【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ポケットにレジ袋

2011-03-31 19:01:05 | Weblog

 コンビニでちょっと買い物をして、たまたまポケットにレジ袋があったからそのしわくちゃの塊を出して「これに入れて下さい」と言ったら、店員にえらい丁寧にお礼を言われてしまい、かえって面映ゆい思いをしてしまいました。でも、お礼を言われてもちろん悪い気はしません。用が済んだレジ袋はまた私のズボンのポケットで次の出番を待っています。

【ただいま読書中】『ノーチラス号の帰還 ──ノーチラス号の冒険(12)』ヴォルフガンク・ホールバイン 著、 平井吉夫 訳、 創元社、2009年、1400円(税別)

 「この厚さは何だ」と私は呟きます。このシリーズでは異例の400ページ以上、ほとんど2冊分の分量なのですから。これなら13巻のシリーズにしても良かったのではないか、とさえ思いますが、読んでみてわかりました。これだけのページが本書には必要だったのです。それでも謎解きは駆け足で、よくわからなかい読者がいたかもしれません。
 前巻で、ノーチラス号の姉妹艦ヴォータン号が登場しました。そして、それを指揮するのはトラウトマンの息子、権力欲に取り付かれたトマスです。ただ、ここにも大きな謎があります。トラウトマンは2週間前まで自分に息子がいたことを忘れていたのです。(大体このシリーズでは「謎」はすべて伏線なのですが、さてさて、これはどう展開されるのでしょう?)
 さらに謎が。トラウトマンにはトマスの行動が逐一わかっています。トマスがドイツに身売りするためにイギリス軍艦などを沈めていること、そして次にはどこでどの船を沈めるのか、までも。
 さらにあり得ないことが続きます。トラウトマンが重症となり、医者を捜して上陸した島では、医者の方からノーチラス号にやって来て“未来”を予測してくれるのです。さらにはトラウトマンやシンまで(メモ用紙を見ながら)未来予知をやってのけます。一体何が起きたんだ。マイクたちは混乱します。
 そして、驚愕の人物が、登場。そしてすぐに退場。
 「こんなの、あり?」と私。
 マイクたちは信頼できる舵手で父親がわりとも言えるトラウトマンを失い、さらにヴォータン号と戦うことも禁じられます。理由の説明は一切ないままに。怒りくるうマイクたちにアスタロスは謎めいたことばを伝えます。運命は自分の仕事に手出しをされるのを好まない、と。
 そしてノーチラス号は、バミューダトライアングルに引き寄せられます。そして、傷だらけのノーチラス号にさらに傷が増えます。二つ知らせがあります。まずは悪い知らせ。機関が破壊されました。もう一つはもっと悪い知らせ。ノーチラス号は急速に沈没中で、それを止める手段はありません。死ぬような思いをしながらもなんとか生きたまま深海の海底に到着した一同が見たものは…… いやもう、ジェットコースターのようなストーリー展開です。ここまででまだ本の半分に届いていません。このあともこの調子で話が進むとなると、こちらの身が保たないかも、と危惧していると、話が急に大きくなります。これまでもノーチラス号の乗員はいろんな人びとを救ってきました。しかし今回の相手は、アトランティスを滅ぼした元凶なのです。そして、これをなんとかしないと、世界が滅亡するかもしれないのです。
 著者は本書の途中から、トマス(トラウトマンの息子)を「トラウトマン」と呼び始めます。これまた伏線ですし、これが何を意味するかはすぐにわかります。では、マイクは? 実は「マイクの存在そのもの」もまた伏線なのですが……これについてはネタバレはしません。読んでください。そして、少年を主人公とした冒険小説の可能性の大きさに、驚いてください。



校庭

2011-03-30 19:04:59 | Weblog

 初めて上京したとき、お上りさんとしてさまざまな驚きを体験しましたが、その一つが「小学校の校庭が舗装されていること」でした。衛生面からの工事だったそうですが、転んだら痛そうだと思いましたっけ。
 今は芝生が流行っているんですよね。こちらは維持管理が大変でしょうねえ。

【ただいま読書中】『語り継ぐ舗装技術』多田宏行 編著、 鹿島出版会、2011年、2800円(税別)

 グラバー園には「日本最古のアスファルト道路」と表示された舗装道路があります。ただ著者によると、この道路はコールタールを結合材として用いた玉砂利の道で、厳密にはアスファルト道路ではないそうです(アスファルトは、天然か石油精製の副産物。コールタールは石炭乾留の副産物)。
 岩倉使節団の一員、東京府知事の由利公正は英米で実見したアスファルト道路に興味を持ち、上野公園で秋田産の天然アスファルトによる日本初のアスファルト舗装を試みます。ところが作業員が未熟でしかも突貫工事、加熱中のアスファルトが燃え上がり「危険だ」との声で、あえなくその試みは頓挫してしまいました。日本での近代アスファルト舗装の第一号は、神田川の昌平橋でした。1878年(明治11年)のことです。由利は前年の失敗にめげず、ついに実現させたのです。
 日本書紀に「燃ゆる水」「燃ゆる土」とありますが、前者は石油、後者は天然アスファルトでしょう。秋田豊川がその天然アスファルトの産地として昔から知られていました。明治にアスファルトの需要が増し、石油アスファルトの生産量が伸びます。自動車の普及に伴って、道路改良を求める声が大きくなったのです。
 大正時代、すでにハイウエイ建設に着手していたアメリカから訪日した使節団は「東京の道は田圃の畦道」ときつい評価をします。その衝撃で、大正7年「道路法」が議会に提出され、内務省土木課に道路課が設立されます。国策として日本の道路整備をすることになったのです。その動きが本格的になったのは、関東大震災以後のことでした。ただ、舗装のレベルは高くありませんでした。最優先で整備された軍用道路でも、名古屋の製作所から各務原飛行場まで零戦の機体をトラックで運ぶと機体が傷だらけになるため、わざわざ遅い牛車で運んだ、というレベルでした。
 終戦直後、舗装されている国道は17.1%(全長9500km)、市町村道に至っては0.7%(全長774500km)でした。しかも戦争中は放置されていたので、使い物になる状態ではありません。占領軍は基地の周辺の道路を使えるようにしろ、と強く日本政府に要求します。
 以後、道路の舗装はどんどん進みますが、自動車保有数の伸びはそれを上回っていました。国道一号の全線舗装が完了したのは1962年のことですが、日本ではすでに「マイカーブーム」が起きていたのです。
 公害問題も道路舗装に影響を与えました。リサイクル・騒音防止・CO2抑制・路面温度などを考慮した「環境舗装」です。さらに著者は「維持(メンテナンス)」の重要性を力説します。今日の支出を惜しむと、明日ははるかに大きな支出になる」と。だけど日本ではその意見は、タテマエとしては賛同されますが、現実には無視されてきたようです(著者は悔しそうな口ぶりです)。日本では本当の意味での「コストパフォーマンス」は重視されないのが“伝統”ですから、仕方ないのかもしれませんが、結局その“損”をかぶるのは社会全体なんですよねえ。さらには「上請け」(技術力に劣る業者が公共事業を落札し、それをピンハネして技術力がある業者に丸投げする)は、日本の将来に悪影響がある、という重大な指摘もあります(税金が非効率的な使われ方をするだけではなくて、現場の技術力が衰退する怖れがあるのですから)。
 温度を上げないために、赤外線を反射する塗料を路面に塗ったら、コーティング剤としても優秀で、表面温度が下がると同時にわだち掘れも抑制できた、という美味い話も登場します。
 乳剤とか石やセメント、工作機械とか、専門的・技術的な話もけっこう面白いのですが、やはり私が興味を引かれるのは歴史や現場の雰囲気の話です。ずっと現場を見てきた人でないと書けないだろうという話が次から次へと披露されます。ふだん何気なく見ている(あるいは無視している)舗装道路ですが、その奥には深い世界がしまい込まれているようです。




毀誉

2011-03-29 18:57:56 | Weblog

 菅さんが原発視察をしたのが、対策の初動の邪魔になったのではないか、と国会で責められていました。わかったつもりのエライ人が現場の邪魔をする、というわかりやすい構図です。たしかに現場の人間の立場からは「余計な人間は来るな」と言いたいでしょう(私も原発ではありませんが、“現場の人間”ですから、そのへんはよく感じます)。ただ、国会で菅さんを責めている人は、では菅さんが公邸にこもって原発に近づきもしなかったら褒めたんですかね?

【ただいま読書中】『次郎物語 第一部』下村湖人 著、 新潮文庫、1987年、560円

 生まれてすぐに里子に出された次郎は、6歳で無理矢理戻された実家では“居場所”がありません。居場所がない子供は、「良い子」になって居場所を確保する場合と、頑なに自分を守ろうとする場合とが考えられます。次郎は後者でした。大人(特に母親)は態度を硬化させます。自分が里子に出した、という行為の“責任”を次郎に問われているような気がしたのでしょう。次郎をめぐる家族の人間関係は不健康になっていきます。ただひとつの救いは父親の存在でした。彼は、タテマエからかもしれませんが、次郎を丸ごと受入れるように言います。そう言いつつ、潔癖症の気があるため、汚れた次郎の身体がくっつくと「汚い」なんて平気で口走るのですが。
 母親から見たら、次郎は、人の顔色をうかがい無口で反抗的で意固地、食い意地だけは張っているという、まったく「可愛くない子」です。外見も可愛くないのでますます次郎は損をします。しかし、優しさに弱いという大きな弱点に気づく人はあまりいません。
 次郎は、里子として育ててくれたお浜とその家(学校の校番室)に愛着を感じていますが、お浜は「実家に帰した以上、ここに入り浸ってはならない」とスジを通そうとします。次郎はもう一つ「家」を見つけます。母親の実家です。そこは暖かく次郎を迎え入れてくれます。それがまた母親の気に入りません。しかし、次郎は“自分の家”では、兄と弟だけがかわいがられて自分だけ露骨に疎外されているから「外」に「家」を見つけるしかないのです。(しかもそのときに大人たちが操る屁理屈を、次郎は見透かしています)
 学校に入り、次郎にはもう一つの「世界」が開けます。子供たちの世界です。そこで次郎は“自分の場所”を見つけます。
 本書は「告発状」です。告発されるのは、人間にたとえば「大人」「子供」とかいうレッテルを貼ってそのレッテルだけを眺めるだけですべてがわかったつもりになって安心している人すべて。子供時代に本書を読んで感じた胸を締めつけるような緊張感を久しぶりに思い出しました。
 物語は暗くなっていきます。「愛されない」ことが次郎の人生の基調だったとしたら、そこに「死」が加わるのです。さらに家の没落。次郎は、土地も家も売って町に出る一家とは別れて、居心地の良い母親の実家で暮らすことを選択します。肺病になった母親が町から実家に戻ってきたのを機会に、次郎は“いじらしい子”になります。ただし彼の本質が変わったわけではありません。これまでの「人を苛立たせることで自分の存在を示す」戦術を「人を感心させることで……」に変更しただけですから。次郎の心には、対人関係に関して常に「空虚な穴」がこっぽりと開いているのです。そして母の死で第一部は終わります。
 あまりにリアルで暗い物語です。近代文学にプロレタリア文学が占める位置を、本書は児童物語の分野で占めているのかもしれません。



日本は大丈夫

2011-03-28 19:01:27 | Weblog

 外国でひどい事件が起きて「あれは外国だから。日本は大丈夫」と言われていたらしばらく後に同じようなことが日本でも、ということが何回もありました。とりあえず思い出せるのは……
・1989年の地震でサンフランシスコの2階建て高速道路が倒壊しました。で、そのとき「日本の高速道路は落ちないようにきちんと作ってあるから大丈夫」と専門家がテレビで言っていましたが、阪神淡路の時に日本の高速道路や新幹線高架橋で何が起きたか、私は覚えています。
・バブルの頃だったかな、アメリカが不景気でレイオフが頻発していたとき「日本は終身雇用制度だから優れている」と新聞などに書かれていましたっけ。
・スマトラの地震と津波の時に、「日本では津波警報がすぐ出されるから」と言われましたっけ。だから「自分の国の地震の時に日本から津波警報を出してくれないか」という要望を出した国もありました。
・チェルノブイリのときに、「日本の原発は黒鉛炉ではないし、安全基準がソ連よりも厳しいから安全」と専門家が言っていましたが……
 金融でも何かあったと思うのですが、忘れました。ともあれ、厳しい基準とか制度があるにしても、それがいざというとき機能するかどうかを確かめるまでは、あまり手放しで安心はしない方が良さそうです。

【ただいま読書中】『ソラリスの陽のもとに』スタニスラフ・レム 著、 飯田規和 訳、 早川書房、1968年

 赤と青の二つの太陽のまわりを回る惑星ソラリス。不安定であるべきその軌道が異常なくらい安定していることが判明して以来、この惑星は人類の注目を浴びていました。表面はほとんど海ですが、海水には有機物がたっぷり含まれています。この「ゼリー状のシロップ」が惑星の軌道に影響を与えているのではないか、それどころが知性を持っているのではないか、という仮説(「生きている海」)が地球を沸かせます。
 惑星観測のために設置されたステーションに異変が起き、その謎を解くために心理学者のケルビンが地球から派遣されます。隊員の一人はすでに死亡。残された隊員は謎めいた言動をします。そしてケルビンは、ステーションに絶対に存在するはずがないものを発見します。「お客」と呼ばれるそれは……
 有名な古典の名作ですから、ストーリーについては述べる必要はないでしょう。ファースト・コンタクト、「異質」、人間性とは、「目の前の現実」はどのくらい確かなものか、記憶の確かさ(不確かさ)と現実感、取り返しのつかない過去をやり直せたらという願い……魅力的なテーマがたっぷり含まれ、後のSF作品にも大きな影響を与えています。ただ、再読していろいろなことを忘れているのに驚きました。たとえばソラリスが「二重星の回りを回っている」という重要な設定についても私はきれいに忘れていたのです。
 で、前回と同様、私は読後“腑抜け”になっています。「海」は沈黙を守り、謎は全然解かれず、そもそも何が謎だったのかさえわからない状態で読者は放り出されてしまうのですから。
 やっぱり“オリジナル”は、強いわ。



講義オンデマンド

2011-03-27 18:56:58 | Weblog

 「セス・プリーバッチ 「世界を覆うゲームレイヤを作る」」(TED)で、「大学はゲームとして扱える」という話題が登場します。たしかに単位制を徹底すれば「私はレベル3」「私はもう中ボスを倒したもんね」なんてこともできるわけ。さらに単位制を徹底するためには、講義もばらしてしまって、必要な人は必要なときにその講義を受けることができるようにすると良いでしょう。つまり、ビデオオンデマンドではなくて講義オンデマンド。できたら「個人でビデオ」ではなくて「グループで生講義」にしたいから、週単位くらいでの予約講義にしましょうか。ただ、「生」でなければならない講義はそれほど多くはないと私は予想します。教師は重要な講義に集中できるし、学生・教師双方にメリットが多いかもしれません。

【ただいま読書中】『パリは燃えているか(下)』ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ 著、 志摩隆 訳、 早川書房、1966年、420円

 上巻の感想で、まるで分子レベルのジグソーパズルが組み立てられていってそこにひとつの模様が出現する、という感想を書きましたが、すべての“原子”や“分子”がミクロで同等、ではありません。やはり決定的なときに決定的な行動をする人、というものが存在します。個人が歴史を決定することがあるのです。パリから“それ”をしようと次々人びとがアメリカ軍を目指します。ただ、アメリカ軍に近づくだけではダメです。その指揮系統の大元に影響力を行使しなければならないのです。そういった人々の中に、フランス人の政治家、フランス人のレジスタンス、スエーデン総領事(ただし偽物)、さらには英国情報部員やドイツ軍人(ただしスパイ)まで混じっていました。その中で、一番決定的な働きをしたのは、とても意外な人物でした。
 ともかくアメリカ軍の方針は変更されます。「パリへ!」。しかし、一路パリを目指しているのは、解放軍だけではありませんでした。ドイツの援軍、第26戦車師団の精鋭もまたパリを目指していたのです。
 第パリ司令官は、総統からの直接命令に抗するべくもなく、パリの重要建物の地下と橋に大量の爆薬を仕掛けさせます。命令どおりパリを「廃墟の原野」にするために。そして、蜂起したパリの人びとを飢餓が襲いつつありました。
 「パリ解放!」のニュースが世界中に流れます。誤報でした。軍に同行するアナウンサーが功を焦って「予定稿」として送った録音テープが、軍の検閲をすり抜けて放送局に届いてしまったのです。この誤報がまた“現実”に複雑な影響を与えます。ヒトラーは怒りくるい、パリの人びとは(ドイツ側も連合国側も)焦燥します。そして連合国軍はスピードアップします。スピード、それが最優先事項になったのです。
 パリ郊外で電話線は生きていました。パリ市内に電話したフランス軍の兵士は、別れて久しい懐かしい人の声を聞きます。あるいは「後生だから、大急ぎでやって来てくれ! もう弾薬がつきてしまった。このままではわれわれは全滅だ!」。
 フランス第2装甲師団は急ぎます。パリを救うためだけではなくて、アメリカ第4師団の後塵を拝するわけにはいかないのですから。そのために、戦線ではさまざまな無茶がまかり通ります。そしてついに、フランスの分遣隊(ジープと戦車数台)が間道をすり抜けてパリ市庁前に到達。「フランス人によるパリ解放」の印となります。パリは(ドイツ人と対独協力者以外は)歓喜に包まれます。しかしそこから「最後の戦い」が始まるのでした。
 ここに描かれるパリの“狂乱”は印象的です。戦車やハーフトラックに市民が群がってその進行を止めるのは序の口。すぐそばに武装したドイツ軍が立てこもっているのもお構いなしに軍隊と一緒に市民のパレード行進。機銃掃射の下でも、数年ぶりの再会で駆け寄る親子。この奇跡のような再会がパリの各所で行なわれたのです。そして、残念ながら再会できなかった人たちも。さまざまドラマが人の数だけ展開されます。しかし、連合国軍がドイツ軍の拠点に近づくにつれ、歓声を銃声が圧倒し始めます。最後の戦闘。そしてヒトラーからも最後の指示「パリを破壊せよ」。
 喜びと悲しみ、再会と別れ、生と死、死と生、栄光と屈辱、屈辱と栄光、世界の終末と新しい時代の始まり……パリはカオスとなります。戦闘が行なわれている街路のすぐ傍で祝宴が開かれるのです。そして、屈辱のパレード、または、ガントレット(二列に並んだ兵士の間を通り抜ける間に、両側からこん棒や鞭で殴られ続ける刑罰)。
 パリに入ったドゴールは「国家」の再建を始めます。最大の障害物は、共産党。レジスタンス。つまり“同じフランス人”でした。ヒトラーが呟いたのとは別の意味で、パリは“燃え”ていたのです。
 名著です。文句なしにオススメ。


微量放射線

2011-03-26 18:07:23 | Weblog

 ラドン温泉には、これからは入りにくいですねえ。

【ただいま読書中】『氷の下の街 ──ノーチラス号の冒険(11)』ヴォルフガンク・ホールバイン 著、 平井吉夫 訳、 創元社、2009年、1000円(税別)

 ドイツ軍艦から無警告で機雷攻撃を受け、逃げている最中にノーチラス号はグリーンランドからの緊急救難信号を受信します。トラウトマンは妙に熱心に救援に行くことを主張します。全速力でも2日かかる距離なのに。
 トラウトマンとマイクはグリーンランドのサズベルゲンに潜入します。そこで出会ったのは、ドイツ商務官フォム・ドルフ(自称)。街の雰囲気は変です。まるで何かに怯えているような。
 イヌイットの街はドイツ軍に占領されている、これがトラウトマンとマイクの出した結論でした。そこへノーチラス号を攻撃したドイツ軍艦が到着。二人は必死の思いで氷原へと逃げ出します。目指すは「精霊の山」。しかしそこに近づくにつれ、なにか不思議な力が作用し始めます。ノーチラス号の機能が妨害されるのです。
 イヌイットに対する“文明人”の差別感。その“文明人”の野蛮ぶり。グリーンランドの政治的に微妙な立ち位置。そして第一次世界大戦の行方。
 ドイツ兵の銃撃でトラウトマンは負傷し、マイクと同行したイヌイットのカヌアトは、氷下に隠された不思議な街を発見します。想像を絶するくらい古い、アトランティスの遺物を。しかしカヌアトは驚きません。古い民なら誰でもその伝説は知っている、と。
 ドイツ軍に捕えられたマイクは、牢獄で意外な人物に出会います。トラウトマンの謎めいた行動の原因となった人物に。
 いつものように、いくつもの謎が絡み合い、マイクに決断を迫ります。彼の信念を運命によって試すかのように。
 そうそう、本書に登場する魅力的なイヌイットのカヌアトは「あんたらはそれを科学と呼び、われわれは魔法と呼ぶ。どこがちがうのかね?」なんて言います。第一次世界大戦中にクラークを読んでいるイヌイット? 


計画停電と節電

2011-03-25 19:05:18 | Weblog

 「節電」が“錦の御旗”になった昨今、「コンビニは深夜は閉めるべき」派の人にはその御旗を振りかざすことで自己の主張を強力に推し進めるチャンスではありません? それともコンビニを「7→11」にするのは、実は節電にはあまり影響なし?
 私としてはとりあえず「日本中の自動ドアを(車椅子用の所を残して)全部手動に戻してみる」というのはどうか、と提案してみます。

【ただいま読書中】『パリは燃えているか(上)』ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ 著、 志摩隆 訳、 早川書房、1966年、420円

 パリ駐屯ドイツ軍兵士およびパリ解放に参加した兵士それぞれ数百名ずつにインタビューし、さらに膨大な文書ファイルを調査して作られた労作です。
 “その年”の8月、パリの市民は例年のバカンスには行かず市内にとどまっていました。ワルシャワは炎上します。ソ連軍が止まったためドイツ駐留軍は早まった市民の蜂起を徹底的に鎮圧し、20万人を殺しました。しかし、パリは(まだ)無事でした。しかし“運命”はパリに近づいていました。そして、パリ市民は禁じられているBBC放送を聞くことでその脅威を感じていました。
 アイゼンハワーは「パリ解放を後回しにする」決定をします。ドイツ軍はパリを死守するだろうという予想からスターリングラードのような泥沼の市街戦になることが予想され、また、パリを解放することで生じる「大量の市民を食わせる義務」を避けたかったのです。同じ物資を使えば北フランスのドイツ軍を撃破しパリのドイツ軍を袋の鼠にできるのです。ただ、パリの市民が早まった蜂起をしては困ります。パリにはもうしばらく“我慢”をしてもらおう、それがアメリカ軍の考えです。
 ドゴールは別の考えを持っていました。彼とルーズベルトとの関係は非常に悪く、ドゴールが「フランス政府」を樹立するための“敵”は、ドイツ軍・フランス共産党・アメリカ、だったのです。だからこそ一刻も早い「パリ入城」が重要でした。しかし、早すぎる蜂起は共産党を利することになります。結局結論はアメリカ軍と同じ、自分が入城するまで“我慢”をしろ。それがパリへのドゴールの指令でした。
 ヒトラーにとってもパリは特別な意味を持っていました。第一次世界大戦、伍長だったヒトラーは西部戦線で「パリへ!」と声を上げていた600万のドイツ軍兵士の一人であり(うち200万人は死んでいます)、現時点では政治的にも軍事的にもパリはフランスの“中心地”だったのです。
 武装パルチザン中の最大勢力、フランス共産党は一斉蜂起を計画していました。失敗したらパリは瓦礫の山、成功したらパリには共産党政権が樹立され、ドゴールは“遅すぎた賓客”です。
 ドゴール派に必要なのは、連合国軍が方針を変更して一路パリをめざすことです。しかし、誰がどうやったらそれをできるのでしょう?
 ヒトラーは、最も篤い忠誠心と服従心を持つコルティッツ将軍を大パリ司令官に任命します。来たる日のために。
 ここまでわずか50ページ。もうわくわくどきどきのイントロダクションです。タイトルどおりパリが破壊されるか否かがテーマかと思っていたら、それ以前にとても大きな“物語”があったのでした。“ドンパチ”が始まる前から、ぐっと引き込まれてしまいます。
 直ちにパリを破壊せよとの総統命令。なぜかそれに従わない大パリ司令官。それでも着々と進められる爆破計画。それを何とか阻止しようとするパリ市長(もちろんヴィシー派)。市長に対して「暴動が起きたら焦土作戦を発動させる」と脅す大パリ司令官。暴動を起こすための「バリケードへ!」の掛け声をかけるタイミングをはかる共産党。単身パリに潜入しようとするドゴール。パリの刑務所では、政治犯たちがドイツに輸送と残される人とに組み分け(それはつまりは命の選別)。ドイツ人も、パリ脱出組と残留組とに分かれます。「パリ一番乗り」を目指すのは、軍人や政治家だけではありません。新聞記者も潜入を試みます。間奏曲のように挟まれる、パリの一場面、愛の告白、別れ……もっとも“油断”はできません。一見街角で接吻をしている恋人同士のように見える二人が(実は本当に恋人なのですが)、二人ともレジスタンスで重要な情報を交換している場合もあるのですから。運命のいたずらもいろいろあります。ドイツ軍兵士が、せっかく捕えた貴重な情報の持ち主をまるで気まぐれのように釈放してしまったり、蜂起の伝言を持ったメッセンジャーを自分の車で送ってやったり。
 ドゴールがフランスに向けて旅立った同じ夜、共産党は翌朝の一斉蜂起を決定します。それに対抗してドゴール派はパリ警視庁の奪還を決定します。そしてパリは、運命の8月19日(占領第1518日)の朝を迎えました。ノートルダム寺院前に集まった人びとは、パリ警視庁玄関に三色旗をかかげ、“要塞”に立てこもります。共産党は激怒します。「一斉蜂起」に関する自分たちの主導権を誰かに“盗まれた”ことに。フランス国内軍は各所でドイツ軍を襲い始めます。まずは武器が必要なのです。ドイツ軍は武力鎮圧に向かいます。立てこもったフランス人にとっては7日間の“地獄”の始まりでしたが、ドイツ軍にとっても地獄でした。いつどこから狙撃されるかわからない地獄です。軍用トラックは血祭りに上げられますが、戦車が出動しました。それに対抗するのは、第一次世界大戦当時の小銃と警官の拳銃と……火炎瓶。
 ガソリンの残量を慎重に計算しながら進軍していた米軍は、パリ蜂起を知ります。予定どおりパリを迂回するべきか、それとも……
 さまざまな人が、それぞれの思惑で動きます。お互いに助け合ったり邪魔をしたりひたすら無駄な動きをしたり……それらが原子レベルでのジグソーパズルのように組み合わされていき、その結果がひとつの分子、分子の組み合わせであるある物質生成へと進んでいきます。著者はこのモザイクを慎重に組み立てています。特に「○○が数週間後に××になることを、この時点では誰も知らなかった」といった調子でさりげなく「未来」を混ぜ込むことで、ばらばらになりそうな物語に“軸”を与えることに成功しています。
 これは面白いわ。



75日

2011-03-24 19:01:07 | Weblog

 「原○運転中の事故」という穴埋め問題を出したら、現在は「発」の方が「付」を上回るかもしれません。ただ、その風潮がはたして何日続くだろうか、とも思います。
 
中世の秋(下) ──フランスとネーデルラントにおける十四、五世紀の生活と思考の諸形態についての研究』ヨハン・ホイジンガ 著、 堀越孝一 訳、 中公文庫、1976年(83年3刷)、460円

 アレゴリーという“手法”が中世末期には成熟していました。話される単語一つ一つから、人々は生き生きとしたイメージ(シンボル、擬人化の効果)を得ていたのです。本書ではそれは「神秘主義」とまとめられています。そしてそれが「魔法」の温床であったことも指摘されます。西欧の中世末期は、魔女をせっせと生産しそしてせっせと迫害する時代だったのです。そして、人文主義も宗教改革も、この魔女妄想を一掃できませんでした(実際に魔女裁判はルネサンス以降も盛んに行なわれています)。つまり「中世」はルネサンス以降もヨーロッパ社会に生き残っていたことになります。
 話題は「芸術」に移りますが、そこで著者は“失速”します。ことばがそれまでの勢いを失っているように私には感じられるのです。それは当時の「芸術」(特に彫刻や絵画など“形”として残るもの)がパトロンと密接な関係を持ったもので、これまで本書で論じられていた庶民によって構成される社会、という視点があやふやになっているからかもしれません(実際には、著者が興味の中心に据えた画家ファン・アイクに対して、私が何の思い入れもないことが原因なのでしょうが)。ここで本当は「音楽」(それも辻音楽師や吟遊詩人など)について論じたら、それは社会の底辺に密着したものになったのですが、これは“証拠”が残らないから後世論じるのが難しいんですよねえ。
 「中世」と「ルネサンス」とはまったく別のものとして扱うべきではない、と著者は考えています。ルネサンスは中世の中に根っこがあって育ち、そこにまったく違う“花”が咲いたことが認識できたのは実はルネサンスより後のことなのです。また「ルネサンス」自体を論じるにも、イタリアではなくて(中世文化が最も華やかに咲いた)フランスでのルネサンスをきちんと論じるべきだ、とも著者は主張します。そして「ルネサンスの人々」の中に、中世文化が分厚く残っていたことを忘れるな、と。これは、たとえば明治の文豪の“根っこ”が江戸時代にあることを忘れてはならないのと事情は似ているでしょう。後世の目から「時代」は区分したくなりますが、人の生活や文化は連続しているものなのです。そして巻末、著者は高らかに宣言します。「生活の調子が変わるとき、はじめてルネサンスはくる」と。



75年間

2011-03-23 19:42:12 | Weblog

 広島への原爆投下後、「ヒロシマには75年は草木も生えない」という“風評”が立ちました。その後がどうなったか、多くの人はご存じのはずです。草木は生えていますし人も生きています。で、現在の福島原発、さすがに格納容器や圧力容器が破壊されたらまずいですが、チェルノブイリのように炉心がもろに露出しているわけではないし、今のところは環境破壊力は原爆よりは(そしてチェルノブイリよりも)“下”ですよね? 
 もちろん「放射能は危なくない」なんて主張をするつもりはありません。浴びずにすむものなら浴びずにすませたい。ただ、怖がるのなら「何を怖がるべきか」「どうしてコワイのか」「どんな対策が有効か」を少しでも考えた方が“お得”だとも思うのです。その点で、福島原発敷地内での「放射線量(瞬間最大値)」にこだわって会見場でしつこく質問を繰り返していた記者の姿を見たらため息が出ました。どうせこだわるのなら、放射線量の積算値とか検出された核種(とそれぞれの半減期)、それで予想されるリスク増大の幅(たとえば急性白血病がどのくらい発生頻度が増すのか)、そのリスクにどう対応したらよいのか、を質問して報道して欲しいものです。でないとマスコミの役割が「風評被害の助長」さらには「パニックを煽っているだけ」になってしまいます。
 歴史に関してとりあえず今知りたいことのひとつが「東海村のその後」です。「バケツでウラン」の臨界事故で中性子線がばんばん出たのが1999年のこと。二人の死者と数百人の被爆者が出ました。で、その後、あの村で、どんなコワイことが起きていましたっけ?(ところで、当時の総理大臣が誰だったか、みなさん、覚えています? 小渕さんです。それと、当時も風評被害がひどかったこと、覚えています? 同じことを繰り返すのかな?)
 なお、今回の「野菜の話」は“プロローグ”にすぎないこともみなさんお忘れなく。これから別の農産物への品目のさらなる拡大、規制地域のさらなる拡大、土壌汚染の判明、水産物からの検出と出荷停止、そして人体での放射能汚染の話が次々登場します(するはずです)。それらを“流れ”として見るのではなくて一つ一つに個別に強く反応していたら、肝心の正しい対応をする前に燃え尽きてしまう怖れがありますよ。

【ただいま読書中】『白衣の騎士団(下)』コナン・ドイル 著、 笹野史隆 訳、 原書房、1994年、1748円(税別)

 アレインは相変わらず忙しくしています。若者特有の乱暴な歓迎を「無礼者め」と決闘さわぎにしたり、ステンドグラス作家の親娘を乱暴者たちの手から救ったり。ただし彼は「主人公」ではありません。群像ドラマの中で、結構頻繁に登場する、という人物です。
 サー・ナイジェルは、フランスの国境地帯を荒らしまくっている白衣隊を探しに出かけます。そこは長引いた戦乱で荒廃していました(戦場になっていなくても、領主の過酷な支配で、土地も人心も荒れ果てていたのです)。無茶苦茶強い謎のフランス人騎士、不思議な力を持つその奥方など、魅力的な新登場人物が次々現われ(そして消えていき)、物語はぐいぐい駆動されていきます。
 そして舞台はピレネー山脈へ。待ち受ける敵は8万。対するイングランド軍は2万と7千。それでも騎士や射手たちは楽しそうに戦いが起きるのを待ち受けます。偵察に出かけた白衣隊は400人で6万の敵本隊を襲うことにしますが、それさえもとても楽しそうです。
 騎士道・名誉・美しい生活・猥雑ならんちき騒ぎ……中世の生活が次から次へと繰り広げられます。ただし、騎士道はすでに廃れかかっています。騎士たちもそれはわかっていて、それでも騎士道にしがみついているのです。さらに信仰心が薄れつつある風潮も活写されています。特定の個人に感情移入しにくい描き方でストーリー展開はご都合主義の所がありますが、本書の真の“主人公”は「中世という時代(の変化)」そのものなのかもしれません。コナン・ドイルの歴史小説はホームズと同じくらい書かれているのにあまり日本では紹介されていないそうですが、良いものに出会えました。



中世

2011-03-22 19:08:16 | Weblog

 「ちゅうせい」を変換したら「中性」「忠誠」よりも「中世」の方が先に出てくるのが私のユーザー辞書ですが、先日の『白衣の騎士団』を読んでいて、しきりに思い出されたのがホイジンガです。彼は「騎士道なんて遊びなんです。くそ真面目な歴史学者には、それがわからないんです」と言ってたはずですが、ホイジンガより前の時代に生きていたコナン・ドイルにもそれがよくわかっていたように思えたのです。それで、ホイジンガを読んでみることにしました。

【ただいま読書中】『中世の秋(上) ──フランスとネーデルラントにおける十四、五世紀の生活と思考の諸形態についての研究』ヨハン・ホイジンガ 著、 堀越孝一 訳、 中公文庫、1976年(83年5刷)、460円

 冒頭「この書物は、十四、五世紀を、ルネサンスの告知とはみず、中世の終末とみようとする試みである」と著者は宣言します。「後世の目」から「その時代」をまるで死体解剖のように扱うのではなくて、我が身を遡らせて「その時代」を“生きているもの”として扱おう、ということでしょう。
 処刑と祭列で本書は始まります。ここに描かれたパリの民衆の激しく熱狂的な行動を読んでいると、『ガルガンチュワ物語』でのガルガンチュワたちの傍若無人乱暴三昧は実はパリで実際に行なわれていることを少しだけ誇張して書いただけか、と思えてきます。
 当時の政治は「国家意識」ではなくて「党派」で動いていました。それも、経済や経済ではなくて感情で。私は『ロミオをジュリエット』、そして、日本の政党での「派閥」を思い出します。前者はもちろん、もしかしたら後者の人々も「中世」を生きているのだろうかと。
 中世末期、「大罪」のトップは「傲慢」から「貪欲」になりました。傲慢には神に対する姿勢が含まれますが貪欲は「地上の罪」です。これは貨幣経済の進展に伴う変化でした。さらに人々は「神か俗世か(=美か罪か)」の二分論から「生活の中の美」を求めるようになってきます。(さらに十二世紀ルネサンスによってもたらされた「知性の尊重」も重要でしょう) つまり「ルネサンスのための下準備」が着々と中世の中で行なわれていたのです。
 中世で有名なのは「騎士道」(とその発露の場であるトーナメント)ですが、著者はやや皮肉っぽく「けだかい勇気と誠実の夢に生きようとする大がかりな遊び」と言います。さらにこの「遊び」は「騎士団(とその内部で行なわれる騎士誓約)」を生みます。
 「歴史」では軽く扱われる「遊び」ですが、著者はここで「遊び」を重視する姿勢を見せます。“それ”は人を動かす原動力(中世の人々の「美しい生活」を求める態度の一つ)なのですから、真剣に取り扱われるべきものなのです。しかし、十字軍や決闘までもがこの遊びの一環として行なわれたというのは、なかなか真剣な遊びではあります。
 さらに「時代の変化」は、エロティシズム、死生観、さらには信仰にまで影響を与えます。生活全体が宗教にどっぷり浸かっている社会で、それは重大な変化だったのです。