ウクライナ侵略に関するロシアの言い分は「ウクライナの非ナチ化」「侵略ではなくて特殊軍事作戦」でしたね。その言い分が正しいのだとしたら、では「ロシアの非ナチ化」のためだったら「特殊軍事作戦」なら決行してもよい、ということになります?
【ただいま読書中】『アフガン帰還兵の証言 ──封印された真実』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ 著、 三浦みどり 訳、 日本経済新聞社、1995年、1748円(税別)
かつてのソ連では、マスコミは官製メディアで、出版物は検閲済みのものでした。しかしペレストロイカ後、著者は『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』で「当事者の証言を集める」「真実を歪曲しない(右とか左とか特定の立場に立たない)」というソ連では過去にないスタンスで、第二次世界大戦を「女と子供」の視点から詳しく具体的に描きました。そして「もう戦争については書かない」と決心していたのに、アフガニスタン侵攻の実相について知ったことで著者は本書を書くことになってしまいます。
証言をしてくれたのは、兵士・下士官・将校・軍医・看護婦・通訳・兵士の家族・事務など実に様々です。戦った場所も時期も状況もばらばらですが、共通点は、生きて帰ってきたことと悲惨な状況を実際に目撃あるいは体験したことです。そして、「現場を見ていない人間に、自分たちのことが理解できるはずがない」という絶望感も。
「国際主義」とか「社会主義革命の手助け」とか美辞麗句を並べてアフガン侵攻を決めた人たち、およびその賛同者は、その絶望感さえ利用します。「沈黙」を強制し、著者のように真実の封印を解こうとする人を脅迫し、すべてを忘却のファイルに入れてしまおうとします。
そして、それと同じことが現在のロシアでも公然と進行中です。
こういった話の場合必ず「両論」(アフガンに関しては「嘘にまみれた悲惨な戦争だった」対「ソ連の大義の素晴らしさ」)が出てきます。で、著者は公然と脅迫をされていました。さて、どちらが「真実に近いか」と言われたら“部外者"の私には簡単に判断できませんが、それでもどちらの側につきたいか、と問われたら私は「脅迫をされている側」と答えることにしましょう。自分の正しさに自信と根拠があれば、意見が違う人への脅迫なんて不必要でしょ? 意見が違う人への脅迫をしているだけで、私はそういった人の“仲間"になりたくない(たとえば、「地球は平面だ」と信じる人と議論をする場合、「地球は球だ、と信じろ。信じないと殺すぞ」なんて脅迫をします? 私はしません。自分がなぜ「球」だと信じるかの根拠をいくつか示すだけです。それを理解できない人に対しては「ああ、理解できない人なんだな」でオシマイです)。