行徳生活日記

「行徳雑学館」作者の日記。

2011年3月1日(火)の日記

2011年03月01日 | 日記

月初日の仕事は滞りなく進み、今日は残業ほとんどなしで帰れる。

晩飯はなか卯坦々うどん定食。 

そのあと本屋で、今日発売の東宝特撮映画DVDコレクション「ゴジラ対ヘドラ」を買い、帰ってさっそく見る。

1971年(昭和46年)の夏休み映画。自分が小学5年生のときで、やはりこの年の夏休み映画だった大映の「ガメラ対深海怪獣ジグラ」とともに、初めて映画館へ見に行った(親に見に連れて行ってもらった)怪獣映画だった。「ガメラ対ジグラ」のほうはその後、テレビ放映で見たことがあるが、「ゴジラ対ヘドラ」は映画館で見たとき以来。

「ゴジラ対ヘドラ」で有名なのはゴジラ飛び。口からの熱線を推進力にして後ろ向きに飛行する。

1979年に「機動戦士ガンダム」が放映されていた頃、「月刊OUT」というアニメ雑誌の読者の投稿パロディマンガに、脇役モビルスーツのガンキャノンが両肩のキャノン砲を撃ちながらゴジラ飛びをする場面があって、これは笑えた。

1970年ごろの若者(自分よりは10歳から15歳程度上の年代)の風俗が描かれていて、夜にアングラ喫茶(とっくに死語)へ出かけ、酒を飲んだり、ゴーゴーダンス(これも死語)を踊ったりしているのだが、そのときのファッションが凄い。

右側の男は柴俊夫。このときは本名の柴本俊夫で出ている。この映画の数ヶ月後に始まった「シルバー仮面」では柴俊夫になっていたから、その間に芸名にしたらしい。

小学生のときに見たときはゴジラとヘドラの戦いが一番の関心事だったが、今回見てみると、演出も独特。途中でアニメが挿入されていたり、

小さな画面が並んで、人々が公害を糾弾していたりする。

こんな演出をされたゴジラ映画は後にも先にもこれだけ。ゴジラ映画最大の異色作といわれる所以だ。

ゴジラは人類の科学技術が暴走した結果の一つである原水爆から、その化身として生まれたわけだが、1960年代後半にはすでに、宇宙からの侵略怪獣キングギドラと戦ってヒーローになっていた。しかも「ゴジラ対ヘドラ」では、こちらもまた人類の科学技術の暴走から生まれた公害の化身・ヘドラと戦い、人類を救ってしまう。このストーリーこそが最大の異色、というか珍妙というべきものかもしれない。

画面に繰り返し出てくるが、工業排水や生活廃水、ゴミで汚染された海。

ヘドラも餌にしていたが、工場の煙突から出る煤煙。

この時期から新聞やテレビで「公害」の2文字を見ない日はないという状況になった。小学校の4年生、5年生ぐらいというと、新聞・テレビから伝わってくる世の中の状況も分かるようになる年齢だが、前年(1970年)の大阪万博が終わったころから、世の中の空気が一変したと記憶している。子供が見る番組でも、1960年代後半は科学技術で明るい未来ができるという描かれ方をしていたのが、1970年代に入ったとたん、それが否定されたような雰囲気になって、テレビを見ていても戸惑った。

「ゴジラ対ヘドラ」と同じ年1971年の1月から放映が始まった「宇宙猿人ゴリ」(最初は悪役の名前がタイトルだったが、放映中に→「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」→「スペクトルマン」とヒーローの名前にタイトルが変わった。)では、宇宙から来た悪役が地球の公害物質から怪獣を作って侵略しようとする話だった。怪獣攻撃隊は存在せず、こちらも宇宙から来たスペクトルマンは人間に変身し、蒲生譲二と名乗って公害Gメンに押しかけ就職してしまう。そのおかげで、公害Gメンは怪獣事件に何度も巻き込まれ、ついに政府機関からの特命で光線銃などを支給され、怪獣Gメンとなる。考えてみれば、別に戦闘のプロでもないチームが怪獣相手に戦わされる破目になったのだから、迷惑この上ない話だ。

1960年代にも公害怪獣がいなかったわけではない。「ウルトラマン」の「沿岸警備命令」に出てくるゲスラは、南米の小さなトカゲがカカオ豆の輸送船にまぎれこんでやってきて、東京湾の汚染物質のせいで怪獣化したという設定だった。科学特捜隊の隊員たちが、ゲスラがどうして怪獣化したかということで、「東京湾の水にはいろんなものが含まれている。」とか「みんなが海を汚すから罰が当たった。」とか話す場面があるが、気楽な会話で、1970年代のような深刻さは全然ない。

1970年ごろを境に、公害に対して世の中の雰囲気が急にヒステリックになったのを、小学生の子供ながら感じていた。その原因はおそらく光化学スモッグだと思う。それまでも、水俣病だとか公害病はあったが、工場地帯のすぐ近くでなければ直接被害を受けることはないし、どこか他人事のようなところもあったのだろう。ところが、光化学スモッグは都市圏に住んでいれば、工場地帯のそばでなくても被害にあう。しかも、学校の校庭や公園で遊んでいた子供が、目や喉が痛くなって倒れ、保健室や病院に担ぎこまれたりしたのだから、世の親たちがパニックになったのだ。「光化学スモッグ」という言葉が世間に広まったのは1970年ごろからだけど、自分の親がかつて言っていたことによると、そんな言葉が広まる以前から、夏の暑いときにどうも目が痛いようなことがあったという。でも、言葉が出てきたことで、それをシンボルとしてヒステリックな状態も広がっていったのだと思える。

1970年代というのは振り返ってみると、工業バッシングの時代と言ってもよいと思う。公害に対して世の中がヒステリックになって、工場-特に煙突から煤煙を出したり、排水溝から汚水を流す工場や騒音を撒き散らす工場は悪のシンボルのようになっていた。大学のとき(1980年代前半)、教養課程の化学で使った教科書のまえがきには、公害問題が激化してから化学離れが進んだことを嘆く文章が載っていた。化学は煙突や排水口のイメージと直結してしまうから、そんな分野に行きたいと思う人間はどうしても減ってしまうのだろう。自分も、工学部に進んだが、コンピューターシステムのほうへと行ってしまった。工場は悪いイメージが蔓延していた時代だけど、1970年代~1980年代はコンピューターは明るい未来を作る夢の機械のように、まだ思えた時代だった。コンピューターもハードウェアは工場で作る製品なのだが。

最近は臨海工業地帯の明かりに照らされた工場夜景に人気があると聞く。「ゴジラ対ヘドラ」が作られた時代からすると隔世の感。その頃ならとても考えられない。十代の多感な時期に意識に植え付けられたものはずっと残るので、いまだに工業地帯は恐ろしい場所というイメージは自分の中で消えていない。でも、公害問題で工業に対して世間から厳しい目を向けられていた時代に、工業の会社や工場の現場、関係する機関で働いていた人たちは、起こった問題の解決のために努力を重ねていたのだと思う。だから、当時のような公害がもっとひどくならずに済んでいる。10代、20代のころはこんなことは考えなかったが、自分も年を取ったから思えるようになったのだと思う。