【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

38度

2016-08-31 07:13:44 | Weblog

 体温が38度だと、病気です。気温が38度になると、死ぬほど辛い暑さです(実際に熱中症で死ぬ人もいます)。だけどお湯の温度が38度だと、ぬるま湯でお風呂だったら湯冷めします。「同じ温度」なのにねえ。

【ただいま読書中】『ドクター アロースミス』シンクレア・ルイス 著、 内野儀 訳、 小学館、1997年、1600円(税別)

 20世紀になったばかり、アメリカがまだ清教徒的な雰囲気で染まっていた時代、マーティン・アロースミスという青年が医学生になりました。彼の望みは細菌学で名を挙げること。ちょうど野口英世がアメリカで活動を始めた頃です。「最新の医学」は細菌の研究とほぼ同義だったのでしょう。
 マーティンの大学生活は、喜びと苛立ちとむなしさに満ちていました。自分がやりたいことと自分がするべきことと自分ができることとが一致しません。寮生活での仲間たちも、喜びでもあり苛立ちでもあります。マーティンは優れた科学者・優れた医学者になることを理想としていますが、同級生たちはとにかく試験に通ることや早く医者になって金を儲けることを理想としていたのです。
 医学部2年でマーティンはやっと細菌学教室に入ることを許されます。細菌学教授のゴットリーブは偏屈親父でしたが、マーティンに科学の基本をたたき込みます。ゴットリーブの信奉者のくせに残念ながらマーティンにはその教えの本当の価値はわかってはいないようですが。
 マーティンは頭が固く融通が利きません。その分、自分が信じる道は真っ直ぐに進めます。恋愛でも無茶をします。すでに婚約者がいるのに新しい恋人と出会ってしまうと、なんとこの二人を出会わせてそこで何が起きるのかを見ようとします。いくら風刺小説だと言っても、これはひどい態度だと思うんですけどね。ともあれ、一瞬で恋愛問題にはけりがつき、マーティンはまた自分の人生を突き進み始めます。ところが、教師や学部長と衝突、もののはずみで停学処分。マーティンは放浪生活を始めます。結婚、復学、臨床医として身を立てることを決意。マーティンは自分の人生で始めて、迷いながら一歩一歩歩きます。
 医者は金儲けの手段ではなくて人類に貢献する職業だ、とマーティンは信じています。ところが「人類に貢献する」と言っても、臨床の現場で患者を救うのも貢献なら、研究室にこもって新発見をするのも人類に対する貢献です。インターンとして忙しく病院で働きながら、マーティンは迷い続けます。
 ゴットリーブは隠れた天才でした。研究に没頭して論文はほとんど発表せず発表しても無視されていましたが、彼こそが免疫学を飛躍的に進歩させるべき人でした。しかしゴットリーブも迷います。もし流行病を完全に押さえ込んだら、数世代後に人類の免疫力はひどく低下してしまい、そこに新しい疫病が現れたら人類は絶滅してしまうのではないだろうか、と。過激な考え方ですが、一理あります。しかし、高邁な思想を持つ人間は、現実社会では成功者(アメリカンドリーム=権力者や金持ち)にはなれません。ゴットリーブはとうとう大学を追われてしまいます。
 マーティンは田舎医者になります。それなりに充実した人生。しかし、田舎特有の人間関係は、暖かいと同時に、煩わしいものでもありました。さらに田舎医者は、牧師や議員や町の有力者たちとも上手くやっていく必要があります。(この辺の描写の上手さは、さすがノーベル文学賞受賞者、と簡単に言いたくなります。本当は話は逆で、これだけ描写が上手いから賞も穫れたのですが(もっとも本書では、著者はピュリッツァー賞を辞退しています))
 さらにマーティンは、牛の疫病を防ぐワクチンを作ったことが、獣医師たちの権限を侵した、とされ、ほとほとやる気をなくしてしまいます。そこでマーティンの内部に潜んでいた「ゴットリーブ」が蘇ります。志願して郡の公衆衛生を担当し、流行していたチフスの原因を突き止めます(これでマーティンは、たくさんの敵と少数の味方を得ました)。天然痘、ジフテリア……マーティンは「敵」に足を引っ張られ続けます(ここで著者は「大衆」を非常に皮肉を込めて描写しています)。マーティンはついに田舎医者をやめ、公衆衛生局に就職することにします。このとき一番有効だったのが、大学時代に喧嘩別れしたゴットリーブからの推薦状でした。
 著者は町医者の子だったそうです。だとすると、本書の“リアルさ”は、著者が実際に経験したことによるものかもしれません。ただ、100年前の物語ではありますが、本書は今でもまだ読み応えがあります。特に田舎町の人びとの姿は、現在の日本でもネット上あるいはリアル社会でそのまま見ることができるように私には感じられます。さらに「医者の理想像」とはどのようなものか、結論が出ていないことも、非常に示唆的です。


またー?

2016-08-30 07:18:22 | Weblog

 最近のニュースで「これは官邸マターなので」なんて言い方を聞いて、私はきょとんとしました。「官邸が管轄するから、他は手も口も出すな」という上から目線の排他宣言なのか「官邸がとことん責任を持つ」と謙虚に言っているのか、区別がつかなかったからです。もちろんその「区別をつけさせない」ことを目的としてわざわざ「マター」なんてカタカナ語を使ったのでしょうけれど。
 そんなことを言われた記者諸子は「それはどういう意味で使っているのですか?」とどうして質問しないんですかねえ。

【ただいま読書中】『それっ!日本語で言えばいいのに!! 』カタカナ語研究会議 監修、秀和システム、2016年、1280円(税別)

 「アーリーアダプター」から「ロジック」まで、ビジネス現場やIT業界、メディア業界などで使われているカタカナ語を96語、その誤用の例と正しい使い方、さらに日本語で言い換えた例が集められています。
 知っている単語も知らない単語もありますが、知っているつもりで実は間違えて覚えていた単語もあって、私は一人ひそかに赤面してしまいました。
 しかし「プレスト」は「ブレインストーミングの略」で「リスケ」は「リスケジューリングの略」と言われても、「略し方を統一してくれよ」と私は言いたくなります。どちらももとの言葉は知っていますが略語の方はピンとこなかったものですから。
 さらに「デフォルト」は、コンピューターの世界では「初期設定」ですが、金融では「債務不履行」です。だから説明抜きで「デフォルト」と言う場合には、聞いた方が「どちらの意味?」と聞く必要がないようにきちんと文脈を明確にしておく必要があります。
 そういえば「マター」だって「担当」以外に「物質」「問題」「事態」という意味もあります。すると「官邸マター」は「官邸の問題」と解釈するのも、OK?


進か真か新か

2016-08-29 08:23:26 | Weblog

 私は「ゴジラ」シリーズはこれまでほとんどを映画館で観ています。で、最新作の「シン・ゴジラ」はどんなものかと観に行きました。いやあ、すごかった。第一作だけではなくて、今までのいろんな作品からの“引用”も散りばめられていますが、それ以外にも「現在の日本」「3・11」もしっかりと映画の中で機能していますし、ニコ動を一捻りしたような映像・音声表現も使われているのは笑えました。きっちり「現在ただいまのゴジラ」です。
 ゴジラを観るのは初めての家内も取りこぼしは相当ありますがとりあえずは楽しめたようです。ただ、彼女は二回は行かないと宣言しているので、次は一人で行かなくちゃ。私も取りこぼしが相当ありそうなので。

【ただいま読書中】『徐福 ──日中韓をむすんだ「幻」のエリート集団』池上正治 著、 原書房、2007年、2400円(税別)

 秦の始皇帝は中国の統一という偉業を成しましたが、不老長寿も求めていました(というか「始皇帝」という特別な人間が、他の一般人と同じ「寿命」に縛られるのはおかしい、という発想もあったでしょう)。そこに斉の国の方士(神仙・医薬・健康などの専門家)徐福が「遙か東の東海に蓬莱山があり、そこには不老長寿の霊薬がある。神への供物として数千人の童男・童女を引き連れて海を渡り、霊薬を手に入れてきましょう」と提案します。
 「徐福」は本当は「徐巿」です。「巿」は「市場の市(いち、5画の漢字」ではなくて「巾に横棒(読みはふつ、4画の漢字)」です。「徐巿」は中国語では「Xu-Fu」と発音されるのですが「福」もまた「Fu」のためいつのまにか「徐福」になった、と考えられます。
 中国はもちろん、日本にも各地(九州から青森まで。最近は移民によって北海道にも徐福伝説が持ち込まれたことが“発見”されています)に徐福の伝承やゆかりのものが伝えられています。私が驚いたのは、韓国にも複数の徐福伝承があることです。徐福は朝鮮半島経由で日本に渡ったのでしょうか? それにしても、徐福は卑弥呼よりも400年は前の人です。その時代の人の伝承がどうやって今まで残ったのでしょう? 不思議です。卑弥呼のことさえ私たちは中国経由(魏志倭人伝)で教わっているのに。
 日中韓の徐福研究者は、大変熱心に活動をしています(著者が熱心に活動をしていて、“類は友を呼”んでいるのかもしれませんが)。もし「徐福」が本当に移民団と富や大量の文物とともに日本にやって来たのでしたら、それは「日本」に相当のインパクトを与えたはずです。私たちが「海外」にポジティブなイメージを持っているのは、徐福がもたらした「日本人の原型」なのかもしれません。


東京の鉄道

2016-08-28 07:33:35 | Weblog

 私は「赤羽線」(赤羽=池袋の往復便)には乗ったことがありますが、「埼京線」は乗ったことがありません。うわあ、何年あのあたりに行っていない、ということなんでしょう?

【ただいま読書中】『こんなに違う通勤電車 ──関東、関西、全国、そして海外の通勤事情』谷川一巳 著、 交通新聞社、2014年、800円(税別)

 東京では通勤に使う線は複雑に絡み合っています。郊外の私鉄は都心では地下鉄と相互乗り入れをしています。JRも複数の線区をまたいだ列車の運用をしています。したがって一部のダイヤの乱れはあっという間に全体に波及して混乱が起きてしまいます。ダイヤの数分間の乱れでも大問題になってしまいます。
 しかし著者は、ダイヤの乱れよりも大きな問題がこの相互乗り入れにはある、と指摘します。たとえば路線図が各社で統一されていないこと。相互乗り入れをするのだったら路線図も共通な方がユーザーはわかりやすいでしょう。また、路線が変わると初乗り運賃を改めて徴集されること。「通し」で乗っているのに初乗りが二回というのはなんだか変です。
 なお、日常的に使う路線ですから運賃にはもっと敏感になった方が良い、と著者は主張します(家を買うときに著者はそれを決定要素としています)。実際に「10kmの運賃」の比較が載っていますが、安いのは150円、高いのは520円と大きな差があります。私が驚いたのは、高いことで有名な北総鉄道は500円、東葉高速鉄道は510円で、それより高い鉄道会社が日本にまだ(それも複数)あることでした。
 「座って通勤」と言えば「始発から」と私は思いますが、通勤ライナーが増えているそうです。もともと行楽用の車輛が通勤時間帯だけライナーとして座席券を買えば着席できる、というシステムで運用されている例もありますし、最初から通勤ライナー専用に作られた車輛もあります。会社としては「座って通勤したい」お客は大体遠距離通勤ですから、「長距離のキップ」+「座席券」で二重に美味しくなるわけです。このライナーのバス版で、通勤高速バスも最近増えているそうです。
 乗降時間を短くするための工夫の一つが「6ドア」です。車輛側面に6つもドアが並んでいて、一気に乗客を入れ替えよう、というものですが、車体の強度が落ちることや、ホームドアとの相性が悪いことから、広く普及はしそうにないそうです。しかしそれ以外にも、ドアの幅を広げる、車体の幅を広げる、などの工夫で各社は輸送力アップに努めています。ただ著者からは「乗客を座らせないことが前提で、快適性を求めていない」点が気に入らないようです。
 関西では少し事情が違います。関東で主流のロングシート(窓に背を向けて一列に座る)ではなくてクロスシート(対面式)や転換クロスシート(全員が進行方向に向いて座ることが可能)の車輛が多く移動中の乗客の快適性は増します。複々線でも、関東では「上り下り上り下り」の順に線路が並んでいることが多いのですが,関西では「上り上り下り下り」となっていて快速などへの乗り換えが楽にできます。単に線路が8本並んでいたら「複々線」と言うわけではなさそうです。
 関西の方が関東より客の快適度が高いのには、「混雑が東京ほどではない」「京阪神それぞれに集客力があり東京一極ではない」「JRと大手私鉄の競争が激しい」といった要因があります。逆に言えば、東京の通勤客は“冷遇”されている?
 著者は日本各地に取材に出かけて、実際に通勤電車がどのように運行されているか、乗客がどのように使っているか、を調べているので、その記述は説得力があります。面白いのは「地域差」が非常に大きいこと。私たちはついつい「自分の経験」を“スタンダード”だと思ってしまいがちですが、それは「その地域のスタンダード」でしかないようです。
 著者はさらに海外へも出かけます。そこでも面白い体験がいろいろと。たとえばドイツでSバーン(近郊列車)の一等車に乗ったら乗客に「ここは一等だぞ」と言われたり(一等に乗るのは貴族の末裔など。東洋人は乗るべきではない、という階級意識の表れです)、アメリカの通勤列車に乗ったらがらがらだったので足をボックスの向かいの席に乗せようとしたら届かなかったり……
 「日本の鉄道は世界一」という根拠のない思い込みを私は持っています。もちろん「ダイヤの正確性」など客観的な指標は世界一ですが、では「顧客の満足度」はどうなんでしょう? 世界は知りませんが、私は日本の鉄道にはけっこう不満があるので、そこのところが早く「世界一」になってもらいたいものだ、とは思います。


親孝行

2016-08-27 07:03:46 | Weblog

 カッコウが親孝行をしようと思ったら、誰にすれば良いんでしょうねえ。というか、自然界で親孝行は「自然な行為」でしたっけ?

【ただいま読書中】『カッコウの托卵 ──進化論的だましのテクニック』ニック・デイヴィス 著、 中村浩志・永山淳子 訳、 地人書館、2016年、2800円(税別)

 「春を告げる鳥」カッコウが、自分で子育てをせずに他の鳥の巣に自分の卵を産み付けることは、2300年以上前にアリストテレスがすでに記録に残しているそうです。
 鳥卵のアマチュアの研究家エドガー・チャンスはカッコウ(とカッコウがイングランドのバウンドグリーン入会地で托卵をするタヒバリ)の習性を観察し続け、1921年にカッコウが托卵する瞬間を映画フィルムに収めることに成功しました。カッコウの雌は、卵が産みつけられたばかりのタヒバリの巣に自分の卵を一つ産みタヒバリの卵を咥えて飛び去ります(その卵は、証拠隠滅のためでしょう、カッコウは飲み込んでしまいます)。カッコウの雛はタヒバリより1日くらい早く生まれ、目も開かない内から背中のくぼみを使って他の卵(時には孵ったばかりのタヒバリの雛)を巣の外に放り出してしまいます。タヒバリの親は一羽だけ残った「自分の仔」にせっせとエサを運び続けます。その仔が自分とはちがう模様でどんどん成長して自分よりもはるかに大きくなっても、せっせせっせとエサの昆虫を運び続けるのです。
 ウィッケン・フェンの湿地でカッコウが托卵するのは、ヨーロッパヨシキリです。著者は湿原に印をつけてすべての巣の位置を地図に記載し、すべてのヨーロッパヨシキリに色足輪をつけて個体識別ができるようにしてから観察を始めます。そして、カッコウの雌もまたヨーロッパヨシキリの行動をじっと観察していました。
 ヨーロッパヨシキリの雄も観察をしています。はじめはカップルとなった雌のところに他の雄が近づかないように。そして産卵が始まると、こんどはカッコウを警戒します。しかしその警戒をかいくぐってカッコウは巧妙に托卵をします。著者が調査した湿地では、ヨーロッパヨシキリの巣全体の16%にカッコウの卵がありました。しかしヨーロッパヨシキリも頑張ります。1/5のカップルは、カッコウの卵を巣の外に蹴り出していたのです。たとえ見た目がそっくりでも、やはり「違う卵である」ことは認識できることがあるようです。「認識できる」ヨーロッパヨシキリと「認識できない」ヨシキリとの違いは?
 カッコウとヨーロッパヨシキリの戦略はどのようなものか? それを解明するために著者は「自分がカッコウになる」ことにします。カッコウの卵と色や模様がそっくりの(あるいは似ていない)疑似卵を作り、それをタイミングを変えてヨーロッパヨシキリの巣に忍ばせることで,宿主の反応の違いを見よう、という研究です。すると「ヨーロッパヨシキリの卵に似ているほど、巣からは排斥されない(托卵が成功する)」ことがわかりました。なんだか当然の結果のようですが、進化論から見たらこれは驚くべき話です。カッコウはどうやって自分の卵が宿主の卵と似せるように進化したのでしょう?(ちなみに、「見た目が似ている」事に関して、著者は一般の鳥が“見”ている紫外線も含めての波長で実験をしています)
 カッコウの産卵時間は,早ければ数秒、平均10秒程度です。これは、一般の鳥類が20分〜1時間かけるのと違って驚くべき速さです。こっそり巣に忍び込んで素早く産卵、という戦略なのでしょう。ところがヨーロッパヨシキリやオオヨシキリは、自分の巣にカッコウを発見すると攻撃し、その後巣にカッコウの卵を発見するとふだんより高率にその卵を排斥することが著者らの研究でわかりました。つまりカッコウの産卵が素早いのは自分が発見されないで托卵を成功させるために不可欠の条件なのです。
 宿主の側は「自分の卵以外は排除する」という防御を発展させ、それに対抗してカッコウは「相手の卵と自分の卵を似せる」という戦略を発展させました。ではこういった「軍拡競争」がなかったら? カッコウに托卵されるヨーロッパカヤクグリは「自分の卵と明らかに違う卵が混じっても排除しない」種です。すると、カッコウは「似せる努力」を放棄し、明らかに大きさも色も違う卵を堂々とヨーロッパカヤクグリの巣に産み付けます。すると宿主は平然とその卵を温めるのです。著者は「ヨーロッパカヤクグリとカッコウの“軍拡競争”は、まだ始まったばかりではないか(これからヨーロッパカヤクグリが自分のもの以外の卵を排斥するようになり、それに対してカッコウが卵を宿主の者に似せるようになる)」と考えています。それが進化の過程としては自然ですから。
 カッコウの雛が巣の中の他の卵や雛を巣の外に捨ててしまうことを最初に論文で報告したのは、ジェンナー(ワクチンで有名な人)とされています。ただし、“先人”は「カッコウの雛がそれまで生をともにしたものを巣から放り出す」と書いたアリストテレスなんですが(著者はよくこれを見つけたものだと感心します)。羽も生えず目も見えない雛がそんな行動をするとは信じられない、と思う人が多く、ジェンナーの論文は最初掲載を拒絶され、100年経っても「ジェンナーの主張はばかげている」と言う人が多くいました。しかしカッコウの雛は、さらに別の戦略(たとえば、複数の雛が巣で口を開けて待っているように見せかける)も使って宿主にエサをせっせと運ばせています。いやもう「信じられない」と私も言いたくなります。
 本書は「カッコウの物語」であると同時に「カッコウに托卵をされる宿主たちの物語」であり、さらに「カッコウを研究した人びとの物語」でもあります。著者も夢中になって研究をしていますから「著者の物語」でもありますが、本書を読むと「カッコウの魅力」がよくわかります。「親としての養育義務」を放棄しているわけですから「美しい人生」と言って良いかどうかはわかりませんが、進化論の見地からは本当に興味深くて魅力的な生物です。ダーウィンが言った「もつれ合った土手」には、おそらく「いてはならない生物」はいないはず。だったらカッコウにも「地球に必要な理由」があるはずです。
 ところが英国ではカッコウが数を減らしているそうです。そこには地球環境の変化が影響を与えているらしいのですが、さて、春を告げるあの鳴き声は、いつまで聞くことができるのでしょうか?


忍ぶ恋

2016-08-26 07:56:55 | Weblog

 百人一首的には「じっと心に秘めた恋」のことになりますが、「忍ぶ」を“積極的”な意味で解釈したら「人目を避けてこっそり成就させた恋」という意味にも取れないでしょうか?

【ただいま読書中】『忍者の歴史』山田雄司 著、 KADOKAWA(角川選書570)、2016年、1600円(税別)

 史料に始めて登場する「忍び」は、『太平記巻二十』です。足利軍が男山の城を攻めあぐねていたとき「逸物の忍び」がひそかに忍び込んで神殿に放火して敵を大混乱にした、とあるそうです。他の巻にも忍びが侵入したが見破られて失敗したりの話があり、著者は他の史料と付き合わせてこれらの「忍び」は実在した、と結論づけています。著者は、忍びの出身母体を「悪党(傭兵や道を外れた山伏たち)」と仮定しています。
 御成敗式目の注釈書や日葡辞典によると、「忍び」には「窃盗犯」と「城や陣営にこっそり忍び込んで情報を集める間諜」の二つの意味があったようです。
 伊賀・甲賀は忍者の里として有名です。そういえばスイスはスイス傭兵で有名ですが、山国は傭兵(や忍び)を生み出しやすい土地なのでしょうか。甲賀伊賀はどちらも大名の力が弱く、国人・土豪が自治組織(伊賀惣国一揆、甲賀郡中惣)を形成していました。長享元年(1487)足利義尚が近江六角高頼を攻めたとき、六角軍は甲賀衆とゲリラ戦を展開、その時の戦いぶりによって甲賀衆と伊賀衆の名が日本に知れ渡りました。
 「忍び」には様々な別名があります。「奪口(だっこう)」「透波(すっぱ)」「風間(かざま)」「乱波(らっぱ)」「夜盗組」「草」「かまり」「軒猿」「やまくぐり衆」……いろいろな戦国大名が残した文書では、地域によって本当に様々な名前で呼ばれたことがわかります。北条氏の文書では「風摩(かざま)」とわざわざふりがなまでつけていますが、忍者漫画で有名な「風魔」はこの「風間」「風摩」を「ふうま」と読んでそれに「魔」の字を当てたのでしょうか。
 泰平の世になると、忍者の“需要”が減ったためでしょう、それまで口伝だった忍術を忍術書にして残そうとする動きが生じます。絶滅する前にせめて文字にしておこう、ということでしょう。そこで面白いのは「盗賊とはちがう」と強調されていることです。当時は両者が混同されていたからでしょう。というか、区別が明確につけられるのかな? 他にも「命を惜しめ(殺されたら情報を持ち帰るという使命が達成できないから)」「道具には名前を書くな(捨てて逃げる場合が多いから)」「肉体的な強靱さよりも才覚(当意即妙の反応、情報を聞き出すコミュニケーション能力、記憶力、他の職業人に化ける力など)が重要」などと実に“実用的”な教えが並んでいます。武術よりも重視されているのは火術です。「忍者の攻撃」では敵陣に忍び込んでの放火が重視されていたのでしょう。
 「伊賀」で重要なのは、織田軍が攻め込んだ「天正伊賀の乱」と、本能寺の変直後の徳川家康の伊賀越えです。服部半蔵や伊賀同心については様々な物語がありますが、はじめは「忍び」だった伊賀者はやがて江戸城の警備が主任務になっていったようです。また甲賀者も関ヶ原の乱以後にやはり警備を担当するようになりました。実際の戦争で忍びが活躍した最後の戦いは、島原の乱です。甲賀者が十名、夜陰に紛れて城に侵入して掘の深さや塀の高さを調べていますが、面白いのは、敵に見つかって這々の体で逃げ出した失敗まで記録されていることです。
 江戸市井には忍術道場もありました。今の私たちが忍者に抱くイメージ(忍者装束、背に刀、軽業まがいの体術、どろんと消える、手裏剣しゅしゅしゅ)は、このあたりから確立されていくようです。
 私は子供時代に忍者もの(「隠密剣士」「伊賀の影丸」「カムイ外伝」など)に夢中でしたが、ああいった「忍者」の正統な子孫は海を越えた映画の「007」(特に最近のアクション満載のもの)に引き継がれているのではないか、と思うこともあります。結局忍者は、世界で人気者なのかもしれません。


掻けない辛さ

2016-08-25 07:01:17 | Weblog

 体の中が痛むのは不気味で嫌ですが、もし体内(脳とか胃とか)が痒くなったら、こちらはこちらでちょっと恐いとは思いません?

【ただいま読書中】『なぜ皮膚はかゆくなるのか』菊池新 著、 PHP研究所(PHP新書)、2014年、760円(税別)

 「かゆみ」の定義は1660年ハーフェンレファー(ドイツの医師)によって与えられました。それがどんなものか、次の段落に書きましたがそこに移る前にちょっと考えてみてください。実は私は良い定義を思いつけませんでしたが、あなたはどう定義しますか?
 ハーフェンレファーの定義は「掻きたいという衝動を引き起こす不快な感覚」。
 言われてみたらなるほど、です。では「掻く」と何が起きるかというと、2014年になってやっとわかったのですが、脳で「褒賞系」と呼ばれる中脳や線条体が刺激されて人は快感を感じているのです。また、痛みを与えると痒みは抑制されます。快感も痛みの作用も、感覚的な経験から納得される人は多いでしょう。
 面白いのは、「痒みが生じる部位」は「手が届く範囲」であることです(たとえば腹の中は痒くなりません)。ここでも「痒み」と「掻く」がセットになっています。
 痒みには、虫に刺される・皮膚の病気、といったものもあれば、精神的な痒み(ストレスで痒くなる、痒そうな他人を見ていて自分も痒くなる、など)もあります。
 掻くと快感を感じますが、掻くことで皮膚の炎症が進みそれが原因でかえって痒みが増す「イッチ・スクラッチサイクル」も進行します。さらに脳の痒み閾値が下がり(痒みをさらに感じやすくなり)、皮下では神経末端が伸びて痒みをさらに感じやすくなります。つまり、掻けば掻くほど痒みが増す無限ループに突入してしまうのです。
 著者はそれに対して「掻かないこと」「冷やすこと」を勧めています。ただし、メントールなどは一時的なごまかしに過ぎません(それでも冷感によって掻くことを抑制できるので、自然治癒が期待できますが)。皮膚がひりひりするくらいに熱いシャワーは、一時的な痒み抑制はありますが、皮膚の生体反応が活性化して化学伝達物質などが増え、結果的には痒みが増します。
 治りにくいアトピー性皮膚炎では、患者は痒みでとても辛い思いをしますが、その原因の一つは「無知な医師も治療に関与していること」だそうです。そういった医師に出くわしたために医療不信となって民間医療に走る人も多くいますが、その民間医療もまた効かないもののオンパレード。著者は「アトピー・じんましん・乾燥肌・慢性湿疹などの痒みに対しては、病気の原因と皮膚の構造と痒みのメカニズムをきちんと理解したら、論理的に治療法は導き出せる」と主張します。
 治療法は「対症療法(とりあえずの症状を抑える)」と「原因療法(原因を取り除く)」の組み合わせです。たとえば金属アレルギーだったら、歯の金属の詰め物を全部除去。アトピーだと言われていた赤ちゃんの中には、柔軟剤かぶれや洗浄剤かぶれ、ひどい例では水道水の塩素にかぶれていた人もいるそうで、そういった人はその「原因」を使わないようにします。
 言われていることは一々ごもっとも。とってもわかりやすい解説です。問題は、ここまできちんと皮膚を見る皮膚科医が日本のどこにいるのか、の情報が手に入りにくいことです。


ストーカーへの

2016-08-24 07:00:29 | Weblog

 「あの娘の笑顔は素敵だ」と「あの娘は自分にだけ素敵な笑顔で笑いかけてくれる」との間には、大きな違いがあります。その違いに気づかなくなることが、ストーカーへの第一歩かもしれません。

【ただいま読書中】『バンヴァードの阿房宮 ──世界を変えなかった十三人』ポール・コリンズ 著、 山田和子 訳、 白水社、2014年、3600円(税別)

 19世紀前半のアメリカでは「フロンティア」はまだミシシッピー川でした。そこを2年かけて旅をして得たスケッチを元に「パノラマ」を制作したのがジョン・バンヴァードでした。「パノラマ」は劇場で、巨大な絵巻物のようにでっかくて長いキャンバス地に連続的に絵を描きそれを手回しクランクで少しずつ流すことで「動画」を観客に楽しんでもらう、という当時の興行です。バンヴァードは数百メートルもの長さの「ミシシッピ・パノラマ」で上流から河口まで(あるいはその逆向きの)観客に仮想的な旅を経験させることで大当たり。ヨーロッパにも進出して「億万長者の画家」という、それまでに世界に存在しなかった立場になりました。このままだと「成功者」として世界に君臨できたかもしれません。しかし運命は残酷で、バンヴァードは最後には貧窮して淋しく死んでいきました。
 本書では「世界を変えなかった(本当は成功できたのにできなかった)」人たちが十三人取り上げられています。著者の視線は温かく、「忘れられた人(事物)」についてそんなに簡単に忘れて良いのか?と読者に問いかけています。
 たとえば、18世紀末に「シェークスピアの未発表戯曲」を贋作してしまったウィリアム・ヘンリー・アイアランドについては、その動機が納得できるものであることを示すと同時に、その「戯曲」が実はけっこう良いものであったこと(「シェークスピアのもの」と言うから「贋作だ」と世間には否定されてしまったが、戯曲単体で見たら秀作であること)も指摘しています。また「贋作を受け入れる(実は待望していた)」社会の側の問題点も指摘することを著者は忘れません。「シェークスピアの贋作」は、ウィリアムの“単独犯”ではなくて“共犯者”が多くいたのです。
 地球空洞説(ジョン・クリーヴズ・シムズ)、N線(ルネ・ブロンコ)、ニューヨーク空圧地下鉄道(アルフレッド・イーライ・ビーチ)などなど、一時は世間を熱狂させ、そして最後にはペテン師扱いされてしまった人びとが次々登場します。現在の社会にもこういった「変わったアイデアで世間を熱狂させている人びと」が多くいますが、その大部分は100年後にはペテン師扱いされているかあるいは単に忘れ去られていることでしょう。できたら100年後まで長生きをしてことの推移を見守りたいものです。もっとも100年後にはまた別の「世界を変えなかった人びと」が大活躍しているのかもしれませんが。


いのべーしょん

2016-08-23 06:45:22 | Weblog

 20世紀に「まねした電器」という言葉がありました。当時ソニーが(たとえばウォークマンのような)それまでになかった新規商品を出すと、松下電器がそれと似たものを大量に市場に投入してシェアを奪う、を繰り返していて、その松下のやり方を揶揄して「まねした」と呼んでいたわけです。
 ソニー(だけではなくてパナソニックもサンヨーもシャープ)もかつての元気を失ってしまったのは残念ですが。
 今、スマートフォンの世界では「iPhoneより大きい」「iPhoneより安い」「iPhoneより使いやすい」製品が市場に溢れています。私はそういった「まねした製品」を見るたびに消費者としてこう思います。「iPhoneを越えた製品」ではなくて「今のスマートフォンを越えた画期的な新しい製品」を提示して欲しいなあ、と。

【ただいま読書中】『幻燈スライドの博物誌 ──プロジェクション・メディアの考古学』土屋紳一・大久保遼・遠藤みゆき 編著、 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 編、青弓社、2015年、2400円(税別)

 「幻燈」は英語では「Magic Lantern」と呼ばれます。19世紀の西洋では娯楽だけではなくて宗教から科学までを題材として、大講堂や劇場で大規模な「幻燈会」が開催されました。そこではスクリーンに「一枚の絵(スライド)」を投影することが基本でした。スライドショーと言えばわかりやすそうです。
 幻燈は日本には江戸時代にもたらされ(『蘭学事始』(杉田玄白)に記述があります)、江戸では「写し絵」(上方では「錦影絵」)として独自の発展をしました。場所は寄席で、「風呂」と呼ばれる小型の幻燈機(光源は蝋燭・油皿・石油ランプ)を複数用います。背景を一台が担当、そこに複数の登場人物をそれぞれ別の風呂で投影して「勧進帳」「四谷怪談」などの物語を演じました(小型の幻燈機ですから、手持ちであちこちに移動させることが可能なのです)。「種板(スライド)」には同じ登場人物のさまざまな動作や表情が描かれていてそれを次々切り替えることで「演技」をさせます。
 これって、日本での「アニメーション」の元祖ですか?
 ガラス板の上に小さな絵を描き彩色する技術がすでに江戸時代に存在していたから、明治時代に白黒写真に彩色して「カラー写真」に化けさせることも平気でできたのでしょう。で、それが現在の「アニメーション」にまっすぐつながっている?
 本書には「種板」の写真が豊富に含まれています。また、写し絵を見て楽しむ子供連れなどを描いた錦絵も紹介されています。いやあ、とっても楽しそうな「娯楽」です。テレビや映画を知らない江戸時代の庶民には、ものすごく面白かったに違いありません。これに近い娯楽と言えば、私は「紙芝居」を思います。紙芝居の画面の中で登場人物が動いたりあかんべえをしたりしたら、これは今でも受けそうです。
 なお、明治時代にもまだ寄席では写し絵が演じられていたそうです。ただし、西洋から再渡来した「Magic Lantern」は「幻燈」と呼ばれるようになり、スライドに写真も導入され、劇場や学校でも使われるようになりました。磐梯噴火・明治三陸地震・日清日露戦争などでは、ニュース写真や絵と語り手の組み合わせで「マスコミ」としての機能も果たしています。私が子供の頃にはまだ映画館では本編や予告編の前にニュース映画が流されていましたが、それの御先祖様と言えそうです。
 やがて「運転映画」が登場します。たとえば「世界周遊幻燈映画」(1896年(明治29年))は、横浜港を出発して世界を一周して戻るまでを600枚のスライドで表現したものでした。これ、今の目で見たら(当時のファッションなどが楽しめるなどの)別の楽しみがありそうです。
 日露戦争の頃から「映画」が日本に普及し始めます。ただしそれによって幻燈は即座に滅亡したわけではありません。映画の予告編に幻燈機が活用され、地方都市では幻燈会が盛んに開催されていました。また、小型の幻燈機が家庭に入っていきました。つまり「時代」は、ぱちりと電灯のスイッチを切るようには変わらないのです。
 本書の巻末には「花輪車」が登場します。これは、細かく分割彩色された二枚のガラス板で構成された万華鏡のようなもので、それぞれを逆方向に回転させて投影することで不思議な模様の変化がいつまでも楽しめるものだそうです。万華鏡をのぞき込むのでも楽しいのに、それがスクリーン一杯に展開されたら、全身がスクリーンに没入できて一種の催眠効果のようなものが生じるかもしれません。そこに音楽をかぶせたら、サイケデリックな「映画」と表現しても良さそうです。
 本書には本当に多種多様なスライドが紹介されています。惜しむらくは、すべて「紙面の写真(反射光で見るもの)」で「投影された本来の光の効果」が感じられないこと。博物館に行ったら、「体験」ができるのかな?


寄生虫

2016-08-22 07:44:08 | Weblog

 私が小学生の時には検便やお尻にテープを貼る寄生虫検査が毎年あって、「もし出てきたらどうしよう」と心配したものでした。
 寄生虫は人間からは嫌われていますが、それは「収奪」だけして「お返し」がないからです。いろいろ役に立つことをする共生だったら嫌われないんですけどね。
 ところで人類は、地球から見たら「寄生」なのでしょうか? 奪うばかりでお返しはしていない存在?

【ただいま読書中】『野見宿禰と大和出雲 ──日本相撲史の源流を探る』池田雅雄 著、 彩流社、2006年、2000円(税別)

 「相撲は日本の国技」と言われますが、実は世界中に「相撲とそっくりの格闘技」が存在しています。おそらく「国技」たる所以は、格闘技を包む「文化」の部分にあるのでしょう。だから「日本人横綱」にこだわる必要はありません。「文化」が継承されていれば良いのです。
 日本神話では「出雲の国譲り」と「日本書紀・垂仁天皇」に「相撲」が登場します。ただし出雲神話の方は神同士の力比べで「手乞い(今のレスリングのように、お互い手をさしのべて相手の体を掴んだりタックルする隙をうかがう)」でしたし、垂仁天皇での野見宿禰と當麻蹴速の対決ではハイキックの応酬で“きまり技”は蹴速のあばらと腰の骨を踏み破る、というものでした。古代ギリシアに「パンクラチオン」という殴る蹴る投げる何でもありの格闘技がありましたが、日本書紀の「相撲」もキックボクシングかパンクラチオンのような物だったのかもしれません。
 同じく日本書紀の雄略天皇のところには「采女相撲(天皇が裸の女官にふんどしだけで相撲を取らせた)」の記述がありますが、これはさすがに本気の格闘技ではなかったでしょう。どちらかというと、祭事としての相撲だったのではないかな。
 しかし、本書によると、こういった日本書紀の記述がかつては「史実」として扱われていた時代があったのだそうです。歴史学が進歩してさすがに神話は神話ということになりましたが、なぜか相撲史でだけはまだ野見宿禰の“相撲”は史実扱い……って、本当ですか?
 著者によれば「史実としての相撲の最初の記述」は、皇極天皇(大海人皇子の母)元年に百済の王族を接待するために兵士を集めて相撲を取らせたものだそうです。公式行事だから記録が残った、ということでしょう。天武天皇の時代には、大隅隼人と阿多隼人(どちらも九州で征服された民族)の相撲が行われています。飛鳥朝では七夕の余興として相撲が行われました。のちの平安朝で相撲節会が行われたことから見ると、少しずつ宮中での「相撲」制度が整備されつつあったようです。
 ここで著者は興味深い指摘をします。「野見宿禰」と言われると「野見」が「氏」・「宿禰」が「名」の「個人」だとつい思ってしまいますが、それは間違いだ、と。「宿禰」は「(天武天皇が制定した)八色の姓」では第三位の階級に位置しています。つまり「宿禰」の古称はそれ以前には「家筋の尊称」「世襲的な職務」を示していたはずだ、と言うのです。また「野見」は日本各地に見える一般的な地名です。続日本紀などを参照すると、出雲からやって来た土師集団が「野見宿禰」のようなのです。で、彼らの多くが住んでいたのが大和の出雲村だそうです。では、「出雲村」と「出雲国」との関係は?(出雲国から大和にやって来た人たちが出雲村に、が自然な解釈でしょうが、その逆はないでしょうか?)
 「相撲」という言葉は、中国人ではなくてインド人が作りました。もともと中国とインドではルールのちがう「相撲」が行われていて、中国では「角力」・インドでは「ゴタバラ」と言われていました。それでインドから中国に『本行経』がもたらされて漢訳されるときに翻訳をしたインド人が(本来ちがう物だから、と)「角力」ではなくて「相撲」の字を用いたのだそうです(ついでですが、中国文化では中国知識人は外国語を学んで漢訳することを嫌がります(有名な例外は玄奘三蔵)。なにしろ「中華思想」ですから中国語だけ知っていれば良いのです。だから後世にキリスト教が伝来したときも、西洋人の宣教師が中国語を学んで聖書を翻訳しています)。で、日本では大正時代までは「角力」「相撲」の両方が使われていましたが(明治時代には「相撲協会」ではなくて「角力協会」だったそうです)、いつの間にか「相撲」が一般的となり「角力」は「好角家」「角界」に名残が見られるだけとなりました。
 「相撲史」の本のはずですが、日本神話についてもいろいろ考えさせてくれる本です。私も『古事記』を読んでいて、「出雲」が大和朝廷に明らかに大きな影響力を持っているのに、文章上は不自然に無視されている場面が多いことが不思議で仕方ないので、著者が抱く疑問には共鳴を感じます。