【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

質疑不応答

2021-12-30 08:26:10 | Weblog

 国会質疑のテレビ中継を見ていて、「原稿を読むだけだったら、字が読める人なら誰でもできるのではないか?」という疑問を感じました。あんな棒読みをする人のために、本給だけではなくて「文書交通費」という名前の月100万円のお小遣いまで別口で支給していると思うと、月1万円のお小遣い(しかも本給の中からのもの)でやりくりしている人間としては、腹立たしい思いです。
 しかも原稿を読み間違えたり、後になってから「国会答弁は変更するからそれでいいよね」と平気で言う人たちを見ていると、ますます腹立たしくなります。

【ただいま読書中】『ふたつのドイツ国鉄 ──東西分断と長い戦後の物語』鴋澤歩 著、 NTT出版、2021年、2600円(税別)

 著者は「東」「西」「ベルリンの壁」といった言葉はすでに「中途半端な過去」に存在する、と言います。たしかにそれらは私の記憶には確かに刻まれてますが、日常生活で使うことはもうほとんどありません。著者は経済学者で、だから「テツの視点」ではなくて「経済学者の視点」から「二つのドイツ国鉄」を論じ、それを通して「戦後のドイツ」を論じています。
 第二次世界大戦前、ドイツで最大の企業だったライヒスバーン(ドイツ国鉄)は、戦争で甚大な損害を受け、さらにでモンタージュ(戦争賠償目的での強制接収。平たく言ったら戦利品の略奪)によって資材や人員を強制的に奪われ、ぼろぼろになりました。そのぼろぼろの国鉄でまず大量に運ばれたのは「ドイツ人」でした。いわゆる「東欧」に入植していたドイツ人はそれらの国から追放され、なんと1200万人が強制的に「(のちの東西)ドイツ」に鉄道で運ばれたのです。それはユダヤ人を強制収容所に鉄道で運んだときの姿とそっくりだったそうです。行き先が絶滅収容所でなかったことだけは救いだったでしょうが。
 ドイツの線路網は、ベルリンを中心に放射状に組まれていました。だからソ連占領地ではその管理はやりやすかったでしょうが、西側は大変です。しかもフランスは直接統治にこだわり、英米が「なるべく現場に任せよう」としていたのと反りが合いません。さらに米ソの対立がどんどん深刻化。ベルリン封鎖でその対立は決定的となり、ライヒスバーンは分裂の危機、というか、実際に分裂させられてしまい、東ドイツでは旧称のままの「ライヒスバーン」、西ドイツではフランスが特にその名称を嫌ったためか「ブンデスバーン(連邦鉄道)」となりました。
 ベルリンの壁ができる前、ベルリンの市街電車Sバーンは「東」と「西」の両方を走っていました(駅の構内は東ドイツ領とされていましたが)。そのため、通勤や通学だけではなくて、東から西へ亡命する者もまた電車を使いました。しかし、市街電車で亡命、って、なんだか映画になりそうな話ですね。
 西ドイツ経済は「奇跡の復興」を遂げますが、ベルリンの壁によって「東」からの労働力流入が経たれたことが経済成長のネックとなり、イタリアやギリシアなどの南欧に、さらにはもっと安価な労働力を求めてトルコに「ガストアルバイター(ゲスト・ワーカー)」を求めることになりました。東ドイツも労働力不足に悩んでいましたが、こちらでもっと問題なのは生産性が上がらないことでした。共産党が指導する計画経済では、その解決がなぜか難しかったのです。美辞麗句のスローガンはたっぷりありましたが、過酷なノルマとセットで、東ドイツの労働者の労働意欲をかきたてるには不足だったようです。また、東ドイツが国家として国際社会から孤立気味であったことも経済成長を妨げた要因として大きいでしょう。
 そして、中央計画経済の中で活動する東ドイツ国鉄(DR)もまた、苦闘することになります。たとえば貨物輸送。輸送手段の選択は許されていません。ノルマは厳しく設定されています。運賃は「経済」ではなくて「政治」で決定されました。ノルマ達成に必要な資金や資材の供給はほとんどありません。さらに、戦前の石炭供給源ルール地方は西ドイツに属したため、石炭も不足しています。……私がDRの責任者だったら、泣いちゃうかもね。
 西ドイツ国鉄(DB)は1960年代に、電化・コンテナ輸送・コンピューターの導入など、近代化を進めました。ただこれは、斜陽化する鉄道の“逆襲"でした。高度成長でどんどん増える輸送量はほとんどがトラックに奪われていたのです。DBの赤字はどんどん増え、政府からは「合理化」の要求が……なんだか日本の国鉄と似ていますね。高度成長が続けば問題の先送りができたでしょうが、1973年に石油ショックが全世界を襲います。東西どちらも打撃を受けますが、DBは歯を食いしばってリニアモーターカーなどの技術開発を継続、大してDRは原油高に負けて石炭回帰を模索、といった違いを見せました。
 西ベルリンのSバーンは東ドイツのDRが運行していました。つまりそこの従業員は「西ベルリンに住む東ドイツ国民」だったのです。DRだから安月給です。でも西ベルリンは物価高。病気の時にかかる医師も東ドイツから派遣された人に限定です。不満が募ります。設備老朽化に有効な手が打てない東ドイツは路線の縮小を計画。これは「社会主義国家では職場は安定している」という信頼感を裏切る行為です。1980年、ストライキが始まります。当局の対応は早く、すぐに運行が再開されましたが、そもそも東ドイツ国民がストライキ、が、驚天動地のできごとです。不採算部門を持てあましていた東ドイツDRは、西ベルリン市庁に引き取らせようとして複雑な交渉が行われ、84年に西ベルリンSバーンは「西のもの」になりました。
 著者はこの「鉄道史上の小さなエピソード」に、5年後の「ベルリンの壁崩壊」の兆しを読み取ります。きわめて強固に見えた「冷戦構造」が崩れる最初の一声だったのではないか、と。
 そしてDBとDRは1994年に統合されて「DB AG」になりました。
 外から見ている人にはたった一行ですが、“中の人たち"にとっては、長い歴史と困難が含まれている大きな物語だったことでしょう。さらに「東西ドイツ」ではこういった物語は鉄道以外にもたくさんあるはず。日本がこんな分割統治をされなくて良かった、と思います……あ、沖縄はまだ分割されているか。

 


英語の能力

2021-12-28 15:23:02 | Weblog

 日本人のほとんどは英検1級程度の簡単な試験にも通らない、と嘆いている声がネットにありました。もしかして「英検1級なんて簡単だ」と自分の英語能力を誇りたいだけなのかな、とも私は思いましたが。
 ところで、同じ検定試験をアメリカ人やイギリス人やオーストラリア人が受けたら、何%が通るのでしょう? それがわからないと、その試験がどの程度の難度で何を判定しているのかもわからないような気がします。

【ただいま読書中】『読書と人生』寺田寅彦 著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2020年、840円(税別)

 小さな文庫本ですが、読んでいてそこに含まれている「教養」の重厚さに私は打ちのめされてしまいます。文系とか理系とかの薄っぺらい言葉を超越した「教養」。
 もちろんここに登場するのは「昔のこと」です。だけど、明治や大正の時代の制約を綺麗に乗り越えた文章の内容は、現代に、そして未来に通用するものです。
 爪の垢を煎じて飲みたいものです。足元にも及びはしませんが、死ぬまで1mmでも良いから今より向上しなくちゃ、という気にさせられてしまいました。

 


女○○

2021-12-26 14:45:52 | Weblog

 おなご先生(女教師)、女給、女漫才師、女社長、女医……こういった言葉には「この職業は本来男のものだった」という主張が込められているように私には感じられます。さらにその言葉が言われ始めた時には、「その職業で女性はまだ少数派」であると同時に「女性がその職業に就くことが社会的に公認されている」ことも示されていると私は考えます。
 最近は「女上司」ということばがネットで登場します。すると、「上司」という“職業"もまた、現在は女性は少数派であるけれど、これからどんどんその割合は増えていく(真に男女平等の社会(会社)ではその割合は半々に近づく)はずということでしょう。
 そういえば、政治の世界で、首長が女性、は日本ではまだまだ少数派ですが、「女議長」「女市長」「女都知事」なんて呼び方はされていませんね。ということは、日本で「女性の首長」はまだ社会に(少数派としてさえ)“公認"されていないのかな。

【ただいま読書中】『食卓を変えた植物学者 ──世界くだものハンティングの旅』ダニエル・ストーン 著、三木直子 訳、築地書館、2021年、2900円(税別)

 19世紀末、建国してまだ100年ちょっとのアメリカには「アメリカの食べ物」と言えるものはほとんどありませんでした。入植者の食事は、トウモロコシまたは小麦やライ麦のパン、バター、ベーコン、豆、ジャガイモ、という質素なものでした。それを大きく変えたのが、あまり腕の良くない植物学者で素人スパイのデヴィッド・フェアチャイルドです。
 彼がアメリカに持ち込んだのは、シトロン(コルシカ)を皮切りに、ザクロ(マルタ)、スイカとアボカド(チリ)、パイナップル(南アフリカ)、ケール(クロアチア)、種無しブドウ(イタリア)、パパイヤ(セイロン)、デーツ(イラク)、大豆(インドネシア)、マンゴー(ヴェトナム)、モモとマイヤー・レモン(中国)……この足跡を辿るだけで、圧倒されます。そうそう、食べ物ではありませんがエジプト綿(エジプト)と桜(日本)も彼はアメリカに持ち込んでいます。
 1870年頃からアメリカの「食事」「食べ物」は変化し始めていました。缶切りなどの新しい調理器具が普及し、「バランスの取れた栄養」という概念も普及し始めます。料理法も多彩になり、本書では「最上流階級では卵が、ポーチドエッグ、茹で卵、目玉焼き、スクランブルエッグ、エッグクリーム、またはエッグノッグとして供された」と嬉しそうに書いてあります。江戸時代の「卵百珍」を教えてあげたいなあ。ともかくアメリカは「デヴィッド・フェアチャイルド」を必要としていたのです、それも切実に。
 熱意は溢れるほどあるが、現実的な目的や手段を欠いてまごまごしている若者に、偶然出会った大富豪のランスロップが「慈善ではなくて投資として」ジャワ行きの旅費を出してくれることになります。
 こういった「個人の冒険物語」と並行して、「植物の歴史」「食物の歴史」が同時に語られます。それと「アメリカの(食の)歴史」も。
 今私たちが普通に食べているもの、これらはちょっと前には「普通」ではなかったことを思い出させてくれる本でした。例えば、カリフォルニアのオレンジ、輸入牛肉、キーウィなど、昭和の私の子供時代には「日本では売っていないもの」でしたっけ。今ではその辺のスーパーで簡単に手に入りますけどね。

 


野菜の再利用

2021-12-20 06:49:00 | Weblog

 最近我が家の冷蔵庫に、野菜クズが詰め込まれたポリエチレン袋があるのに気づきました。これ、本来は生ごみだよなあ、と思っていると、しばらくしてとんでもなく美味しい野菜スープが登場。はい、野菜クズなんて言ったらいけませんね。「ベジブロス」です。
 なんだか環境保護にも良さそうだし、お財布にも優しい。ただ、“出し殻"の野菜は残りますね。これ、乾かして油で揚げたら美味しい「ベジチップ」にならないかしら。

【ただいま読書中】『明暦の大火 ──「都市改造」という神話』岩本馨 著、 吉川弘文館、2021年、1900円(税別)

 「明暦の大火」と言えば別名の「振り袖火事」は思い出しますが、それ以上の記憶を私は持っていません。ローマ大火・ロンドン大火とならぶ世界三大大火とも言われ、その後幕府は防災を念頭に江戸改造を行った、と言われています。ところが著者は「本当に江戸改造があったのか?」と疑問を持ち、その確認を行いました。
 こんなとき信頼できる古地図があれば良いのですが、大火前のものは地図と言うより絵図で、大火後の地図との比較が難しいそうです。
 そもそも明暦って、いつでしたっけ? ときの将軍は四代の家綱。家光が亡くなったことで11歳で将軍となり、明暦三年(1657)には17歳でした。幼君による権力の不安定さを狙ったかのように、七月には松平定正遁世事件と由井正雪の幕府転覆計画事件が続けて起きます。ただ幕府も、若手の老中を登用し、さらに名君と呼ばれる会津藩主保科正之が将軍後見役としてでんと構えていました。
 明暦三年正月十八日(西暦1657年3月2日)、激しい北西風が吹く中、本郷の本妙寺から出火(「日記」(幕府の公式記録))。火は翌日朝までかけて本郷から深川一帯を焼き尽くします。その十九日昼前にこんどは小石川で出火。代官町の大名屋敷が次々火に呑まれ、ついに江戸城の天守も炎上しました。同十九日夕方、こんどは麹町から出火。愛宕下から芝あたりまで焼けたそうです。
 火に追われて逃げていたら川にぶつかって橋も焼け落ちていて逃げ場を失って焼け死ぬ人もたくさんいましたが、十九日には、逃げているうちに前日の火事で生じた広大な焼け跡に出くわして、それで命が助かった人もいました。このときの体験談が残されていて本書で紹介されていますが、その記述の生々しさには圧倒されます。というか、こちらの想像力が追いつきません。
 実際の被害がどうだったのか、そもそも焼けた範囲さえ怪しげな史料が出回っていて確定が困難です。それでも著者は信頼できそうな史料を選択して詳しく検討し、大名の上屋敷が160軒は焼けたと推定しています。死者の数も一応「焼死者3万7千」という数字が伝えられています。ちなみに当時の江戸の人口は推定ですが50万人くらい。ただ、きちんとカウントされてはいませんし、水死者や行方不明者も入っていませんから、実際にはもっと多かったかもしれません。ただ、著者は「武家の史料での、死者の存在の希薄さ」に驚いています。屋敷が焼けたことは記録されていますが、それで誰が死んだか、は無視されているのです。まだ戦国時代の気風が残っていて「人命の価値」は軽かったのかもしれません。あるいは「外の人(身内ではない人)には興味を持たない」という日本人の基本態度によるものかも(焼死体がごろごろしている環境でも平気で歩いていた人が、到着した屋敷で身内が一人行方不明と聞くと血相を変えて心配をしていますから)。
 「復興」に関して、幕府は早め早めの対応をしました。まずは全国に飛脚を出し「正しい情報」を知らせます。同時に「参勤交代の猶予」「将来の割替えの可能性を考え、小屋や屋敷は簡素なものを作るように御触れを出す」などの処置をします。そして、市中の応急的な復興が始まってから、江戸城の再建が始まります。これは「市中を優先」と言うよりは、大規模な工事なので手配に時間がかかっただけかもしれません。ただ、天守は、一度は再建計画が立てられましたが、結局計画は中止されました。「もうそんな時代ではない」だったのかもしれません。
 「火消し」の増強が必要です。明暦の大火の前には、江戸の火消しは「大名火消し」(六万石以下の大名から16家が担当、1万石ごとに30人の人足を提供し、交代で防火を担う制度)だけでした。そこで「定火消し(火消し役)」が幕府に新設され、少しずつ人員が増強されていきました(「町火消し」は八代将軍吉宗以降です)。延焼防止のために火除け地も設定されました。江戸時代の「火消し手段」は「破壊消防(火の行く手を壊してそれ以上延焼しないようにする)」でしたが、それを平時からあらかじめ組織的に用意しておくわけです。そう言えば第二次世界大戦でも、空襲対策として大規模な「火除け地(建物疎開をして空き地を作っておく)」があちこちの都市で作られました。江戸時代と違うのは、火が平面的に燃え広がるだけではなくて空から新たな火種が降ってくることで、だから空襲に対して火除け地はほとんど役に立ちませんでした(戦後各都市の「100m道路」としては役立っています)。江戸の火除け地では狙われたのは町人地ばかり。対象となった町人は新開地に強制的に移動させられていきました。
 拝領屋敷を失った大名も多く、失わなかった大名たちも含めて「いざという時の避難所としても機能する別宅(中屋敷や下屋敷)」の必要性を強く感じる人が増え、結果として郊外(浅草、麻布、白金、高輪など)に数多くの大名屋敷が新設されました(大名が希望の土地を申請し、幕府が調整して土地を給賜する、という手続きがふまれました)。
 焼失した寺には移転命令が出され、駒込が「寺町」になりました。浅草にも寺が集められます。ただしこれは、以前から寺が少しずつ移転してきていた地域で、「寺町の新設」ではなくて「寺町の拡張」でした。
 「築地(海岸や低湿地の埋め立て地)」も次々造成され、「江戸」はスプロール化していきました。
 たしかに「大火前」と「大火後」とでは江戸はその姿を変えています。しかしそこに明確な「都市計画」は無かったようです。大名たちは勝手に「この土地を拝領したい」と希望を次々出し、幕府はその調整におわれていました。町人は勝手に小屋がけをします。延焼防止のために瓦屋根が義務づけられましたが、すぐに逆に瓦は禁止、とのお達しが出ます。その後の大火で火除け地はやすやすと炎を通過させてしまい、そのせいか火除け地に家を建てることを幕府は許可します。
 「人口密集の大都市」を目指すのか「防災都市」を目指すのか、「都市計画」のグランドデザインは完全に不在です。そもそも江戸に「絵図」はありましたが「地図」はありませんでした。絵図で都市計画は作れません。また、不安定な世情の中、強権的な政策も採りにくい。いやあ、為政者は大変ですね。

 


海中は海上にあらず

2021-12-17 20:53:54 | Weblog

 海上自衛隊に潜水艦がいるのは、名前に反していませんか? 航空機は……「海の上の空中」と強弁することは可能だし、そもそもかつて日本海軍には局地戦闘機(空母ではなくて陸上基地から発進する海軍の戦闘機)がいたからこちらはOKにしますが。

【ただいま読書中】『帝国陸海軍の戦後史 ──その解体・再編と旧軍エリート』山縣大樹 著、 九州大学出版会、2020年、4000円(税別)

 占領軍は「日本軍は武装解除、解体」と命令したはずですが、実際には「日本軍」は戦後の日本政治に大きな影響を残していました。本書は「旧軍エリート(主に佐官以上の職業軍人)」が「戦後(占領期の45年〜52年、さらにその後の10年)」にどのような活動をしていたか、を研究して「日本の戦後」の一面を明らかにしようとしています。
 敗戦後、陸軍省・海軍省は第一復員省・第二復員省に改組されました。もっとも内部の人事構成は敗戦前のものがそのまま横滑りでした。やがて二つの省は復員庁に統合されやがて厚生省外局の引揚援護庁の傘下に組み込まれることになります。なおこの組織は現在の厚生労働省援護局となっています。
 GHQによる公職追放は21万人(うち職業軍人は16万人)。ところが復員省では(他の官庁や地方でも)その専門性・有用性が認められ、旧軍人に対する「公職留任(公職追放の猶予)」が大々的に行われました。
 つまり、旧陸軍省・旧海軍省は、厚生省に、人ぐるみの組織を組み込んで保存させていたのです。
 GHQの旧日本軍の非武装化を断行しましたが、「経済的非武装化」の一環として軍人恩給の停止も行いました。停止は1946年2月1日、復活は、講和・独立後の53年8月1日です。日本は大騒ぎです。戦前の日本では軍人恩給は「当然の権利」でした。それが、戦争でひどい目に遭っただけではなくて「権利」まで停止されてしまったのですから。もっとも、一般国民から見たら「権利」ではなくて「軍人(家族)の特権」ではあったのですが。日本独立後「恩給法の復活」論議が始まります。そこで「特権性」が大きな問題となります(「民間人の戦争犠牲者」「旧植民地出身者」への補償をどうするか、も議論の対象となりました)。さらに「軍人」の中にも、加算年などの制限から「不平等性」が露骨に存在していて、それに対する不満も噴出しました。そういえば私の伯父は陸軍少尉で戦死しましたが、その妹(つまり私の母親)はそれに対して国は何もしてくれていない、と言っていましたっけ。ともかく軍人恩給は復活。するとその拡充を求める声はかえって強くなりました。その中心となったのが53年結成の「旧軍人関係恩給権擁護全国連合会」(軍恩全連)です。他にも「遺族会」「日本傷痍軍人会」なども活動をしていました。各団体は、ロビー活動や保守系政党への選挙協力など、活発な活動を続けました。彼らの主張で面白いのは「敗戦の責任は全国民が負うべき」と言っているのに「軍人恩給を社会保障に組み込むことには反対」していることです。戦争責任は全国民のものだが、恩給は軍人の特権、と言うわけです。でもその運動方針は、ロビー活動と選挙。団体からも議員を出しますし、自民党に協力して自民党議員の議席を確保します。きわめて民主的です。
 「新海軍創設」の動きは、はじめは旧軍エリートたちが、ばらばらに「個人的研究」として模索していました。それが、おそらく50年の警察予備隊創設がきっかけとなったのでしょう、51年ころから旧軍人だけではなくて、日本政府要人やアメリカも交えての交流が盛んになります。ただ、露骨に「再軍備」に動くことはありませんでした。まだそんな時代ではなかったようです。アメリカの「コーストガード」をモデルにして、領海の治安を維持することを考えるのがせいぜい。もっともアメリカの沿岸警備隊は、陸海空軍海兵隊とならぶ「軍隊」なんですけどね(今だったら宇宙軍も含めるべきかも)。51年はじめに、ジョン・ダレス国務省顧問が特使として来日。彼の真意は日本の主権回復と再軍備・米軍基地の維持でしたが、それは明かされず、ダレスと交渉した旧軍エリートたちは不安に苛まれることになります。様々な計画案が提出されますが、そこには「空海軍創設」を見越した大胆なものが多く含まれていました。最初はその積極性に驚いた米軍幹部も、話し合いを重ねるうちに認識が一致していき、「海上保安庁」を越えた存在である「海上自衛隊」が姿を明確にしてきました。
 歴史の中の「アクター」としての旧軍エリート、という視点はなかなかに刺激的でした。ただ人数がやたらと多いから、一つのイメージですべてを律することは困難です。人はみなそれぞれの思惑で動きますから。でもその結果、時代が動いていくんですね。
 ところで現在の時代の「有力なアクター」って、どんな人たちなのでしょう?

 


将来構想

2021-12-09 06:17:05 | Weblog

 巨大建造物、たとえば東京スカイツリー、いつかは“寿命"が来ます。そのときどうやって安全にしかも安価に取りこわすのか、プランはきちんとできているのでしょうか?

【ただいま読書中】『捨て方をデザインする循環ビジネス』中台澄之 著、 誠文堂新光社、2020年、1600円(税別)

 著者は「捨てる側」ではなくて「1日60トン以上の廃棄物を受け入れる側」で仕事をしています。だからでしょう、「安易な否定」や「理想論」や「べき論」を排した「現実に即した考え方」が必要と言います。
 テクノロジーの進歩は、人の生活を便利にし、安全にしてきました。そして同時に大量の廃棄物も生んできました。我々はこれから「自由にものが捨てられない社会」に住むことになります。そのとき「捨て方」を考慮していない商品を開発する企業はその社会には居場所がないでしょう。
 我々の多くは、下水やゴミの行方に興味を持ちません。目の前から消えればOK。だから海洋プラスチックが増えます。「目の前から消えてもらう」ためには川に放り込むのが一番お手軽で、川は最後には海に流れ込むから。では、ウミガメの鼻に突き刺さっていたプラスチックストローやクラゲと間違われて食べられるレジ袋を“目の敵"にして攻撃したら、すべて解決? いいえ、それは問題を解決せずに別のところに送り込んでいるだけ(ゴミと同様「問題が目の前から消えたらOK」の態度です)。解決するためには「目の前から消えたらOK」の態度を根本的に変える必要があるのです。
 資源を再生するためには「分別」が必要です。ではその分別の“最小単位"は何でしょう? 「素材」です。「ペットボトル」は、ボトル本体は「PET」ですがキャップは「PP(ポリプロピレン)」。別の素材ですから分けないと再生できません。食品トレイはポリスチレン、ラップはポリエチレン。つまり分別の“単位"として「プラスチックゴミ」というものはあり得ないのです。だって「プラスチック」という樹脂は存在しないのですから。
 そもそもプラスチックを製造するときにはその原料には品質管理がされています。ならばリサイクルでも「原料としてのゴミの品質管理」が必要になるはず。異物混入(紙が張りついている、食物で汚れている)は再生にはアウトです。だからと言ってゴミを洗うと、こんどは水質汚染。下手に燃やすと地球温暖化やダイオキシン。そこで日本では、分別せずに中国に“輸出"しました。しかし、中国でもリサイクルのためには分別が必要で、分別できないものは「捨てるゴミ」になります。つまり、中国からの海洋ゴミの中には私たちが“捨てた(輸出した)"私たちのゴミが多く混じっているのです。
 だからといって「ゴミを捨てること」自体を否定できません。新型コロナで、使い捨てマスクや手袋などの衛生材料の消費が増えていますが、これをリサイクルやリユースはしない方が良いでしょう。テイクアウトで使い捨て食器の使用が増えていますが、これも簡単に否定はできません。
 ならば「捨てること(リサイクルすること)」を最初から製造・販売に組み込んでおく必要があるでしょう。そしてその“コスト"を消費者が負担する覚悟も持つ必要があります。あ、“コスト"には、金銭だけではなくて、再生のために費やす“手間"も含まれます。
 目の前の快適性だけではなくて、もうちょっと広い視野と長い時間軸を見る意識改革が必要そうです。著者は「まず知ること」から勧めています。たしかに無知なままイメージだけで喋っても、それはただの妄想や思いつきでしかありませんよね。

 


甘え

2021-12-05 10:03:04 | Weblog

 「密を避けよう、会食は我慢しよう」と政府が呼びかけているときに会食やパーティーを平気で開催していた政治家は「自分は政治家だから特別だ」と「甘えている」のではないでしょうか。
 それとも、「貧乏なのは、努力が足りない、甘えている、自己責任だ」という主張に対して「貧乏には、格差社会の方にも問題がある」と言えるように「甘えた政治家がいるのは、そういった政治家を選挙で選ぶ社会にも問題がある」と言うべき?

【ただいま読書中】『あくびはどうして伝染するのか ──人間のおかしな行動を科学する』ロバート・R・プロヴァイン 著、 赤松眞紀 訳、 青土社、2013年、2400円(税別)

 著者は「スモールサイエンス」と言っていますが、私たちの身近な行動を研究の対象としてみよう、という本です。
 まずは「あくびはゆっくりしたくしゃみに似ている」から始まります。そして「あくびは伝染する」を実験で確かめます。面白いのは、あくびをする顔のビデオで口元を隠したものでもそれを見ている人にあくびが伝染することです。ところがあくびをする口だけのビデオだと伝染しない。どうも「口以外の部分」が「あくびの伝染」に大きく関与しているようです。ということは、礼儀正しく口元を手で覆ってあくびをしても、伝染するのです。
 「笑い」もなかなか刺激的。女性は男性にユーモア(自分を笑わせてくれる人)を求めるが、男性自身が笑うかどうかは気にしない、とか、会話の中の笑いは句読点に似た効果を持つ、とか。
 「涙」でも面白い指摘があります。涙を流して泣いている人の顔写真から涙だけを消すと、なんとも曖昧な表情が浮かび上がるのだそうです。つまり、涙があるから泣き顔に見えているだけ。さらにフォトショップで「上向きに流れる涙」をつけ加えると、これまた悲しみが見えません。ということは、将来無重力環境でなく場合には、悲しみを伝えるために工夫が必要になることになりそうです。
 咳、くしゃみ、おなら……著者は何でも真面目な研究のテーマに取り上げてしまいます。はじめはちょっと気恥ずかしいというか決まりが悪い思いをしますが、著者の論考を読んでいると、自分だったらもうちょっと違う方向で研究するかも、などと想像の翼が広がっていきます。
 本当に、どんなものでも「科学研究の対象」になるんですね。小学校の自由研究、もうちょっと「科学的」にやったら賞が取れていたかな?

 


発達する理由

2021-12-01 07:01:09 | Weblog

 低気圧や台風が進路を進むにつれて「発達」することがあります。それが一番よくわかるのは中心気圧の低下。
 だけど不思議じゃないです? 低気圧や台風には中心に向けて空気が大量に吹き込んでいます(気圧が低い方に空気が流れるのは当然です)。それなのに中心気圧が下がるとは、中心に吹き込んできた大量の空気は、一体どこに行ってしまったのでしょう?

【ただいま読書中】『連星からみた宇宙 ──超新星からブラックホール、重力波まで』鳴沢真也 著、 講談社(ブルーバックスB2150)、2020年、1000円(税別)

 「連星」とは、二つの恒星(太陽系の太陽)が共通重心の回りを回っているもののことです。私たちが住む太陽系では恒星は一つだけですが、宇宙では連星が多く、夜空に光る「星」の実は半数が連星なのだそうです。地球から見て(太陽を除いて)最も明るいのは「シリウス」ですが、実はこれは連星です。おとめ座のスピカ、さそり座のアンタレスも連星です。北極星も連星、というか、これはなんと3重連星(3つの星で構成された連星)です。3で驚いてはいけません。4重連星や5重連星さえ宇宙には存在しているのだそうです。現時点でわかっている最大の連星は7重連星(さそり座ν(ニュー)星とカシオペア座AR星)。ただ、「一つの共通重心の回りを回る」のは2つまで。あとはその組み合わせ(連星の回りを別の星が回ると3重、連星の回りを連星が回ると4重、といった感じ)です。「一つの共通重心の回りを3つ以上の恒星が周回する」のも理論的にはあり得ますが、ちょっとしたことで不安定になりやすくすぐにその関係は壊れてしまいます。
 連星は肉眼では見えません。ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡で宇宙を観測したのは1609年ですが、彼の死後、1650年に初の連星が報告されています(北斗七星の“柄"の端から2番目の「ミザール(おおぐま座ζ(ゼータ))」)。以後「2重連星」が次々報告されました。これらが「本当に連星」なのか「もっと向こうにある星がたまたまほぼ重なって見えているだけ」なのかについて激しい議論が交わされています。そして、二つの星がお互いの回りを公転していることが確認できたものは「実視連星」と呼ばれるようになりました。
 単体の星の質量を知るのは困難です。しかし連星でその公転が観測できたら、ケプラーの第三法則に万有引力の法則を組み合わせることでその総質量が計算でき、次に共通重心までの距離から二つの星の質量比が計算できます。つまり、それぞれの星の質量がわかるわけ。なんか手品みたいですね。さらに、質量がわかるとその星の寿命もわかるのです(質量が大きいほど寿命は短い)。
 さらに、ブラックホールの検出にも連星が役立っています。ブラックホールそのものを観測することはできませんが、それが連星になっていたら、連星や降着円盤の観測からブラックホールの存在をあぶり出すことが可能になるのです。また、重力波の検出が最初に行われたのは、2つの中性子星による連星の観測でした。重力波検出装置ではなくて一般相対性理論を使うという“間接的"な観測ではありましたが、実に見事な研究です。