【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ハイジ

2019-08-28 06:59:23 | Weblog

 先日「ピッピ」を読みましたがそこでハイジのことも思い出していました。
 『アルプスの少女ハイジ』と言えば、「長い長いブランコ」「立った、立った、クララが立った」を思い出しますが、実はこれはテレビアニメ。小学校で読んだ小説ではどうだったっけ?と思ったので、改めて読んでみることにしました。

【ただいま読書中】『アルプスの少女ハイジ』ヨハンナ・スピリ 著、 関泰祐・阿部賀隆 訳、 角川書店(角川文庫)、1952年(78年改版17刷)、260円

 亡くなった姉の子を祖父に預けるためにデーテがアルプスに登るシーンで本書は始まります。それをめざとく見つけた村のおばさんにデーテが事情を簡潔に説明することで、アルムおじさんの変人ぶり(裕福な生家の財産を使い切り、人殺しの前科の噂があり、山に籠もって教会にも顔を出さない)とハイジ(5歳)が抱える可哀想な家族の事情が実にてきぱきと読者にも伝わります。そうそう、可哀想な家族、と言えば、山羊飼いのペーター少年(11歳)も父を失っていますし、デーテも親を失って自分が奉公に出なければいけないから幼いハイジを育てることができなくなったのでした。ただ、アルムおじさんは、村人が噂するような冷酷で無頼の廃人ではありません。ハイジが山の夕焼けについて質問をしたとき「お日さまが山におやすみをいうときには、一番きれいな色をその山の上に注ぐんだよ。お日さまがまた次の日にやって来るまでに、山たちにわすれられないようにね」と柔らかな感性で答える人なのです。村人の評判とは真っ逆さまの人物像です。
 ハイジは、実によく驚きます。とても素直な反応を示す子です。山の生活について知識は足りませんが、他人の説明を懸命に聞きさらに類推で知識不足を補おうと努力します。これは大人から見た「理想の子供像」かもしれません。
 ペーターは、夏の間は山羊飼い(朝、村で皆の山羊を預かって山へ連れて行き、夕方村へ連れ帰る)をしていますが、冬の間は学校に通っています。でもこれでは学業はきちんと身に付かないでしょうね。というか全然身に付いていません(アルファベットも読めません)。あ、社会性も。ハイジが来るまでは山では話し相手がいなかったのですから。
 学校にも行かずに山で過ごしていたハイジが8歳になったとき、デーテがフランクフルトでのハイジの奉公先を見つけてきます。クララの家です。おや、クララも母親を亡くしています。さらに父親は仕事で旅行がちで自宅には長く不在です。つまり本書の主要登場人物(子供たち)は軒並み親が欠損した家庭育ちなのです。
 山育ちで天衣無縫のハイジと、規則と秩序重視で謹厳実直なロッテンマイヤーさんとが合うわけはありません。当然のように起きる様々などたばた劇でしばらくこちらは楽しめることになります。
 ホームシックとなったハイジは夢遊病を発症(そういえばフランクフルトに出てきたときに、ハイジの母親にも夢遊病があった、と伏線が張られていましたっけ)。さらにそういえば、「ホームシック」はスイス傭兵が故郷を恋しがって十分に戦えなくなる状態を「ノスタルジア(ギリシア語のnostos(家に帰る)+algos(苦しみ))」と名付けられたのがルーツだそうです。ハイジはスイス人だし祖父のアルムおじさんはスイス傭兵でしたね。ハイジは、自分のホームシックに苦しむだけではありません。自分を受け入れてくれたゼーゼマン氏やおばあさま(ゼーゼマン氏の母親)、何より自分を無条件に信頼してくれるクララに対して忠実でもありたいと思っています。「帰りたい」と「ここにいなければならない」の板挟みとなったため、ハイジの心はひどく圧迫されてしまうのです。そこで登場したのがゼーゼマン氏の主治医です。ハイジは運命に翻弄される役割ですが、この医者はハイジを積極的に支持することで物語を駆動します。
 ハイジがアルプスに戻ったあたりから、キリスト教に触れるシーンが増えてきます。ただ、無垢なハイジが論理ではなくて感性でキリスト教を受け入れると、世間一般の教条主義的な「キリスト教信仰」とはちょっと違う素朴な色合いの、どちらかというと原始キリスト教に近いような匂いが立ち上ります。そして、ハイジに手を引かれておじいさんが教会に出かけるところは、「ストレイ・シープ」そのものです。ただし、ただの迷い羊ではなくて、一度は群れに決別した羊の復帰劇。だけど牧師は「ちょっと道に迷っただけ」とお祖父さんをあっさり受け入れます。
 フランクフルトでは別の劇が進行中です。「お医者さま(なぜか名前が明示されないのですが、もしかして著者の分身かな?)」は家族を持っていません。だからクララやハイジに特別な思い入れを示すのでしょう(深読みするなら、著者自身の「満ち足りた(愛することと愛されることのバランスが取れている)家族への憧れ」も私は感じます)。そして、調子が悪くて山に来ることができないクララの“代理"として一夏をハイジと一緒に過ごすことで、この医者もまた変容していきます。
 ハイジは、彼女が触れる周囲の人を少しずつ変えていく、小さな奇蹟の力を持っているようです。
 そしてついにクララが山にやって来ます。ここでまた驚きが一つ。ハイジのおじいさんは、かつて傷病兵の介護をした経験を持っていて、だからクララの介護も楽々とやってのけるのです。また、クララが歩けないのは、足が麻痺しているのではないこともわかります。おじいさんが立つ訓練をしようとすると「痛い」と倒れそうになるのですが、ということは、感覚麻痺でもないし運動麻痺でもない。おやあ?
 ペーターは不機嫌です。これまで毎日一緒に遊んでいた(あるいは勉強を教えてくれていた)のに、ハイジはクララにべったりで全然小屋から離れようとはしない(山にも村にもやって来ない)のですから。そこで“敵"に対する攻撃として、クララの移動用の車付き椅子を谷底に落としてバラバラにしてしまいます。そこでハイジはペーターと二人掛かりでクララを立たせて歩かせようとします。すると……
 おやおや、「立った立った」ではなくて「無理に歩かせたら歩いた」だったんですね。
 結局クララが歩けなかった原因は何だったのでしょう。心因性のもの? それだとして、その原因は?(たぶん「家族(母の死亡、不在がちの父)」だろうとは思うのですが、それについて作中での“謎解き"はありません)
 クララの父親はクララだけではなくてその母親の思い出も取り戻しました。医者は安住の地と愛情を向ける対象を見つけました。他の大人たちも、ハイジによって様々なものを取り戻したり発見をしたりしています。本書は「ハイジの物語」ですが同時に「ハイジを取り巻く子供たちや大人たちの奇跡に満ちた物語」でもあったのです。「クララが歩けるようになった」は、その中の一つの奇跡でしかありませんでした。