活の節約ぶりにも感心します。本代を節約するために書写しますが、その紙代にも悩んでいるのです。ただこの書写は、最新の文献を藩にもたらす、という効果もありました。こうして地方の書庫も少しずつ充実していくのです。鎖国下であっても、日本の知的水準は“凍結”はされていなかったのです。
 「文明開化」は何もないところに花開いたわけではありません。江戸時代に、こうしてあちこちの藩ですでにその“準備”はきちんと行われていたのでした。


叙勲の騒動

2015-01-26 06:41:16 | Weblog

 親戚が叙勲したときには大変でした。商売人が集ってくることくること。その勢いはすごいものです。「おめでたい」と言えば商売人の言い分はなんでも通る、と言わんばかりの勢いでしたっけ。当人はもう大喜びで舞い上がっていましたら本人と家族には言いませんでしたが、「名誉」が「商売」とセットになっていることには、何か釈然としない思いでした。私は幸い勲章とは絶対に縁がない人生ですから、安心なのですが。

【ただいま読書中】『勲章と褒賞』佐藤正紀 著、 内閣府賞勲局 編集協力、全国官報販売協同組合、2014年、2273円(税別)

 もともと勲章や恩給は、軍人と官吏のためのものでした。今勲章は民間人にも門戸が開かれましたが、それでも明らかに官民格差はつけられています。それはともかく、写真がずらりと並んでいますが、ぴかぴかときれいです。
 勲章だけではなくて、銀杯(勲章に替えて授与されるもの)もきれいです。菊や桐の紋がついているから、これでお屠蘇を飲んだら不敬罪になるのでしょうか?
 勲章は「その人の生涯の功績」に対して授与されますが、褒賞は「特定の表彰されるべき事績」に対しての表彰です。そういえば紫綬褒章はよく聞きますが、そのほか、紅・緑・黄・藍・紺と全部で6色あります。お金持ちだと、どんと寄付をしたら「公益のため死罪を寄附した者」への紺綬褒章を受ける資格あり、となりそうです。
 勲章をどこにつけていくか、と言えば「国、地方公共団体その他の公の機関の行う式典には、勲章等を着用するを例とする」と「勲章等着用規定」に定められています。制服も、燕尾服とか紋付き羽織袴とか、けっこう詳しく定められています。
 勲章を製造しているのは、通り抜けの桜で私には馴染みのある大阪の造幣局です。そして、勲記を製造するのは国立印刷局。
 外国の勲章制度や、文化勲章の受章者一覧とかも載っていて、資料としても面白いものですが、笑ったのは巻尾です。メモ欄があって「経歴」とか「今回の受賞にあたって」なんて書いてあります。おやおや、この本も勲章と“セット販売”されることが前提のものだったのね。


派遣軍

2015-01-25 09:01:48 | Weblog

 労働者派遣会社では、クライアントの企業との契約で労働者を派遣します。軍事では、民間軍事会社や傭兵がそれに似た形で“人材派遣”をやっています。だったら、国連との契約で各国の政府が軍隊を“派遣”するのだったら、それは「自国の権益のための侵略ではない」ということになりますよね。

【ただいま読書中】『戦乱の中の情報伝達 ──使者がつなぐ中世京都と在地』酒井紀美 著、 吉川弘文館、2014年、1800円(税別)

 応仁の乱のころ、備中の山間にある新見庄は、京都の東寺の直務地でしたが、守護の代官が置かれていました。しかし代官は年貢を着服したりするため、現地の人たちは代官を実力で排除、東寺に直接の支配を願い出ます。訴え状を受けた東寺は新見の使者からも詳しい話を聞きますが、さらに詳しいことを知ろうと使者を二人派遣します。
 「情報伝達とは、人の動きである」と著者は述べます。手紙でも情報は伝わりますが、本当のところは使者から聞き出した方が早いのです。
 そういえば「メッセージの内容」には注目が集まりますが、「使者の気持ち」というのは歴史物などでもどちらかと言えば無視される傾向がありますね。テレビでも、知らせを受けて「ご苦労、下がってよろしい」と言われたら使者は頭を下げて退場。しかし本書では、遠路はるばるメッセージを届けてその返事を待つのに、評定が長引いてそのまま放置され「返事を持って帰らなければならない」という義務感と、「このまま滞在がだらだらと長引いたら、路銭が減って帰り着けなくなる」という切羽詰まった事情との板挟みになる使者の気持ちが、けっこうリアルに描かれています。
 東寺から派遣された代官の手紙も、なかなか切実です。代官として年貢を完済する義務を負っていますが、現地の人間は言うことを聞きません。現地の事情というのも直接目に見えます。強気と弱気の間で代官もまた板挟みになっているのです。
 土地の所有権をめぐる複雑な争いなどもけっこう詳しく述べられていますが、本書の特徴は「読みやすさ」でしょう。古文書は現代文に翻訳されて引用され、ストーリーを追うのが容易になっています。読みながら「著者は情報整理が上手だな」と感じます。それと、楽しみながら古文書を読んでいるのかな、とも感じました。含み笑いが伝わってくるものですから。
 百姓からの文書に「ここで高率の年貢を確定されたら、末代までの負担になる」という意味の文章があります。14~15世紀の日本では、百姓の間にも「子々孫々が存在する“未来”」という概念が定着してきたようです。
 人の交流が定例化すると、「路銭に詰まって庄に逃げ帰る」かわりに、東寺から金を借用して任務を果たそうとする人が出てきます。慣れると様々な工夫ができるようになったようです。ただ「評定が長い」ことを改善した方が良いと私には思えるんですけどね。
 「山名殿と細川殿」の対立がひどくなり「京都やぶれ候べき」という風潮になります。それは備中にも影響を与え、国人たちは勇み立って上京します。さらに「はやあし」も集団となって上京します。この「はやあし」を「飛脚」と解釈する手もありますが、著者は「足軽」ではないか、と考えています。道中が物騒なため、年貢は運搬されません。さらに徳政によって、過去に失った財産を取り返そうとする人々が策動をし、備中も騒がしくなってしまいます。さらに新見庄は、細川と山名の両国の境界に位置する……ということは“最前線”になってしまったのです。東寺になんとか連絡をしようとしても街道には足軽が横行し、なかなか安全に京都にたどり着くことができません。戦国時代の到来です。
 「一つの荘園」に、こんなに細やかな歴史のひだが保存されていました。こういった研究を全国の荘園で展開できたら、「応仁の乱」や「戦国時代」について、また新しい見方ができるようになるのかもしれません。


正社員不要論

2015-01-24 07:32:47 | Weblog

 「正社員なんかなくしてしまえ」という論があるそうです。かつて「斜陽のアメリカ、ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代の「終身雇用が日本を世界一にした!」からは見事に様変わりだと思いますが、もちろん「正社員」にはメリットもデメリットもある、ということなのでしょう。
 ところで経営者がそんなことを主張する企業では、重役ももちろん“正”役員ではなくて、非正規役員つまりたとえば社外取締役ばかりで構成される、ということなんですよね? だって「正社員 → 出世して重役」というコースは、もう存在しないんでしょ?

【ただいま読書中】『借金取りの王子』垣根涼介 著、 新潮社、2007年、1500円(税別)

 『君たちに明日はない』シリーズの第二巻です。
 リストラ請負会社の真介は、相変わらずきわめて真面目にお仕事に勤しんでいます。あ、恋愛にも。
 今回の舞台は、百貨店の外商部・生命保険会社の総合職・消費者金融の店長・新潟の温泉旅館。なかなか“変化球”が続きます。それぞれの業種の内情をどうやって調べたのだろう、とまずそちらに感心します。そして本書の最終話では、リストラ請負会社が人材派遣会社も立ち上げてしまいました。リストラされたが有能な人の受け皿として、だそうです。で、そのチーフが見かけも言動もへらへらしている真介クン。そこに、業界団体に転職した陽子さん(真介クンが付き合っている女性)が「自分の片腕になるような人材がいない?」と声をかけてきます。
 もともと陽子さんは、『君たちに明日はない』で真介クンにリストラ面談を受けたことで知り合い、それがおつきあいに進展した仲です。えっと、真介クンの立場では“公私混同”ですよね。だからそれが社長にばれたとき、ボーナス10%減給の処分を受けました。だけどビジネスはビジネス。そこになんと真介の会社の社長までしゃしゃり出てきます。
 いやいや、この社長の人物造形がまた思わせぶりで、真介クンと陽子さんの関係は、これからもしかしたらややこしいことになるのかもしれません。今でも十分ややこしいのですが。


公害の簡単な解決法

2015-01-23 07:58:43 | Weblog

 昭和の高度成長期、公害が問題になると、企業を擁護する立場の政治家は「風が吹けば煙は吹き散らされる」と煙突を高くする解決法を採用しました。排水中の有害物質は総量規制ではなくて「水で薄めれば解決する」と「濃度規制」です。水俣病では、排水中の有機水銀が問題、とわかってからそれが規制されるまで10年間放置されました。
 「経済を一番愛する」人の行動には、何か大きな問題が内在しているような気がしてなりません。少なくとも「日本」を愛してはいないのだな、と私には感じられます。

【ただいま読書中】『クロム公害事件』川名英之 著、 緑風出版、1983年、1800円
 
 重クロム酸塩の製造大手日本化学工業では、製造現場の環境は劣悪でした。産業廃棄物として出るクロム鉱滓は低湿地の埋め立てに用いられました。「雑草が生えなくなり、土が引き締まる」という売り文句で、低湿地の民有地にどんどん投棄されていましたが、なぜ「雑草が生えなくなる」のかについての説明はありませんでした。
 昭和48年東京都公害局特殊公害課はその事実を掴みましたが、何もしませんでした。しかし昭和50年、公害局の別の職員の尽力で事実が明るみに出されます。都民に対する大きな健康被害、それと大規模な労災隠しです。
 ……しかし、従業員が肺癌でばたばた死んでいるのに、全然気にしないとは、すごい会社です。鼻中隔穿孔は「社員として一人前になった印」なのだそうです。そして、行政(労働省や労働基準局)もそれを見過ごしていました。
 大正年間にすでにクロムの有害性は明らかになっていました。昭和2年にそれを知った警視庁(当時労働行政を担当していました)は、情報を日本化学工業に伝えただけでした。昭和32年には国立公衆衛生院が「鼻中隔穿孔の多さ」に注目し、会社に労働環境の改善を勧告しました。勧告は無視されました。労働省はあとになって「肺癌死が続出していることを知ったのは、昭和49年」と説明します。明らかに嘘です。嘘でなかったら、怠慢。毎年工場に立ち入り検査をしているのですから。
 マスコミの矛先は「土壌汚染問題」から「職業病問題」に切り替わります。土壌汚染ではまだ死者が出ていないけれど、職業病では死者が出ていたからでしょう。「被害者の会」が結成され、訴訟が起こされます。会社は「被害者の会」を切り崩すために「退職者の会」を結成し、こちらに入ればすぐに補償金が支払われる、と宣伝します(ただしものすごく値切られますが)。
 裁判が始まりますが、会社側は「クロムの有害性」を一切否定。裁判所の現場検証でも、工場の門を閉じて裁判官などを閉め出そうとしました。生産設備の説明では、最新鋭のものの図面を提出します。結審間近になると、患者の病状の再鑑定と裁判長の忌避を申し立てます。
 東京都も「土壌汚染」で会社と交渉をしていました。しかし会社は「民有地にあるものには会社は関与できない」と、東電の「散らばった放射性物質は無主物」とよく似たにおいの主張をします。これを解決する法律はありませんでした。美濃部都知事は「法律が使えないなら、運動で」と言い出します。都と住民が共闘して会社と交渉しよう、というのです。イデオロギーからそれに反発する動きもありますが、こういった場合大切なのはイデオロギーかそれとも住民の利益か、どちらなんだろう、と私は感じます。それにしても、172箇所に33万トンの投棄とは、何をどうしたら良いのでしょうねえ(ちなみに、日本化学工業は自分たちの社員用アパートの土地造成には、クロム鉱滓ではなくて一般の(きれいな)土砂を使っていました)。結局裁判では、請求額は1/5になりましたが、認定そのものは原告の主張がそのまま認められました。
 「昔の話」です。しかしその“本質”は全然古びていません。まだ日本は「過去の教訓」をきちんと学び切れていないように、私には感じられます。


人事の要諦

2015-01-22 07:32:34 | Weblog

 全員が満足する人事異動というものは、ないそうです。すると、人事部の腕の見せ所は、社内でほとんどの人が「この人事は妥当だ」と思える異動を発令できるかどうか、でしょう。で、本人がその「ほとんどの人」の中に入っていたら、良いんですけどね。

【ただいま読書中】『君たちに明日はない』垣根涼介 著、 新潮社、2005年、1500円(税別)

 映画の「俺たちに明日はない」を思わせるタイトルですが、銀行強盗のお話ではありません。
 リストラの面談場面で話は始まります。それも、首を切る側の視点で。なるほど「君たちに明日はない」わけです。
 首切りは、その会社の人事部の仕事です。しかし諸般の事情でそれが難しい場合、外部に委託することがあります。リストラ請負専門会社に「首切り候補者のリスト」を渡して面接をしてもらい、所定の目標(首切りの人数とそれで削減できる人件費の総額目標)を達成してもらうわけです。そのリストラ請負会社の男と、首切り候補者として面接を受けた女。その出会いとその後の関係の進展が軸となって本書は進行します。
 「本当の自分」は、よく「どこかよそに探しに行くもの」とされる場合が多いのですが、本書では、最初に出会った男も女も「本当の自分」を「自分の内側」に持っています。ただ、その外側に「社会で生きるための自分」をまるで鎧のようにまとっているのです。2人ともそのことは自覚的に承知していて、さらに相手がどのような“鎧”をまとっているかも見えています。だけど、その“鎧”は、「本当の自分」を守るために必要なのです。社会の外側からの攻撃から内部を守るために。それと、鎧を外してしまったら枷を外されてしまった自分自身が暴走をして社会的な地位をすべて失ってしまうかもしれないからそうならないためにも。
 物語は第三話「旧友」で加速します。優秀な人材なのに、派閥力学やら無能な上司やらのせいで干されて、ついにリストラ候補にされてしまった人と、彼を囲む人たち(旧友たちや家族)の物語です。自分が本当にやりたいことは何か、それを貫くかそれとも妥協をするか。何をどこまで犠牲にできるのか。ぎりぎりのところに追い詰められた男は、なぜか最後に「三方一両得」の決断に着地します。本当にシビアな状況なのに“救い”を用意してくれた著者に私は感謝します。
 で、このまま加速が続くのか、と思うと、第四話では、八方ふさがりの状況にいる若い女性が、まるでふわふわと水に浮いているかのような、ゆるやかな物語を紡ぎます。
 「リストラ」という非常に厳しい場面では「リストラされる人間」のそれまでの人生のすべてが凝縮して噴き出てきます。それを「一人称」で著者は描きます。「他人がその人をどう見て(評価して)いるか」を、「一人称」という形式は保ちつつ視点を次々切り替えることで浮き彫りにしていくのです。さらに、場面によっては「この人の一人称の語りを知りたい」というものをあえて描かないことによって、読者にも作品への参加を促します。
 リストラ請負会社という極めてユニークでシビアな舞台設定を得ることによって、著者は豊かな小説世界を得ることができました。本書はシリーズ化されたそうですので、こちらもぼちぼちと読んでいこうと思っています。