【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

本当に真犯人しか知り得ない事実

2016-04-30 07:11:50 | Weblog

 怪しげな裁判で検察の主張の根拠が「被告が『真犯人しか知り得ない事実』を白状した」だけである場合があります。これって、危うくないです? 本当に「真犯人しか知り得ない事実」(たとえば死体の遺棄現場)を告白して、それに基づいて捜査をしたら本当に死体が見つかった、だったら良いのですが、「真犯人と警察しか知らない事実」(たとえば死体発見現場の状況、傷口などからわかる殺害の手口、など)を容疑者が述べた場合、それは警察が容疑者に教え込んで“白状”させた場合があります。つまり「真犯人しか知り得ない事実」と「真犯人と警察しか知らない事実」は峻別した方が良いでしょう。少なくとも、もしも私が裁判員になった場合には、峻別するつもりです。

【ただいま読書中】『第1感 ──「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル 著、 沢田博・阿部尚美 訳、 光文社、2006年(09年7刷)、1500円(税別)

 人の「瞬間的な認識力(適応性無意識)」についての本です。時間をかけてデータを集めて判断するよりも、直観的な判断の方が正しい場合が多い、というのです。
 ここで私は二つのことを思います。
1)人の直感は正しい。
2)直感で判断・行動をした後、論理がその「正しさ」を後追いで保証している。
 さて、どちらの方が実際には多いのでしょうか? もしの2)が正しいとしても、論理が直感の“奴隷”だったら、自己検証は無理なのですが。
 ところが本書では、「直感」が「実は分厚いデータの上に成り立っている」からこそ「正しい判断」ができる、とあります。つまり、直感がやみくもに“サイコロ”を振っているのではなくて、様々なデータを無意識に採集してそれを“正しい切り口”で並び替えることで判断をしている、というのです。逆に言えば、その“正しい切り口”を使えない人は、判断を間違える(あるいは判断できない)ことになります。殺人現場で、名探偵と凡庸な探偵とでは“見ている世界”が全然違う、ということですね。
 見た瞬間にその美術品が偽物かどうか判断できる専門家。テニス選手がサーブを打つ瞬間にダブルフォールトになるかどうかが判断できるコーチ。夫婦の会話を短時間聞いただけで将来離婚するかどうかがわかるカウンセラー。これらは「専門家」だから、ではないそうです。実際に著者は離婚カウンセラーからそのコツを聞き出すと、ある程度夫婦の状態がわかるようになってしまったそうです。
 もちろん無意識が間違えることも多くあります。たとえば人種差別。慎重に無意識を測定するテストでは、北米に住む黒人でさえ黒人差別の無意識を持っているのです(ふだんからそういった文化的な圧力を受けているからでしょう)。あるいは身長。アメリカの会社経営者では、異常な%で高身長の人が多くなっています。人の無意識が、能力ではなくて見上げることができる人を選択してしまっているようです。
 面白いのは、瞬間的に判断するためには情報が過剰に存在しない方が良いことです。本書に登場する商店で、並べたジャムの種類が多い方が売り上げが減った、という例が紹介されています。買い物に来た人は選択肢が多すぎると直感的に選択できなくなってしまったようです。
 軍人や警察官の行動にも直感は大切です。じっくり腰を据えて考える暇がない場合がありますから。ただ、その場合に間違いを犯さないようにあらかじめトレーニングをしておく必要があります。そのためには、自分がどのように直感を働かせているのかについて、無意識に任せるのではなくて、もう少し自覚的になる必要もありそうです。自分を知るって、難しいんですけどね。


発掘調査

2016-04-29 07:32:35 | Weblog

 貝塚の発掘とはつまりは昔の人のゴミ捨て場を掘り返しているわけです。お墓の発掘とはつまりは墓暴きです。こうして言い換えてみたらあまり立派なことをやっているようには思えませんが、学術のフィルターを通せばとっても立派なことになるんですね。
 そうそう、現代のゴミ処理場(埋め立て地)も千年もすれば立派な「発掘現場」になるんでしょうね。そのときあまり恥ずかしい思いをしないですむように、変なものは捨てないようにした方が良いかもしれません。

【ただいま読書中】『琵琶湖に眠る縄文文化 ──粟津湖底遺跡』瀬口眞司 著、 新泉社、2016年、1600円(税別)

 琵琶湖には120箇所の湖底・湖岸遺跡が知られています。本書で取り上げられるのは、琵琶湖の南端の粟津湖底遺跡です。湖底では水や泥によって遺物が“パック”されて保存されています。その点で非常に貴重な知見が得られるのですが、その水が発掘の邪魔をします。さらに琵琶湖開発の動きが、調査をせかします。京都大阪の“水瓶”として琵琶湖の水を大量に使う計画なのですが、それによって琵琶湖の水位は下がります。すると航路確保のために湖底の浚渫が必要になります。そこに貴重な淡水貝塚がある、というわけです。ところが事前の潜水調査で、遺跡の広さは東西240m南北320mととても広いもので、どこに航路を通しても遺跡の破壊になってしまうことがわかりました。滋賀県教育委員会と水資源開発公団の間でぎりぎりの折衝がおこなわれます。
 ともかく発掘調査です。本格的な調査が始まったのは1990年。まず鋼矢板を打ち込んで「壁」とし、中の水を汲み出して発掘がしやすいようにしました。湖底を一時的に「陸地」にしたわけです。とりあえずの行動目標は、定められた期限までにすべての堆積物を陸地上に持ち帰ること。そうしたら、落ちついた環境でじっくり時間をかけて調査することができますから。出土したのは、貝殻の層・植物(木の実の殻など)層・砂の層が入り混じったものでした。さらに、石器・土器・骨角器なども出土します。かんざし・笄・耳飾りなどのアクセサリーもあります。漆塗りの櫛もあります。大成果です。
 しかし、20代前半の若手研究者3人とパートのおかあさんたちで資料の回収と分析をおこなっていたとは、教育委員会は大英断ですね。結果として人がどんどん育っていったのですから。その結果「縄文人の食卓」が具体的に復元されていきます。しかし、3~4cmのシジミを食べていた、と聞くとうらやましくなります(昔のシジミが大きかったわけではなくて、今の日本では小さい内に取り尽くしてしまうから大きいものを食べることができないのだそうです)。不思議なのは、丁寧に顔面をはぎ取ったあとがある猿の頭蓋骨。著者は「猿のマスク」を作った、と想像しています。もちろん軟部組織の「猿のマスク」は残っていません。ただ、本当に猿のマスクを作っていたのだとしたら、その目的は何だったのでしょう?
 「季節性の復元」の話題もエキサイティングです。どの季節に何を食べていたのか、を明らかにする研究です。セタシジミの貝殻の成長線に季節差があることをまず明らかにした後で、遺跡のシジミがいつ採集された(食べられた)ものかを著者らは明らかにします。イノシシの歯からも季節が読み取れるそうです。琵琶湖沿岸で捕れる魚にも季節があります。こうして、春から夏は魚取り・シジミ採り、秋~初冬は木の実拾い、冬は狩り(狩りは一年中おこなわれていましたが、最盛期は冬でした)、という年間カレンダーが作られます。その時手には入るものを食べていた、ということなのでしょうが、それで人類は滅びずにこられたのですから、年間を通じてバランスが取れていたら「一食とか一日での栄養バランス」にはあまりこだわらなくても良いのかもしれません。縄文時代を見ることが現代のライフスタイルを見直すきっかけになるのかもしれません。


WWFへの疑問

2016-04-28 06:34:56 | Weblog

 私が「WWF」の活動に疑問を初めて感じたのは、アメリカのプロレス団体「WWF」に対する名称使用停止を求める訴訟でのことでした。もちろんまったく異なる団体が「同じ名前」で活動していたら社会的に混乱が生じるかもしれませんが、プロレスラーとパンダを混同する人がそこまで多いでしょうか? さらに実際に「WWF」という名称が登録されたのはプロレスの方が早かったはず。自分があとから「その名前」を名乗っておいて、「お前の方が変えろ」と要求するというのは、傲慢な態度では?と私は感じました。さらに「プロレスなんて低級な団体が、自分たちのような高尚な活動をする人たちと同じ名前を使うなんて許さない」というのも、傲慢さというか差別感というか、あまり立派ではない感覚を私は感じています。「プロレスなんて」と“上から目線”の人にはこの感覚はわかってもらえないかもしれませんが。

【ただいま読書中】『WWF黒書 ──世界自然保護基金の知られざる闇』ヴィルフリート・ヒュースマン 著、 鶴田由紀 訳、 緑風出版、2015年、2600円(税別)

 インドが白人の植民地になる前、森林(と底に住む動物)は人間と“共存”していました。白人(特にハンター)は魅力的な獲物である虎が絶滅の危機にあることに気づき、その保護のために保護区を設定し、“先住民”を強制移住させました。その結果100万人近くの人が住む場所を失いました。そして、虎は数を減らし続けました。先住民が強制移住させられたあとに入ってきたのは、密猟者や森林伐採業者だったのです。するとWWFは、さらなる強制移住が必要だ、と言い出しました。虎を絶滅させないために。
 こういった「先住民を徹底的に軽く見る態度」を著者は「植民地主義的態度」と表現しています。
 WWFは「世界を変える」ために、様々なグローバル企業と協力しています。そこで著者は、「パンダマーク」と何が組み合わされているか、そしてその結果何が起きているか、を追跡し始めます。
 たとえば、ノルウェーWWFとパートナーシップ契約を結んだマリンハーベストは、チリでのサケ養殖で重大な環境汚染を引き起こしていました。しかし著者の指摘に対してノルウェーWWFは「ノルウェー以外のことには関与しない」「ノルウェーでマリンハーベストは衛生的で模範的な活動をしている」と木で鼻をくくったような返事をします。さらに「持続可能な集約的漁業」を目指す、とも。この「持続可能な集約的漁業」の危うさは、たとえば日本の魚の養殖を見てもある程度見当はつきます。魚は養殖されているから海から収奪されていませんが、そのエサには野生の魚が大量に使われているのです。著者はこう述べます。
》集約的養殖業は天然資源を枯渇させ、伝統的な漁業を破壊しつつある。つまり「持続可能なサケの養殖」とは、私たちの批判的思考能力を麻痺させるために養殖業界とWWFが共同ででっち上げたおとぎ話なのだ。
 WWFのルーツはアフリカにありました。1950年代の、セレンゲティ国立公園からマサイ族を追い出せば自然は保護される、という運動です。かくして10万人のマサイ族は、「表:自然保護、裏:人種差別」によって故郷を失いました。この運動から学んだ人々が、それをもっとグローバルにおこなおうと集まったのが、WWFです。著者に言わせれば「表:地球環境保護、裏:人種差別・汚い金でも金は金」。ちなみにWWFが設立されてから実行された「再定住計画」で強制移住させられた人々は「イヌイット」「黒人先住民族」「アディヴァシ」「ピグミー」「ダヤク族」「パプア先住民族」……白人はいませんね。ちなみに、追い出されたマサイ族は、タンザニアに移住しましたが、その後またWWFによって追い出されます。ンゴロンゴロ自然保護区を「保護」するために。マサイ族が追い出された後は、白人のためのキャンプ地になりました。現在そこには豪華ホテルが建てられています(建てたのはWWF副総裁の甥)。そして、自然破壊が進んでいますが、それはマサイ族のせいだそうです。「原住民の狩猟は自然破壊。白人のハンターの行為は立派なスポーツで観光客も集まるから現地にとっては大きな利益」というのがWWFの主張の根幹にあるようです。WWFは「ゾウが絶滅の危機にある」とキャンペーンを張って募金を集めます。WWFのパートナーたちは「ゾウ狩りツアー」で大儲けをしています。そしてこの動きは「ゾウ」に限定されません。
 総裁となったベルンハルト王配(女王の配偶者)は、1962年に友人のジョン・H・ラウドン(ロイヤル・ダッチ・シェルの会長)を大口スポンサーとしてWWFに招き入れました。シェルは有機塩素系農薬で環境汚染スキャンダルを起こしていましたが、WWFはそれを批判しませんでした。67年BPのタンカーがイギリス海峡で座礁、原油での海洋汚染を引き起こしましたが、ラウドンが執行委員となっていたWWFインターナショナル執行委員会はこの汚染を黙殺しました。南アフリカでの「オペレーション・ロック」にも腐敗臭が漂います(なにより、そのことを扱ったテレビ番組をWWFが封殺した、という行為に私は問題を感じます)。
 インドネシアで熱帯雨林を破壊している企業は、WWFのバックアップを受けています。「クリーンなバイオマス燃料」生産をしている、と。しかし、熱帯雨林を破壊した後の大規模単一栽培が本当に「持続可能」なのでしょうか?(著者は実際に現場を見てきています) WWFはもちろん、破壊された熱帯雨林の再生にも努力しています。問題は、再生しようとしているよりももっと広大な面積の破壊に手を貸していることです。
 なお、WWFが秘密にしている「1001クラブ」(WWFの“パートナー”である世界中の大立て者たち)には、石油・鉱業・金融・船舶業界などの最高実力者がずらりと並んでいます。彼らの活動によってどのくらい大量のCO2が排出されたことか、と思いますが、「パンダマーク」がその免罪符になるようです。なお、このWWF貴族になるためには、特別なコネとクラブの空席と入会金だけで2万5000ドルが必要です。
 WWFは良いこともやっているはずです。しかし100%正しいこともないはず。しかし、正しくない部分を批判するものを全否定する(たとえば本書の原著も出版妨害をされています)という態度には、きな臭いものを私は感じます。何か後ろ暗いところがあるから、ほんのちょっとの批判も許せないのかな、と。間違っているのなら、間違っているところを批判し返せば良いことでは?


フロイト派の野菜たち

2016-04-27 06:56:15 | Weblog

 中世~ルネサンス期のヨーロッパでは、少しでもペニスに似ている野菜はすべて精力剤扱いされていました。ただ、胡瓜は例外とされていたのですが、なぜでしょうねえ?

【ただいま読書中】『アルーア』リチャード・コールダー 著、 浅倉久志 訳、 トレヴィル、1991年、2000円(税別)

 「トクシーヌ」……歯車仕掛けの陶磁器の少女の人形「トクシーヌ」に少年時代に魅入られた男が、トクシーヌを再現しようとしますが失敗続き。ついに「人間のような機械(オートマトン)」を作るのではなくて、人間の方を機械に近づけようとします。
 「モスキート」……舞台は「トクシーヌ」のイギリスからタイに移ります。タイには著作権を無視した「女性ドール」の裏マーケットがあります。そしてその周辺には、暗い過去を持った人々が群がっていました。「モスキート」もその一人。男から「人造ドール(のフェイク)」へと“性転換”した人で、いつか自分をここから救い出してくれる“ハンサムな王子様”が現れることを信じて生きています。海面が上昇し、ヨーロッパが没落した世界で。そして、フェイクのセックスドールのさらにそのフェイクであるモスキートは、口に血の味を感じるのです。
 「リリム」……この作品で、著者の文体はシャンペンの泡のように軽やかになり、はじけ続けます。舞台はロンドン。語り手はヨーロッパ最高の量子工学技術者だったパパ(現在は破滅して、病気で寝ている)の子供の「ぼく」。そして、これまでの作品と同様、ここにも「母親」は存在しません。その代わりのように女性の自動人形が社会のあちこちに散りばめられています。そして、「ぼく」は、恋する人造少女に手を引かれ、ネバーランドへ向かうピーターパンたちのようにロンドンの夜空を飛びます。美しく、もの悲しい飛行です。
 「アルーア」……衣服SFです。衣服SFと言えば私が思い出すのは『カエアンの聖衣』(バリントン・J・ベイリー)で、あの作品は本当にぶっ飛んだ設定と展開でしたが、こちらもまたぶっ飛んだ世界でのお話です。「自我」そのものが「衣服」によって規定される(場合がある)というのですから。さらには衣服に人の大脳(の一部)を移植して衣服のみで自立した存在にすることさえ可能となっています。「私の衣服」ではなくて「私が衣服になる」のです。
 「アルーア」は本書では「蠱惑」と訳されています。しかし、蠱惑される側の人間が示すのは、執着です。目の前のセックスドールの“向こう側”に、自分にしか見えない「美のイデア」を見詰め続けているような姿勢ですが、結局執着しているのは目の前の人造美女。あるいは、最後の作品で執着の対象となるのは「衣服」。「自分」というものが存在しているような存在していないような、危うい領域でギリギリのところで物語が成立しているような感覚を味わうことができます。たぶんリチャード・コールダーの作品を私が読んだのはこれが初めてだと思いますが、こんなすごいものを知らずにいたとは、人生の何%かを損したような気分です。さて、これからその“損”を取り戻さなくては。


タイミングの善し悪し

2016-04-26 06:46:02 | Weblog

 熊本地震のことを「大変タイミングのいい地震」と嬉しそうに述べた政治家がいましたが、そのせいかどうか京都補選で負けた政党の人間は「大変タイミングの悪い発言」と思ったことでしょう。しかし、地震は人のタイミングなんかお構いなしに起こるものですし、政治家の発言はタイミングだけではなくてその内容(特に人に対する基本姿勢)も重要なのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『スパム〔spam〕 ──インターネットのダークサイド』フィン・ブラントン 著、 松浦俊輔 訳、 河出書房新社、2015年、2400円(税別)

 本書では「時代」を「1971-1994」「1995-2003」「2003-2010」に三区分しています。それは「コミュニティー」の変質による区分で、コミュニティーが変わることでスパムもその姿を変えてきたのです。
 第一期は「制約」で始まりました。画面に表示できるのは文字だけ、それも最初は大文字だけ。一文字削除、といった「編集」をするのにも手間が必要でした。また、コミュニティーはとても小さく閉鎖的で、だからこそ何もかも“オープン”に進めることができました。そこですでに「ゲームの中のスパム」「ジャンクメール」が発生しています。そして1978年5月1日「最初のスパム(の原形)」がARPANET上の593件のアドレス宛に発送されます。内容は「DECの新型コンピューターの宣伝」でした。議論が起きますが、「個人の迷惑」といった話ではなくて「政府が金を出したARPANETで宣伝が許されるのか?」という話でした。しかし、話はやがて「特定のネット」だけのものではなくなります。1994年4月12日、当時活動中だった6000のニュースグループのユーザーは全員「グリーンカード抽選──これが最後?」と題するメッセージを受け取りました。移民を扱う法律家カンターとシーゲルの「(史上初の本格的な)スパム」でした。人々はまず「意味のある告知」としてメッセージを読み、確認をし、そしてそれがただの宣伝であることを知ると反撃を始めました。抗議メールの山、抗議の電話、抗議のファックス……しかしカンターとシーゲルはめげませんでした。自分たちがしたことは違法ではない、と。彼らの主張は、「先住民が住んでいる土地」であっても、そこをフロンティアとして“開拓”することは「正義の行為」だ、と言っているかのようです。
 私がネットに接続するようになったのは、この第一期の末期の頃のことです。
 そして第二期。スパムメールが「ビジネス」としてはびこっていました。それに対する「反スパム運動」は、(スパムを流す人間の個人情報をネットに流出させる、といった)派手な動きはありましたが、実効的な対策としては機能するものはあまりありませんでした。そこで、反スパムコミュニティーの“中心地”として「NANAE」が誕生します。多くの人がスパムを分析、投稿者を特定し、あとは合法的な手段に訴える、というやり方を採る「コミュニティー」です。問題は法令が国ごとに異なることですが。Googleは「ロボットはだませても人間はだませないスパム」を除去するためのシステムを開発しました。そこでスパム業者は次の手を考え出します。いたちごっこです。
 そして第三期が到来します。スパムは科学的分析の対象となります。その成果はスパムフィルターに実装されます。目的は、スパム業者を罰することではなくて、その利益を減らすこと。いくらスパム送信が低コストで済むとは言ってもやはりいくらかのコストはかかります。そこでフィルターが上手く機能することでスパムへの返信が劇的に減少したら、業者の利益は減ることになり、そうすれば「ペイしない行為」をする人間は減るはずです。穏やかだが、実効性のある手段です。そこでスパムはさらに進化します。なんだか、人工知性がチューリングテストをパスするために必死に努力をしている、といった感じです。さらに、ワーム、ボット、マルウェアなどによって、ユーザー(とその人が属するコミュニティー)が被る損害はどんどん大きくなってきています。さらに、スパムの軍事利用という剣呑な話題も登場しますし、身近なところでは犯罪システムのスパムも。スパムには「様々な顔」があります。スパムメールにだけ気をつけていれば良い、というものではなくなっているのですが……では、素人のユーザーは一体何にどう気をつけたら良いのでしょう?


英雄願望

2016-04-25 06:52:25 | Weblog

 世の中には、「英雄」になりたくて落ち着かない目つきできょときょとしている人がいますし、「英雄」なんかになりたいとは思っていなくても状況で仕方なく「英雄的な行為」をおこなう人もいます。
 「英雄的な行為ができた」ということは「準備はできていた」ということなのでしょうが、できたらそういった「準備」は無駄になる方がありがたいですよね。「英雄的な行為」を必要とする状況は、つまりは非常時ですから。
 ということは「自分が英雄であることを世間に示したい」と願う人は、世の中が非常時になって多くの人が大変な状況になることを願っている、ということに? なるほど「他人を救うために望まずに英雄的な行為をしてしまう人」がふだんから「自分は英雄になりたい」なんてことを願わないわけだ。平時にも非常時にも他人の不幸を望まない、という点では首尾一貫しているわけですから。

【ただいま読書中】『機長、究極の決断 ──「ハドソン川」の奇跡』C・サレンバーガー 著、 十亀洋 訳、 静山社文庫、2011年、838円(税別)

 2009年1月15日ニューヨークのラガーディア空港を離陸した直後、著者が操縦するエアバスは大規模なバードストライクに見舞われました。大型のカナダガンの群れをエンジンに吸い込んでしまったのです。乗客でも感じる恐ろしい衝撃。エンジンは咳き込み、止まります。二つとも。著者は瞬時に判断をし、ハドソン川に不時着水をします。そして気づいたのです。この「道程」は、ラガーディア空港から始まったのではなくて、その何十年も前に始まっていたのだ、と。それまでの自分の人生すべてが、あの5分間の飛行に凝縮されていた、と。
 著者は少年時代に飛行機に夢中となり、17歳で操縦免許を取得。空軍士官学校に入学すると、なんと在学中に飛行教官資格を得ています。そして憧れのジェット戦闘機パイロットに。底でも彼の基本姿勢は17歳の時と変わりません。安全と規律を重視し、事故に出会ったときにはそこから何かを学ぼうとします。
 さらに、私生活もまた「ハドソン川」につながっているのだそうです。しかし私は本筋以外の話、アメリカの養子制度についての部分に驚きました。著者夫妻は不妊だったため養子を迎えましたが、まず実の親による審査があって多くの候補者の中から養親として選ばれる必要があります。そして選ばれたら、出産の時に病院から連絡があり、駆けつけたら生まれたばかりの赤ちゃんを受け取る、というやり方で二人の娘を得ているのです。これ、アメリカでは普通のやり方なんでしょうか。
 著者は先人への敬意の表明も忘れません。たとえば大型機の意図的な川への着水実験は1944年におこなわれています。もちろん事故での着水も数多くあります。それらの知識を著者は「自分のもの」としていました。さらに航空機の事故調査にも参画しています。もちろん「前の事故」とまったく同じ事故が再現されることはあまりありませんが(というか、そんなことがないように対策が立てられるし、そのために調査が必要なのです)、「事故は起きるもの」という“覚悟”と、「何か起きたらどうするか」を瞬時に判断できるように“準備”しておくことが、著者にはできていたようです。
 一番近い飛行場は、まさに出発したばかりのラガーディア。しかしそれは背後です。高度も速度も不十分でエンジンが死んだ飛行機で高層ビルの間を縫ってUターンできるか? 著者は瞬間的に判断します。ハドソン川だ、と。
 担当の管制官には災厄の日でしたが、幸いなことに彼は非常に優秀な人だったようです。マニュアルではこんな場合管制官はパイロットを質問攻めにすることになっています。「残燃料は?」「搭乗人数は?」などなど。これはもちろん「必要なデータ」です。空港の救急隊や消防隊に必須の情報ですから。しかしこの日、管制官は「操縦で手一杯のパイロットにそれ以上の負担をかけない」という選択をしました。なかなかできることではありません。
 バードストライクから着水まで208秒。機長が乗客にアナウンスできたのは、着水19秒前のことでした。それまで現状把握と操縦とチェックリストの確認と管制との連絡に手一杯だったのです。乗客の中にはあとになって「あまりに詳しい説明をしてくれなくて、かえって良かった」と言った人もいたそうですが。
 着水には見事に成功。しかしそれで“ハッピーエンド”ではありません。こんどは「脱出」です。1月のニューヨークのハドソン川。外気温はマイナス6度。機体はいつ沈むかわかりません(実際に後部機体が破損してそこから浸水が始まっていました)。ここで私が驚くのは(本書で驚くのはこれで何回目?)、バードストライクの瞬間に非常ドアの開け方の説明書を読みなおしていた非常口座席の乗客がいたことです。知識が頭に入っているから、その人はすぐに扉を開けることに成功します。著者は逃げ遅れた人がいないかどうか、機内を二往復します。数分後には川のフェリーが続々と救助に到着。現場の混乱が収まり、気を揉み続ける著者が「死者ゼロ」を知らされたのは4時間後のことでした。
 またまた驚くのは、著者が「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」になったことです。あまりに強いストレスだったため、奇跡を成し遂げた“ヒーロー”なのにPTSDになってしまったのです。もっとも本人は「自分はヒーローではない」と(その根拠もつけて)明確に述べているんですけどね。
 そうそう、これまた“本筋”ではありませんが、著者が「図書館派」であることに私は非常な親近感を抱きました。まったく、本筋以外にばかり注目しているようですが、非常に“豊か”な本だからこれだけいろんな読み方ができるのでしょう。飛行機事故に興味がない人も、本書からは何か“楽しみ”や教訓が得られると思いますよ。


混浴禁止

2016-04-24 07:25:53 | Weblog

 明治政府は混浴を「野蛮な風習で、西洋に対して恥ずかしい行為である」と禁止しました。すると、温泉での混浴場面が登場する文芸作品、たとえば『伊豆の踊子』(川端康成)は、お上に公然と逆らうということで発禁処分でも食らうべきなのでしょうか。

【ただいま読書中】『混浴と日本史』下川耿史 著、 筑摩書房、2013年、1900円(税別)

 古代日本で「湯に入る」のは、温泉しかなかったでしょう。で、野天の温泉で男風呂と女風呂に分ける……は難しいから、ほぼ自動的に混浴になっていたはずです。
 「常陸風土記」には日本最古の混浴の記録があるそうですが、これには「入浴」と「歌垣(東日本では嬥歌(かがい))(=男女が集まって歌を交わしながら気に入った相手とセックスをする集まり)」の両方の意味がかけられています。初恋の少年少女の例や、夫婦のスワッピングもあるのですから。ちなみに万葉集にも嬥歌の歌があってそこでもスワッピングが堂々と歌われています。
 お寺では「功徳湯」がおこなわれていましたが、光明皇后の「千人施浴」では皇后や女官が男性も洗っていますから、これも一種の混浴?
 平安遷都によって奈良の仏教は衰退をしました。風紀は乱れ『日本紀略』には「僧尼が淫濫をきわめ、仏教を穢し国典を乱している』とまで書かれます。延暦16年(797年)朝廷は検察使として藤原園人を奈良に送り込みますが彼が最初に出したのが「混浴禁止令」でした。風紀の乱れの諸悪の根源、というわけです。これが権力によって「混浴」が「わいせつ」視された最初の例です。
 平安時代には、貴族の館に「湯殿」が作られ始めます。さらに京都には、一般人向けの浴場も作られたようです。1191年有馬温泉に「湯女(ゆな)」が登場。それまでの遊女は、宴会に派遣されたり路上で客を引いたりしていましたが、湯女は「施設に付いている遊女」である点が新しかったのです。温泉そのものを宗教施設に擬し、宿をすべて「宿坊」と名乗らせ、その「坊」すべてに湯女がいるようになっていました。有馬温泉そのものが遊郭になったのです。「地域興し」として、天才的な発想だと思います。もっとも有馬温泉はそんなものはなくても温泉地としてしっかり繁盛していたのですが。
 1589年に京に本格的な遊郭が誕生します。その翌年大坂に湯女風呂が。このお風呂があっという間に江戸でブームとなります。最初は湯女がきちんと垢すりをやっていたようですが(だから「猿」とあだ名されました)、その内に売春が始まります。入浴を済ませた男たちは二階で順番待ち。幕府は日本橋の遊郭(元吉原)を浅草の奥に移転させ、湯女風呂を禁止。湯女たちを散茶女郎として吉原へ押し込んでしまいます。さて、「男のもの」だった銭湯がどうなったかと言えば、「女性の進出」が起きました。少数派とは言え江戸の女性人口は増えます。湯屋に女性用の施設はありませんが、彼女らは田舎で混浴に慣れていますし、遊女がいなくなった風呂屋に女性が入りに行くこと(それも混浴)に抵抗はなかったはずです。問題は男たちの意識改革が遅れていたことで、風呂屋に痴漢がやたらと出没したそうです。「湯屋にいる女は湯女」としか思えない男がいたのでしょう。
 ともあれ、江戸時代には公衆浴場は混浴、が日本の常識となりました。それに驚いたのが幕末頃から来日するようになった外国人たち。「なんと淫らで野蛮な国だ」と口を極めて罵る人が大部分でしたが、プスケ、ビゴー、シドモアのような例外もいました。明治政府は外国に気に入られようと混浴を弾圧。庶民は抵抗。板挟みになった地方自治体はうろうろします。で、混浴はしぶとく生き続けます。行政がまた躍起になったのは東京オリンピックの時。明治政府と同じく「外国に軽蔑されたくない」ということだったのでしょうか、混浴禁止令を必死に出しています。
 結局男のお役人は、女性の裸を見たら襲いかかりたくて仕方ない、と言うことを自覚していて、それを抑圧するために混浴禁止に熱心、ということなのでしょうか。すると、政府の中枢を女性中心にしたら混浴禁止令は出されなくなるのかな?


絵の価値

2016-04-23 06:51:35 | Weblog

 ピカソの絵がオークションでいくら高価で売れても、それがピカソや遺族の懐に入るわけではありません。これが出版物だと、著作権が生きていたら本人や遺族の懐に著作権料が入るんですけどね。

【ただいま読書中】『ゴッホ・オンデマンド ──中国のアートとビジネス』W・W・Y・ウォング 著、 松田和也 訳、 青土社、2015年、3800円(税別)

 2004年深圳郊外の大芬村で「複製競技会」が開催されました。集まった中国人画家たちはお題の「スターソフの肖像画」を3時間半以内に複製する腕を競い、優秀な10人の画家は賞金と深圳の「城市戸口(都市戸籍)」を獲得しました。これは、中国共産党と社会主義経済と市場開放とグローバリズムが複雑に交わった現象です。
 かつてヨーロッパは陶磁器など中国の美術工芸品を大量に輸入していました。「西洋の巨大市場に喜ばれるものを、大量に手工業で提供する」点では、現代の大芬村での模倣美術品生産とよく似ています。西洋のマスメディアは最初「労働搾取」「組み立てライン」といった言葉で大芬村を表現しました。ところがそれは現実を見ない思い込みの報道だったのではないか、と著者は述べています。
 昔から模倣絵画は香港やソウルなどで盛んに制作されていましたが、1980年代に深圳経済特別区の辺縁に画家(親方と弟子たち)が集結するようになります。香港からの買い付け業者にとってもその集結は都合の良いことでした。1992年にはウォルマートが「期限50日で40万枚の絵」を発注した、という伝説が発生します。伝説というか神話というか、注文を受けた呉瑞球という無名の画家は、200人以上の画家を雇ってその注文を完遂した、と言うのですが……
 深圳は新興都市で文化不毛の地と中国では見なされていました。1999年に「深圳に芸術家村がある」という報道がすべてを変えます。利権に敏感な地方の役人や有力者、さらには政府までもがその“ニュース”に注目し、2005年には政府主導で「大芬油画村」という会社が創設されます。地区の再開発とインフラ整備がおこなわれ、「村」は近代的な都市に変貌します。それとともに、「芸術家村」を舞台としたドキュメンタリー番組やテレビドラマが作られるようになりました。しかしそこで取り上げられるのは「芸術家村の一部(有り体に言えば、マスコミが売りたい“フィクション”」でした。芸術家村の“芸術家”たちは、市場が喜ぶ「絵」を作り出して売りさばきますが、それとまるで相似のようにマスコミは「市場が喜ぶ番組」を作り出して売りさばいているだけのように私には見えます。
 2008年著者はニューヨークで「ゴッホの向日葵の絵」で、花瓶に「Vincent」、絵の右下隅に「Seelong」と署名されたものを購入します。これはもちろん「ゴッホの絵」ではありません。では、誰の絵なのでしょう? それを消費者が購入する意味は? 「ファン・ゴッホの画家」は非常にたくさん存在しています。本書に登場する趙もその一人ですが、彼は見本(平面写真)をちらりと見て構図を頭に入れたら、あとはほとんど参照せずに「自分がゴッホだったら」といった感覚に従って構図を部分的に変えたり色を変えたりしています。また、その方が人気が出るのだそうです。「ゴッホの絵」が欲しければ、機械的な複製画がいくらでも手に入ります。それを敢えて「中国で手によって描かれたゴッホの絵」を欲しがると言うことは「ゴッホの絵」ではなくて「誰かの“手”で描かれたゴッホの絵」が欲しい、ということを意味しているようです。つまり重要なのは「手」。
 ここで著者は面白い問題提起をします。「美術館で売っているお土産用の『絵』の意味は?」。絵はがきであろうとオリジナルに忠実にインクの盛り上がりまで再現された複製品であろうと、そういった大量生産品に顧客は何を求めるのでしょう? オリジナリティー? 面白いのは、美術館のレプリカは「工芸のことば」で宣伝され、中国の「ゴッホの絵」は「美術のことば」で宣伝されることです。西欧のジャーナリストの多くは大芬の絵を「著作権を無視した、非人間的な大量生産工場の産物」と切って捨てますが、実は「機械による大量生産」を一番おこなっているのは西欧だった、というのは何かの冗談でしょうか。
 本書は著者の博士論文だそうで、そのため文体は堅苦しく専門用語が駆使されています。しかも分厚すぎる。それでも「芸術」の本質に迫ろうとする努力は、スリリングで門外漢にも楽しめるものでした。もうちょっと画家の生の声がたくさん含まれていたら良かった、とも思いますが、そうしたら本書はさらに分厚くなってしまいますね。それも困るなあ。


レジスタンス

2016-04-22 07:27:19 | Weblog

 日本が連合国軍に占領されたとき、占領軍に対するレジスタンス運動は活発におこなわれましたっけ?

【ただいま読書中】『日本占領下の英領マラヤ・シンガポール』明石陽至 編、岩波書店、2001年、6800円(税別)

 真珠湾攻撃の1時間半前に、マレー半島に日本陸軍は上陸作戦を開始しました。42年2月15日英軍は降伏。マレー半島とシンガポールは以後日本軍政下に置かれます。このとき現地で何があったのかは、なぜか1960年代後半まで日本では研究が“封印”されていたそうです。そのためか、シンガポール陥落時の虐殺の被害者数は、日本側は6000人、中国は5万人と推定する、という大きなギャップがあります。もっと早く調査をしていたら良かったのでは、と私は後知恵で思います。
 イギリスの植民地政策は、ゴムと錫を輸出・食料と日常必需品は輸入となっていました。しかし日本の占領でゴムと錫の海外市場は失われ、食糧と日常必需品の輸入はできなくなり、マラヤ経済は悪化します。華僑団体は「抗日」活動を激化させます。第二代軍政部長渡邊大佐は「武断軍政」を敷きました。献金強要・華僑学校閉鎖と再開遅延・学校での華語使用禁止・差別政策などです。しかし華僑の協力無しでは経済が動かず、43年から華僑弾圧は緩和されます。マレー人に対しては「怠惰・無気力な民族」ということで特段の政策は採られませんでした。ただ、スルタンには特権を認め年金を支給するなど懐柔政策が採られています。インド人はほとんど無視されていました。
 抗日の最大勢力はマラヤ人民抗日軍(マラヤ共産党主体)でした。そして華僑が組織したマラヤ人民抗日同盟が抗日軍を支援します。ただし、積極的あるいは消極的な対日協力者も多数いました。
 渡邉大佐の“理念”の一つは「禊」でした。英国に植民地支配をされた原住民は、その「罪」に対して命を賭けて「禊」をするべきだ、というのです。だから日本軍に抵抗する者は徹底的に膺懲するべき、と渡邊は考えていました。参謀部は渡邊に異論を唱えますが、山下軍司令官の支持を得て渡邊は我が道を行きます。
 鉄道は重視されていました。マラヤ鉄道は、タイ国の鉄道さらに泰緬鉄道を通じてビルマの鉄道とも結んでいて、戦略上非常に重要だったのです。マラヤにタイ米を輸入するルートとしても重要だったことでしょう(この輸送が連合軍の空襲で滞ることで、シンガポールでの食糧配給は減らされていくことになります)。泰緬鉄道(正式には泰緬連接鉄道)と言えば「戦場にかける橋」ですね。クワイ川マーチが脳内に鳴り響きます。なお、空襲の統計がありますが、昭和19年8月から敵機来襲が激増し、それに反比例して輸送量は激減しています。これを見ただけでも戦況の判断はできそうです。
 シンガポール陥落で、兵士は捕虜として泰緬鉄道建設や台湾の鉱山などでの強制労働、一部は朝鮮や日本にまで送られました。民間人は強制収容所です。そこには多数の女性も含まれていました。チャンギ刑務所はその内の一つの施設ですが、生きてそこに入れたのは“幸運”だったのかもしれません。避難の途中で日本軍に追いつかれて虐殺された人もいますし、慰安婦とされた人もいますから。チャンギ刑務所は600人を収容するよう設計されていましたが、最初は2600人、5箇月後には3800人が詰め込まれ、1945年には4511人となっていました。この生活に現代の日本で一番近いのは、地震直後の避難所でしょうか。あれにもっと人を詰め込んで、私物を取り上げ、情報を遮断して、周りを鉄条網で囲んで実弾を詰めたライフルを持った兵士にパトロールをさせたら、だいぶ近いものになるのではないか、と思えます。おっと、拷問もプラスしなくちゃいけませんし、女性であっても例外とはされませんでした。ひどい実例が(というか、拷問は常にひどいものですが)本書にも登場します。
 そして8月のある日、「昭南」はふたたび「シンガポール」になります。窃盗や略奪や血の粛清がおこなわれ、戦争が終わります。復讐のためでしょうか、こんどは捕虜となった日本軍兵士に対する虐待がおこなわれました。しかし“勝利者”として“戻って”きた英軍を、人々のすべてが歓迎していたわけではありませんでした。独立への動きが始まったのです。


神の名の目的外使用

2016-04-21 07:08:36 | Weblog

 性的マイノリティやLGBTを嫌ったり攻撃する人がいますが、その中に「神の名」を持ち出す人がいるのが私には不思議です。「産めよ増やせよ地に満ちよ」という神の言葉に反した行為だから、がその攻撃の根拠らしいのですが、だけど神が万物の創造主なのだったら「性的マイノリティやLGBT」を創ったのも神でしょ? その神の創造物を神の名をもって攻撃するのは、つまりは神を攻撃しているのと同じ、つまり不信心者、と私には感じられるのです。「産めよ増やせよ地に満ちよ」は「できる人間は」が前提条件としてくっついているのでは? 不妊の夫婦だって神は認めているのですから。

【ただいま読書中】『タネをまく縄文人 ──最新科学が覆す農耕の起源』小畑弘己 著、 吉川弘文館、2016年、1700円(税別)

 野生ではない栽培ダイズは弥生時代に米と一緒に日本にやって来た、が従来の定説でした。しかし著者は縄文土器に栽培ダイズの圧痕(土器制作時に豆が粘度に混じって水分を吸って膨潤、乾燥、焼かれることで残した跡)があることに気づきます。つまり縄文時代から豆の栽培がおこなわれていたらしいのです。
 中部~東日本の遺跡では、縄文時代前期の土器からは野生種の豆の圧痕が見つかりますが、中期以降は栽培種の豆(ダイズやアズキ)が見つかるようになります。そして縄文時代後期には東日本の遺跡は大型化し数が減ります。西日本では、縄文期後期から栽培種の豆が見つかるようになります。すると、日本では東から豆の栽培がはじまりそれが西に伝播した(というか、人の移動がおこなわれた)らしいのです。そういえば縄文時代に地球は寒冷化していましたね。人は少しでも温かいところを目指して動いたのかもしれません。
 著者が気づいた「縄文時代の農耕」は「弥生は農耕、縄文は狩猟採集」という思い込みが強い人にはなかなか受けいれてもらえないようです。だけど1万数千年続いた「縄文」を単純明快に狩猟採集とまとめてよいのか?ということで、著者は次の証拠を提出します。コクゾウムシです。コクゾウムシの仲間は、「人が継続的に穀物を貯蔵する」という“環境”に特化して進化しました。藤原京のトイレ遺構からコクゾウムシの化石が発見されたとき、「米に紛れたコクゾウムシを食べたら糞便中に虫がそのまま排泄される」という仮説を立て、それを検証するために自ら人体実験を行った学者がいるそうです。著者もトイレ遺構からコクゾウムシを検出していますが、三内丸山遺跡で5万点の土器から18のコクゾウムシ圧痕を発見しています。その他の昆虫などの圧痕から、三内丸山では土器制作は屋内で行われたのではないか、と著者は考えています。さらに各地の遺跡から著者は精力的にコクゾウムシの圧痕を発見し続けていますが、では彼らは何を食べていたのでしょう? 米(や麦)の伝来は縄文後期以降のことですが、コクゾウムシは縄文前期から人と共存(寄生)していたのです。
 どうしてコクゾウムシが土器に混じるかと言えば、アクシデント(虫がのそのそしていて粘度ひもを作る工程に巻き込まれる)もあるでしょうが、人為(粘土の可塑性を高めるために籾などの有機物を混ぜる工程で一緒に入ってしまう)の可能性の方が高いと著者は考えています。さらにコクゾウムシは飛ぶのが苦手で、人が貯蔵穀物を運搬することで集落から集落に広まっていった、とも推定されています。
 圧痕とは表面から観察可能なものです。では、土器の内部に練り込まれてしまった“異物(遺物)”は過去についてもっと豊かな証言をしてくれるのではないでしょうか。土器を破壊せずにそれが簡単にわかると良いんですけどね。実際にX線機器やCTが用いられているそうですが、数千~数万点の土器を検査するには手間とコストがかかりすぎるのが難点だそうです。このへんがもっとお手軽に“手に取るように”検査できたら良いのですが。