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蜷川幸雄 逝く

2016年05月14日 | 演劇

日本人の感性で読み解いたダイナミックな
シェークスピア劇などで知られ、国際的な
活躍で「世界のニナガワ」と呼ばれた
演出家、蜷川幸雄(にながわ・ゆきお)さんが
12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全のため、
東京都内の病院で死去した。
80歳だった。

埼玉県川口市生まれ。
開成高を卒業後、画家を志したが、安部公房作の
舞台「制服」を見たのがきっかけで
1955年、劇団青俳に俳優として入団した。
アングラ全盛期の68年、青俳の蟹江敬三、石橋蓮司さん
らと劇団現代人劇場を創立。
69年、清水邦夫さん作の「真情あふるる軽薄さ」で
演出家デビューした。
72年に演劇集団「桜社」を結成し、74年に解散。
同年「ロミオとジュリエット」を大劇場で上演して
成功を収めた。

 国内外の現代劇や「近松心中物語」などの古典のほか、
シェークスピア作品やギリシャ悲劇を斬新な解釈と
大胆な手法で演出した。
83年にイタリアやギリシャで「王女メディア」、
99年に英国のロイヤル・シェークスピア・シアターで
「リア王」を上演。
歌舞伎など東洋の文化を取り入れた演出も注目を集め
「世界のニナガワ」と呼ばれた。

 厳しい指導で知られたが、演劇的な深みと完成度の
高さから、慕う俳優は多かった。
2006年に彩の国さいたま芸術劇場芸術監督に就任。
中高年で構成する「さいたまゴールド・シアター」や、
若者による「さいたまネクスト・シアター」を旗揚げし、
俳優の育成に尽力した。

 演出家として闘い続けた。若者たちを認めない新劇界を
飛び出し、商業演劇では演出家を侮る俳優に灰皿を投げた。
海外では、異国趣味への関心にとどまる批評に「俺は
西洋の補完物じゃない」と、かみ付いた。

 強く激しい人には、傷つきやすい魂が宿っていた。
自身の商業演劇の演出が原因で劇団の仲間と
決別した
日の孤立感を、終生抱いていた。
病やけがに見舞われた清水や唐の旧作を次々上演し、
盟友を励まし、支えた義侠心もまた、
蜷川の一面だった。 

灰皿を投げる理由って!
というか、原点って!
そうだったのかぁあ。
知らんかったぁあ。

蜷川幸雄という名前を知ったのは
いつだったのか…。
全然覚えてないんだけど…。
私にはあまりビビッとくる舞台じゃ
なかったんだろうな。
あまり観劇する機会もなく…。

沢山の俳優を世に出したけど、
私は劇団で基礎を勉強した舞台人が
好きなもんだから、
それも、あまり観にいかなかった
理由のひとつなんだよね…。

1年間に何本も演出するって…
なんと!10本の年もあったのね!
いつも全力投球出来るんだろうか…と。
疑問を持ったりもして…。
だって、むちゃくちゃ
体力も想像力もいる仕事だから…。
稽古場を覗いたことのある友達に聞いたら、
スタッフも凄い。と言ってたっけ。
演出家の考えを汲み取って、
何を言われても差し替えがきく様に、
色んなパターンが用意されていて、
瞬時に対応出来るんだとか。
”チームニナガワ”があってこそ、
毎年あんなにハードな仕事が
出来るんだな。ってガッテン!

埼玉に「ゴールド・シアター」を
作った時はビックリ!!
すっげぇえ斬新な発想っ。
でも何故埼玉に…
って思ってたんだけど、
出身地だったんだねぇえ。

で…私は…結局…
5本しか観劇していないっ。
でもそのどれもが、
永遠に忘れないって思える作品ばかり。
あ、テレビ観劇したものもあったっけ。
『パンドラの鐘』『ロミオとジュリエット』
『グリークス』…。
追悼番組でまた何かOAしてくれないかなぁ。

”演出家”って、
あまりスポットライトを浴びないけど、
蜷川は特別だったよね。
彼の存在があってこそ、
”演出家”が、認知されたんだと思う。
でもこれから先、
蜷川が築いた壮大な世界観を、
引き継ぐ人はいるんだろうか…。
それとも
ただ消えていく運命なのか…。
演出って、演劇って、
そういうものなのかな…。
淋しいな…。 

心よりご冥福をお祈りいたします。 

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