日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『読書という習慣』の有無について」

2009-12-09 11:44:01 | 日本語の授業
 今朝は曇り。「お日様」が出ないと、うっとうしいですね、どこかしら、心が鬱屈してしまいます。正に「『お日様』の力は偉大なり」です。世界には、いろいろな宗教があります。その中には、(私たちから見ますと)かなり排他的な宗教もあります。とはいえ、「お日様を讃えること」は、いいのです。彼らから見ても、全く別の存在でしょう。

 宗教が宗教として成立するずっと前から、すべての人の心に恵みと恐怖を与え続けてきた存在なのですから。どのような宗教を信じる者であれ、お日様を讃え、畏れることに文句はないはず。で、私たちから見れば、「お天道様」と言ってもいいし、もっと親しみを込めて、子供の時から使ってきた「お日様」と言ってもいい。

 「太陽」と言ってしまえば、科学的に冷たく言い放っているようにも感じられるのですが、それは私たちの勝手な感じ方。それを、「太陽」研究一筋だという科学者に言わせると、「もう好きで好きでたまらない」相手で、「一生尽くしても尽くしきれない」ような気持ちにさせる、謎に満ちた対象となるでしょうし。しかしながら、一般人から見ると、どうしても「太陽」と言う言葉からは、自然に対する「崇拝」や「憧れ」、「親しみ」「畏れ」などというイメージは湧かないのですが。

 さて、昨日中国の内モンゴルからお客様が見えました。それで、授業中ではありましたが、彼の日本語学校から来ていた学生達を呼び出し、一時を過ごしてもらいました。

 実は、一言で「中国人」と言いましても、比較的大きな民族集団が、いくつかあり、日本語を学んでいく上で、それぞれ異なった問題が生じているのです。つまり、各自治区で、各民族の言葉で育ってきた人たちが、改めて日本語を学ぶ場合、漢族に比べ、大きな困難があるということです。勿論、これは「初級」レベルでは殆ど出てきません。却って、モンゴル族や朝鮮族は、彼らの言語が、日本語と(文法が)似ていることもあり、漢族の大卒者などよりも、ずっと速く「話す・聞く」が出来るようになるくらいなのです。

 もう一度繰り返しますが、これは「初級レベル」までなのです。「中級」に入り、だんだんと漢字の頻出度が増してきますと、これはもう彼らにとって完全に不利になります。

 私たち、日本人が中国語を学ぶ場合、「漢字」を拾っていけば、だいたいの意味は判ります。勿論、明治以前の「漢文教育」を受けていた人達のように、「筆談」が出来るレベルには到底達していませんが。それでも、学校で、三ヶ月程度でも勉強すれば、文法や文章の流れの癖というのが判りますから、それほど予習・復習をせずとも、授業にはついて行けます。

 これは「漢字文化」の中に、韓国も日本もすっぽり入っていたからなのでしょう。「漢字文化」は、自分たちの文化の深層部にしっかりと組み込まれ、すでに骨肉化しているのです。しかも、日本は、韓国とは違い、海を隔てていましたから、もし、当時、高い知識を身につけようと思ったら、「海を渡って運ばれてきた書籍」に頼らざるを得なかったのです。いくら昔から識字率が他国に比べ圧倒的に高かったとはいえ、「漢文化」というのは、耳にしたり、目で馴染んだりしたものではなく、「読書」によってしか知り得ないものだったのです。これは、江戸期のオランダから運ばれてきた書籍においても同じでしたし、明治期以後の欧米の書籍に対しても同じでした。

 大学で教鞭を執っている人たちの大半、また新聞社や雑誌社、或いは外国語学校の教員たちは、争って、欧米の知識を訳し、人々に広めていきました。「新しい知識だよ。勉強しないと遅れてしまうよ」と、争って一般大衆を啓発してきたのです。だから、もし、小学校出でそれほどの知識しかない人でも、努力さえすれば、ある程度はどうにかなってきたのです。望めば、すぐそばにあったのですから。

 それ故でしょうか、「読書」というのが、一種の、国民の「病」のようなものになっています。

 知識を獲得するためには、まず、「読む」なのです、おそらくは、これほど科学が発達した今でも。知識を獲得するためには、「読む」ということが、国民としての合意事項なのです。共通理解なのです。「本を読まないヤツはだめだ」というのが。

 それにひきかえ、モンゴルの人たちは、「読む」ということが習慣化されていないように思えてなりません。彼らの多くは、(大卒であればですが)自分を随分高い位置に置いて日本へ来ます。しかしながら、日本人はそれを「たいしたもの」とは思っていませんから、彼我の間で齟齬をきたしてしまいます。
 一言いえば、彼らは、自分たちが「余り知識を持っていない」ことが実感できていないのです。しかも、大学院をめざすには、ある程度の知識が必要だということが、あまり判っていないのです。そういう知識がなければ、困るのだということがわかっていないのです。

 もし、彼らが、日本や欧米へは行かず、彼の地で暮らしているのであれば、彼らの知識はそれで充分でしょうし、それ以上はきっと「蛇足」なのでしょう。

 けれども、不幸なことに、日本の大学院に入りたいと言って、日本に来、ここにいるのです。日本で進級したいのであれば、まず、「自分が、殆ど何も知らない状態にある」ということだけは、判っておいてもらいたいのです。そうでないと、運良く大学院に入れても、他の人に馬鹿にされるだけです(全員が中国人であれば、皆同じ程度でしょうから、先生は嘆くでしょうが、本人は不都合は感じないでしょう、)。

 自分は何でも知っていると思い込んでいる無知な学生には、大学の先生は容赦しません。

 手厳しく問い詰められ、右往左往させられて、「弁慶状態(立ち往生)」になってしまうか(けれども、これは親切なやり方です。少なくとも、「あなたは何も知らないのだ」ということを判らせてもらえるわけですから)、或いは、嫌みを言われて、終わりです(「判らせてやる気にもならない」というわけです)。

 先生曰く、「そうですか。『これも出来ます、あれも出来ます。これも知っています。あれも知っています』ですか。では、ここで勉強する必要はありませんね。私は、研究すればするほど、謎は深まり、また増えていくというのに。私よりも「上」なのですから、ここで勉強する意味がないでしょう」

 つまり、「下」しか見えない者と見なされてしまうのです。「上」が見えない人間は、そういう(「お山の大将」で過ごせるという)環境で育って来られたわけですし、それが習慣になっていれば、上ばかりいるという現実がわからず、戸惑っているうちに二年、三年が過ぎてしまったということにもなりがちです。それに何よりも、そういう人を「受け入れて、育ててやろう」という気にはなれないでしょう。

 きっと、こういう学生は、こういう言葉の意味すら、わからないでしょうね。もっとも、相手の語気から、拒否されていることはわかるでしょうから、反感は持つかもしれません。日本では当たり前の事ですのに。こういうのは自業自得としか言いようがないのに。
 「知識」や「技能」に対する「尊敬」、「畏れ」を知らない者を認めるほど、日本の大学院はヤワなところではありません。また、私たちは、大学院の先生方が、そうであるのを、当然だと思うのですが。

 そういう「尊敬」や「憧れ」、「畏れ」があるからこそ、社会は発展できるのです。狭く小さい輪っかの中で、「自己完結」していても、大きな世界へは出て行けませんもの。

 まあ、こういうことを「ぼやいて」しまうのも、(せっかく縁あってこの学校に来たのですから)彼らの能力に応じて、少しでも高く羽ばたいてもらいたいと思っているからなのです。
 どうでもいいと思っていたら、それこそ嫌みを一言言うか、或いは、それすらせずに、無視して終わりというところです。

日々是好日
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