【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

外国人と日本

2019-08-31 06:57:32 | Weblog

 観光客にはじゃんじゃん来てもらえるように魅力のある国にしたいけれど、移民として定着したくなるような魅力はない国にしたい、というのは、結局日本をどんな国にしたいということなのでしょう?

【ただいま読書中】『勘定奉行の江戸時代』藤田覚 著、 筑摩書房(ちくま新書1309)、2018年、780円(税別)
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 江戸幕府の「三奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)」は幕府で重要な政治案件決定に携わっていました。勘定奉行(と勘定所)は、財政を担当するだけではなくて、道中奉行として陸上交通を管理し、幕領の管理(年貢徴収と裁判)も行い、評定所(現在の最高裁判所)の重要なスタッフでもありました。つまり、財務省・国土交通省・法務省の仕事を担当していたわけです。だから江戸では、役所は御勘定所・役人は御勘定方・長官は御勘定奉行とすべて「御(ご)」をつけて呼ばれていました(ただし町奉行よりは格下扱いでした)。
 勘定奉行になるためには、旗本が目付から長崎奉行などを経験して勘定奉行になるエリートコースと、少数ですが内部からの叩き上げコースとがありました。
 大名領内の紛争は、各大名が扱います。幕領での紛争は勘定奉行と配下の代官が担当。では、幕領の百姓と大名領の百姓がもめた場合は? この場合に評定所が設置されます。そのトップは勘定奉行、そしてスタッフは勘定所から出向した役人で固められていました。寺社奉行も全国の寺社領民の訴訟を扱うことになっていましたが、実質的に勘定所の評定所が実務を担当していました。
 さらに老中は重要案件について三奉行に諮問することがありました。著者が確認できた最初の例は、ロシアが南下して蝦夷地に接近・アイヌが蜂起したことを受けて寛政四年(1792)に老中松平定信が蝦夷地政策について三奉行に諮問したことです。以後も外交関連の重要案件について三奉行にまとめてあるいは個別に諮問が続けて行われました。
 幕府の人事システムは家格重視です。しかし勘定所では「筆算吟味」という職員採用試験に合格したら、たとえ御目見得以下の御家人であっても、能力や業績次第ではトップの勘定奉行に昇進できる可能性が開かれていました。もちろんメインは上層旗本(御目見得以上)のエリートコースですが、全勘定奉行の10%は「叩き上げ」でした。これは江戸時代には特異な現象です(たとえば町奉行所では、奉行所職員の与力・同心から奉行に昇進した者はゼロ人です)。中には、もともと御家人ではない人が御家人株を取得して御家人となり、累進して勘定奉行に、という例さえあるそうです。お庭番から勘定奉行になった人もいます。こういった特異性によって、勘定所にはユニークで優秀で努力家の人材が集まったのではないでしょうか。
 江戸幕府は赤字で悩んでいました。それに対して「緊縮財政(支出の削減)」派と「積極財政(貨幣の改鋳)」派とが対立していました。ところが支出の削減には人気がありません。そこで貨幣の改鋳が盛んに行われましたが、悪貨が出回れば起きるのはインフレです。あわてて貨幣の質を元に戻しても、残るのは幕府への不信感。江戸時代に様々な経済政策(幕府の赤字減らし政策)が行われていますが、きちんとうまく行ったものはありません。やがて黒船が来航、財政は破綻。さらに日本から大量の金が海外に流出。泰平の世にはうまく行っていた「江戸幕府というシステム」は瓦解してしまうのでした。勘定所も一緒に。



学校給食

2019-08-30 07:26:04 | Weblog

 私がすぐに思い出すのは、脱脂粉乳(小学6年生からやっと牛乳になりました)・鯨肉・魚肉ソーセージ・冷凍ミカンです。味はあまり思い出したくありません。

【ただいま読書中】『給食の歴史』藤原辰史 著、 岩波書店(岩波新書1748)、2018年(19年2刷)、880円(税別)

 義務教育経験者なら学校給食について何らかの思い出をもっているはずです。私自身も、小学校での給食の思い出はある程度残っています。授業の記憶なんか残っていないのにね。
 しかし思い出だけで給食を語ると大きな間違いが生じるでしょう。たとえば2005年から栄養教諭の制度が始まっています(知っていました?)。これは「各学校における指導体制の要として食育の推進に当たる専門教員」だそうです。本書に最初に登場する京都府伊根町本庄小学校の栄養教諭は「何時に農家を訪ねたら、一番先方の都合が良いか」を知るところから仕事を始めたそうです。この小学校では自校方式の給食ですが、地域農家の協力を得て運営しているのです。
 給食は「工場」「病院」「学校」が主です。軍隊や会社(社食)も給食と言えるでしょう。その中で本書で扱われるのは「学校給食」です。学校給食には「自校方式(学校に調理場が付属)」「センター方式(大型の調理場が複数の学校に給食を提供)」「親子方式(自校方式の学校が別の学校にも給食を提供)」「デリバリー方式(弁当外注)」があります。
 (学校)給食には「家族から切り離されて食べる」「貧乏のスティグマを子供に刻印しない鉄則がある」「食品関連事業の市場である」という特徴があります。
 日本で江戸時代に、会津藩の藩校日新館や松下村塾で食事を出していたという記録があります。明治時代では、1889年(明治二十二年)に山形県の私立忠愛小学校が設立と同時に給食を開始したのが「学校給食」の始まりとされています。握り飯二つと野菜と魚類(ほとんどは塩乾物)だったそうです。義務教育が普及するにつれ、子供を学校にやることを渋る親に対して学校の魅力を高める役割も給食は果たしました(これは西洋でも同じだったそうです)。給食には栄養学の実験、という意味もありました。「栄養のバランスが取れている食事がよい」という仮説を実証するためには、そういった給食を提供して児童の身体測定をすれば良いわけです。「栄養学の父」佐伯矩は実際にそういった実験を行っています。
 貧困対策(かつ子供にスティグマを与えない)も給食史では世界的な共通事項です。また、見逃されがちですが、東北の飢饉による欠食児童・関東大震災後の東京市での学校給食(センター方式)普及など、「災害」と給食には密接な関係があります。著者はさらに「戦災」も「災害」に含めています。「兵隊の体位向上」を名目に学校で牛乳を飲ませたり、空襲後には調理場を炊飯場に転用して炊き出しができる、と言ったり、給食関係者はあの手この手を使っています。
 戦後のアメリカからの脱脂粉乳や小麦粉の援助については広く知られていることでしょう。ただGHQでは「不穏な空気を醸成させないためにも給食が必要」と議論されていたそうです。つまり給食は治安維持装置でもあったわけです。ところが「一斉の給食は社会主義的」と反対する人(たとえば池田首相)もいました。
 1960年代から給食の合理化運動が始まります。都会ではセンター方式が推進されますが、これによって質が劣化するとして反対運動も起きました。また、先割れスプーンをめぐって「犬食いの姿勢を招く」とマナー論争が起きます。米離れと生産調整の失敗から大量に生じた余剰米の受け皿として給食が使われました。しかしそれまで学校給食に貢献していたパン屋を無視するわけにもいきません。そこで、パン屋が米を炊いて学校に納めることになったそうです。大まじめに面白いことをやっています。子供たちに人気のソフト麺は、原材料が小麦粉・食塩・脱脂粉乳で、著者は「日米の余剰農作物処理プロジェクトの結晶」と評しています。家庭では敬遠されていた冷凍魚も給食(特にセンター方式)では歓迎されました。
 給食には「政治」「経済」「農業」「災害」「科学」「社会」「教育」「運動」など様々な側面があります。そして現在給食が問われるのは「なぜ給食が必要なのか」の根拠でしょう。著者は「貧困」がまだ解消されていないことを重視しているようです。そして「子ども食堂」だけではなくて「給食」がもっと貧困層の救済に活用されて良いのではないか、という指摘も本書ではされています。食のセイフティーネットとしての給食が「画一的なエサ」ではなくて「美味しい食事」であれば、それは貧乏ではあっても文化的な社会であることを意味するのでしょう。




思想と行動のマトリックス

2019-08-29 07:07:52 | Weblog

      自分  他人
   思想 自由/不自由
   行動 自由/不自由

 変な表ですが「自分/他人」「思想/行動」「自由/不自由」の組み合わせだ、と読んで下さい。たとえば「独裁者」は、「自分の思想と行動は自由だが、他人の思想と行動は不自由であるべき」となります。
 私の一番の好みの組み合わせは「自分も他人も思想は自由だが、どちらも行動は自由ではない(してはならないことがある)」です。「思想の自由」は重要なものですが、「他人を踏みにじって自分の主張を押し通す行動」をするのは「泣く子」か「地頭」くらいでしょ?

【ただいま読書中】『世界史のなかの文化大革命』馬場公彦 著、 平凡社、2018年、920円(税別)

 中国では「文革」についての研究の公開や出版、文革を題材とした文藝作品の制作を厳しく制限した中央の通達が1988年に出されています。「忘却の強要」です。
 著者は単に「有罪を暴く」とか「中国の特殊な事件」として文革を見るのではなくて、国際情勢の中で文革を把握しようとします。そこで出発点は「1968年」、著者が見つめる範囲は「中国」「インドネシア」「日本」です。
 インドネシア(人口2.5億人)には、760万人の在外華僑がいますが、この数は世界で最大です。そのためか、インドネシアが中華人民共和国を承認したのは、非社会主義国ではインドに次いで二番目の速さでした。
 謎が多い「9・30クーデターの失敗」により、スカルノは実権をスハルトに奪われ、共産主義者と華僑の弾圧が始まります。「アカ狩り」で虐殺された人は、政府発表で8万9千人、CIAの調査では25万人、陸軍治安秩序回復司令部は100万人という数字を挙げているそうです。バリ島では特に殺害率が高く、全島民の5%の8万人が殺されたそうですが、これはポルポトのカンボジア虐殺と殺害率ではほぼ同じだそうです。
 当時の中国は、反ソ・反資本主義で“味方"はインドネシアとアルバニアくらいだったので、このアカ狩りはショックでした。中国は国際的孤立状態でしたが、毛沢東は劉少奇や鄧小平に実権を握られ国内で孤立していて“次の一手"を模索していました。北京を離れて地方を長期間転々とし、上海の「四人組」を実行部隊として、毛沢東は文革を発動させます。その前に、日本共産党を新たな敵と認定して「外敵」を増やしておくところが芸が細かい。「敵」が多ければ多いほど内部の結束は高まる、という読みだったのでしょう。毛沢東にとって“想定外"だったのは、忠実な実行部隊であるはずの紅衛兵が異様に熱狂して暴走を始めたことでしょう。
 文革は“輸出"もされました。毛沢東語録は25種の言語で460万部発行・輸出され、世界に「マラヤ共産党(マレーシア)」「新人民軍(フィリピン)」「ナクサライト運動(インド)」「マオイスト(ネパール)」「スリランカ人民解放戦線(スリランカ)」「クメールルージュ(カンボジア)」「センデロ・ルミノソ(ペルー)」などを生み出します。日本の学生運動については、ベトナム反戦運動やフランスの学生による「1968年5月革命」の影響などが指摘されていますが、著者は輸出された文革の影響も大きかったと考えています。はじめは「怒れる若者による下からの大衆闘争」で、67年以降は日共と中共の対立を反映して暴力闘争になっていった、と。毛沢東は日本共産党を強く非難し日本革命党の結成を呼びかけました。これがのちの日本赤軍に結実したのでしょうか。当時の日本は中国とは国交がありませんでしたが、日本の主要メディア9社は北京に特派員を置いていました。そこから日本にもたらされるニュースは基本的に文革に肯定的なものばかりでした(私の当時の記憶もそうなっています)。そして、文革とは違う文脈で「日本での革命」を志す人たちが活動をしていました。
 フランスでは5月革命(学生運動を知識人たちが支持、政権が交代)、アメリカではベトナム反戦運動や公民権運動が盛んになります。台湾は、中華人民共和国と不仲になったインドネシアに接近します。ところがスハルトは、国内的には強硬な反共主義でしたが、国際的には冷戦構造の中で中立を貫きます。やはりこれぐらいしたたかでないと、世界と渡り合うことはできないのでしょう。
 文革とは結局何だったのか、それを簡単に述べることはできません。本書も話は紆余曲折を繰り返し、一時群盲象をなでる状態になってしまいます。ただ、重大な事件は広い視野から眺めると、意外な一面を発見できる、ということはわかりました。
 そういえば中国政府が「忘却の強要」をしているものとして、天安門事件とか内モンゴルやチベットでの弾圧などもありましたね。これらの史料が明らかになる時代は、いつかやって来るのでしょうか?



ハイジ

2019-08-28 06:59:23 | Weblog

 先日「ピッピ」を読みましたがそこでハイジのことも思い出していました。
 『アルプスの少女ハイジ』と言えば、「長い長いブランコ」「立った、立った、クララが立った」を思い出しますが、実はこれはテレビアニメ。小学校で読んだ小説ではどうだったっけ?と思ったので、改めて読んでみることにしました。

【ただいま読書中】『アルプスの少女ハイジ』ヨハンナ・スピリ 著、 関泰祐・阿部賀隆 訳、 角川書店(角川文庫)、1952年(78年改版17刷)、260円

 亡くなった姉の子を祖父に預けるためにデーテがアルプスに登るシーンで本書は始まります。それをめざとく見つけた村のおばさんにデーテが事情を簡潔に説明することで、アルムおじさんの変人ぶり(裕福な生家の財産を使い切り、人殺しの前科の噂があり、山に籠もって教会にも顔を出さない)とハイジ(5歳)が抱える可哀想な家族の事情が実にてきぱきと読者にも伝わります。そうそう、可哀想な家族、と言えば、山羊飼いのペーター少年(11歳)も父を失っていますし、デーテも親を失って自分が奉公に出なければいけないから幼いハイジを育てることができなくなったのでした。ただ、アルムおじさんは、村人が噂するような冷酷で無頼の廃人ではありません。ハイジが山の夕焼けについて質問をしたとき「お日さまが山におやすみをいうときには、一番きれいな色をその山の上に注ぐんだよ。お日さまがまた次の日にやって来るまでに、山たちにわすれられないようにね」と柔らかな感性で答える人なのです。村人の評判とは真っ逆さまの人物像です。
 ハイジは、実によく驚きます。とても素直な反応を示す子です。山の生活について知識は足りませんが、他人の説明を懸命に聞きさらに類推で知識不足を補おうと努力します。これは大人から見た「理想の子供像」かもしれません。
 ペーターは、夏の間は山羊飼い(朝、村で皆の山羊を預かって山へ連れて行き、夕方村へ連れ帰る)をしていますが、冬の間は学校に通っています。でもこれでは学業はきちんと身に付かないでしょうね。というか全然身に付いていません(アルファベットも読めません)。あ、社会性も。ハイジが来るまでは山では話し相手がいなかったのですから。
 学校にも行かずに山で過ごしていたハイジが8歳になったとき、デーテがフランクフルトでのハイジの奉公先を見つけてきます。クララの家です。おや、クララも母親を亡くしています。さらに父親は仕事で旅行がちで自宅には長く不在です。つまり本書の主要登場人物(子供たち)は軒並み親が欠損した家庭育ちなのです。
 山育ちで天衣無縫のハイジと、規則と秩序重視で謹厳実直なロッテンマイヤーさんとが合うわけはありません。当然のように起きる様々などたばた劇でしばらくこちらは楽しめることになります。
 ホームシックとなったハイジは夢遊病を発症(そういえばフランクフルトに出てきたときに、ハイジの母親にも夢遊病があった、と伏線が張られていましたっけ)。さらにそういえば、「ホームシック」はスイス傭兵が故郷を恋しがって十分に戦えなくなる状態を「ノスタルジア(ギリシア語のnostos(家に帰る)+algos(苦しみ))」と名付けられたのがルーツだそうです。ハイジはスイス人だし祖父のアルムおじさんはスイス傭兵でしたね。ハイジは、自分のホームシックに苦しむだけではありません。自分を受け入れてくれたゼーゼマン氏やおばあさま(ゼーゼマン氏の母親)、何より自分を無条件に信頼してくれるクララに対して忠実でもありたいと思っています。「帰りたい」と「ここにいなければならない」の板挟みとなったため、ハイジの心はひどく圧迫されてしまうのです。そこで登場したのがゼーゼマン氏の主治医です。ハイジは運命に翻弄される役割ですが、この医者はハイジを積極的に支持することで物語を駆動します。
 ハイジがアルプスに戻ったあたりから、キリスト教に触れるシーンが増えてきます。ただ、無垢なハイジが論理ではなくて感性でキリスト教を受け入れると、世間一般の教条主義的な「キリスト教信仰」とはちょっと違う素朴な色合いの、どちらかというと原始キリスト教に近いような匂いが立ち上ります。そして、ハイジに手を引かれておじいさんが教会に出かけるところは、「ストレイ・シープ」そのものです。ただし、ただの迷い羊ではなくて、一度は群れに決別した羊の復帰劇。だけど牧師は「ちょっと道に迷っただけ」とお祖父さんをあっさり受け入れます。
 フランクフルトでは別の劇が進行中です。「お医者さま(なぜか名前が明示されないのですが、もしかして著者の分身かな?)」は家族を持っていません。だからクララやハイジに特別な思い入れを示すのでしょう(深読みするなら、著者自身の「満ち足りた(愛することと愛されることのバランスが取れている)家族への憧れ」も私は感じます)。そして、調子が悪くて山に来ることができないクララの“代理"として一夏をハイジと一緒に過ごすことで、この医者もまた変容していきます。
 ハイジは、彼女が触れる周囲の人を少しずつ変えていく、小さな奇蹟の力を持っているようです。
 そしてついにクララが山にやって来ます。ここでまた驚きが一つ。ハイジのおじいさんは、かつて傷病兵の介護をした経験を持っていて、だからクララの介護も楽々とやってのけるのです。また、クララが歩けないのは、足が麻痺しているのではないこともわかります。おじいさんが立つ訓練をしようとすると「痛い」と倒れそうになるのですが、ということは、感覚麻痺でもないし運動麻痺でもない。おやあ?
 ペーターは不機嫌です。これまで毎日一緒に遊んでいた(あるいは勉強を教えてくれていた)のに、ハイジはクララにべったりで全然小屋から離れようとはしない(山にも村にもやって来ない)のですから。そこで“敵"に対する攻撃として、クララの移動用の車付き椅子を谷底に落としてバラバラにしてしまいます。そこでハイジはペーターと二人掛かりでクララを立たせて歩かせようとします。すると……
 おやおや、「立った立った」ではなくて「無理に歩かせたら歩いた」だったんですね。
 結局クララが歩けなかった原因は何だったのでしょう。心因性のもの? それだとして、その原因は?(たぶん「家族(母の死亡、不在がちの父)」だろうとは思うのですが、それについて作中での“謎解き"はありません)
 クララの父親はクララだけではなくてその母親の思い出も取り戻しました。医者は安住の地と愛情を向ける対象を見つけました。他の大人たちも、ハイジによって様々なものを取り戻したり発見をしたりしています。本書は「ハイジの物語」ですが同時に「ハイジを取り巻く子供たちや大人たちの奇跡に満ちた物語」でもあったのです。「クララが歩けるようになった」は、その中の一つの奇跡でしかありませんでした。



水洗トイレから下水へ

2019-08-27 07:15:26 | Weblog

 先日の続きで今日は下水道の本です。

【ただいま読書中】『トコトンやさしい下水道の本』高堂彰二 著、 日刊工業新聞社、2012年(18年6刷)、1400円(税別)

 江戸時代に下水を流れるのは、雨水と生活排水でした。屎尿は汲み取りトイレから田畑へ運ばれていました。近代日本での下水道の始まりは、明治十六年(1883)神田下水(レンガ積み)です。都市部での下水の必要性はずっと言われていましたが、戦前の東京区部ではやっと10%。明治二十一年に「東京市区改正条例」(日本で最初の都市計画法)がありましたが、財政難を理由に上水道事業が優先されました。東京オリンピックでやっと気運が高まり、昭和四十五年の公害国会で弾みが付いて普及率が上がりました。
 日本初の下水処理施設は、大正十一年の三河島汚水処分場(現在の三河島水再生センター)ここで、それまでの「放流」から「処理」へと下水のあり方が変わっていきました。
 下水道の「上流」は「水を使うところ」ですが、もう一つ重要なのが雨水の処理です。「分流式下水」では、「汚水は処理場へ」「雨水は直接河川や海へ」ですが、「合流式」は「全部処理場送り」です。しかし大雨の時には処理場が“溺れて"しまうため、オーバーフローさせて汚水も雨水も直接河川や海へ流すことになっています。薄めているから大丈夫、という発想なのでしょうが、汚水を直接環境に流すのはよろしくないですよねえ。
 大震災の時、命やインフラや水や物資にはすぐ頭が回りますが、トイレは忘れられがちです。しかし、トイレが使えないと悲劇が起きます。一般に避難所では100人に一つトイレが必要、とされています。さて、お近くの避難所、トイレは(断水があっても)大丈夫ですか?
 家庭から出た汚水は、排水管を流れますが、その太さや勾配にはそれぞれ規定があります。トラップは一箇所。また、宅地内で所々に「宅地ます」が設けられ、点検や清掃ができるようになっています。確認してみたら、我が家では雨水と汚水とで別々の配管になっていました。
 雨水は、放流されるだけではなくて、途中で土中に浸透させる場合もあります。べったりと舗装と建築に覆われている都市部の土はからからに乾いているでしょうから、水を喜ぶかもしれません。
 処理場では、沈殿と活性汚泥法で汚水は浄化されます。私は半世紀前にこの方法を習いましたが、特に進歩はないようですね。なお、最終産物の汚泥の活用法として、バイオマスやバイオガスとしての利用がこれから進む予定だそうです。せっかくの「資源」なのですから、使わなければもったいないですよね。というか、屎尿を堆肥として活用していた江戸人に21世紀人が負けてはいけないでしょう。
 下水の未来についてもいろいろ書いてありますが、私が注目したのはマイクロ水力発電です。恒常的な水流があるのですから、これが活用できたら都市の生活はもっと快適になるかもしれません。電力会社は嫌がるかもしれませんが。



下水道なしの水洗トイレ

2019-08-26 06:52:16 | Weblog

 私が子供の時には鉄筋コンクリートのアパートに住んでいて、そこでは水洗トイレ(和式)を使っていました。ところがその地区に下水道が設置されたのは私が成人した後のことでした。一体どこに流していたのか、と今になって不思議に思って思い出したら、アパートの脇に巨大な地下槽があって一時的に貯めておき、そこに定期的にバキュームカーがやって来ていたのでした。
 就職して田舎に異動したときには、当然のようにぽっとんトイレでしたが、簡易水洗トイレの家に入れたこともありました。これは便槽はそのままで便器だけ水洗のものに交換してある物でした。水洗の分だけ貯まるのが早くなるので、汲み取りを早めに頼むように気をつける必要がありましたっけ。溢れたらエラいことですが、ぽっとんトイレと違ってどのくらい貯まっているか目視できないのが難点でした。
 今は下水道付きの水洗トイレなので、トイレから先のことは特に気を遣わずにすんでいます。ありがたいことですが、大切なものを無視していても良いのかな、と思うこともあります。

【ただいま読書中】『水洗トイレの産業史 ──20世紀日本の見えざるイノベーション』前田裕子 著、 名古屋大学出版会、2008年、4600円(税別)

 人が命のために必要とする飲料水は1日に約2リットルです。しかし2003年国土交通省のデータで日本人の生活用水使用量は1日316リットル。2002年東京都水道局の調査では家庭用水の内訳は、トイレ28%風呂24%炊事23%洗濯17%洗面その他8%……なんとトイレでの水使用がトップでした。
 「水洗トイレ」と聞いてまずイメージされるのは、便器やトイレの個室でしょう。しかし「上水道」「下水道」のシステムの中に水洗トイレはでんと位置しています。
 古代のメソポタミア、インダス、クレタなどの都市では上下水道がすでにありましたが、特筆すべきは古代ローマでしょう。水道橋の威容は有名ですが、その内部の「配管」がすごい。木・陶器・石などでパイプが制作されましたが、鉛管もあり、しかも規格化がされていた(つまり、大量生産のシステムがすでにあった)のです。不思議なのは、それから2000年、パイプ製造に大きな進歩がなかったことでしょう。
 16世紀末のイギリスで、女王のために特別な水洗トイレが製作されました。同様のものは18世紀のヴェルサイユ宮殿でも発想されています。しかしそれらはあくまで特別なもの。現代の一般的な水洗トイレは、1775年ロンドンの時計職人アレグザンダー・カミングズが水洗式便器の特許を取ったことで始まります。特徴は、臭気を防ぐ封水トラップと手動のバルブが付いていることでした。金属加工の技術者が便器開発に乗り出すと、陶工たちもそれに倣います。1843年ロンドンでは首都建造物法で各戸の排水管を下水に接続させることが義務づけられ、1848年の公衆衛生法で家屋の新改築の際に屋内トイレを設置することも義務づけられました。(すると、シャーロック・ホームズは水洗トイレを使っていた? それとも下宿は古い建物だったから、まだそこまで行ってはいなかった?)
 日本では、屎尿は肥料として活用されていたので、それなりに完結した社会システムだったのですが、明治維新で情勢が大きく変わります。日本の水洗トイレ工業化でキーとなる人は、陶磁器輸出業を営んでいた大倉父子です。和風の水洗便器では、しゃがみ姿勢では水の跳ね返りが多いのを防ぐためトラップの位置を前後逆転させたりの独自の工夫があります。しかし、「衛生陶器」が将来は絶対に主流になるという読みは正しいにしても、明治〜大正時代には、水洗便器を製作しても、どこにつなぎます? まして洋風便器に至っては、ホテルや大使館以外で誰が買います? ちょっと時代に先駆けしすぎ、とも思えます。最終的には東陶は、食器や非水洗便器を製造して生き延びます。第二次世界大戦後には伊奈製陶が衛生陶器に参入。現在のTOTOとINAXの二大メーカー体制が始まります。
 本書には技術的な解説や各メーカーの有力な技術者についてのデータもたっぷり含まれていますが、私のような素人でも楽しめます。水洗トイレって、もっと注目されても良い都市インフラだと思うのですが、なぜみんな目を逸らしがちなんでしょうねえ。こうなったら次は下水の本を読もうかな。



くりいむレモン

2019-08-25 06:59:57 | Weblog

 エッチなビデオを連想した人、あなたはエッチですね。ここでの「くりいむレモン」は、日本帝国陸軍が昭和五年にパン食を取り入れたときに「嘗物(ジャムなどパンにつけるもの)」の一つとして提供した「牛乳クリームにレモン果汁を混ぜたもの」のことです。(しかしエッチなビデオに言及できる私は……)

【ただいま読書中】『クレタ島救出作戦(海の異端児エバラードシリーズ(5)』アレグザンダー・フラートン 著、 高岬沙世 訳、 光人社、1989年、1500円(税別)

 前巻ではナチスドイツのノルウェー侵攻が扱われましたが、今回ニックがいるのは地中海東部。ギリシアに侵攻したイタリア軍やドイツ軍によって連合軍はクレタ島に撤退しようとしています。アフリカでは戦争が燃えさかり、マルタではシチリアから空襲が連日、そしてエーゲ海でニックの駆逐戦隊は大忙しです。しかしニックの駆逐艦には防空のための機銃がついていません。ノルウェーでニックは「制空権がなければ、陸軍も海軍も敵機にやられ放題」という教訓を得ましたが、その教訓をロンドンには伝え損なった(あるいは、伝えたが無視された)ようです。そういえば日本でも、大和や武蔵を一度実戦に投入した後になって、大慌てで副砲塔などを撤去して対空機銃を後付けしましたっけ。「海軍は海軍とだけ戦うもの」という強い思い込みを持った「エラい人」はどこの国にもいたようです。
 ニックを悩ませる家族の問題は、今回は義弟(もしかしたら息子)のジャック・エバラードです。彼が乗っているのは最新鋭の巡洋艦で、これにはさすがに高角砲が搭載されています。もっともこれも、副砲を撤去した後への後付けですが。ジャックの船が護衛する船団には、ギリシアから退去した人々が乗っています。襲ってくるのは、メッサーシュミット、それから、ユンカース87の大編隊。ユンカース87は「シュトゥーカ」の愛称で有名な急降下爆撃機です。第二次大戦初期には、連合軍には「恐怖」の代名詞。襲ってきたのを撃退しても撃退しても、さっさとそばの基地に戻って燃料補給と新しい爆弾装着をしてまたすぐに艦隊上空に戻ってきます。
 クレタ島沖にいるニックの艦からは、シュトゥーカの基地があるスカルパント島も視認できます。すると枢軸軍の次の目標は、クレタ島。というか、クレタ島の西にドイツ軍がすでに上陸した、との情報が。連合軍(主力は英国陸軍ですが、オーストラリア軍も混ざっています)はクレタ島からも撤退を始めます。ニックは駆逐艦戦隊の指揮官を拝命、撤退作戦の指揮を執りますが、そこでとんでもないアイデアが降臨。
 これまでニックは、窮地に陥るたびに勲章ものの殊勲をあげていましたが、同時に、良くて叱責悪ければ軍法会議もののチョンボもしてきました。さて、今回も殊勲の匂いがぷんぷんするのですが、同時に今度もなにかチョンボをやらかすのではないか、という不安も高まります。
 だから「異端児」なのでしょうけれどね。



知識と自由

2019-08-24 09:07:01 | Weblog

 無知は人を不便にしますが、ある意味自由にもしています。何も考えずにすみますから。中途半端な知識は人を不自由にします。正解があるのはわかっているのに、その正解が見つかりませんから。十分な知識は人を自由にします。そして過剰な知識は人を不自由にします。

【ただいま読書中】『三蔵法師の歩いた道 ──巡歴の地図をたどる旅』長澤和俊 著、 青春出版社、2004年、730円(税別)

 隋の文帝はそれまで弾圧されていた仏教復活の詔を出し仏教は興隆しました。そこで学ぶ若い(というより幼い)僧の一人が玄奘でした。のちにインドから持ち帰った仏典を元に中国法相宗(日本だと、奈良の薬師寺や京都の清水寺の宗派)の開祖となりますが、それは後のお話。
 27歳の秋、玄奘は西域を目指して出発します。しかし唐には出国禁止令があります。そこで人目を避けての旅となりました。はじめは同行してくれる弟子や協力者がいましたが、砂漠に入ると単身です。写真がありますが、荒涼とした風景で、自分だったら一日でも耐えられるだろうか、と思います。盗賊、水不足、王に引き留められる、などの妨害が次から次へと登場。いや、これは『西遊記』のリアル版だわ、と私は感じます。著者はジープで移動していますが、それでも大変だったようです(さすがに盗賊や王は出てきませんが)。
 旅路の途中にバーミヤンが出てきます。2001年に破壊された石仏の、バーミヤンです。なるほど、ヒマラヤを迂回するために、シルクロードに沿ってまず西に行きそこから南下してから東に向かっていたんですね。
 玄奘は、熱心な宗教家としての側面だけではなくて、インドまで往復する冒険心、多国の人とコミュニケーションが取れる国際的な感覚と語学力、唐の皇帝と交渉して国家事業として経典の翻訳を行う政治力など、実に様々な優秀さを持っていました。なにより大切だったのは「生き残る力」でしょう。途中で死んでいたら歴史にはその業績が残せなかったでしょうから。となると、世界に貢献しそうな優秀な人には、サバイバル教育もした方が良いことに?



医学教育

2019-08-23 07:45:11 | Weblog

 私が「中世ヨーロッパの大学」について調べていたとき、最初の専門教育は「神学」「法学」「医学」だけだった(あとは一般教養)と知って驚きました。今の日本の「大学」の教育は何なんだろう、と思えました。
 日本の医学教育で有名なのは「適塾」です。これは「学校」ではなくて「塾」ですが、中世ヨーロッパの「大学」も「塾の集合体(だから「パリ大学」「ボローニャ大学」ではなくて「パリの大学」「ボローニャの大学」などと表記されます)」だったことを思うと、医学教育としては西洋の伝統に則ったやり方だった、と言うことも可能でしょう。ではそういった「(徒弟制度や一子相伝などではなくて)教育によって伝えられる医学」はどんなものだったのか、それについてまとめた分厚い本がありました。

【ただいま読書中】『医学教育の歴史 ──古今と東西』坂井建雄 編、法政大学出版局、2019年、6400円

 「十九世紀」は西洋医学の“転換点"でした。フーコーは『臨床医学の誕生』で「病理解剖学が医学の“まなざし"を決定的に変化させた」と論じました。同時に臨床医学の“場"がそれまでの「自宅」から「病院」へと移動したのも十九世紀です。
 教育内容は、十八世紀以前のヨーロッパは「古代ギリシア・ローマ医学」が引き継がれていました。一時失われていたのですが、イスラム世界で保存されていたものがルネサンスなどで“復活"したものです。カリキュラムは「理論」「実地」「解剖学/外科学」「薬剤学/植物学」が4本の柱でした。
 「解剖学」を革新したのは『人体構造論(ファブリカ)』(ヴェサリウス(パドヴァ大学)、1543年)です。それまでの解剖学は古代ローマ時代のもので教科書はスコラ哲学的な難解なものでしたが、『ファブリカ』は「読んで理解可能な教科書」であり、しかも「現実の人体をベースにしている」点が「革新」だったのです。「正しい構造」をもとにしたら「各臓器の機能」についても考察することが可能になり、それによって近代医学は進歩を始めました。十九世紀には進歩した顕微鏡が解剖学にも取り入れられ、「生理学」も進歩します。そういった「正常な人体についての記述」が精密になって初めて「病気が人体に及ぼす影響」がわかるようになります。これがフーコーの「医学のまなざしの変化」です。さらに十九世紀には「細胞説(人体は細胞の集合体である)」が唱えられ、同時に生化学が発達します。それまでどちらかと言えば哲学的な存在だった医学は「科学」になっていったのです。
 古い日本の医学教育といえば私は「医疾令(大宝律令に含まれている医学教育・医療制度の「令」)」を思いますが、これは詳しいことがわかっていないからでしょう、本書は江戸時代から話が始まっています。輸入された中国医学が「漢方」として独自の発達をしましたが、そこで重視されたのは「処方」でした。中世ヨーロッパでは医者以外に薬種商が一定の勢力を保っていたことを私は想起します。リクツはともかく「治してナンボ」の世界ですね。さらに、中国医学の理論から離れて日本独自の主張をする「古方派」が各地で栄えますが、そこに「蘭方」が登場します。『解體新書』で蘭方は大人気となりましたが、実際に治療成績の点では蘭方も漢方のどっこいどっこい(もしかしたら内科疾患では漢方の方が優勢だったのではないか、と私は想像しています)。しかし幕末期の種痘の実施によって蘭方が勝勢となり、明治政府は「西洋医学が正当な医学」とします。ただしそれが定着するまで、ずいぶん長い時間がかかりました。
 二十一世紀の日本には「二十一世紀の日本の医学」が必要でしょう。しかし、それはその辺で買ってくるわけにはいきません。医学生をそのように育てる必要があります。ところが育てる側の医者や医学者は20世紀型です。さて、文部科学省と厚生労働省は、きちんとお仕事をしているのかな? おっと、官僚たちも20世紀型でしたね。



天候異変

2019-08-22 08:28:33 | Weblog

 天気図を見ると今週は日本列島の上にずっと停滞前線があります。もしかしてまだ梅雨が明けていませんでしたっけ? というか、気象庁が宣言しようとするまいと、停滞前線(梅雨前線?)が存在していることは否定できませんよね。

【ただいま読書中】『あんまりな名前』藤井青銅 著、 扶桑社、2008年、1200円(税別)

 「あんまりな名前」が日本には満ちあふれている、と著者は言います。言うだけではなくて、ご苦労さまなことに、実例をたっぷり集め、さらには分類し、それぞれにちょこっと一言付け足してくれました。「あんまりな名前」がいろいろあるなあ、という感想はだれでも持てますが、データを集めるのは大変な作業だったでしょう。
 著者の分類は……「侮蔑系(アホウドリ、バカ貝など)」「尾籠系(馬糞紙、バフンウニなど)」「寿限無系(ピカソ(の本名)、テロ特措法など)」「理路整然系(ネズミキツネザル、北品川駅など)」「矛盾系(昼咲月見草、ぬれやき煎餅など)」「欺瞞系(学芸大学駅、さつきみどりなど)」「安易系(ウッカリカサゴ、E電など)」「あやかり系(東京ドイツ村、山口東京理科大など)」……
 私は「侮辱系」や「尾籠系」はちょっと食い足りない気分で、「理路整然系(部分最適を積み重ねていったら全体的には“あんまり"になってしまったもの)」が一番面白く感じましたが、それは人それぞれでしょう。なお、著者の「ちょっと一言」には、特に悪意のあるものはなかったので、安心してあははははと笑える本と言えるでしょう。