【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

児童文学賞

2021-09-28 13:15:27 | Weblog

 有名な児童文学賞は、イギリスならカーネギー賞、アメリカならニューベリー賞です。ところがニューベリーさんはイギリス人。なぜこうなったのでしょう?
 そういえばアンドリュー・カーネギーもイングランド人ではなくてスコットランド人でした。欧米人は「自分の国の出身者じゃないといやだ」なんて言わないのかな。日本の代表的な児童文学賞に外国人の名前をつけるようなものなのですが……って、日本に国際的に名前が知れた(受賞者が国内外のマスコミで盛大に取り上げられる)児童文学賞がありましたっけ?

【ただいま読書中】『子どもの本の世界を変えたニューベリーの物語』ミシェル・マークル 文、ナンシー・カーペンター  絵、金原瑞人 訳、 西村書店、2020年、1800円(税別)

 18世紀のイギリス、最初に登場する子供たちはみな泣いたり悲しんだりしています。しかし、ジョン・ニューベリーが育ち、印刷会社に就職し、ジョン・ニューベリー社を作り、子供向けの本を出版していくと、子供たちの顔がどんどん明るくなっていきます。そして最後はもう満面の笑み。そうだよね、「子供の本」の“主役"は子供だもの。

 


「威圧にひるまない」

2021-09-26 08:11:13 | Weblog

 菅首相が「(中国の)威圧にひるまない」と言っているのを見ると、政権に忖度する官僚たちの「人事権の行使が怖いんですけど」という呟きが聞こえるような気がします。

【ただいま読書中】『芙蓉の人』新田次郎 著、 文藝春秋(文春文庫)、1975年(2014年新装初版)、510円(税別)

 先日『富士山測候所物語』を読んだので、本書を再読することにしました。
 明治二十八年(1895)2月16日、富士山に単独で挑んだ野中至は、その日のうちに頂上に立ち夕方には御殿場まで戻る、という驚異的な短時間での冬季富士山初登頂に成功します。しかしそのニュースは世間には注目されませんでした。清の北洋艦隊提督丁汝昌が降伏を申し出た翌々日で、日清戦争の勝利が目前となった日本では、野中が目指す「高層気象観測」などに目をくれる余裕はなかったのです。
 富士山頂に観測所を作るためには、あちこちに話を通す必要があります。まず中央気象台、それと土地の管理をしている浅間神社、荷物の揚げおろしを依頼する地元の強力たち、それに助けにはならないが妨害をされては困るから政府と静岡県庁にも挨拶しておく必要があるでしょう。
 本書は「富士山頂での気象観測の物語」として読むこともできますし「夫婦愛の物語」でもあるでしょう。私は同時に「時代の変革と呼応する個人の変革の物語」としても読みました。女性には参政権も財産管理権もない時代、千代子はステレオタイプの「良妻賢母」の枠からはみ出して、当時としては破天荒な行動をします。ただ、破天荒という点では、夫の至もすごいですよ。個人で国の方針を変えようとしたのですから。これは明治半ばという時代が「日本社会の変質の時期」だったことを示している、と私は感じました。
 あ、それと本書は「極地冒険物語」でもありますね。南極探検とか宇宙開発と同列の物語です。いやあ、何回読んでもいろんな楽しみかたができる良い本です。

 


将棋めし

2021-09-24 08:37:26 | Weblog

 藤井聡太さんの“ブーム"からこっち、将棋めしやタイトル戦の時のおやつが非常に注目されるようになりました。ところで本当に重要なのは、「誰が何を食べたか」だけではなくて「それを食べてどのくらい満足したか」ではありませんか?

【ただいま読書中】『将棋観戦記コレクション』後藤元気 編、筑摩書房(ちくま文庫)、2016年、1600円(税別)

 昭和の時代、私が「現在の将棋」を知るための手段は、新聞の将棋欄と月刊雑誌(「将棋世界」や「近代将棋」)、NHK教育テレビ日曜午前中の「NHK杯トーナメント」だけでした。そこにある「観戦記」や「解説」を“参考書"に棋譜を読み解き「プロが何を考えているか」を憶測していたのです。現在は囲碁・将棋チャンネルやabema-TVなどで簡単に“現在の対局風景"を眺めることができるし、AIが形勢判断を教えてくれます。
 ただ、アナログで育った人間は、時々昔が無性に懐かしくなることがあります。そこで図書館から借りだしてきましたが、これ、借りて読んで返す本、じゃないですね。買って読みながら駒を並べて楽しむ本でした。
 昭和20年代からつい最近まで、様々な棋士の対局譜と観戦記がぎっしりと詰め込まれています。中には、同じ対局を、観戦記者が書いた観戦記と対局者の自局解説との“両面"で楽しめる趣向も含まれています。これが普通にあったら、観戦記者はやりにくいでしょうね。

 


3次元の天気

2021-09-19 10:22:44 | Weblog

 私が通った小学校には、木陰の芝生の上に百葉箱があって、当番が観測データを記録していました。ただこれは「地表の天気」です。中学校の理科の授業で、各地の気象データをもとに日本地図の上に等圧線を書く実習をしましたが、これって「地表(2次元)の天気の連続図」に過ぎず、「大気圏(3次元)の天気」はどうなっているのだろう、と思いましたっけ。だって、「上」がわからなければ正確な天気予報はできないでしょうから。太陽や雲や雷は「上」にあるのです。「明日の天気は」と思うと人は「上」を見るのです。

【ただいま読書中】『富士山測候所物語(気象ブックス012)』志崎大策 著、 成山堂書店、2002年、1600円(税別)

 「富士山の高さ」を最初に測定したのは伊能忠敬で、3982mとしています。海岸を旅しながら多数の地点から三角法で測量したのでしょう。誤差が大きいですが、三角点も置いてないし平面測量も不十分な状態で、よくここまでできた、と私は感心します。次に試みたのはシーボルト。ヨーロッパから気圧計・温度計・湿度計などを持ち込み、日本では積雪期に必要な登山用具や防寒具を集めていましたが、冬の富士山に登頂して気圧から山の高さを計算しようと計画をしていたようです。しかし幕府の監視が厳しく、断念。弟子の二宮敬作が1828年に登頂して「3794.5m」という結果を出しました(おそらく水の沸点を測定してそこから気圧を導き出したと推定されています)。
 富士山頂での最初の気象観測は、明治13年(1880)東大教授メンデンホールと東大の学生たちによって行われました。この時「3778m」と富士山の高さが計算されています。
 正確な天気予報のためには高層観測が必要、とされ、モンブランに気象観測所ができたのに影響されて「富士山頂にも気象観測所を」という声が出ましたが、実行する人がいませんでした。それを実行したのが明治27年(1894)に富士山頂で越冬観測を試みた野中夫妻。まず野中至が単身登頂、中央気象台からは1日6回の観測を依託されていましたが、毎日12回の観測を行いました。……いつ、寝るの? 夫の身を案じた千代子夫人が後を追って登頂、観測の手伝いをすることになります。しかし、二人とも全身浮腫となって息も絶え絶えに(おそらく新鮮な野菜不足からビタミン不足になったのでしょう)。しかし麓に知らせる手立てはなく、山を下りる体力もありません。そこに二人の身を案じた救助隊が。このへんは『扶桑の人』に詳しかった、とかすかに記憶していますが詳しいことは忘れています。読みなおしたくなったなあ。なおこの二人の行動は、高層気象観測に新しいページを開いただけではなくて、厳冬期の富士山登山という点でも画期的なものだそうです。しかしそれに続く動きはありませんでした。個人としてはやりたい人は次々出るのですが、公的なバックアップがなかったのです。
 昭和になってやっと夏期の連続観測が始まります。政府の予算もつき、昭和7年(1932)についに通年観測開始。このころの富士山頂観測を見ていると、後年の南極観測を私は連想します。富士山頂も「極地」なのです。しかし国はすぐに予算を打ち切ります。そこを救ったのが三井、というのは意外でした。学術に政府が冷たいのは今も昔も変わりませんが、財閥はまだ余裕があったんですね。ともかく盆も正月も観測ができるようになりましたが、交代要員にとっては富士登山が「日本で一番過酷で長い“通勤路"」となります。
 昭和12年(1937)支那事変が勃発。翌年陸軍は富士山頂に「航空緯学研究用の施設(正式名称は、軍医学校衛生学研究所富士山分業所)」を開設。しかしこちらはあまり活用はされなかったようです。戦中に気象観測所では「東京の灯火管制の状況」を“観測"する業務も追加されます。気象通信は暗号化、天気予報は廃止、物資は不足、勤務者の召集・戦死、強力(ごうりき)の召集や徴用……そして昭和19年(1944)4月11日、観測所で初めての殉職者。
 陸軍は風船爆弾でアメリカ攻撃をしましたが、その高度がわからないため、陸軍気象部が富士山に登り山頂観測所が三角測量に協力しています。
 観測所からは空襲で都市が燃える状況がよく見えましたが、山頂観測所そのものも空襲を受けました。B-29も艦載機もまずは富士山を目印に日本に接近していましたが、その山頂の小屋で何かやっている、と思ったのでしょう。
 戦後も物資不足などで観測所は苦難の時代でしたが、観測は継続されました。その労苦と頑張りに、頭が下がります。
 昭和22年に労働基準法制定、山頂測候所の“勤務時間"は1箇月から20日間(のちに19日間)に短縮されます。滞在期間が短縮されて楽にはなりましたが、定員が増えたわけではないので、登山(過酷な通勤)回数はかえって増加しました。
 富士山頂からドライアイスやヨウ化銀を撒いての人工降雨実験も行われましたが、結果は「よくわからない」でした。
 そして、富士山レーダー。明治時代には観測小屋を建設するだけでも“大事業"だったのが、気象観測レーダーですから、文字通り隔世の感があります。このへんの話については「プロジェクトX」などが詳しいですね。今だと静止衛星からきれいな写真が得られますが、富士山レーダーが稼働した直後の台風の写真のきれいさは感動ものでしたっけ。

 


実験場

2021-09-19 10:22:44 | Weblog

 アメリカ政府にとってヒロシマ・ナガサキは放射能の人体実験場でしたが、フクシマは放射能による環境汚染の実験場なのでしょうか。そういえばこれまではビキニ環礁とか砂漠とかばかりで、「森林汚染」はチェルノブイリ以外にはあまりありませんでしたね。すると「森林の除染」は「実験(観察)の邪魔」ということに?

【ただいま読書中】『森林の放射線生態学』橋本昌司・小松雅史 著、 三浦覚 執筆協力、丸善出版、2021年、2000円(税別)

 フクシマで放出された核種で特に多いのは上から順に、キセノン133(半減期5日)、ヨウ素131(半減期8日)、セシウム134(半減期2年)、セシウム137(半減期30年)と推定されています。セシウムは沸点が摂氏671度で核燃料が溶融した状態では気体になって放出され、その後温度が下がって融点の28度以下になると微細な粒子となって風に乗って拡散しました。半減期が29年のストロンチウム、88年のプルトニウム238・24100年のプルトニウム239・6540年のプルトニウム240は放出量がごく微量だったため、大きな問題にはなっていません。なっているのは、セシウムです。
 森林の土壌の生態系は、農地などとは違います。土壌の栄養は樹木に吸収され、落ち葉でまた土壌に戻されます。この自己施肥が森林の大きな特徴です。また、農地では基本的に1年がサイクルとなりますが、森林では数十年のサイクルで物事が動きます。
 そこに「降下物」として放射性セシウムがやって来るわけです。最初は枝葉に付着。その後、雨や落葉で林床へ移動していきます。地表に移動したセシウムは、落葉層はさっさと通過してその下の鉱質土壌に移行しました。土壌中の粘土鉱物はセシウムを吸着するので、土壌表面にセシウムは固定される傾向があります(逆に言えば、再放出は難しい)。それでも水や重力によって少しずつ下に向かい、そこで根に吸収されて樹木内部に入ります。また、動物(特にミミズ)や菌類(キノコ)によって攪乱が起きます。
 チェルノブイリでは「セシウムは森林外には流出しにくい」と言われていましたが、日本では急峻な地形や大量の雨の影響で、チェルノブイリよりも森林外に流出しています。
 放射能は生態系に影響を与えているはずですが、はっきりしたことはまだわかっていません(というか、チェルノブイリでさえまだはっきりしたことが言えないそうです)。ただ、期間困難区域などで「人が入らなくなったこと」による生態系への影響(樹木の病虫害の増加、野生動物の個体数の増加、など)は出ています。
 福島に限らず、環境にはすでに半世紀前から放射性セシウムが入っていました。大気圏内での核兵器の実験のせいです。全世界に広く薄くばらまかれ(「グローバルフォールアウト」と呼ばれます)、そこに1986年のチェルノブイリが上塗りをし、そして今回のフクシマ。そこで「環境からセシウムが検出された」と言うだけでは不十分で「フクシマ由来のセシウムが検出された」と言えるかどうかが重要となります。
 対策も難しい。除染は短期間で勝負をつけられますが、莫大なコストがかかりまた莫大な量の放射性廃棄物が出ます。また表土を取り除くことで水害の確率が高くなります。立ち入り制限などのゾーニングなどで管理するやり方は、コストはそこまでかかりませんが、時間が莫大かかります。そして、どちらを採用するにしても、食品の放射能に対する管理は必要です。ただ、どのようにするにしても、きちんと測定してデータを集積することは基礎の基礎でしょう。その点で日本の行政がデータ集めやその公開に消極的な姿勢をもつ傾向にあることが、気になります(コロナ禍でも、広範囲のPCR検査にとことん抵抗しましたよね)。「科学の問題」ではなくて「政治の問題」だと思っているのでしょうが、放射能に行政処分は通用しないんですけどね(もちろん、新型コロナウイルスにも)。

 


家族の絆

2021-09-17 08:29:33 | Weblog

 夫婦別姓だと家族の絆が壊れる、という意見がありますが、現在の日本で離婚する夫婦は100%「同姓」ですよね? 実際に別姓夫婦の何%が離婚するかを見ないと、比較できないのでは?

【ただいま読書中】『史上最高の投手はだれか』佐山和夫 著、 潮出版社、1984年、1000円

 アメリカ大リーグがまだ「白人専用」だった時代、黒人の野球選手はニグロリーグでプレイしていました。そこには今からは信じられないレベルの名選手がごろごろしていました。著者はたまたま目にした新聞の(ニグロリーグから大リーグのインディアンスに移った名投手サチェル・ペイジの)訃報記事に導かれ、日本ではほとんど知られていないニグロリーグの世界に踏み込んでいきます。
 ここで語られるのは、信じ難いビッグプレイやグレイトとしか言いようがない記録の数々です。これは「ニグロリーグのレベルが低かったから、ちょっと優秀な選手だったらすごい成績が残せた」というものではありません。ニグロリーグのスター選手が盛りを過ぎてから大リーグに入って、そこですごい成績を実際に残しているのですから。実際に対戦した、たとえば“火の玉投手"ボブ・フェラーはサチェル・ペイジの速球に対して「自分の速球がチェンジアップに見えるほど速かった」と言っています。しかもその時サチェルはもう40歳を過ぎていたんですよ。あるいは、ニグロリーグで800本以上のホームランを放ったジョシュ・ギブスンは、ヤンキー・スタジアムでの非公式試合で「史上最大の場外ホームラン」を打っています。
 サチェルは、ピッチャーとして超優秀だっただけではなく、ファンサービスにも長けていました。たとえば「接戦が必要」と思えば、わざと四球を出して満塁にして強打者を迎え、鮮やかに三振に切って取る、とか(甚だしい場合には、野手を全員引き上げさせて捕手と二人きりで勝負したり)。いくら何でもそれは無理でしょう、ということをやって、客を喜ばせていたそうです(そのかわり失敗したら、賭に負けた客に追い回されることを覚悟しておく必要がありますが)。
 やがて黒人野球の評判は白人の世界にも届き、ニグロリーグに白人の観客がやって来るようになったそうです。ただ私がここで気になるのは、「観客席」。当時白人と黒人の同席は違法でした。だから大リーグ球場のスタンドには「黒人専用観客席」が設けられていました。しかしニグロリーグは本来選手も観客も球場も“すべて"が黒人専用のはず。そこに白人が押しかけてきて黒人の客に向かって「お前らと同席はしたくない」とか言ったのかな? そういえば黒人音楽好きの白人が黒人歌手のコンサートを聞きに言ったら新聞などで非難された(「白人のくせに黒人音楽のファンになるとは!」とか「白人と黒人の同席は社会の秩序を乱す」とか)、なんてこともありましたね。
 しかしついに「黒人選手が大リーグに」。黒人野球で“帝王"として君臨していたサチェルではなくて“若い"ジャッキー・ロビンソンが選択されますが、おそらく「若さ(将来性)」と「柔軟性(がちがちの白人社会に適応できる可能性)」を買われたのでしょう。ともかく、ニグロリーグでは「小僧」扱いされていた(実際に大した記録も残していない)ロビンソンは、大リーグであっさり新人王を獲得、そのことによって「ニグロリーグの優秀性」を示すことになり、大リーグは黒人選手争奪戦を始めます。1948年にとうとうサチェルのところにもインディアンズからのオファーが。自称39歳(実際にはたぶん42歳)の「新人」の誕生です。面白いのは、これによってサチェルは名誉を得たけれど、給料は減ったこと。ニグロリーグのスターは稼いでいたんですね。ただし彼を迎えたチームの監督は、差別主義者でした。というか、この時代の白人で差別主義でない人間は探すのが難しい希少価値を持っていたのではありますが。監督はレギュラーシーズンは普通にサチェルを使ってますが、ワールドシリーズに進出すると「大リーグ最大の晴れ舞台で、黒人に栄誉を与えてなるものか」とサチェルを干したのです。翌年体調を崩し、結局インディアンズはサチェルを首に。サチェルはそれでも、ニグロリーグのどの球団とも契約せずに「独立選手」として一試合いくらでの雇われで野球を続けます。それは大リーグから再オファーが来たときに備えて、と著者は推定しています。そして1951年にセントルイス・ブラウンズからオファーが来ます。しかしさすがに年齢には勝てず、サチェルは3年間で大した成績を残せず、チームには売却話が。
 こうして短期間でやめてしまったために、問題が二つ生じました。一つは「年金のためには大リーグ在籍期間が不足」。もう一つは「野球殿堂入りのためには大リーグ在籍期間が不足」。それに対して「全盛期に彼を大リーグに入れなかったのは、誰だ? 在籍期間が足りないのは彼のせいではない」と噛みつくマスコミ人が登場。真っ当な判断ができるマスコミ人も中にいるようです。また、サチェルのすごさを身をもって知っている野球選手(たとえばボブ・フェラーやテッド・ウィリアムスなど)も堂々と「サチェルが冷遇されるのはひどい」と語り始めます。
 アメリカという国は、間違いを犯すときには特大の間違いを犯しますが、それを正すときにはきちんと間違いを認めてから正します。サチェルの野球殿堂入りの時にも、そうなりました。日本だったら、きっとうやむやにするか正すにしもてこっそり正すのにね。
 戦争で衰退しかけた大リーグは、黒人を受け入れることで興隆しました。しかしスター選手を引き抜かれたニグロリーグは衰退。なんとも皮肉な話です。そして本書の巻末で私は「差別はとてももったいないことを社会に対してしている」と感じました。なにがもったいないかは、本書をどうぞ。

 


アフガニスタンからの避難者

2021-09-14 07:28:58 | Weblog

 日本政府のふだんからの主張通り「自助」と「共助」がメインなんですね。

【ただいま読書中】『空気と人類 ──いかに〈気体〉を発見し、手なずけてきたか』サム・キーン 著、 寒川均 訳、 白楊社、2020年、2800円(税別)

 地球は気体でできた、と話が始まります。もちろん星間ガスが集まって星ができた、ということです。地球ができて数億年、我々にはひどく暮らしにくい環境でした。「大気」はありましたが、主に火山が噴き出したガスで、呼吸は無理です。しかし、火山のガスの中に含まれていた窒素は安定していて他のガスに比べると分解されにくく少しずつ大気の中に蓄積していきます。そして、その次に登場するのが、酸素です。
 こう書くと、地球の歴史を悠々と語る本のような印象になってしまいますが、もちろん全然違います。登場するのは、頑固さのために火山爆発犠牲になった人、第一次世界大戦での毒ガス製造、銀行強盗……非常に生き生きとしたエピソードの連続で、飽きることがありません。
 真空や水蒸気からは、蒸気機関の話が生み出され、さらに爆発物に展開されます。爆発とは極めて短時間に固体または液体からエネルギーが放出され多くの気体分子が生み出される現象ですが、著者はこの「気体が生み出される」に注目しています。そして話は、火薬・ニトログリセリン・ダイナマイト、と爆発規模が大きくなり、話の面白さも拡大していきます。
 「シーザー(あるいは歴史上著明な人)の人生最後の息」に含まれている空気の分子を現在私たちが吸っている確率が非常に高い、という計算が示されますが、この計算を使えば「かつて地上(あるいは空中)で行われた実戦や実験で爆発した核爆弾によって生じた放射性原子」を吸っている確率もまた簡単に計算できます。というか、「シーザーの最後の一息」よりもこちらの方がはるかに大量です。もちろん「自然の放射線(バナナなどに含まれているカリウム40、大気に含まれているアルゴンやラドン、宇宙からの自然放射線など)もありますが、大気中の核実験によって新しく生み出された炭素14などは、現在でもせっせと我々の細胞の中でDNAの破壊作業を行っています。ただし「バナナの放射能」で倒れるためには2000万本のバナナを食べる必要があるのですが、これだけ一気に食べたら放射能ではなくて食べ過ぎで死ぬでしょうね。
 (あの)アインシュタインと(核分裂の連鎖反応の原理を発見した)レオ・シラードが共同で「冷蔵庫」を開発して特許も取っていた、というのは意外なトリビアでした。
 あ、もちろん「体内の空気」つまりおならの話も登場します。かと思うと「異星の空気」というスケールの大きな話も。著者は楽しんでいますねえ。いや、私も楽しめたから良いのですが。

 


「フランス」料理

2021-09-13 07:05:45 | Weblog

 バブルの頃「フランス料理」と言えば「三つ星レストランのフルコース」とほぼ同義で日本では言葉が使われていました。だけど「日本料理」が「一流料亭の会席料理」だけを意味するわけではないのと同様、「フルコース以外のフランス料理」もあるのではないか、と私は思っていました。たとえばフランスの郷土料理とか家庭料理とか。日本でも同じですよね。

【ただいま読書中】『フランス郷土料理』アンドレ・パッション 著、 河出書房新社、2020年、8800円(税別)

 本書では行政区分に従ってフランスを13の「地方」に分けています。しかしその一つ一つがベルギーやスイスとほぼ同じ大きさなのですから、簡単にまとめることは難しいのではないか、と私はまず地図を見ながら思います。そしてページをめくると、見たこともない料理がレシピ付きで次々に登場。そのどれも美味しそう。私は「フランス料理」について詳しくありませんが、それでも「フランスの雰囲気」が立ち上っているような気がします。これらを食べ歩くのは、楽しい旅になるでしょうね。というか、その前に私は日本の郷土料理を食べ歩かなくちゃ。食べたことがないものがまだまだいっぱい残っていますから。
 コロナ禍が早く収束してくれないかなあ。

 


命の値段

2021-09-11 07:21:39 | Weblog

 「視覚障害者の逸失利益「平均賃金の8割が相当」、未成年時の事故で働けなくなった女性の控訴審判決 広島高裁」(中国新聞)
 障害者の命の価値は、健常者の7割(山口地裁)あるいは8割(広島高裁)、だそうです。すると交通事故で障害者を殺したら「ラッキー、健常者より安くつく」と叫ぶ人が出てきそうですね。さらにこの裁判官は「もっと差別をして障害者の賃金を目減りさせたら、障害者への賠償金はもっと減らすことができる」と主張していることにもなります。でもそれって憲法違反では? というか、人の価値って、障害獲得賃金(の予想)だけで決まるものなんです?

【ただいま読書中】『ナチスに抗った障害者 ──盲人オットー・ヴァイトのユダヤ人救援』岡典子 著、明石書店、2020年、2500円(税別)

 ナチスドイツは「優秀なアーリア人の血への汚染」を防ぐために「劣等民族の根絶」を目指しました。その代表がユダヤ人ですが、ドイツ人であっても「血統」に関係する障害者は収容所送りの対象でした。そういった社会の中でも、反ナチスの活動(多いのがユダヤ人の保護)をする人がいました。その中で“有名”なのは「シンドラーのリスト」のシンドラーさんでしょうが、本書で扱われるのは自分自身がナチスに迫害されるべき立場にあった障害者であるオットー・ヴァイトです。彼は、20世紀初めの若き日に労働運動に身を投じていましたが、「資本家に搾取される労働者」と「ナチスの圧政に苦しめられるユダヤ人」を重ねてみていたのかもしれない、と著者は推測しています。
 ナチス支配下のドイツでは、ユダヤ人だけではなくて、ユダヤ人を支援する(どころか、同情を示す)ドイツ人も処罰の対象でした。ゲシュタポが目を光らせていましたが、もっと怖かったのは密告制度です。誰が自分を密告するか、わからないのです。
 42歳で失明したヴァイトは、第一次世界大戦の戦傷によると申し立ててそれが認められ、職業訓練を受けて箒とブラシ製作の職人として自立でき、さらに盲人作業所の経営者になります。雇用された失明者には、ドイツ人もユダヤ人もいました。ナチス支配下の社会でユダヤ人は「馘首の対象」ではあっても「雇用の対象」ではありません。それなのにヴァイトは「戦争遂行に必要な企業」の認可を(袖の下を使うことで)入手、それを“錦の御旗"として、弱い立場のユダヤ人(の中でもさらに弱い立場の障害者)を何人も雇い入れたのです。これは彼が「傷痍軍人(=国家の英雄である障害者)」だったからできたことでしょうが、そのためには危ない橋も渡らなければなりませんでした。相当な覚悟が必要な行動です。
 ただし彼は孤立はしていませんでした。彼の作業所がある第16管区の警察署は、警察が積極的にユダヤ人弾圧に動いていた当時としては例外的にユダヤ人に対して同情的、というか、強制連行などの情報を流してくれる点で“反ナチ"的だったのです。
 1941年3月にユダヤ人に対する強制労働は「義務」になりました。本人の希望や心身の状態には関係なく労働が割り当てられます。ヴァイトの作業所では「労働に耐えられない」人たちを次々に「強制労働」として雇いました。小さな工場には不似合いなくらいの人数を。
 ヴァイトの作業所は、最初は「きつい肉体労働」からユダヤ人を少しでも救い出す場所でした。やがて「労働能力なし」として強制収容所に送られるユダヤ人障害者を「有用な労働力」と偽って保護する場所となります。「ユダヤ人の東方移送(=強制収容所送り)」が始まるとゲシュタポと交渉(おそらく賄賂つき)して駆り集められた場所から「従業員」をヴァイトは奪還します。そして戦争が激化すると、多くの協力者のネットワークを生かして、ドイツ社会の中に「ユダヤ人ではなくてドイツ人です」と偽って潜伏生活を行えるための拠点ともなっていきます(そのための身分証明の書類に、公印を押してくれる警察官もいました)。正確な数はわかりませんが、当時のドイツで潜伏生活に入ったユダヤ人は1万人とも1万5千人とも言われています(ベルリンにはおそらく5000人〜7000人)。そして、それを支援するドイツ人は、ユダヤ人ひとりにつき7人〜10人(あるいはそれ以上)と言われています。ゲシュタポだけではなくて、近所の人の密告も警戒しながらユダヤ人を匿うために、どのくらいの勇気が必要だったことでしょう(もしばれたら、匿った人も厳罰に処せられます)。
 潜伏する人も大変です。人がいないはずの建物に人の気配がしてはいけません。電気や水の使用は最小限、生活音は立てない、買い物や洗濯は誰かに頼らなければなりません。ヴァイトは、信頼できるドイツ人一家に任せるだけではなくて、自分でも(たとえば作業所の倉庫や地下室に)ユダヤ人を隠します。「ユダヤ人に好意的」ということでゲシュタポに目をつけられていたヴァイトの作業所は、たびたび家宅捜索を受けましたが、ヴァイトはうまく隠し通しました。戦後のヴァイトの証言では、ヴァイトと仲間が匿ったユダヤ人は総計56人になったそうです。たとえばそれだけの人数分の食料を闇市場で手に入れるのは、大変だったでしょう。病気になったり、あるいは死亡したらその遺体をどうするか……なんだか考えるだけで頭が痛くなりそうです。
 ウィーンは“きれい"になったのにベルリンではユダヤ人の気配が消えないことに苛立ったナチスは、強引なローラー作戦を繰り返して潜伏していたユダヤ人を捕まえ続けます。ヴァイトの作業所も空っぽになってしまいました。しかしヴァイトはあきらめません。こんどは強制収容所に「小包」を送ります。命の救援物資です。さらに強制収容所からの脱走まで画策します(中と連絡を取り、収容所のそばにアパートを借りて逃げ込めるように準備をしたりしています)。
 本書で印象的なのは「支援する人」と「支援される人」とが「上下関係」ではないことです。これはたとえばパラリンピックや、身近な「支援が必要な人」についても同じことが言えるでしょう。「可哀想」とか「上から目線」で言うのではなくて、「同じ人間」としてお互いが振る舞うことができるかどうか。
 ヴァイトは「強い人」ではありません。社会的には下層の出身で身体障害があり、社会的には弱者として扱われる人です。しかし、権力に阿って居丈高に振る舞う人と比較したら、心の芯の強さは際立っています。何しろ、戦前も戦中も戦後も、その基本態度は変化しなかったのですから。

 


天然自然

2021-09-10 07:44:06 | Weblog

 「自然の○○」とか「天然の××」とか宣伝している商品のほとんどは、プラスチック容器に入っているかプラスチック包装をされています。

【ただいま読書中】『日本珍景踏切』伊藤博康 著、創元社、2020年、1600円(税別)

 「踏切」は普通「鉄道」と「道」がクロスする地点に存在します。ところが日本には様々なユニークな踏切があるのです。
 例えば「遮断機の向こう側を通るもの」。普通は電車や機関車などですが(昔は汽車もありました)、本書で通過するものとして写真で紹介されるのは「フル規格の新幹線」「地下鉄」「ケーブルカー」「舟」「モノレール」「バス」「トレーラー」「人間」……いやもう、写真を見るだけで笑っちゃいます、というか、よくもまあこれだけ見つけてきたものだと著者に感心します。
 「踏切を渡ったところにあるもの」として「駅」「参道の石段」「古刹」などもなかなかユニークな風景です。そういえば本書にはありませんが、「民家の玄関」というのなら私はテレビで見たことがあります。もともとは民家から国道だったか県道に出る私道があったのに戦前に私道を分断するように後から線路が敷設されてしまい、そこに踏切が設置された、ということです。そこを渡るのはその家の人だけですから、遮断機もない踏切ですけど、踏切は踏切なんですよね。
 でもまあ、本書で私のツボを一番ついてくれたのは、表紙カバーにある「踏切の向こうには、大仏」でした。これはもう見てください。そして笑ってください。