【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

新元号(2)

2019-03-31 07:03:44 | Weblog

 昨日「新元号は国民投票で決めたら?」なんて思いつきを書いた後になって、これってけっこう深い話題かも、と思いつきました。
 東洋では「権力者」は「時の支配者」でもあります。記紀を見たら「○○天皇の××年」なんて記述はふつうにあります。また、元号を決めるのは時の最高権力者の特権でしたし、江戸時代には暦の発行は江戸幕府が規制をしていました。つまり「今がいつか」は、権力者が決定するものだったのです。
 ということは、新しい元号を、天皇を差し置いて政府が決めるのは「俺たちは天皇よりエラいんだぞ」という意見の表明です。さらに「民間のアンケートで人気があるものは外す」としているのは「俺たちは国民よりもエラいんだぞ」という意見の表明でもあります。だけど、日本の主権者は現在は国民のはず。ということは、国民が国民投票で決めることに、どんな問題があります?(「天皇が決めるのが日本の伝統」と主張する人は、まずは「総理大臣も官房長官も有識者も、引っ込んでいろ!」と主張しなければなりませんが、しています?)

【ただいま読書中】『チベット旅行記 4』河口慧海 著、 講談社(学術文庫)、1978年(93年22刷)
563円(税別)

 チベットからインドに輸出するもので目立つのは「麝香」です。ネパールへは「羊毛」「ヤクの尾」「塩」「硝石」「羊毛布」。モンゴリアへは「経典」。輸入は主にインドからですが、その主力商品は「無地の羅紗」。輸出入のバランスは輸入過多となっていますが、これまではモンゴリアからの献金が多くて何とかなっていました。ところが日清戦争以来その流れが途絶え、チベットはなんとか輸出を増やす必要があります。だから「鎖国」はしていてもそれはあくまで「政治」だけのことで「経済」はそれなりに活動を続けているのです。商人だけではなくて、遊牧民も百姓も僧侶も、全国民が商売に頑張っているのです。
 著者は経文を買い付けますが、これが大変です。経文(の版木)は、各寺ごとに秘蔵されています。だから、紙を買い整え、金を払って版木を借り、人を雇って版を刷らせます。版刷りは二人一組で、もう一人が刷り上がったものをまとめる役目、それがお茶を飲みながらのんびり仕事をするので、時間と手間賃がどんどんかかります。
 著者はチベット人の不潔さと迷信深さと仕事がのろいことに困っていますが、賃金に関しては男女で同一労働同一賃金であることに感心しています。というか、今の日本人も「ふーん」と思うべきですね。子供の遊び、病人の看護などの日常生活のことから、法王政府の複雑さやチベットの外交などまで、著者の興味は網羅的です。この頃のチベットが親露の方針となったのは、これまで宗主国として君臨していた清の力が弱まってチベットに対する干渉が激減したのを良い機会としているのだろう、という著者の分析は、頷けるものです。ロシアとしては、英領インドをうかがう土台としてチベットが利用できるかもしれない、という目論見があるのでしょう。隣国のネパールは、チベットよりはるかに狭い国土ですが、人口はどんどん増えています。しかし領土拡張を、英領インドや清に向かってするのは困難。ではチベット方向へ? ところがチベットがロシアと組むと、これはネパールには不都合です。ところでネパールがチベットに開戦したら、実はそれはイギリスにとって最大の利益をもたらす、と著者は考えています。だったら、チベットの弱点(人材不足)を“攻め"て、経済界にどんどん人を送り込んでチベット経済の実権を握ってしまうのが、一番平和的で、イギリスには利益を与えず、それをネパールとチベットで享受できるのではないか、と著者は両国にアドバイスをしたいようです。
 もしも著者がスパイだったら、第一級の評価を得ることができたでしょうね。政府の上層部にも見事に食い込んでいるのですから。ただ「スパイしよう」という悪い心がないからこそ、そこまで受け入れられたのかもしれません。
 しかし、ついに著者が密入国をした日本人であるという噂がラサ府に広がり始めます。そろそろ退去の頃合い。しかし問題は、自分に肩入れをしてくれた人びとが後難を得るのではないかという恐れと、大量に購入した経典をどうやって運び出すか、です。著者は自分の身の安全は全然気にしていません。これを気にしないのは、密入国をする前からずっと首尾一貫しているので、私は今さら驚きませんが。



新元号

2019-03-30 06:57:35 | Weblog

 いよいよ明後日発表ですが、発表してから実はとんでもなく不評、ということになったら政府はどうするんでしょう? 「エイプリル・フール」でした、というわけにはいきませんよねえ。いっそ、複数発表して国民投票で決定、なんてのはダメなのかな。

【ただいま読書中】『米軍資料 原爆投下の経緯 ──ウェンドーヴァーから広島・長崎まで』奥住喜重・工藤洋三 訳、 東方出版、1996年、6000円(税別)

 昨日の『原爆投下報告書』の“続編"です。『原爆投下報告書』出版後に発見された新資料をもとにまとめられています。
 「原子爆弾」の開発は、マンハッタン計画としてその困難さがよく知られていますが、実際に投下する軍にとってはまた別の苦労があったことがわかります。そもそもB−29に搭載できるのか、搭載できたとしてそれを無事投下できるのか、投下して爆発するまでに安全なところまで退避できるのか、投下後の爆弾の飛行特性が爆弾の形状によってどうなるか(狙い通りのところに行くのか)などなど、解決するべき問題はたくさんあるのです。だからテニアン島ではぎりぎりまで訓練が行われていました。
 「ファレル准将の覚え書き」には「小倉には捕虜収容所があるが、それは無視できること」や「八幡空襲で小倉上空が煙に覆われていたため、その切れ目を探してしたら時間切れ(ファットマンを積んだままだと、硫黄島にも沖縄にも到達できない。爆弾を投下したら沖縄までは到達できるぎりぎりの時刻)となり、しかたなく“貧弱な目標"である長崎に原爆を投下した」ことが書かれています。
 ポール・ティベッツ・ジュニアは広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の機長として有名ですが、第509混成軍団の部隊長でもありました。彼へのインタビュー(1966年のもの)も本書に収載されています。1944年に部隊長に任命されたティベッツは、部隊の訓練のための秘密基地としてユタ州のウェンドーヴァーを選択、選抜された隊員と改造されたB−29で猛訓練を行いました。秘密保持は徹底していて、エノラ・ゲイの搭乗員は広島に向かって出撃してからティベッツに畿内で直接「何を運んでいるのか」「その結果何が起きるのか」を聞かされました。
 「歴史」は複雑で不安定なものだと私は感じます。もしアメリカ軍が「新型爆弾の効果判定」にこだわらず「大被害を与える」ことだけを欲していたら、東京や小倉が被爆地になっていたかもしれません。東京は、それまでの大空襲で多くの場所が焼け野原となっていて、そこに原爆を落としてもどこまで原爆で破壊されたのかの“効果判定"が困難になっていましたし、小倉は八幡空襲での煙が視界の邪魔をしていて、市の中心部に精密に原爆を投下する(その結果生じた被害の測定をする)ことが困難になっていました。
 ヒロシマ・ナガサキではなくて、たとえばトウキョウ・ヒロシマだったら、あるいはトウキョウ・キョウトだったら、今の日本はどんな姿だったんでしょうねえ。



葬儀と薪

2019-03-29 07:30:16 | Weblog

 チベットでは薪が十分にないから鳥葬が行われる、と『チベット旅行記』にありました。理に適った方法と思えます。では、同じく薪が十分にない環境である北極圏のエスキモーはどうやって葬儀を行うのでしょう? 『極限の民族』には書いてなかったように思うのですが、読んで忘れているのかもしれません。ということは、再読が必要?

【ただいま読書中】『米軍資料 原爆投下報告書 ──パンプキンと広島・長崎』奥住喜重・工藤洋三・桂哲夫 訳、 東方出版、1993年、5000円(税別)

 テニアン島の第509混成軍団は、日本に原爆を投下することを目的として特設された部隊で、その「特殊作戦任務報告書」の翻訳に、解説と写真を添えたのが本書です。日本に多い被爆者の証言が「キノコ雲の下の世界の報告」なら、本書は「キノコ雲の“上"(向こう側)の世界の報告」。
 特殊任務は1945年7月19日〜8月13日まで全部で18回発令されました。広島はその13番目、長崎は16番目の作戦です。数が多いのは、練習や訓練が行われたからです。通常爆弾より巨大で重く、とんでもなく高価、さらに空中で爆発させる必要があることから、迅速な退避の練習も必要です。
 練習に使われたのは「パンプキン」と呼ばれる、長崎型の原爆と形・大きさ・重さが同じで、中には通常火薬がぎっしり入っているものでした。米軍にとっては練習ですが、爆撃を受ける方からは1万ポンドの超巨大爆弾が降ってくるわけで、原爆ほどではありませんが、それでも甚大な被害が生じることになります(7月29日舞鶴では、海軍工廠の水雷工場に命中して97名の死者と負傷者百数十名を出しました)。
 原爆投下地の候補は、はじめは、小倉・広島・京都・新潟でしたが、「上部からの指示」で京都が外され、かわりに長崎が入ります。(最初の4つに絞られる前には、名古屋と東京も候補地となっていましたが、どちらにも大規模な焼夷弾空襲をしてしまったため「原爆の効果を測定しにくくなった」と候補から外されました)
 飛行路は、テニアンから硫黄島まで真っ直ぐ飛び、そこから目標に向かって進路を変更することになっていました。あれだけの損害を出しても硫黄島を攻略したのには、ちゃんと理由があったんですね。
 心理戦として、「日本國民に告ぐ」のビラの複写も載っています。おやおや、「原子爆弾」を「廣島に投下」ってしっかり書いてあります。
 爆撃行に対する日本軍の反応は「対空砲火は問題にならなかった」「敵空軍の抵抗は皆無だった」などとあります。どの任務でもB29は小編成だったので、局地戦闘機は出撃しなかったのかもしれません。一機だけ、大阪上空で砲火による損傷を受けています。
 燃料消費や消費弾薬なども細かくデータが残されています。もちろん(原爆を含む)爆弾による日本側の損害もまた「データ」として扱われます。あれだけの被爆者も、米軍には「データ」でしかないのでしょうね。「キノコ雲の下」では「数多くの悲劇」なんですが。



不味いお茶

2019-03-28 06:36:41 | Weblog

 「お茶本来の旨味を引き出した」なんてことをラジオのコマーシャルで言っていました。煎茶や玉露では水温を変えてきた日本の伝統をまるで知らなかったかのように仰ってますが、きちんと淹れたらお茶は旨味が出るし、きちんといれなかったら美味くない、というだけのことじゃないか、なんて私はこのコマーシャルを聞きながら思いました。
 そういえば、お鮨屋さんのお茶ってなんだか美味しくないのが多いのですが、あれは口をすすいで鮨を美味しく食べるためのものだから、あえて不味いお茶にしているのでしょうか。だとしたら、けっこう高級な“技"なんですが。

【ただいま読書中】『暴力教室』エヴァン・ハンター 著、 井上一夫 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫NV1014)、2002年、980円(税別)

 新米教師のダディエは、ニューヨークの実業高校に英語教師として採用されます。希望に燃えて教室に向かうダディエですが、そこは暴力の巣でした。初日は教師と悪ガキたちの“ジャブ"の応酬ですが、新任の女性教師が暴行されかけているところを救ったことで、ダディエは望まずして“英雄"になってしまいます。もちろん生徒からは「低劣な悪人」という評価がつけられたのですが。
 (街角で犯罪をしないために)学校に“隔離"されている生徒たち。無気力で保身だけを考えている教師たちと生徒を上回る暴力性を自慢する教師たち。「学校」なのに、無知と暴力が支配する世界で、ダディエは現実に小突き回されながら、それでも「教育」をしようとあがきます。
 そのためにはまず“相手"を知らなければなりません。たとえば知能指数。ダディエは、自分が受け持つ生徒たちが予想以上に知能指数が低いことを知ります。さらに劣悪な生活環境。劣悪な友人関係。しかし、ダディエの粘り強さと、偶然出会った一つの寓話を題材にした授業で、「(教育の)道」が開けたかのように思えたのですが……休み明けの教室で、ダディエはナイフを振り回す生徒と戦うことになってしまいます。
 凄惨な物語なのですが、(パンドラの箱のように)最後に「希望」がかすかに羽ばたいています。その希望がなければ、暴力教室で生きることはできませんよね。



地元の理解

2019-03-27 07:03:15 | Weblog

 イージス・アショアの配備について、政府は秋田県には地元の理解が得られてから工事に入る、と明言しました。沖縄とはずいぶん扱いが違いますねえ。なぜ?

【ただいま読書中】『屍集めのフンタ』フアン・カルロス・オネッティ 著、 寺尾隆吉 訳、 現代企画室、2011年、2800円(税別)

 数箇月前に「市」に昇格したばかりのサンタ・マリアに、屍集めのフンタことラルセンが三人のくたびれた女を連れてきました。女たちは娼婦。サンタ・マリアでは、娼館を認可させようという計画が進行中だったのです。
 「サンタ・マリア」に娼館? 「マリア」違いじゃないか、なんて思って調べると、マグダラのマリアも聖人だったんですね。ついでですが、三人の女の一人は「べっぴんのマリア」という名前です。
 ところが、最初の章は三人称の記述だったのが、次の章は一人称、そしてその次はまた三人称。おいおい、この揺らぎは何なんだ、とあきれていると、次から次に登場人物が増え、入り組んだ関係と入り組んだ過去が少しずつ明らかにされ、だけどその全貌は、じとっと湿った暗闇に隠されたまま、といった感じでページは進みます。
 ラテン文学には「マジック・リアリズム」がありますが、本書は「マジック・ファンタジア」とでも呼んだらいいかな、なんだか煙幕に包まれたままあっちに行ったりこっちに行ったり、で、気がついたら最初のところにいた、なんて感じがします。
 サンタ・マリアでは、反売春宿運動が始まります。ずいぶん陰険な形ですが。ただ、このあたりになると私は「ストーリー」はある意味どうでもよくなってしまっています。熱気の中に放置された鏡が、なぜか突然粉々になった、と想像して下さい。近づくと、それぞれの欠片に、小さな物語が焼き付けられているのが見えます。それを次々眺めていると何らかの「ストーリー」がこちらの頭の中に形成されます。しかし、もしも違う順番で欠片を拾っていたら、おそらく違う「ストーリー」が形作られるでしょう。結局本書から伝わってくるのはそれぞれの破片が帯びている「熱気」だけなのかもしれません。
 もう、何が何だか。私は何らかの「マジック」にかかったのかな? さらに物語の語り手に「私たち」が登場して、私はさらに混乱します。
 やがて、(町の“良識派"の拠り所である)司祭の甥が、45口径を構えて売春宿に押し入り、そしてそのまま小屋に滞在します。司祭は尋ねてきた甥と話をした上、日曜日(説教の日)まで滞在を続けるよう求めます。いやもう、何がどうなっているのか。そして、(私にとっては)突然物語は終焉を迎えます。本は終わるのですが、私にとって「じとっとした闇」「熱気を帯びた鏡の欠片」はまだ私の心の中をじわじわと動いています。
 いやもう、何が何だか。



体罰と正当防衛

2019-03-26 07:16:27 | Weblog

 「躾のためには殴るのが一番」「殴らない方が良い」という主張のどちらが正しいかどうかを調べるためには、比較試験が一番簡単ですね。子供たちを二つの集団に分けて、片方は殴りまくってもう片方は非暴力で育てるの。で、20年後、40年後、60年後にそれぞれの集団の人間がどのくらい幸福でどのくらい優秀か、とかを比較する。
 あ、こういった裏付けデータなしでどちらかの主張に肩入れするのは、単に「自分の好み」を主張しているだけ、ということでしょう。だったら私も「自分の好み」を主張しましょう。殴るのは嫌いです。殴られるのは、もっと嫌い。ただ、私は正当防衛(反撃権)は認めているので、殴られるのだったら殴り返します。「殴る」のが「自分の好み」の人も「正当防衛(反撃権)」を相手に認めますよね?

【ただいま読書中】『チベット旅行記 3』河口慧海 著、 講談社(学術文庫)、1978年(93年19刷)、563円(税別)
 チベットの首府ラサで、著者は「チベット人」としてセラ大学に入学することにします。それでちゃんと入ってしまうのですから、大したものです。大人物です。そこで荒事専門の壮士坊主(日本で言えば僧兵)たちに医療の腕(脱臼の整復、鍼灸、漢方薬などが実によく効いたそうです)が認められ、その庇護を受けることができるようになります。さらに、チベット人ではないことが見破られてしまいますが、「実はシナ人でして」と言いくるめてしまうのですから、やっぱり大人物。
 やがて、北清事件(義和団の乱)の噂がラサに届き、そこで(著者以外の)人びとは初めて「日本」という国の存在を知ります。
 チベット仏教の教育の基本は「問答」です。それもまるで喧嘩のように派手なやり方。
 大学にはモンゴリアからの学生も多く(セラ大学だけで300人)いました。そういえばモンゴルはチベット仏教、と聞いたことがありますが、昔から交流をしつつ信仰を維持していたんですね。
 医者としての腕が評判となり、法王への謁見が許され、著者はさらには侍従医に推挙されてしまいます。仏道修行を理由に侍従医は固辞します。ただ、医者としてよく行くようになった薬種商の家族が、のちに大きな役割を果たすことになるのだそうです。期待を持たせるのが上手ですねえ。
 あ、ここで「バタ」の出所がわかりました。ヤクの乳です。また、チベット人がやたらとバタ茶を飲むのは、野菜を普段ほとんど食べないからビタミンをそちらで補給するためのようです。
 仏道修行も熱心にしていると、コネがコネを呼び、とうとうチベット最高位の学僧から直接教えてもらえることになります。著者は“学生"としても最高級の能力を発揮していたのでしょう。
 チベット固有の風習も紹介されます。たとえば「一妻多夫」制度。複数の兄弟に一人の妻です。葬儀では「鳥葬(風葬)」が最高位で、火葬と水葬がそれに次、土葬は最下位となっています。
 チベット仏教は、旧教と新教があります。旧教は、欲望肯定で、女色や肉食を徹底したら即身成仏、だそうです。著者はその関係の経典も大量に日本に持ち帰りましたが、社会に公開するには困難なくらい猥褻だそうです。対して、インドから来た新教は、戒律重視です。新教も人気が出ましたが、旧教も根強く、結局新教は妥協策を採って旧教を取り込んでいった、そうです。
 チベット仏教の大きな特徴は、「化身(法王の生まれ変わり)」が次の法王になることです。ただ、本当の化身ではなくても賄賂によって自分の子供を化身としてもらう、ということもけっこう広く行われている、と著者は聞きます。ただ、化身候補とされる子供たちが丁重に育てられると、高確率に「良い子」になることを見ると、「素質」よりも「丁寧な教育」の方が良い子が育つのではないか、と著者は考え込んでいます。



読んで字の如し〈人偏−9〉「付」

2019-03-25 13:10:11 | Weblog


「付着」……付いているから着いている
「首付」……まだ首を落とされていない
「切り付ける」……切ってくっつける
「裏付ける」……真相は表にはない
「餌付け」……餌をつける作業
「植え付ける」……植えたら付く
「踏み付ける」……踏んだら付く
「肉付」……本当は脂肪が付いている
「付け文」……ポストイット

【ただいま読書中】『チベット旅行記 2』河口慧海 著、 講談社(学術文庫)、1978年(93年22刷)
563円(税別)
 ネパールには、ネパール人だけではなくて、インド人もチベット人も中国人もいました。そして、鎖国しているチベットには、チベット人だけではなくて、ネパール人もインド人も中国人いました。こうしてみると「国境」というのは何なんだろう、を私は感じます。人の交流があれば当然交易もありますが、その基本は物々交換です。通貨も使われることがありますが、多くはインドの銀貨。ところがその計算には一々数珠を使ってゆったりと計算をするので、著者が1秒で暗算できる計算が、チベットでは1時間もかかるのだそうです。
 しかし、行く先々であまりに良い評判が立つせいか、著者に恋慕する女巡礼が出てきたのには著者は困っています。困っていますが、「その娘は十九位でした。ごく美(よ)い方でもないが普通よりか美(よ)い方なんです」なんて書いているところを見ると、ちょっとはまんざらでもなかったのかな。私は微笑ましく読みました。
 「バタ茶の製法」が具体的に紹介されていますが、味はどうなんでしょうねえ。空気が希薄なために歩くだけでも息が切れる霊峰を何度も巡る巡礼者がいます。悪相の強盗が大きな声で懺悔しているのを聞くと、過去の悪行だけではなくて未来の悪行についても先に懺悔しています(免罪の“予約"です)。著者はどこに行っても乞食(こつじき)をしますが、これは、ものを得ることが目的ではなくて、周囲の研究(偵察?)が目的なのだそうです。仏教国での僧形はこういうときに便利ですね。
 3箇月は「夏」ですが、あとの9箇月は雪が降る「冬」という厳しい環境の中、盗賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、飲まず食わずで過ごしたために雪の中に倒れてしまったり、慣れない薄い空気の中で激しく動いたためか大量に喀血したり、凍りかけた川を渡るときに割れた氷で体のあちこちを切られたり、肉体的にも大変です。しかも、密入国していることを悟られないために「自分はシナ国のラマである」と嘘を通してそれがばれないようにしなければならないのですから、精神的にも大変(著者は中国を「シナ」で通していますが、当然ながら差別的な用法ではないです。日本、インド、チベットなどと同価値の使い方)。
 「羊羹」も登場しますが、チベットではヤク(の血)で作ります。特に直後に集めた血を煮固めたものは美味い、とチベットの人は言うそうです。そういえば「バタ」が本書にはよく登場し、著者もよく口にしていますが、これはチベットでは何の乳から作られるんでしょう。
 田舎のチベット人の不潔さに、著者はあきれます。入浴や洗顔はしない、洗濯はしない、食器洗いももちろんしない。排便後も何かでぬぐったり洗ったりはしません。その手で料理やお給仕をされるのですから、著者は困っています。もっともチベット人から見たら「困っているラマ」の方が奇態なのですが。
 ともかく、チベットの西の端から著者は東にあるラサにゆるゆると近づいていきます。



新元号

2019-03-24 08:13:48 | Weblog

 あと1週間で新元号が発表されます。私も一つ考えてみました。「安万」です。「安全が世界にごまんとある」という意味で、「安倍首相万歳」の略ではありません、はい。忖度や阿りでもありません、はい。

【ただいま読書中】『チベット旅行記 1』河口慧海 著、 講談社(学術文庫)、1978年(93年22刷)、563円(税別)

 三蔵法師ではありませんが、仏教の「原典(に少しでも近いもの)」を得たい、と熱望した著者は、相当な地位にあった僧としての立場を捨て、日本では英語、梵語やインドの古いパーリ語を学び、チベット目指して旅立ちます。明治の話で、チベットは鎖国をしていました。鎖国をしていなくても、ヒマラヤを越えてチベットを目指すなんて、とんでもない話に聞こえます。
 反対者は多く、賛成する者はあまりいません。それどころか、悪口雑言や陰口をきくものはたんといました。それでも著者はけろりとしています。
 インドに着くと、まずは一年半かけてチベット語を学びチベットへのルートや内情などの情報を集めます。実に準備周到です。
 明治三十二年(1899)ついに著者は、ダージリンからチベット目指して旅立ちます。ただ、直接国境に行くと、入国拒否をされることは明らか。そこで、ネパールを経由することにします。ここからだったら入りやすそうなのです。日本人でネパールを訪れた人はまだいないこと、もしチベットには入れなくてもネパールにも古い仏教に関して調査する対象があること、も道がネパール経由となった理由です。そこでその直前にネパール語の習得。そして、ネパールの山村ツァーランに一年間滞在して、ネパール語の練習や体の鍛練(ヒマラヤを単独で越えるつもりです)、関所や臨時に兵士が派遣されていない間道の情報を集めます。準備に手を抜かない人です。
 著者は、肉は食べないことや女性とセックスをしないことを徹底して仏道に邁進しています。その峻厳な姿勢に影響を受けてファンになる人は日本でも外国でもけっこう多かったようです。
 さて、ツァーランからさらに迂回して、道なき道を著者は断崖絶壁を越えていきます。地元の人間でさえ、あんなところに行こうとするのは死にたいと言うことだ、と恐れるルートへ。明治三十三年(1900)7月4日、著者はついに国境を越えます。しかし山中で、一日一食、それも麦焦がしがほとんど、というのですから、よくもまあ栄養が足りたこと、と感心します。千日回峰行をヒマラヤでやっているようなものではないです?



安全な汚染

2019-03-23 06:55:39 | Weblog

 放射能汚染水は「アンダーコントロール」だし、放射能汚染土は農地や高速道路の工事などに使えるくらい「安全」なんだそうです。
 「復興五輪」なんだそうですから、五輪の工事にその「安全」な汚染土や汚染水を活用したらどうです? 置き場に困っているフクシマの復興に役立つし、「復興五輪」がやっと実態として機能することになります。
 東京以外では「安全」だけど東京では「危険」、なんて戯言は、言いませんよね?

【ただいま読書中】『局地戦闘機』歴史群像編集部 企画・編集、学研パブリッシング、2011年、1238円(税別)

 「無敵」と謳われた「ゼロ戦」ですが、昭和17年夏(開戦から半年)海軍航空本部と航空技術廠は「急降下能力不足(敵戦闘機が容易に離脱してしまう)」と「20ミリ機銃の威力不足(敵機の防弾装備を貫けない)」を問題視していました。しかし抜本的な改善はできず、弾薬と信管の改良だけでお茶を濁すことになります。戦訓からは「高速重装備戦闘機」が必要とされたため「雷電」の開発が加速されました。
 ここでややこしいのは、海軍の態度です。戦闘機は「任務と特性(戦闘機の撃墜/爆撃機の撃墜、上昇力・速力・旋回性能のどれを重視するか)」による「甲戦/乙戦/丙戦」の分類と、「活躍高度、重視するのは格闘性能か速度か上昇力か、航続力の大小」による「艦戦/局戦(陸上で運用)」の分類とが並行して使われていました。いや、ほんとうにややこしいし、開発のポリシーをどうしろというのでしょう。ともかく「ゼロ戦」の後継機のはずの「雷電」の開発は難航し、紫電改が開発されます。これは「局戦」でかつ「甲戦」ですが、その派生機には艦上戦闘機もありました。もう、何が何だか。不必要に話を複雑にするのは日本の官僚の得意技ですが、戦争の時も得意技の発揮に頑張っていたようです。敵と戦うために頑張れば良かったのにね。
 昭和18年には、陸海軍の共同試作の方針が採択されます。「全く別の文化/哲学」で生きてきた陸海軍が協力するのは、大変だったことでしょう。そもそも言葉が通じたのかな?
 海軍ははじめは局地戦闘機の開発など考えてはいませんでした。しかし、日中戦争で中国空軍機の空襲を経験して、ドイツからハインケル112を昭和13年に輸入してみます。しかし性能が今ひとつ、ということで、自主開発を始めました。しかし、機体と発動機(エンジン)とを同時に開発して合体させるのですから、なかなか大変な話です。紆余曲折があってやっと完成した「雷電」ですが、海軍は「雷電は使い物にならない」と「紫電改」の方に期待を寄せて資源を集中、「雷電」は製造でも冷遇されました。ところがB29による空襲が激化すると、最新の「雷電三三型」の性能がピカイチであることがやっと海軍に認識され、増産指令が出されましたがもう手遅れでした。優秀なものが冷遇されるのも“日本の伝統"です。
 南方に展開するに当たって、飛行場の建設が間に合わないことが予想され、そのために海軍は水上飛行機を活用して制空権を維持することにしていました。そして、その中で優秀な「強風」のフロートを取っ払って陸上機化したら優秀な局地戦闘機ができる、ということで生まれたのが「紫電」、それをさらに全面改造したのが「紫電改」です。
 皮肉なのは、「紫電」の実物を入手した米軍が実機テストをしたら、良質の燃料とプラグを用いたために、日本海軍の仕様よりも高性能をたたき出してしまったことです。“本当"はもっと高性能の戦闘機だったんですね。
 紫電や紫電改は、高性能・重装備・高い防弾性能を誇りましたが、その分重たく、航続距離はゼロ戦の半分になっていました。鹿屋基地から、ゼロ戦なら沖縄まで行けるのに、紫電改は喜界島までです。
 日本海軍に“余裕"はないはずなのに、昭和17年に三つの試作計画が開始されています。「閃電(双胴で機体後ろにプロペラがついた推進式)」「天雷(双発)」「震電(先尾翼でプロペラは後尾)」です。これらはいずれもコンセプトが明確なのが特徴で、だから開発計画は(日本海軍にしては珍しく)急ピッチで進捗しました。戦争前に開始していたら良かったのにねえ。
 さらに「陣風」「烈風改」「秋水(ロケット戦闘機、ドイツのMe163のコピー)」も紹介されています。
 それぞれの開発や製造、運用の話を見る限り、現場は全力を尽くしています。問題は「コンセプト」が不安定なこと。「戦術のコンセプト」「戦略のコンセプト」さらには「戦争のコンセプト」が欲張りすぎで絞りきれず適切なタイミングでの決断ができず、結局負け戦にむかって転がり落ちていったことが「局地戦闘機」だけを見るだけでもわかります。残念です。



安野光雅つながり

2019-03-21 09:33:38 | Weblog

 昨日の『方言でたのしむイソップ物語』は安野光雅さんの本でしたが、今日の本の奥付を見たら、装幀が安野光雅さんとなっていました。一応「つながって」いますね。しかし、文庫本の装幀って、どのくらい腕の振るいようがあるのでしょう?

【ただいま読書中】『隊商都市』ミカエル・ロストフツェフ 著、 青柳正規 訳、 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2018年、1200円(税別)

 アラビア半島の付け根あたり、現在はシリア砂漠になっているあたりは、かつては肥沃な穀倉地帯でした。それを荒れ地に変えたのは人間の仕業(失敗)ですが、それは別のお話。著者はその「豊かな文明」の時代に、高度な通商システムも機能していたことに注目します。余剰生産物は通商を必要とするのです。
 20世紀初め、サンクトペテルブルグ大学の若い教授だった著者は初めてパレスチナを訪問し、そこを起点に、ペトラ、アンマン、ジェラシュの遺跡を調査しようとしました。
 そうそう、ものすごく「時代」を感じる記述は、著者が旅した時代に「パレスチナ難民」は「ユダヤ人」であることです。まだ「イスラエル」がありません。この地域には、ずっと「難民」がいたんですね。
 ペトラは、インド・南アラビア・エジプト・シリアを結ぶ重要な隊商路の結節点に生じました。アレクサンドロス大王やローマ帝国の支配下でもペトラは繁栄しています。著者はその遺跡を歩き、当時の香料を嗅いだような気分になっています。
 砂漠のまわりでいろいろな帝国が勃興し衰退し、それらの関係で隊商路は栄えたり衰退したり位置を変えたりします。しかし、常に「隊商」は通商に携わっていました。著者は「砂漠」を「海」と同じように見ています。「地域と地域を隔てるもの」であると同時に「結びつけるもの」でもある、と。そしてそこに足を踏み入れることは、海と同じく、全ての者に許されているのだ、と。
 遺跡は「死者の街」ですが、著者はそこに往時のざわめきを聞き、儀式を“見"ます。広範な歴史と地理の知識と、“見る目"を持った人には、様々な“ドラマ"が見て取れるようです。
 本書は「旅のスケッチ」です。だから、遺跡に関する記述に関して学術的には本書は「改訂」または「豊富な脚注」を必要とするでしょう。しかし、「旅のスケッチ」としては本書はすでに完結しています。もし本書を変えたい、としたら、そう望む者は自分自身の旅を行って自分でそのスケッチを描いた方が良いでしょう。