緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

中之島中央公会堂 プロジェクションマッピング

2019年12月26日 | 写真
以前にも書きましたが、私はイルミネーションで街中を飾ったり、建物を背景にしてのプロジェクションマッピング等々、あまり好きではありません。
ついでに書くと花火も好きではありません。
そういうものの写真を撮る気もないのです。

ところが例の「シニアの為の健康と医療の講座」で、クラスの忘年会の帰り道、同じ班の人に御堂筋のイルミネーションを見に行こうと誘われました。
それもまあ、御つきあいかと思い、行って写真を撮ってきました。

御堂筋と言っていたのが、結局淀屋橋まで地下鉄で行き、中央公会堂のプロジェクションマッピングを見ることになりました。

地下鉄淀屋橋の駅を上がって、大阪市役所の正面です。

水上バスも光をまとっています。

公会堂までの道。


やっと到着、始まるのを待ってます。
最初は読書の勧めのような・・。


いよいよ開始です。





























































































結構長く続いたような気がします。
ストーリーは多分あるんでしょうけど分かりません。
随分と凝ったものでした。

満足して帰り道。


家に帰ると待っている子達。


やっぱりこの子達が一番です(。・ω・。)♡


「ポーの一族」のことなど

2019年12月23日 | マンガ

もう終わったのですが、大阪梅田の阪急百貨店で、ポーの一族展が開かれていました。

「ポーの一族」は知る人ぞ知る萩尾望都さんの少女漫画で、去年だったか、私は観ませんでしたが宝塚歌劇で舞台化もされました。

友人と梅田でランチすることになったので、友人に会う前にポーの一族展を見に行きました。
主に「ポーの一族」の原画が展示されていたのですが、人が多くて見づらかったです。

原画は写真撮影は禁止でした。
宝塚歌劇で使用された衣装の方は撮影スポットになっていてOKでした。

原画の方は、どれも皆、見覚えのあるものばかりでした。
若い頃、何度となく繰り返し読んだのですから当たり前です。

私は萩尾望都さんの作品のファンで、きっかけとなったのが「ポーの一族」だったのです。
私くらいの年代では、そういう女性は多いと思います。
雑誌で連載されていた頃(1972年~)は、読み返す度に切なくて胸が締め付けられる思いでした。

当時、萩尾さんはもう一方で「トーマの心臓」という、大人になる事=子供時代の死をテーマにした作品も描いていたのですが、もう一方の「ポーの一族」は14歳の少年のまま永遠に死なない吸血鬼が主人公で、全くの別作品ながら、まるで表と裏のような作品世界でした。(「トーマの心臓」では主人公の少年は神父になる決心をし、「ポーの一族」では吸血鬼のまま・・・。)

2017年に40年ぶりに「ポーの一族」の続きが刊行され、私も読んでみたのですが、かつての「ポーの一族」とは別の作品のようでした。
なんていうか、かつての作品には作者自身意識していない深い意味があったように思います。

ここで、萩尾望都さんの作品について、私がかつてなるほどと思ったことを書いてみます。
興味のない方はスルーしてください。
芸術や思想系の雑誌で萩尾望都さんの作品の特集が組まれることはよくあるのですが、その内の4、5年前に刊行された一冊の中で書かれていたことです。(その雑誌が見当たらないので以下記憶のまま書きます)

「ポーの一族」以降、人気作家となった萩尾さんは、出版社に勧められて、自分がマンガ作家としてやっていくための会社「望都プロダクション」を1977年に設立します。
そして会社の代表にしたのが、それまで勤めていた会社を定年退職した自分の父親でした。
そんなふうに経営面を家族に任せることを勧めたのも出版社のようでした。
そこで母親もまた萩尾さんの仕事に口を出すことになりました。
その結果、両親と大喧嘩になってしまったとのことなのです。

雑誌に書かれていた萩尾さんのお姉さんの言葉によれば、母親は萩尾さんの作品のキャラクターをグッズにして、それを売りだすことを考えるようなタイプだったそうです。
要するに完全に金儲けまっしぐらです。

会社代表となった父親の方はもっと酷いものでした。
少女マンガに限らず漫画家はアシスタントを雇って作品作りのお手伝いをしてもらいます。
アシスタントになる人は自らもまた漫画家志望で、アシスタントをしながら作品作りの技術的なノウハウを学び、力をつけてデビューを待つのです。

ところが父親は、萩尾さんがアシスタントにマンガの描き方を教えているのだから、アシスタントに給料を支払う必要はない。むしろアシスタントから教授料としてお金をもらうべきだという考えだったのです。
これまた自分の金儲けだけを考え、人は搾取と収奪の対象でしかないという考えです。
仮に父親の考えを実行したら望都プロダクションにアシスタントは来ないでしょう。
同様のことを日本のマンガ界が実行したら、後進は育たず、世界に誇る日本のマンガ文化は壊滅するしかないでしょう。

萩尾さんは、自分はお絵かき教室の先生をしているのではない、漫画家なんだと父親を説得したそうですが、父親はまったく納得せず、萩尾さんは結局2年で自ら会社を壊し、両親には引き取ってもらったそうです。

どんな業界でもその業界の流儀があり、誰でも説明されれば多少は納得するものですが、父親がまったく納得しなかったこと-会社設立時から随分経ったその雑誌の発刊時でも「娘は世の中のことを何も知らないから」と語っています-は、萩尾さんにとっては大変な困難だったと思います。

母親の方も同じ雑誌のインタビューで、娘には漫画家ではなく絵本作家になってほしいみたいなことをまだ言っていて、これまた少女マンガに革新をもたらし、文学を超えた表現に変えた萩尾望都という作家の偉大さが全然分かっていない様子。
(同様の事例としてピーターラビットを描いたビアトリクス・ポターとその母親との関係が思い出されます。)

萩尾さんはそのような両親との葛藤を経て、内なる親と向き合うべく心理学を学び始めていたそうです。
一読者としての私は、萩尾さんの会社設立や両親との葛藤など、まったく知りませんでした。
ただ1980年代に入って、萩尾望都の作品には親殺し等、親との葛藤をテーマにしたものが現れ、そうした作品もまた衝撃的だったのです。
実のところ、親との関係には似たような体験をしてきていたからです。
それは私だけではなく、私の当時の友人達においても同様でした。

実は当時の私の友人知人の内3人が、母親が今でいう統合失調症や鬱を病んでいました。
そのために母親を自殺で無くしていたり、母親が服薬中で抜け殻のようだったりしたのでした。
(父親が精神を病んでいたという話は聞いたことがありません。)
これは今でも語られることのないことでしょうが、私達の親の世代の女性達は、優秀であったり繊細であったり前向きで野心的であったりすればするほど狂気スレスレで生きていたと思われます。
私の母も精神こそ病んでいませんでしたが、新興宗教のキ×ガ×信者でした。

当時、子供達が母親の在り方を原因として精神を病むことが母原病として取沙汰されたりもしていましたが、そのように見えるのは母達が自分が抱えきれない問題を子供に負わせていただけだったと思います。
萩尾さんの作品はその問題を子供の立場から根源的なところで掬い取っていたのでした。
そのような作品を衝撃的と言わずして何と言えるか。

初期の「ポーの一族」のような作品では、直接的な親との葛藤みたいなものは描かれていません。
でも作者と両親の隠れていた関係を知ってもう一度「ポーの一族」という作品を見ると、実は象徴的レベルで世の中と自分自身との関係が描かれていたことが分かります。

たとえば、どのような社会でも自分達が生きている社会は、良い時は平穏でも、危機的状況になるとその本質を剥き出しにすると私は思っています。
ちょうどリーマンショックの頃、町に失業者があふれた時、それでも儲けている会社がありました。
そのような企業の経営者は、テレビを始めとしたメディアでは寵児でした。

数年後、そうした企業がブラック企業だったことが明らかになるのですが、どうやって儲けていたかその一例。
普通なら社員に無料で貸与するユニフォームを、社員の給料をカットする形で買い取らせていたとか、普通なら会社の必要業務の一環である労務管理の費用を管理費として社員の給料から徴収していたというようなことです。
こういう発想は萩尾さんの父親のアシスタントに対してとった発想と近似しています。
いずれも弱い立場の人の生き血を吸い取って自分は肥え太る発想です。

「ポーの一族」は、自分が人の生き血を吸い取ってしか生きられない吸血鬼であることを呪う吸血鬼の少年が主人公です。その養父は人を餌としか考えない酷薄な吸血鬼です。
萩尾さんの父親が言ったように、若い頃の萩尾さんは、意識レベルでは「世の中のことを何も知らな」かったかもしれないのですが、無意識のレベルでは世の中がどんなものか、そして自分が否応も無く何者であるかも知っていたと思います。
自分がどこにも属せないその悲しみを「ポーの一族」は描いていたのでした。
だから「ポーの一族」は頭で考えて作れる作品ではなかったのです。

今の私は萩尾望都の作品の良き読者とは言えないと思います。
難しいと言われていた「銀の三角」も「マージナル」もとても好きな作品でした。
でも「残酷な神が支配する」以降、萩尾さんの作品を読んでも、それまでの作品では感じられたカタルシス=心の浄化がまったく感じられなくなったのです。

原因は何よりも齢を取って立場を同じくしなくなっているからでしょう。
今の萩尾さんは、交友関係もおじさん文化人と交流し、おじさん文化人のアイドルみたいになっています。
そういう人達から受ける発想は私とは相いれないのではないかと思います。
「ポーの一族」の再開も、そういうおじさん文化人の一人からのリクエストだったそうです。
齢が齢ですので、好きなように作品を描かれれば良いと思います。



                                             

12月も下旬となり、ようやく暇になりました。
12月になってようやく割れたミツバアケビの実。

収穫したらこれだけありました。
やっぱり不気味ですね。

毎年12月になるとサンタを飾る町内のお家です。
よくよく見ると大きいサンタの顔の向きが変です。

2019年も終わります。
後は大掃除だけです


うちの猫には髭がある

2019年12月15日 | 
髭くらい、どこの家の猫も生やしてると思ったら大間違い。
うちの猫の髭は立派な口髭なんです。

名前はラッキー。こう見えても女の子。5歳です。

ホットカーペットの上、テーブルの下で寛いでいます。


だんだん眠くなる。




えっ!? 私、寝てた?

もうちょっと寝るわ。

お粗末様でした。




健康とスビリチュアリティ

2019年12月11日 | 健康
受講している「シニアの為の健康と医療の講座」で、エクササイズの講座があったのですが、エクササイズを学ぶ前に先生は“健康”について色々と話されました。
その中でWHO(世界保健機関)の執行理事会での健康の定義について触れました。
そこでの定義で私が考えたことを書いてみます。

WHOで1999年に改訂された定義では、『健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、肉体的、精神的、霊的(スピリチュアル)および社会的に完全に良好な力動的状態を指す』です。(この新たな定義の採択はWHOの総会では見送られています。)
それ以前は『健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、身体的、精神的および社会的に安寧な状態である』とされていたのです。

新たに「霊的」と「力動的状態」という言葉が加わったのですが「霊的」の意味について、講座でも先生は正直に「分からない」と言っていました。

この時の先生はアメリカでアスレティックトレーナーの資格を取得し、アメリカのプロスポーツ選手のトレーナーをされていたのですが、アメリカ社会は日本に比べて宗教がはるかに身近なわけです。
(というより、日本は世界中で最も宗教性がない国の一つなのかもしれないのです。)
それで霊的に健康と言われても、先生でなくても日本人なら???になってしまうのです。
先生もアメリカでは自身の宗教的な事を問われても答えられず、戸惑ったとのことです。

エクササイズの講座自体は役に立つだろうし面白かったのですが、終わってからWHOの定義について気になり、私なりに調べてみました。
すると霊的に健康ということの意味について、色々と書かれていました。
例えばあるサイトでは以下のようにまとめていました。

<これまでの健康観>   
 ・健康的な食事・運動・休養
 ・健診の数値が正常である。 
 ・心の悩みを改善する。

<スピリチュアルな健康観>
・生きる意味(目的)を見出す。
・前向きに生きる。
・今の自分を受け入れる。
・安らぎを感じながら生きる。
・死生感を持って生きる。
   

要するに、心のより深いレベルで満たされていることみたいです。

具体的にはどうなのかというと、欧米と日本では異なるようです。
医療の現場で健康と霊(スピリチュアル)を関連づける場合、欧米では具体的には代替医療がイメージされるみたいなのです。
(代替医療というのは少し前の記事で書いたアーシングのような統合医療で取り上げられる医療です。ホメオパシーとかアロマテラピーとか瞑想とかヨガとか。)
ところが日本では終末期医療(ターミナルケア)が主に連想されているみたいなのです。

宗教性が希薄な日本では、土壇場になって慌てるというか、死の問題が嫌でも大きくなってしまうのかもしれません。
たとえば日本では、癌の告知を本人に行うことが通例になったのはここ20年程のことです。
長い間、癌の告知は死の宣告と同じで、患者がショックを受けるという理由で告知はしないのが当たり前でした。
欧米では子供相手でさえあり得ないことでした。
でも癌の生存率が上がったり、治療の選択肢が増えたおかげで、ようやく告知がされるようになったようです。
中でも治らない患者に対する終末期医療においてスピリチュアルケアがなされるみたいです。

ここから私自身のことを書きます。
実を言うと、私は若い頃から癌が本人に告知されないことが疑問でした。
病名や予後という自分自身の生死に関わる重要なことが医療の現場で本人に伝えられないなんて・・・。
しかもその理由が、この人は癌の告知に耐えられないだろうというような患者の人格に対するネガティブな決めつけによるなんて。

もちろん、私は平気だなどというつもりは毛頭ないのです。
でも、たとえ平気でなくても、そこに私自身がどう生き、どう死ぬかというような自己決定権みたいなものが完全に奪われているのが嫌だったのです。
だから癌に罹っていることに倍する形で、その事実を知らされないことは耐えられないことだと思っていました。

こういう話を人にしても理解されたことはあまりなかったのです。
逆に無言で何も分かっていない人だというような目で見られたり、自分は告知されたくないと言われたりしました。
ただ一人、看護師の女性が、看護師としての経験上、同意してくれたことはあります。

ところが今回、霊的に健康とはどういうことなのか調べていて、私の若い頃の思いが意外にも霊的に健康という概念と繋がっていることが分かりました。
その前に、そもそもスピリチュアリティ(霊性)の意味をある程度ははっきりさせると、要は、自分や人が生きて在ることの意味や意義を自ら納得させつつ生きる時に、その奥に存在するのが霊性のようなのです。

アウシュヴィッツを生き延びた心理学者で精神科医のヴィクトール・フランクルは、『人間は、<自らの自由意志に基づいた責任のある決断を行い、人生の意味や、価値を追及しうる存在>すなわち、「意味への意志」を発動することのできる存在である。』と言ったとのことです。
当然、医療の現場では、過酷な状態にある患者に対し、その視点で援助を行ってほしいものです。
決して、この人には耐えられないだろうから本当の病名は知らせないでおこうという態度を取ってほしくないのです。

ただ時代は変わっていくわけで、今現在、癌による死で言われ始めているのは、癌で死ぬのは一番いい死に方ではないかということです。
理由は、癌だと知ってから死ぬまでが長いからというものです。
種類にもよりますが、癌だと、たとえ死が避けられなくても、時には数年単位で生きられます。
その間に、物心両面にわたって様々な準備ができるのです。

もちろん、告知を受けて最初から冷静に受け止められる人なんていません。
自分の死を何とか受け止めることも含めての準備です。
そこに至るまでの葛藤もまた、とても重要で意味あることであり、「霊的」という言葉と並んで「力動的状態」という言葉が付け加えられた理由はそういうところにもあるようです。

日本の医療の世界と言うのは、いまだに問題があり過ぎで、とうてい患者が「お任せ」でいられる状況ではないと思います。
ただ「シニアの為の健康と医療の講座」を受けて感じたのは、患者の側も医師の側も確実に意識が変わってきているということでした。
統合医療や霊的に健康という考えは象徴的な事柄だと思いました。


お葬式

2019年12月01日 | 日記
先日、叔母が亡くなり金沢までお葬式に行ってきました。

まったく突然の事という訳ではありませんでした。
亡くなる2週間くらい前、母方のはとこの女性から連絡があり、叔母のお見舞いに行った方が良いと言われていたのです。
それで叔母の一人娘である従妹に連絡すると「お見舞いには来ないでください」とはっきりと言われてしまいました。

はとこが私に連絡したのは悪意のないお節介だったのですが、従妹にしてみれば自分の母親が入院していて最後が近い日々に、遠くから私に来られるのは迷惑だったようです。
また、従妹ははとこが私に見舞いに行くように言ったことも知らなかったようです。
私としてはお見舞いに行っても、従妹に面倒を掛けるつもりはなく、病院にだけ行って、顔を見て帰るつもりでした。

そんなことがあっての死の知らせでした。
兄は葬儀には行かず、私だけ行きました。(兄は元気ですが遠出は無理だということで)
私もそれなりに準備をしていれば良かったのですが、そんなに早く亡くなるとは思わず、慌ててしまいました。

仕事を辞めて以来、人のお葬式に参列すること自体、まったく無くなってしまい、6年近く前の自分の母のお葬式以来のお葬式参列になりました。
それはそれで親しい人の死がなく、良い事だったのだと思います。
我が家は大半の親戚が暮らす金沢から離れた関西に暮らしていますので、関わりが浅ければお葬式に呼ばれることもないのです。

いつあるか分からないお葬式に備え、私も喪服やら黒い靴は持っていました。
ところが、あまりにも年月が経っていて、出した黒靴の中敷きが劣化してカスのようなものが・・・。
それを落とそうとして靴の先を両手で持ってパンパンと叩くとヒール部分がバキッと音立てて割れ落ちてしまいました。
ひぇー、何を履いて行こう😰
お葬式の前夜の話です。
仕方なく、紺色の靴を履いて行くことになりました。(マナー違反です!)

靴だけではなく、お葬式用の袋物のサブバッグも問題ありでした。
何か黒いゴミが落ちていると思ったら、サブバッグの持ち手部分の黒くコーティングしてあるものが剥げてポロポロと落ちてきているのでした💦
いっそ全部剥がしてしまおうとも思ったのですが、実際にやってみるときれいに剥がれない。
諦めました。

金沢まで行くので絶対にサブバッグは必要です。
式場には持ち込まず、控室に置いておくことにして、模様入りの、フォーマル用でない黒地の手提げを持って行くことにしました。(これもマナー違反!)
6年近く、出して確認することがなかったのです。焦りまくりでした。

さらに問題が・・・。お札が無いのでした。
私は3万円包むつもりでしたが一万円札が1枚しかありませんでした。
昨今のキャッシュレス化で現金の持ち合わせは少なく、持っていても便利な5千円札と千円札に崩していました。
お札は当日、ATMで降ろして確保することにしました。

お葬式の控え室でも少し話題になったのですが、香典袋をいつも家に用意しておくのは何か悪いような気がするという人がいました。
でも香典袋も、バタバタで用意するのは、幾らコンビニですぐ手に入るといっても困ると私は思います。
実はこの春に、持っていた夏用の喪服が何十年も前に買ったものだったので新しく夏用の喪服を購入したのですが、その時も喪服を買うということに気持ちの上で何か引っ掛かるものを感じたのでした。
といっても、喪服がすぐに着られないと困るのです。

そんなこんなで、マナー違反の私は内心冷や汗かきながら朝早くに大阪駅から特急サンダーバードに乗りました。
金沢でのお葬式に参列したのは祖母のお葬式以来で何十年も前のことです。
どんなお葬式になるのか、親戚の間でマナー違反が取りざたされるのか、色々と考えてしまいました。
でも会場についてみると家族葬で、小さい子も含め、ほんの近い身内15,6名ほどのお葬式でした。

亡くなった叔母は母の妹で、姉妹は主に母の側の責任で若い頃は親しくはなかったようです。
でも晩年には仲良くなったようです。
母が80代に入った頃、母が叔母と電話で長話して、受話器を置いてから「あの子(叔母)はやっと私のことをお姉さんと呼んでくれたわ」と言ったことがあります。
私は内心『今まで一度もお姉さんと呼ばれたことがなかったのか』と妙に納得したものです。
母は娘の私も含め、身近な年下の親族の女性を敵対視、というかライバル視するところがあったのです。
ライバル視された方は、理由もなく攻撃されたり貶められたりで、当然のことながら軋轢があったのです。

母の名誉のために書いておくと、そんな母も晩年には穏やかになり、娘の私のことも否定的にではなく認めるようになっていました。
叔母との間も仲の良い姉妹関係になって、よく長電話を楽しんでいました。
親子や兄弟で敵対したまま亡くなる人もたくさんいるので、母が80歳を過ぎて関係を改善したのは、それはそれで大したことだったと思います。

叔母は母とは異なり、穏やかで優しい人でした。
お別れの時、従妹が「お母さん、お母さん」とお棺に泣きすがるので、参列者も皆ウルウル。
後で従妹は、お葬式には義理ではなく、本当に泣いてくれる人を呼びたかったので家族葬にして良かったと言っていましたが、参列者がウルウルしていたのは従妹の涙にもらい泣きした部分が大きかったのでした。

従妹の人選のせいか、お葬式は終始和やかな雰囲気で、思い出話などして、本当に良いお葬式でした。
金沢のような大きな地方都市で、家族葬がどれほど一般的なのかは分かりません。
関西では家族葬が一般的で、その上で香典や供花も辞退するのが通例になってきています。
ただ、金沢でも、お葬式の控室で他の方と色々とお話していて、世代交代が行われて、葬儀や墓に対する考え方も変わってきたことは分かりました。

とりわけ驚いたのは、私が両親のお墓の話をした時の反応でした。
私達兄弟は結婚しなかったのでお墓を立てても守る人はいません。
私の父は晩年、それなりに考えて父が若い頃に出た実家の墓に入るよう手配していました。
そのことは親戚の人達も知っていました。
母の方は自分も山の中にあるその墓に入ることは嫌がって墓には入らないことにしたのでした。
それでお骨はどうしたのか、控室でも興味津々で聞かれました。

母の遺骨は母の遺言に従って京都の東本願寺に納骨したのでした。
そう話した時、その場がオオッと小さくどよめきました。
そして口々に「お墓はいらない」とか「私は散骨でいい」とか言い出しました。
母が夫の実家の墓に入らなかったことも「気持ちはよく分かる」と。
その時が一番、人の意識を垣間見た思いがしました。

お葬式は滞りなく終わり、私は日帰りで帰途につきました。
ところが特急サンダーバードは湖西線付近で強風の為に近江高島駅で1時間以上も停車。
その後も強風の為、時速25キロのノロノロ運転。
夜の9時前には帰れる筈が、家に着いたのは11時過ぎになっていました。
旅路は滞りなく、とはいかなかったのでした。

今回のお葬式では自分の終活も含め、色々と考えることがありました。




12月に入り、刺繍を施した色紙を掛け軸にかけてみました。
刺繍は母が刺したものです。

母が作った刺繍の色紙が何枚かあるので季節ごとに替えて飾ることにします。

ボランティアでは恒例の研修会でリース作り。
私が作ったものです。こちらは玄関に飾りました。


いよいよ年末です。
予定はギッシリ。頑張らねば

フォーマルの靴とサブバッグも買っておきます。