【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

昔のおやつ

2020-05-31 06:59:55 | Weblog

 スーパーのお菓子売り場をうろうろすると、昔(昭和)とはずいぶんな様変わり。昔普通だったおやつがごっそり姿を消しています。たとえば私が好きだった甘納豆はほとんど目撃できなくなりました。そういえば芋けんぴは増えましたが、ポテトチップスの売り場と比べたらずいぶん肩身が狭い状態です(というか、ポテチ、あんなにたくさんの種類が必要です?)。
 安倍首相は「美しい日本を取り戻す」となぜか最近言わなくなりましたが、私は「美味しい日本を取り戻せ」と言いたいな。これからもずっと。

【ただいま読書中】『善光寺の歴史と信仰』牛山佳幸 著、 法蔵館、2016年、2500円(税別)

 善光寺の本尊は絶対的秘仏ですが、その模刻像(コピー)は、善光寺だけではなくて日本各地に(さらには流出して海外にも)存在しています。この善光寺式如来像(阿弥陀三尊像)は、中尊の阿弥陀如来立像と脇侍の観音・勢至両菩薩立像が、一つの舟形光背を共有していることが一つの特徴で、これは飛鳥〜白鳳期の如来三尊像によく見られる形式だそうです。ただ、善光寺式如来像では、同時代に日本にあったほとんどの仏像と違って、左手が「刀印」(左腕を下げて人さし指と中指を伸ばし他の3本は折り曲げる)を結んでいるところが特徴的です。他の如来三尊像では、親指は伸ばしたものばかりだそうで、善光寺式如来像の源流は中国南北朝のようですが、なぜ日本で善光寺にだけそれが伝えられることになったのかは、謎です。
 とまあ、実に細かいことから本書はスタートします。素人から見たら、親指が真っ直ぐだろうが曲げていようが、それが何?なんですが、専門家には重大事なのでしょうね。実際、「真実は細部に宿る」わけですから、私は素直に「ふーん、すげえ」と思っています。
 さらに、発掘された古瓦の特徴から、著者は善光寺の創建は7世紀後半、と推定しています。
 仁和三年(887)南海トラフ地震が発生、八ヶ岳が大崩落して千曲川をせき止めます。それが翌年の梅雨の大雨で決壊して「仁和の洪水」をおこし、東北信地方に大被害を与えました。これによって寺も大きな被害を受けたはずです。
 善光寺は11世紀には圓城寺の末寺となっていたようですが、浄土教の教えも受け入れました。天台浄土教は「修業」も取り入れていたため、善光寺への参詣自体が「修業」とされ、それが善光寺の人気を高めたようです。実際昔の旅はそれだけで修業だったでしょう。
 鎌倉時代には聖徳太子信仰も融合し、何宗であっても善光寺に参ればとりあえず間違いはない状態になっています。というか、古代〜中世の日本の地方の寺の多くは、特定の宗派に属さないのが普通でした。そして江戸時代(後半)、庶民の旅ブームが到来し、お伊勢さんや西国三十三箇所とともに善光寺もまた人気の旅行スポットとなりました。「牛に引かれて善光寺参り」や「一生に一度は善光寺参り」といった言葉も江戸時代のもののはずです。その江戸時代に、善光寺は三回火災に見舞われています。平家物語には「善光寺が焼失するとは、この世の終わり」なんてありましたが、すると江戸時代の間にこの世は3回終わったのかな?

 


ヒッチコックの声

2020-05-30 07:15:19 | Weblog

 私が子供のころに、家にあった白黒テレビで「ヒッチコック劇場」をやっていました。ヒッチコックの声は熊倉一雄さん。実は番組の内容は全然覚えていないのですが、「皆さん、こんばんは」という熊倉さんの声はしっかり刷り込まれています。あのころ「ひょっこりひょうたん島」も見ていたのに、トラヒゲに同じ熊倉さんが声を当てているなんて、全然気づかなかったなあ。

【ただいま読書中】『ヒッチコック万歳!』植草甚一 著、 晶文社、1976年(86年5刷)、890円

 ヒッチコックの映画の特徴の一つが「ユーモアとショックを同時に与える」ことで、それを「ヒッチコック・タッチ」と呼ぶそうです。なんだかチクタク言っているみたい。
 戦前からヒッチコックの映画を観ている著者は、スリラー映画に関してはヒッチコックを神様扱いしています。
 ヒッチコックはイギリスで映画人としてのキャリアをスタートさせましたが、最初は下積みでした。そこから監督として作品を作れるようになり、1940年にアメリカに移ります。著者はヒッチコックの作品群を「サイレント時代」「トーキー時代」「ハリウッド時代」に三分しています。私が知っているのは、最後のハリウッド時代のものばかりです。しかし著者の感想を読むと、トーキー時代やサイレント時代の作品も傑作が多い様子で、ちょっと観たくなってしまいました。
 「ショック」と「サスペンス」の関係も難しい、というか、映画で両立は無理です。簡単に言うと「ショック」は文字通り突然の衝撃。「サスペンス」は、映画の観客は主人公に危機が迫っているのがわかっているのに主人公はそれを知らずにいて、観客はその姿を見て気を揉む、という状態です。
 「各論」として、各映画の封切り時の紹介記事がまとめて載せられていますが、笑っちゃうのが「サイコ」です。ヒッチコックの厳命で、封切りまでは誰にも見せるな、ということで、著者は実物を見ずにプラグラムへの紹介記事を書かなくちゃいけなくなったのです。いやあ、これはお気の毒。ヒッチコック自身の「これは自身初めての“ホラー映画”だ」という言葉だけを頼りに、文章をでっち上げていますが、その四苦八苦ぶりには同情してしまいました。ただ、「この映画によって『あいつはサイコだ』という流行語がうまれるかもしれない」という著者の予想はしっかり当たってます。これはすごいな。

 


保護者

2020-05-29 07:46:51 | Weblog

 私が通った小学校のPTAでは、学校に属する人は「生徒」「教師」「保護者」でした。
 ところで「保護者」は「生徒を保護する者」だと思うのですが、生徒を何(誰)から保護しているのでしょう? それと、「保護者が必要」ということは「生徒」は「保護者を必要とする存在」ということになります。するとその「保護者を必要とする存在」は、学校の中でも「何(誰)」からの保護は常に必要なはずですよね?

【ただいま読書中】『国家民営化論 ──「完全自由社会」をめざすアナルコ・キャピタリズム』笠井潔 著、 光文社(KAPPA SCIENCE)、1995年、903円(税別)

 小松左京に「第二日本国誕生」という短編があります。政府が二重構造になっていて、「第二政府を選択します」と申告したら、交通違反の反則金が第二警察の管轄に移動して割引になったりする、などというへんてこな「日本」です。で、「どちらの政府が良いか」を「国民の自由選択」に任せる、という、今の権力構造に安住している人たちにはアナーキーな作品でした。
 ところがもっとアナーキーな感じの本が、本書です。なにしろ「国家民営化」ですから。だけど政府自身が「第三セクター」とか「民間活力の活用」とか言っているわけだから、政府自身に対しても同じことを言っても良いわけでしょう?
 「リベラル」と「デモクラシー」は矛盾している、「自由」と「平等」は両立が困難、と著者は次々指摘します。
 たとえば「平等」。人には様々な「差」があります。自然の差は仕方ないにしても、では社会的な差は何とかならないか?と著者は考え、「スタートラインでの平等」を言い出します。そこで著者は極論に走ります。「相続の禁止」です。著者は「ラディカルな自由主義」と言いますが、そこでは「自由で平等な個人」というフィクションが成立するために、出自の差や性差で“扱いの差”があってはならないのです。著者はさらに、現代社会の「家族」を「労働関係と愛の関係の抑圧的な混合体」と、身も蓋もない呼び方をします。しかし、「家族」を解体すると「子供」という新たな問題が社会に提出されます。「子供」を(少なくとも乳幼児は)「大人と平等な個人」として扱うのは無理があるのは明らかですから。
 最近「ベーシック・インカム」が注目されていますが、本書では早くもその考えが取り上げられています。なかなかにラディカルです。ただ、ベーシック・インカムがあれば、子供と同様市場経済では扱いが難しい「老人」についても、ある程度の手当てはできることになります。
 本書では「社会形成はフィクションである」という徹底した視点から、人間や社会が論じられています。すると個人の「権利」を説明するのにも「生得の権利」といった便利な言葉が使えません。というか「便利な言葉」で楽して議論している(つもりになっている)人があまりに多い、ということに本書を読んでいて私は気づいてしまいました。本書での提案はたしかに表面的にはラディカルですが、その奥には「もっとものを考えようぜ」という平易な呼びかけが潜んでいる、と私には読めました。

 


パスカルが出てこない

2020-05-28 06:12:10 | Weblog

 昨夜妙な夢を見ました。夢の中で「『人は一本の蘆である』は誰の言葉だったっけ?」と考えているのに、どうしても「パスカル」が出てこないのです。こんな有名な固有名詞が出てこないとは、ああ、歳を取って呆けてきたか、と悲しい思いをしていると、「たとえばフェルマーから連想したら出てこないか?」という“ヒント”が出されます。自分一人でボケてそこに自分が柔らかくツッコミを入れている、という一人漫才の体ですが、夢の中のことですから私は別に不思議には感じません。
 フェルマーねえ。フェルマーの最終定理は蘆には無関係だろうし、そもそもパスカルは哲学者、おっと数学者でもあったな、パスカルとフェルマーの往復書簡から「確率論」が形作られたのは数学界では有名な話だった……というところで目が覚めて、さっそく「おいおい、ちゃんと『パスカル』(とフェルマー)って言ってるじゃないか」と私は夢の中の私に盛大にツッコミを入れました。

【ただいま読書中】『アノスミア ──わたしが嗅覚を失ってからとり戻すまでの物語』モリー・バーンバウム 著、 ニキ リンコ 訳、 勁草書房、2013年、2400円(税別)

 食べものの繊細な味わいを愛し、学校卒業後に料理人の修業を始めたばかりの著者は、交通事故で多数の骨折や脳挫傷などの重傷を負います。やっと回復してきたとき、著者は自分が嗅覚を失っていることに気づきます。アノスミア(嗅覚脱失)です。そしてそれは味覚の減退も起こしていました。
 嗅覚が失われると味覚も落ちる、というのは不思議です。味覚は味蕾で感じるもののはずですから。もちろん味蕾の五味(塩味、甘味、苦味、酸味、うま味)は生き残っています。しかし、嗅覚が失われると、その五味“しか”感じることができなくなってしまうのです。著者は「ステーキと暖めた段ボールの区別がつかない」と表現します。実際、風邪で食欲が落ちるのは、発熱などのせいもあるでしょうが、鼻が詰まって嗅覚が落ちることで食事の味が落ちてしまうことも関係あるかもしれません。
 プロの料理人への道は断たれ、それどころが、自分の人生さえ失ってしまった、と著者は打ちのめされます。喪失の悲しみに暮れる日々の後、著者は「残されたもの」を数え始めます。まず、トウガラシの辛さ。これは味覚や嗅覚ではなくて三叉神経の刺激だから(味覚と言うよりも痛覚刺激だから)わかります。そして、触感と温度と色彩。これもわかります。そして、松葉杖をつきながらおそるおそる台所へ。でも料理をする勇気は出ません。著者はまだ自分が空っぽだと感じます。そして、孤独の臭いを嗅ぎます。そして、まずクッキー。最初のクッキーにトウガラシ(著者にもわかる味)を入れるのには笑ってしまいます。そして、レシピを厳格に守る限りできあがりが一定であることが期待できるお菓子やパン。
 そしてある日、台所で著者は「森のにおい」を嗅ぎます。手にはローズマリーの束。その臭いで、著者は過去に真っ直ぐ戻ってしまいます。まるでプルーストの『失われた時を求めて』の主人公のように。
 ここで科学のお話が登場します。臭いの感覚は脳の扁桃体に直接つながっていますが、側頭葉の内側に位置する海馬にも直接つながっています。そしてその両者とも、長期記憶・感情・行動をつかさどる辺縁系の入り口なのです。他の感覚もここにつながっていますが、嗅覚とは違って他を経由してからです。だから特定の臭いによって過去の記憶が爆発的に蘇るのは、不思議ではないのです。プルーストがそれを知っていたとは思いませんが。
 数日後には、どこに行っても感じる不思議な臭いが著者につきまといます。「自分の脳のにおい」と著者は直感しますが、家族は誰もそれを信じません。そして数週間後、その不思議なにおいは消えさります。そして、次に戻ってきたのは、チョコレートのにおい。それと、著者の症状だけではなくて、著者そのものに向き合い理解を示そうとする医者との出会い。
 ここでまた科学の話。昆虫のフェロモン、人の性ホルモンのフェロモン的作用、そして「臭紋」(その人固有の臭い、おそらく数百種類の化合物の組み合わせで、遺伝によって決定されていて、指紋のように全く同じ人は存在しないそうです)。
 単なる闘病記だったら、単なる闘病記だったでしょう。しかし著者は、自分の人生についてもけっこうあけすけに語り(ここまで明かして良いのか?とちょっと心配になります)、専門家にも会い、科学の世界についても詳しく調べています。それがこの本に(物理的にと内容的に)厚みを与えています。
 「失って初めて“それ”の大切さに人は気づく」と良く言いますが、「嗅覚」もまた「大切な“それ”」でした。
 一つ、また一つ、と著者は「におい」を取り戻していきます。その過程はゆっくりですが劇的です。だって「なくしたもの」が突然戻ってくるのですから。そして著者は少しずつ「世界」を取り戻していきます。嗅覚細胞は、衝撃などで簡単に死んでしまいます。しかし、神経細胞では珍しいことに、ゼロからでも再生することがあるのです。著者にはそれが起きたのでした。ただ、それは一直線の“回復”ではありません。まるで著者を焦らすように、試すように、一つ一つ、戻ったり消えたりずれたり、とらえどころがない臭いのように、嗅覚の回復も揺れ動きます。オリヴァー・サックスに手紙を書き、料理を試し、著者は自分自身を回復させる手立てを模索します。
 本書で面白いのは、著者が街の情景も他人も自分のキスシーンもすべて「嗅覚」で表現することです。これ、斬新な手法です。私も真似をして、世界を嗅覚で表現してみようと目を閉じて鼻に神経を集中させてみましたが、“見え”たのは実に貧相な世界でした。
 ちなみに、嗅覚に障害を持つ人は、アメリカ成人の1〜2%だそうです。しかしそのほとんどは「どうして私だけ」と不幸の臭いが充満した孤独な生活をしているのです。そして、おそらくそれはアメリカに限定した話ではないでしょう。
 「におい」を表現するとき、私たちは言葉に困り、結局「○○のにおい」と言うしかありません(たとえば硫黄は「腐った卵のにおい」、バナナは「バナナのにおい」)。すると、たくさんのにおいを嗅いでそれを記憶の中にしまっておいた人は、それだけたくさんのものと出会って生きていた、ということになります。つまり嗅覚は「人生の記憶」も担当しているのかな? ところが著者は、嗅覚が復活して「それぞれのにおい」はわかるようになったのに、その「におい」と「もの」とを結びつける能力がなくなっていました。「嗅細胞」と「記憶」とが分断されてしまったのです。これはもどかしい。それでも著者は、自分と世界の結び付きを取り戻す努力を続けます。この努力の力強さに私は心打たれます。それと、著者の自己観察が徹底していることにも。ここまで自分を客観視できるとは、著者はただ者ではありません。さらに、嗅覚を取り戻しても、著者は「以前の自分」ではない「異なった自分」となっています。彼女の人生は、ここからまた新しく始まっていくのです。

 


滴り落ちてこない

2020-05-27 07:29:32 | Weblog

 アベノミクスでは「トリクルダウン」という言葉も使われていました。「富裕層をさらに富ませたら、そこから貧困層にも富の滴りが落ちてくる」という理屈でした。で、アベノミクスは大成功していたんですよね?(たしか半年前までの政府および政府寄りのマスコミの論調はそうだった、と私は記憶しています) だったら、その成功でたっぷり貯め込んだ人は、今こそ「滴らせ」を開始するべき時ではないです? アベノミクスで富んだ人たちは、こんなときに使わないで、いつお金を使う気なんだろう? 同じ金額を使っても、平時の十倍くらい感謝されるのに。

【ただいま読書中】『応天の門(10)』灰原薬 作、新潮社、2018年、600円(税別)

 菅原道真が兄の敵と考える藤原家の内情は複雑です。良房の養子の基経は、子供時代に父および異母兄の国経と遠経に疎んじられていました(少なくとも本人はそのように記憶しています)。だから基経は、反藤原勢力だけではなくて、藤原家の人々に対しても、容赦なくその力を振るう気です。
 そしてまた新たな謎が。検非違使の部下が、剣を狙ったとおぼしき、馬の頭をした身の丈七尺の“怪物”に次々襲われたのです。その謎解きに挑んだ道真は、成り行きで、唐よりも西域の言葉を学び始めます。世界は広く、自分が知らないことが世界の大きさだけあることに、道真は気づいたのです。
 平安朝で、子供時代の菅原道真を“シャーロック・ホームズ”に見立てたコミック、でしたよね? なんだかずいぶんパワーアップしているんですが。この先がとても楽しみです。

 


言葉と行動

2020-05-26 06:59:26 | Weblog

 「スピード感を持って/これまではもたもたやっていた」「やらなければならない/まだやってない」
 ……結局、過去にはやってないし現在もやってないし、未来への具体的な行動計画もないのね。

【ただいま読書中】『善光寺建立の謎 ──日本文化史の探究』杉山二郎 著、 信濃毎日新聞社、2006年、2000円(税別)

 平家物語を読んでいたら、第二巻に唐突に「善光寺が炎上したらしい」とありました。善光寺と言えば「牛に引かれて」くらいしか知らないので、どんなお寺だったか?と一〜二冊読んでみることにしました。
 著者は「寺社縁起は、文献としての価値はいかがなものか」となにか肩すかしのようなことを述べた後、信濃国の縄文時代から話を始めます。農作はおこなわれ、おそらく男女では女性の方が上位だったはず、と推定して、弥生時代、古墳時代、と歴史を辿ります。
 そして仏教伝来。ここで著者は、朝鮮半島では百済や新羅よりも高句麗にいち早く仏教が伝来し、その高句麗経由で、飛鳥での仏教受容よりも半世紀〜1世紀早く信濃に日本海側から信濃川を通じて仏教文化が伝来した、という仮説を唱えます。それが「善光寺」という“形”になったのだ、と。
 日本書紀には、蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)の抗争が書かれています。仏教が入ってきた、ということは、朝鮮半島や大陸中国から人も入ってきた、ということで、これは当然新しい病気も入ってくることになります。そこで「仏教が病気をもたらした」と寺院を焼いたり仏像を堀に投げ込んだりの騒動も起きます(今回のコロナ禍で、反移民派の人たちが「移民がコロナを持ってきた」と殺戮に走らなかったのは、逆に不思議だと私は思っています)。
 善光寺の本尊は「秘仏」で、釈迦如来なのか阿弥陀如来なのか薬師如来なのか、そもそも仏像なのか、も不明です。また、起源縁起は中世および近世の文書だけで、“オリジナル文献”ではありません。ということで、はっきりしたことは断言できない、ということになって、なんだかモヤモヤした気分が残ります。と言って、平家物語をそのまま丸ごと信じるわけにもいきませんしね。ただ、古代日本史では「百済」がやたら重視されているのに、「高句麗」の日本への影響の重要性を言うのは、重大な指摘だと私は感じます。あとは、確かな証拠が見つかれば良いのですが。

 


マイナーバーカードの紐付け

2020-05-25 07:15:37 | Weblog

 マイナンバーカードと銀行口座とを紐付けてしまったら、いろいろ便利、と政府が考えているそうです。
 そんなに便利なのだったら、まず国会議員全員がマイナンバーカードとご自分の口座全部を率先して紐付けて見せてくれないかなあ。そもそも「個人資産の公開」もきちんとしているのだから、まさか隠し資産の発覚を恐れる、なんてことはないですよね?

【ただいま読書中】『自由と規律』池田潔 著、 岩波書店(岩波新書青版17)、1949年(63年25刷改版、85年55刷)、480円

 第一世界大戦後に渡英し、パブリック・スクールのリース・スクールに3年、ケンブリッヂ大学に5年、ドイツのハイデルベルグ大学で3年学んだ著者が、その体験を描いた本です。
 パブリック・スクールは特権階級の子弟のための学校です(でした)。1387年にオックスフォードのニュー・カレージのための予備校としてウィンチェスター校、1440年にケムブリッヂのキングス・カレージの予備校としてイートン校が創設されたのがパブリック・スクールのはじめです。国王ヘンリー六世がイートンに与えた勅許状には「俗僧(修道規約をなさぬ僧)の教育水準向上」がうたわれ、定員はわずかに70名。その名残が、イートン校では現在1000名の学生で厳しい試験を突破して奨学金を受けられるのは70名、というところに残っています。16世紀に宗教改革で僧院は没落、新興の中流階級も高等教育を望み、まずは僧院付属の学校が一般に開放され(だから「パブリック」スクールです)、ついで彼らのためのパブリック・スクールがのちに各地に作られました。そのためパブリック・スクールは「最も古い二校」と「16世紀の17校」の「中世のパブリック・スクール」と「19世紀の12校」の「近世のパブリック・スクール」と大きく2つにグループ分けされています。「私立なのにパブリックとは、これいかに?」と非英国人は思いますが、ちゃんと理由はあるわけです。
 著者が留学した時期は、大英帝国の没落期、特権階級は、政治的な特権に続いて経済的な力も失いつつある時代でした。それでも「伝統を重んじる英国人」によってパブリック・スクールには昔の貴族的な雰囲気が濃厚に残っていたそうです。
 イギリスの高等教育は「社会の“プロフェッション”になる人たちに与えられる」という社会的合意があります。だから優秀だが貧しい人のために奨学金制度も充実しています。また、いたずらに高等教育を求める風潮もありません。日本では「休講のお知らせ」があると学生は喜びますが、イギリスではそんな人間は最初から大学には入ってこないわけ。ただこういった「必要な人に必要な教育を」という思想が、かつてイギリスで初等教育の普及を妨害していた、というのですから、話はややこしい。
 ここで著者は「高等教育に対する日英の大きな違い」だけではなくて「英国人気質」についても興味深い指摘をします。英国人は「伝統を異常なくらい大切にする」のと同時に「伝統を改める場合には果断にそれをおこなう」のだそうです。そしてその「墨守」と「英断」の両立こそが英国の「伝統」だ、と。そしてその気質を育てたのがパブリック・スクールではないか、と著者は考えているようです。
 「パブリック・スクール」とまとめて言っても、学校の数だけ違いがあります。それでも強いて共通点を挙げると「私立」「“銀のスプーンをくわえて生まれた人”のための教育」「全寮制」「運動重視」「中心に校長の家が位置する(そしてどれかの寮に接続している)」といったものがあります。これは、ある種の学生には天国、そしてある種の学生には容易に地獄になる環境です。特に芸術家タイプの学生は、寮で迫害される傾向が強いし、たとえばウィンストン・チャーチルは劣等生でありかつ異端としての孤独の数年間をハロー校で過ごしています。
 学生は寮に“監禁”されます。完全休日は1学期間に二日だけ(それも行き先は、博物館か郊外へのピクニックに限定されます)。食事はとんでもない粗食。それでも多くの学生ははつらつと学生生活を謳歌し、当然のように大学に進学してそこでは豪華な生活を享受し、そして社会の“支配者”として学校から旅立っていきます。
 日本の旧制高校はこのパブリック・スクールをモデルとしたのではないか、と思えますが、「学校」だけ真似てもその基盤となる「社会」が違うと、同じ効果は得られなかったことでしょう、というか、得られませんでした。もちろん「理想の学校」を軽々しく望むのは、人生を最初から投げているのと同等ですからそんなことはしませんが、それでもイギリスの「社会にマッチした学校制度」はちょっとうらやましく思えます。

 


ツバメの飛行高度

2020-05-24 09:45:17 | Weblog

 「ツバメが高く飛ぶと晴れ、低く飛ぶと雨」という言葉があります。最近のテレビでは気象予報士が時々これを言っています。で、その理由は「ツバメのエサの虫が、晴れたときには高く、湿度が高いときには低く飛ぶから」。ところがいくつか気象予報士のブログを読んでみると、「なぜ虫がそのように飛ぶのか」についての理由が書いてありません。せいぜい「湿度が高いと羽根が動かしにくくなるのではないか」という推定だけです。
 さて、本当に湿度が高いと虫は羽根が動かしにくくなるのでしょうか? そもそも虫は天候によって飛ぶ高度が違うのでしょうか? たとえば蚊柱、最近私は見なくなりましたが、晴れの時ははるか上空で、曇りの時には地面すれすれ、でしたっけ?(記憶が定かではありません)
 必要なのは実証でしょうね。虫は湿度によってどの高度を好んで飛ぶのか。それがわかったら次は「それはなぜか」の解明、という手順でしょう。
 ところで、ツバメは本当に晴れの時には高く、雨の時には低く飛んでます? 言われたらたしかにそんな感じはしますが、こちらも実証されてましたっけ?

【ただいま読書中】『星の王子様』サン=テグジュペリ 著、 内藤濯 訳、 岩波書店、2000年、1000円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4001156768/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4001156768&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=ed5cfaa09940fecaab77b6b49faead9c
 1945年のフランス版ではなくて、43年のアメリカ版をもとにして「サン=テグジュペリ生誕100年記念」の「オリジナル版」として出版された本です。日本で出版された『星の王子様』はすべてフランス版を底本としていますが、実は挿絵の細部がアメリカ版とはずいぶん違うのだそうです。子供時代に読んだ『星の王子様』がどんな挿絵だったかを精密に記憶しているわけではないので自分の記憶では比較検討はできませんが、約半世紀前に初めて本書を読んだときの衝撃はまだ忘れてはいません。さてさて、今回はどんな感想になるでしょう。
 初っ端から私の涙腺は緩みます。こんなに心にしみる「献辞」がついていたんですね。子供時代の私はここはさっさとすっ飛ばしていました。著者は、「子供と大人」「文学」といった時代を超える一般論と「今という時代(当時の戦争状態)」とを同時に見つめています。飛行家である著者は、文字でも時代と世界を飛んでいるかのようです。

 あっという間に“離陸”、本文を快適に“飛行”し、私は無事“着陸”して本を閉じ、一つため息をつきました。
 ジョン・ダンは人を島にたとえました(というか「人は島にあらず」と表現しました)が、サン=テグジュペリは人を星に見立てたのかもしれません。島よりも星の方が真空の宇宙空間に隔てられているだけさらに「孤独」に感じられます。だけど、サン=テグジュペリはその「孤独」を声高に強調しているようには私には感じられませんでした。もちろん望めば孤独でいることは可能です。でも、「王子様」が旅をしてきてくれたら、その孤独は破られます。あるいは、自分自身が王子様のように旅をしたら、やはり自分は孤独ではなくなるはずです。そしてその「旅」は、肉体の移動だけではなくて、魂の移動でも可能なはずなのです。

 


ライフ

2020-05-23 07:11:18 | Weblog

 英語のLifeは「生命」「人生」「生活」といった意味があります。ところで、covid-19での「自粛」は「Life」の中でも一番大切なのは生命、つまり「生命>生活」という価値判断に基づいておこなわれた、と私は思っています。しかし、じっと籠もったばかりでは「病気では死なないが、経済が回らないと餓死をする」といわれるようになりました。では最近の自粛の緩和は「生命<生活」という判断からおこなわれているのでしょうか? いやいや、死んでしまったら生活ができません。すると「生命=生活」の価値で? ここの「等号あるいは不等号」についてきちんと議論しておかないと、社会は結局混乱のままウイルスのなすがままになってしまうのではないか、という嫌な予感がしています。

【ただいま読書中】『プー横町にたった家』A・A・ミルン 著、 石井桃子 訳、 岩波書店(岩波少年文庫1012)、1958年(85年28刷改版、97年53刷)、640円(税別)

 魅力的な仲間が揃っている魔法の森に、新しくトラーがやってきます。ぴょんぴょん跳ね回るお調子者で、森の古くからの住人からは必ずしも歓迎されている雰囲気ではありません。しかし、トラーのことが全然ストレスにならない住人も居ます。なにより、トラーは自分がトラーであることに満足しています。
 そういえば、プーさんも自分がプーさんであることに満足していますね。「今」「ここ」「あるがままの自分」に満足している姿は、まるで悟りを開いた聖人であるかのようです。ただのぬいぐるみなのにね。あ、いや、ぬいぐるみだから、「今」「ここ」「あるがままの自分」になっちゃうのかな。もっとも同じぬいぐるみでも悲観的なイーヨーとか小心者のコブタとかもいるのですが。
 「プーさんの魔法の森」は実在します。少なくとも、私の心の中には。ただ、私の「森」にプーさんはいません。そして、私は自分が自分であることに満足しているだろうか、と思ってしまうのは、たぶん自分が満足していないからなのでしょうね。人生のどこで私は「プーさん」を失ってしまったのでしょう?

 


耀く街

2020-05-22 08:38:39 | Weblog

 「自粛」で暗かった街に、灯が戻ってきました。閉めていた店が、次々開店して店内に明かりを灯しています。道路の車の数も明らかに増えています。
 だけど、「元に戻る」で良いのかなあ。だってコロナウイルスが消えたわけじゃないでしょ? 画期的な治療法が確立したわけでもないでしょ?
 とりあえず私はまだ外食には出ません。混む店に買い物にも行きません。なんだか「自粛解除だ〜」とまるで祝賀ムードのように人が「三密」になっている気がするものですから。これで感染の確率をゼロにできるわけではありませんが、自らその確率を上げる行為はしたくないのです。

【ただいま読書中】『クマのプーさん』A・A・ミルン 著、 石井桃子 訳、 岩波書店(岩波少年文庫1011)、1957年(85年35刷改版、97年65刷)、640円(税別)

 子供の時に夢中になった本です。「ぬいぐるみが動く・しゃべる」ということに何の不思議も感じなかったのが、今としては不思議ですが、実は今でもプーさんが喋ったり動いたりしていることに、何の不思議も感じてはいません。
 プー、コブタ、ウサギ、イーヨー、フクロの素敵な仲間たちと、そこにやって来たカンガとルー。きっと実生活でも新しく仲間入りしてきたのでしょうね。
 私は、子供時代にはプーさんと仲間たち、それとクリストファー・ロビンとのやり取りを楽しんでいましたが、今回は、クリストファー・ロビンと著者のやり取りが妙に心に染みます。プーさんたちの視点からは、クリストファー・ロビンは明らかに自分たちより優れた存在ですが、私の視点からは彼は頑是無い幼児です。時々大人びたことを言いますが、圧倒的に可愛いなあ。