緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ④

2022年09月26日 | 男子新体操
<最初に>
遅くなりましたが③からの続きです。
③の記事も加筆訂正しましたので、できたら③から読み直して④を読んでいただけたらありがたいです。
もちろん④から読んでいただいても結構です。

私はここで、欧米の一部では男性が音楽に合わせて演技することに特殊で強力な偏見があることを示しました。
でもそれは具体的にどこの文化なのか。
コメントにはっきりと国名が書かれていますので、その文化にアメリカは確実に含まれます。

ただ大半を占める国名を書いていないコメントではどこの国かは分かりません。
否定的なコメントは英語が多いのですが、英語は世界共通語的な面があり、英語だから英米人とも限りません。

逆に好意的なコメントは東欧・南米・東南アジアです。
それらは国名や国旗が示されているか、文字や名前で地域が分かる国々です。
それらから多少乱暴に推測すると、偏見があるのは、ヨーロッパでも、おそらく南欧と西欧の国々ではないかと思います。
つまり、いわゆる先進国で、それらの国々の価値基準が時にグローバルスタンダードと見なされている地域です。

たとえば、私は二十歳の頃にリリアーナ・カバーニ監督のイタリア映画、厳密には伊米合作で、かのルキノ・ビスコンティも絶賛した「愛の嵐」という映画を観ています。
そこでも、レオタードのような衣装でダンスする男性が主人公の男性を誘惑しているシーンがありました。

半世紀近く前の話なので、はっきりとは覚えていないのですが、私の記憶では、なかなか巧みなダンスだったように思います。
男子新体操はああいったものと見なされているのかもしれません。
つまりゲイの求愛パフォーマンスです。
スポーツとして認めれば体操の品位を落とすとコメントされたのは、彼らにはそのようにしか見えないからかもしれません。

もう一つ、女子と同じスタイルの新体操をするスペインの男子新体操では、ドラァグクイーンと思しき男性が女性用のレオタードを着て新体操をしている動画が以前はたくさんありました。
今では削除されたのかほとんど見当たりません。
(削除したのはスペイン方式の男子新体操をスポーツとして普及させたい関係者か? もちろんスペインでも大半の選手は男性用のレオタードを着ています。)

今回、私が一つだけ見つけることができた女装した選手の動画。⇒ココ
確かに、いかにLGBTQに理解を示すべきと言われても、演技する目的が新体操というより、新体操の女性用レオタードを着ることにあるような男子新体操の選手をアスリートと呼ぶのは難しいです。
(女装自体は好きにしたらよいのですが、スポーツのイベントで目的が女装なのは疑問だということ。)

スペインは、私は新体操とは関係のないところで、非常にジェンダーフリーが進んだ国と聞いたことがあります。
スペインに女子と同じスタイルの男子新体操があるのも、そうした流れの中のものと思われます。
女装した選手達を受け入れていたのも、同じく進んだ社会の現れだったのかもしれません。

ただジェンダーフリーが進んでいるといっても、女装の選手達も含め彼らは、彼らの「ダンスは女性らしさの現れ」という社会的文脈の中で男子新体操をしているみたいです。
そうした在り様を本当にジェンダーフリーと言えるのかどうかは私には判断できません。
余計なことかもしれませんが、私には、スペインではそのジェンダーの軛がスペインの男子新体操を創造性や芸術性から遠ざけているようにも見えます。
(正確を期せば、一部の選手はそこから逃れつつあるようです。)

ところで、先進国だとされている欧米の価値観、物の見方は、ともすれば最も進んだ正しいこととして世界中に大きな影響力を持っています。
たとえば私は、ロシアを含む東欧の人達は、日本の男子新体操に対して好意的であると書きました。
それでも中には知識として欧米文化の影響を受けたと思われるコメントはあるのです。
たとえば、原文ではキリル文字の以下のコメント。


これは2016年の井原高校の演技についていたコメントです。
この人の場合、知識として欧米の価値観を持っていて「男性がこんなパフォーマンスをしていいのだろうか」と思ったみたいです。
でもそれはあくまで知識であり、本来のその人自身とは距離があります。

距離がなければ、選手達が少女に見えたり、男子新体操の演技を女性らしさの表れと思ったり、あるいは、パブロフの犬のように選手たちをゲイだと断言するでしょう。
ですが彼は、東欧という異なる文化的背景を持っていたが故に自分の戸惑いがステロタイプだと気づき、選手達をカッコいいと感じられたのではないでしょうか。

では同じように文化的に距離のある日本人ならどうでしょう。
イタリアで演じられた国士舘大学の男子新体操の動画に、次のような日本人のコメントがありました。⇒ここ


今さら私が指摘するまでもなく、サッカーやラグビーをはじめ、男ばかりで行うスポーツは珍しくありません。
でもサッカーやラグビーは男ばかりでも欧米ではゲイ集団だとはみなされていません。
それは欧米ではサッカーやラグビーが男らしいスポーツだと見なされているからです。
③であげたコメントの中にも、「だからゲイ・・なぜ男はこれをするのですか・・彼らはサッカーのようにゲイではなくハードなことをすることをできませんか」とはっきりと書いています。

要するに男ばかりの集団だからゲイだと決めつけられているのではないのです。
何度も指摘しますが、男子新体操は音楽に合わせて演技するから女のようだと思われ、その結果、ほぼイコールとしてゲイだと見なされているのです。

欧米のその種の文化的偏見に、日本の男子新体操が、わざわざ女子を入れて防衛的に追随する必要はあるでしょうか。
それ以前にこのコメントは、ゲイに対するネガティブな見方を当然として成り立っています。
また、ゲイだと見なされないために女性を加えようという発想も問題ありです。

②で、日本の男子新体操の歴史で見た通り、そもそも男子新体操の前身である団体徒手体操は、欧米の女性の新体操と異なり、当初からどちらか一方の性を排除したものはありませんでした。
新体操と名称変更してからも、高校や大学では新体操部として一緒に活動している学校は少なからずあるようです。

実際、男子新体操の動画でも男子新体操の選手が練習している直ぐ背後で女子の新体操の選手達が練習しているのをよく見かけます。
学園祭などのイベントでは男女が集団で創作演技を披露しています。
コメントを読む限り、海外の視聴者には目新しいのでしょうか、そうした創作演技も好評のようです。
全国にある民間の体操クラブでも同様で、クラブの発表会では男女一緒の集団創作演技が行われています。

それらは女子の場合、女子の新体操なのですが、近年では民間の体操クラブで、小学生くらいの少女達が女子の新体操ではなく、男子新体操に興味を持って男子新体操を行うケースが増えてきているそうです。
男子新体操では、すでに男女混合のミックスのチームが生まれ、競技会にも出場しています。⇒ここ

日本の男子新体操のジェンダーフリーは、外野がゴチャゴチャいうより前に、実態はずっと先に進んでいるのかもしれないのです。
もちろん、民間の体操クラブが男子新体操に少女達を受け入れたのは、大上段にジェンダーフリーやダイバーシティを掲げてのことではなく、少子化に対応するクラブの経営戦略として顧客のニーズに応えただけかもしれません。
あるいは傍からは伺い知れない問題があるかもしれません。

私は日本という国がジェンダー問題に理解があるとは少しも思っていませんが、こと男子の新体操に関する限り欧米西側諸国の方がはるかに遅れているように見えます。
これは単純に日本人が、音楽と合わせて演技することに男も女もないことを知っているからだと思います。
結果、自然体でジェンダーフリーに向かうことになってしまったのではないでしょうか。


長々と書きましたがこの辺で纏めていきます。

私は男子新体操の動画に付けられたネガティブなコメントを敢えて取り上げて、その背後にあるものを探りました。
ですがここ数年は絶賛しているコメントの方が圧倒的に多いのです。
欧米でもネガティブなコメントをしている人達は旧世代と言っていいでしょう。

日本の高校の男子新体操をテーマにしたアニメ「バクテン!!」を見た海外の若い視聴者は、YouTubeで実際の男子新体操を見て「アニメより凄い!」と感嘆しています。
そこでは先にあげたようなネガティブな言葉はありません。

思えば男子新体操は、どう考えても加入が認められない時期にFIGに対して加入のアピールをしていたのだと思います。
よく言われているように「団体演技で手具を用いないから新体操とは認められない」とか「タンブリングがあるから新体操ではない」といったこと以前に、もっと根本的な部分でスポーツとして認めるのは論外だと思われていた節があります。

ですが現在、そうした対外的な問題よりも大きな問題は、日本国内において男子新体操が70年の歴史と国際的な評価があるにもかかわらず、その競技内容が一般に知られていないマイナーなスポーツだということです。
それは、見てもやっても面白くないスポーツだからではなく、一般の人がほとんど見る機会がないからです。

大手テレビメディアが男子新体操をスポーツとしてきちんと取り上げてくれたらよいのですが、テレビで男子新体操が取り上げられるのは、お笑いタレントが学校のクラブ訪問するようなバラェティ番組が大半です。
それでもないよりマシですが、視聴者の理解と認知に繋がるような取り上げ方ではないのです。

実際、日本においてスポーツとしての男子新体操は、何十年にもわたり大手メディアで取り上げられることはなく、ほぼ無視されていました。
高度のスキルと芸術性を備えながら国際的にも認められず、国内的にも無視され、その結果なのかどうかは分かりませんが、国体からも外されていたことは①で述べた通りです。

メディアが取り上げなかった理由は、私には分かるようで分かりません。
大手メディアのスポーツ記者達は、もちろん男子新体操というスポーツの存在を知っています。
なぜなら、何度か触れたように新体操の試合は、何十年もの間、同じ会場で男女交互に演技が行われているからです。
長く続くその“黙殺”の状況は異常な印象さえ受けます。
あるいはここにも日本におけるジェンダー問題があるのかもしれません。

評判の悪かった2021年の東京オリンピックでは、スポーツにおけるジェンダーフリーやLGBTのスローガンが随分と語られました。
要はスポーツの場における多様性を認めよう、ないしはスポーツを通じて多様性を理解しようということだったと思います。
実は日本の男子新体操について語ることこそ、その種のスローガンの理解に繋がることではなかったかと思います。

私自身、男子新体操というスポーツの存在は長く知りませんでした。
このブログでは、動画のコメント欄から私が知り、推測できたことを書きました。
多々間違いもあるかもしれませんが、間違いと思われることはコメント欄や私への直接のメッセージで指摘してください。
このブログの記事が日本の男子新体操の認知と理解に繋がることを願っています。


日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ③

2022年09月26日 | 男子新体操
今回のテーマは調べれば調べるほど深いものがあって、我ながら大変な記事を書き始めてしまったなと思います。
もし私が大学の社会学科の学生か何かだったら卒業論文に取り上げたいくらいです。

論文ならば常に論拠となるエビデンス(証拠)を示さなければならないのでしょうが、ここではスマホで撮ったスクショ画面をエビデンスとして貼り付けることにしました。
必要な部分だけ切り取りましたので見辛いかもしれませんが我慢してください。
というわけで以下は①②からの続きです。

ジェンダーフリーの推進という最近の傾向を除けば、欧米では男子新体操に対し、長年にわたり抵抗があったようですし、今もあるみたいです。
多分それが分かれば、かつて日本の新体操がFIGに加盟のアピールをしたにもかかわらず認められなかった原因も分かると思います。
今回はそれについて私の考察したことを書きます。
(男子新体操は、今現在は加盟のアピールより国内での普及活動に力を入れているようです。)

以下に例として、実際のコメント欄から三種のコメントのコピーを挙げてみます。
どれも同じ2020年の吉留大雅選手の個人演技の動画のコメント欄にあったものです。動画はここです。

コメントは演技に対する感想が多いのですが、ときおり男子新体操そのものに対するコメントがあり、ここで挙げるのはそういうものです。
グーグル翻訳の日本語訳ですので、意味が分かり辛い部分もありますが、詳しく知りたい人は動画サイトの原文を当たってください。

一つ目は応援するものです。

原語は英語で、名前とプロフィール画像から判断すると女性のようです。

この人は日本の男子新体操が国際的に認められていないと知ると、ロビー活動のお手伝いや、署名活動があればそれへの参加を表明しています。
「FIGが加入を認めないのはおかしい」とコメントで書いている外国人は多いのですが、この人の場合は随分と積極的・能動的です。

それに対してもう一つは拒否的な意見です。


グーグルが翻訳しなかった「ダム」というのは、「くそっ」のような罵倒語です。

②で紹介した日本の男子新体操の応援サイトの「応援!男子新体操」さんの記事【「これは、新体操じゃない」から2年半】でも、「これは、新体操じゃない」というコメントと並び「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントが当初は多かったそうです。
これはその種の女性の側からの意見です。
(このコメントには直ぐに反論のコメントがありました。)

②で私は、コーチとして女子の新体操の第4回の世界選手権大会(ブルガリア)に赴いた藤島氏について書きました。
その藤島氏へのインタビュー動画(ここ)によれば、1969年の第4回当時、審判・監督会議に参加できるのは女性だけだったそうです。
要するに選手も監督もコーチも審判もすべて女性で、男性は会議に参加することすらできなかったみたいです。

女性のみというようなことが今も続いているかどうかは分からないですが、当時のスポーツ界はほぼ男性によって牛耳られており、その中で新体操だけは男性が入ることのできない女性の聖域だったのではないかと推測されます。
ジェンダーフリーが急速に進展している今の時代からみて、それは過渡的に必要とされた在り方だったのかなと思います。

さて、三つ目ですが、これが一番の問題。

RGというのは Rhythmic Gymnasticsの略で、 要するに新体操のことです。
親指を下に向けた絵文字は「いいね」の反対ですね。

このコメントに対し動画サイトの運営者である「応援 男子新体操」を始め、幾つかの反論の返信コメントがあります。
それに対し彼は次のようにコメントしてます。


そして、最終的に彼は以下のようにコメントしています。


15年間も真面目に体操に取り組んでいたという人の否定的な意見は、一般の人の判断より欧米の体操界の男子新体操を見る目に近いかもしれません。
それにしても品位を落とすとは酷い言い方です。
でもなぜ男子新体操が男性の体操選手の品位を落とすのか、はっきりとは書かれていません。

少なくとも演技に問題があるわけではないのです。
ここでの吉留選手の演技は、あくまで素人目ですが、スキルと芸術性において優れたものです。
少なくとも品位において問題になるようなものではありません。

コメントしているPauro某氏は、吉留選手の演技ではなく、男性のRG全般に対して品位を問題にしているようです。(演技は見ず、men’sのRGという言葉に反応しただけかもしれません。)
そして品位を問題にすることは、彼の中では説明の必要もないほどの常識だった・・・。

前に書いたように、私は一部の外国人のコメントに違和感を感じてその意味を探りました。
当初、私はYouTubeのお勧めで見始めた井原高校の男子新体操の演技を主に見ていました。
男子新体操は、国内外を問わず、自分達の認知と普及を目指して、演技だけでなく練習風景や国内外で行った様々なイベントや練習風景の動画も発信しています。
井原高校も例にもれず練習風景の動画を幾つか発信しています。

そうした動画のコメントの中で「自分には演技している選手達は少女に見え、演技していない時の選手達は少年に見える」というものがありました。
私は『えっ???』って感じでした。

いくら欧米人より日本人が華奢だとしても体型から見て演技中の井原高校の選手達はどう見ても少女には見えないからです。
それに“演技中だけ”少女に見えるとはどういうこと??
でも男子新体操では、この種の訳の分からない事柄はよくあるのです。

たとえば私の記憶に残るネットの記事でも、ある日本人が、男子新体操の個人選手の演技を外国人に見せたところ「こんなにも女性的にならなければいけないのか」と言われ、「一体この選手のどこが女性的なのか」と怒っていたのがありました。
多分それも、その選手が女性的なわけでも、また演技が女性的なわけでもなかったと思います。

私がその意味をやっと理解したのは2018年の青森大学の演技(ここ)に付いたコメントからでした。


演技を見て貰えば理解できますが、2018年の青森大学の演技は「古代の戦士達のようだ」というコメントがあったくらいで、優雅でありながら力強いものでした。
それを「女性らしさの表れ?」と問いかけるのはオカシイのです。
さすがに他の人もオカシイと思ったのか以下のように「女性らしさ?」と問い返すコメントもありました。


それで私もやっと気が付いたのですが、欧米の一部の人達にとっては、音楽に合わせて踊ることは女性以外にありえないと考えられていることです。
だから筋肉質の若い男たちが古代の戦士のように踊っても「女性らしさの現れ」になってしまうのです。(疑問符をつけているところを見ると自分でも変だと思っているみたいですが)

そのダンス自体が女性的か男性的か、はたまた性別とは無関係なものなのかは全く関係ないのです。
踊っている人=女性、踊ること=女らしい、なのです。

そんな馬鹿なと思われるかもしれません。
私も意外でした。
だって昔の映画で見たジョージ・チャキリスは、フレッド・アステアは、ジーン・ケリーは、男性ですが踊っていたではないですか。(我ながら古い・・💦)
(もっとも、ジーン・ケリーは子供の頃、ダンスを習っていて、近所の子供に「女々しい」とからかわれ、一時期ダンスを辞めていたらしい。)

しかし考えてみれば彼らの場合は歌も歌い、演技もし、要するにミュージカルの中のダンスです。
しかもストーリーはほぼ男女の恋愛もので、相手役の女性も登場します。
フレッド・アステアの場合、当初は姉とコンビを組んで踊っていましたが、姉が結婚して引退後はコンビの相手探しに苦労しています。
衣装も普通の男性の衣装です。
おそらくそれ故に、ダンスを踊っても彼らは男性なのです。

私は日本以外で生活したことがない日本人で、正直なところ欧米文化のコアに関わる知識は持ち合わせていません。
ただ彼らの発言から推定できることを書きます。
どうやら、レオタードのような衣装を身に付けた男性の、音楽に合わせたダンスや体操に対する偏見があるみたいです。

器械体操の床運動でも、女性選手は音楽付きで演技しますが、男性選手は音楽無しです。
要するに男性は踊っているように見えてもいけないのです。
逆に女性は踊ることが求められているみたいです。
女性のみ、“体操の要素”としてリズム感があることが問われるのです。

でも、筋肉の量や質の違いから男性にのみ吊り輪やあん馬があるのは分かるのですが、リズム感が女性にのみ求められるのは、それこそ欧米だけで通じる社会的・文化的性差=ジェンダーなのではないでしょうか。
いずれにしても、これが新体操(Rhythmic Gymnastics )が長い間女性のみのスポーツであった理由だと思われます。

②で紹介した男子新体操の応援サイト「応援!男子新体操」の【「これは、新体操じゃない」から2年半】では、「これは新体操ではない」というコメントの次に多かったのは「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントだったそうでが、その背景にあるのもこの考えだと思われます。
彼らにすれば、音楽に合わせて演技するのは女性であることは疑問の余地もない当然のことなのです。

(余談ですが、ブレイクダンスのようなストリート系のダンスは、次回のパリオリンピックで追加競技となったように男性がダンスしても許容されています。
おそらく社会的な文脈がまったく異なるのでしょうね。
それ以前に、オリンピックでストリート系の競技が増えてきているのは、現在、世界的にオリンピックに対する関心が薄れてきているので、ストリート系の競技を積極的に取り入れることで若い世代のオリンピック離れを止める為だと言われています。)

話を元に戻すと、はっきりと次のようなコメントもありました。(このコメントは同じ吉留選手の2019年の動画からです。⇒ここ)


私は日本において男性がダンスする、音楽に合わせて踊ることが不名誉なことか考えたこともなかったですが、少なくとも私は67年間生きてきて「男が踊るとは何事だ」みたいなことが言われているのを聞いたことがありません。
ダンスすること、舞踊は、男女を問わずいつもポジティブに捉えられていたように思います。

ただ、女の子が習うものだとされているバレエや男子新体操についてのみ、時にからかいの対象になるようです。(男子新体操については女子の新体操との混同による無知からきています。)
それも子供か、頭の中が子供レベルの大人の世界だけの話です。
だから、伝統的には男性だけで踊ることを不名誉とする文化は日本には存在しないのではないかと思います。

では踊る男性を一部の欧米の人達はどう見なすのか。
女性的な男性、「ゲイ」だとみなすのです。
以下のコメント。


当然そのように見られることを恐れているコメントも。


私はここでは主に2019年と2020年の吉留選手の演技の動画に付いたコメントを紹介しました。
こうした動画がYouTubeにアップされるのは、実際に演じられた1、2年後ですので、コメントはスクショ画面からも分かるようにここ1、2年に書かれたものです。

よほど世の中の動きに疎い人でない限り気づいているように、ここ数年で先進国と言われている国々のジェンダーやセクシュアリティに関する考えは急激に変わってきています。
だから(誰も自分が遅れていると思われたくないので)、ある意味コメントは曖昧で、肝心な部分はぼかされているのです。
それがまた私を怪訝な感じにさせた理由でもありました。

「ダンスを踊るなんて女以外ありえないだろう。男が踊るとしたら、そいつはゲイだ」と、はっきりと書いてはいないのです。
もしはっきりとそう書いてあったら、言っている事のおかしさを指摘するのはそれほど困難ではないでしょう。

ではここ1、2年ではない、ずっと以前のものならどうなのか。
最も古く、YouTubeで世界レベルでバズった男子新体操の動画は、この記事のシリーズの①で取り上げた2009年の青森大学の演技ですが、その動画は転載されて複数あります。

ここでは、同一の動画が「The Worlds Most Amazing Asian Synchronized Dancers」と題されたもの(ここ)と、「Men's RG.Aomori univ.Oct-2009」と題されたもの(ここ)でアップされているので、その二つの動画のコメント欄の違いを見てみます。

前者の題の意味は「世界で最も驚くべきアジアの同期したダンサーたち」であり、説明も演技者をダンサーとしていて、アジアであることだけ分かりますが、国名も、誰が演技しているのかも、どういう状況なのかも分かりません。

後者の題の意味は「男子新体操 青森大学 2009年10月」で、説明でも全日本選手権で優勝した演技であるとされています。
要するに前者ではダンスということになっており、後者では男子新体操であることが分かるようになっているのです。

この二つの、そもそもは同じ動画のコメント欄を読んで何がわかるのか。
前者の「ダンサーたち」とのみ説明されていた場合、そのダンサーの性別を女性だと思い込んだ視聴者が多くいたのです。

中にはコメントを書く段階でも男性だと分からなかった人もいます。





私はわざと選手の写っている画面も入れましたが、女性に見えるでしょうか。

男性か女性か迷っている人もいました。









途中で女性だと思い込んでいた自分の間違いに気づく人達もいます。














日本人ならまず間違えないと思いますが、彼らはなぜこんなにも性別を間違えるのか。
それはやはり音楽に合わせて演技する人は女性でしかないと思い込んでいるからでしょう。

彼らにとってはダンサーが女性であることは自明の理であり、無自覚かつ無意識の、極めて強力な思い込みのようです。
だから男性ダンサーがどんなダンスを踊ろうとも、彼らにとってはそのダンスは女性的になってしまうのです。
そこまで強力な社会的な何かがあるとしか言いようがありません。

では後者の動画ではどうか。
後者ではMen's RGという形で最初から演技者が男性であることが明かされています。
(前者ではコメント数が1879か1880、後者では474と書かれていますので、そこで前者と後者の区別をつけられます。)
するとコメント欄は古いものであればある程、「ゲイだ」「ゲイだ」になります。

















もちろん前者の性別が明かされていない動画のコメントでも、演技者が男性だと気づくと「ゲイ」ということになります。










偏見に基づく妄想の世界がどんなものか知りたかったら、これらのコメントを読めばいいのです。
私自身こういうコメントは、引用していても気分が悪くなるので、ここらへんで止めときます。

それらの妄想的認識は「ほとんど病気」というより、既に「病膏肓に入っている」感じのものです。
いずれにしても、ある一つの文化圏の血肉と化した偏見・ステロタイプを打ち砕くことが容易ではないことは理解できます。

もちろんコメントは以上のようなものばかりでなく、大半は賞賛です。
ゲイだと決めつけているコメントにうんざりしているコメントもあります。












ゲイだと決めつけているコメントでも「ゲイだが素晴らしい」と、一方で賞賛しながらゲイだと決めつける混乱したコメントもあります。
男性が踊っているとゲイだと決めつけるのは、彼らにとって“パブロフの犬”のごとき反応なのかもしれません。

ちなみにコメント中で書かれているエスノセントリズムとは、自分の生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考えて、それを基準に他の文化・社会を評価する考え方のことです。

誤解なきよう付け加えておくと、私がここで問題にしているのは、私自身がゲイをネガティブな存在だと捉えて、コメントをしている人達が男子新体操の選手達をゲイだと決めつけていることではありません。

私が問題にしているのは、同性愛であれ異性愛であれ、およそ人の性的指向を勝手に決めつけていることです。
その上、彼ら自身にとってはゲイはネガティブな存在であり、そういうレッテル貼りを平気で、確信をもって、時に面白おかしく行っていることです。

LGBTQについて論じられる場合、多くはそれを性的マイノリティである人達に対する差別の問題として語られています。
ですが日本の男子新体操の場合、そもそもゲイあるいはゲイの文化とは無関係で、多くいる選手達の中に確率的にゲイの選手がいたとしても性的マイノリティの当事者とさえ言えません。

だからといって、そこにはLGBTQに対する差別の問題は存在しないとは言えないのです。
なぜなら差別する人達は日本の男子新体操の選手達をゲイだと確信していて、その上で差別しにかかり、男子新体操をスポーツではないとさえ言っているからです。

しかもそのベースにあるのは「音楽に合わせて演技するのは女性以外にありえない」という特異なジェンダー観、男らしさや女らしさにまつわる思い込みです。
もちろんそこにはコメントで指摘されているようにエスノセントリズムもあります。
すなわち文化の多様性に対する無理解です。
実際、文化によってはLGBTQさえ問題にならなかったことは歴史上明らかでもあるのです。

長くなりそうなので一旦切ります。



日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ②

2022年09月26日 | 男子新体操
いわゆるジェンダーフリーの流れを受けて、オリンピックでも一方の性だけの競技を無くす気運が高まっています。
結果、今まで男性のスポーツとされていたボクシングや、女性のスポーツとされていたアーティスティックスイミングにも、女子ボクシングや男子がアーティスティックスイミングにMIXとして入るといったことが行われ始めました。

では女性のスポーツとされていた新体操はどうなるのでしょうか。
当然、男子新体操が必要となります。
ジェンダーフリーのこの流れは今までFIG(国際体操連盟)から加盟が認められていない日本の男子新体操にとって、国際的にも認められる追い風になるのでしょうか。

実は、そうはならないみたいです。
それどころか、ジェンダーフリーを推進したい人達にとっては、日本の男子新体操はスポーツにおけるジェンダーフリーをなし崩しにする性差別的な存在として、敵役のようにさえ見られています。⇒ここ

その理由は日本の男子新体操は新体操と言いながら、女子の新体操と同じ内容ではないからです。
日本の男子新体操は、団体では手具を持たないですし、個人の場合も手具が異なります。
(“手具”とは、女子の場合はリボンやフープなど選手が手に持って演技する物のことです)
また日本の男子新体操ではタンブリング(バック転・宙返り等の回転技)が必須ですが、女子の新体操では禁止事項です。

彼らの言い分では、新体操と称するからには女子が行っている新体操と同じ内容でなければならないのです。
もし、日本の男子新体操が、新体操の男性バージョンとして認められるようなことになれば、新体操は名目上はジェンダーフリーを達成したことになりますが、実質的にはジェンダーフリーにはならないというわけです。
むしろ日本の男子新体操は、ジェンダーフリーをなし崩しにする存在だということになります。

当然、日本の男子新体操に対する眼差しは厳しいです。
「何を好き勝手なことをしてるんだ」って感じです。

そのYouTubeのサイトでのネガティブな雰囲気を察知して、日本の男子新体操の応援サイトを立ち上げている「応援!男子新体操」の管理人が、そこのコメント欄で、日本の男子新体操が日本に女子の新体操が入ってくる以前から存在していたこと、新体操という言葉が翻訳上誤解を与えることを書き込んでいます。
それで、ようやく日本の男子新体操が、女子の新体操とはそもそも別物と理解されたようです。

ここで整理するために、もう少し詳しく、日本の新体操の歴史を書いておきます。

日本の新体操には、前身として団体徒手体操というものが戦前からあったそうです。
それはスウェーデン体操、ドイツ体操、デンマーク体操の要素を組み合わせた、団体で行う日本独自の体操競技でした。
1940年代、健康促進のために日本の学校に男女別のその競技の規定演技が導入されています。

団体徒手体操は1949年に開催された国民体育大会で正式に公式種目として採用され、1950年には全日本学生選手権(インターカレッジ)の、1952年には高校総体(インターハイ)の種目ともなり、ずっと続いてきました。

一方、海外に目を転じれば、新体操は女子のみのスポーツとして1963年に最初の世界選手権が行われています。
そして、1967年、団体徒手体操の当事者であった藤島八重子氏と加茂佳子氏が新体操の第3回世界選手権大会(コペンハーゲン)を視察します。

視察した二人は新体操に感動し、その当時の新体操のルールを持ち帰りました。
そしてヨーロッパで行われている「Modern Gymnastics(当時の新体操の洋名)」と、女子の団体徒手体操の競技性の類似点に着目し、日本体操協会内で検討された結果、1968年に女子の団体徒手体操は団体徒手体操から「新体操」として新たなスタートを切ったのだそうです。

さらに、早くも翌年の1969年には第4回世界選手権大会(ブルガリア)に参加し、日本は団体で5位に入賞しています。(これは単純に凄いです!)
その大会には先の藤島八重子氏はコーチとして、加茂佳子氏は選手として参加しています。

ところで、ヨーロッパ発祥のModern Gymnasticsは女性のスポーツであり、男性は行われていません。
ですが日本体操協会はこれまで男女共に発展してきた「団体徒手体操」の流れを継承し、国内においては男女共に「新体操」と改名しました。
同時に、女子の新体操との整合性を持たせるためなのか、男子新体操も個人種目を創設し、個人種目のみ手具を持つようになりました。

ただし、手具は女子のそれに倣わず(リボンやフープを用いず)、新たにスティックやクラブ(女子のそれとは大きさが異なる)といった種目を作っています。
もちろんルールも、女子のそれは参照したと思われますが異なっており、元々あった団体徒手体操のルールを個人競技用に敷衍化したものです。
ですから個人種目でも徒手体操の動作が重視され、タンブリングも必須なのです。

日本の新体操の場合、団体徒手体操の時代から男女が共に行うという意識は強いようで、実際、日本の新体操の公的な競技会(全日本・インカレ・インハイ等)では、女子用のマットと男子用のマットが並べて敷かれ、男女交互に演技が行われているとのことです。

男子新体操が個人競技を創設したのは、女子のみ個人種目が加わると、競技としての多彩さの上でも、また競技会においては時間的にも演技数の上でも、著しく男女不均衡になるということがあったのかもしれません。
いずれにしても、手具を持った個人種目の創設は女子の新体操の影響と思われます。

そのようにして今日の日本の男子新体操が競技として出来上がったようです。
今から54年前、1968年、おそらく男性が新体操するなど欧米の関係者が発想すらしなかった頃の話です。(発想しなかった、その理由については後述)
以上、私が調べた限りですが、間違いがあればコメント欄にてお知らせください。訂正します。

そして現在です。
日本の男子新体操は、国内より国外の方が認知度が高いと言えるほど、You Tube 等のsnsを通じて、世界各地で視聴されています。
きっかけとなったのは、一人のドイツ人が、自分のFacebookに井原高校男子新体操部の演技を載せたことだったようです。

先の日本の男子新体操の応援サイトを立ち上げている「応援!男子新体操」によれば、それは文字通りバズったのですが、同時に「これは新体操ではない」というコメントが最も賛同を集めていたということです。⇒ここ

当初は「日本ではそうなんだ」と、そのFacebookの管理者を含め、何度説明しても理解は得られなかったそうです。

ところが、その「応援!男子新体操」の記事は2019年のものですが、【「これは、新体操じゃない」から2年半】と題されているように、2年半で急速に理解され始めています。
私の推測ですが、その背景には視聴者の属する文化圏が西ヨーロッパから世界へと広がったことがあると思います。
中南米やアジア、とりわけ東欧の視聴者は、そんなことはあまり気にしないみたいです。

西欧以外、新体操には馴染がないからという理由ではないようです。
ロシアを含む東欧は、新体操の本場であり、世界で最も盛んで、かつ強い国々で、思い入れもあると思われますが、それでも私が読む限り「これは、新体操じゃない」というコメントはほとんど見かけなかったように思います。(東欧かどうかはキリル文字なので私にも分かります)
むしろ絶賛していますし、特にロシアは事実として日本の男子新体操の強力な推進者です。
目の肥えた彼ら(東欧)は芸術スポーツとしての価値を第一義に置くようです。

西欧の場合、「新体操とは」という理屈が先に立っています。
特に、先のジェンダーフリーを推進するサイトの場合、ジェンダーを巡る政治的な思惑が優先されています。

特にコメント欄では、スポーツに対する愛も、アスリートファーストの姿勢も、アスリートへのリスペクトも、私には感じられません。
時代は古いですが、1968年当時の、「世界を舞台に戦いたい」という女性アスリートの熱い思いを受けて、彼女たちが国際舞台で活躍できるように尽力した日本体操協会の方がずっとアスリートファーストだったように思います。

というわけで、FIGが最終的にどう判断するか分かりませんが、日本の男子新体操を一つの正当なスポーツとして認めようという世界的な気運は確実にあるようです。
それでも様々な問題が片付いたわけではないです。
一つはMen's Rhythmic Gymnastics として表記される名称の問題です。

実は、新体操の名称は日本では1968年からずっと「新体操」ですが、国際的には何度も名称変更しています。
日本の男子新体操は女子の新体操に合わせて、その時々の新体操の名称に訳されてしまうことになっているようです。
私は、国外向けには、男子新体操のみ、冒頭にJapaneseを必ず付けるように名称変更しても良いのではないかと思います。

そしてもう一つ、重大な問題があります。
そもそも私がこのテーマで記事を書きたいと思ったのは、スマホで徒然なるままに男子新体操の演技に寄せられるコメントを読んでいて、一部欧米系のコメントに奇妙な違和感を覚えたからです。
それは文化の違いと言ってしまえば簡単ですが、先のジェンダーフリーの推進とは別次元の、欧米文化に内在する性差別の実態であり、LGBTQの問題です。

一番書きたかった所にやっと辿り着いたのですが、長くなりそうなので③に続きます。


日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ①

2022年09月26日 | 男子新体操
“The most beautiful sport on the planet ”
この英語のセンテンスは、私がある男子新体操の演技をYouTubeの動画で見ていて、そこのコメント欄で見つけたものです。⇒ここ(2014年の花園大学の演技)
私と同じことを考えている人がいるんだ─と、見つけた時に思いました。

『それは大袈裟でしょ』と思われそうですが、私は見れば見るほどそう思います。
よく比喩に用いられるのが、団体ならば“床上のシンクロナイズドスイミング”とか、個人ならば“スケート靴を履かず手具を用いる床上のフィギュアスケート”とか。
まあ、そんな言葉より実際の演技を見れば百聞は一見に如かずです。

日本の男子新体操の演技はYouTubeでたくさん見ることができます。
コメント欄は外国語が多く、実際、男子新体操の動画の発信者によれば、見ている人は、今では日本人より外国人の方が多いらしいです。
私が男子新体操というスポーツを知ったのもYouTubeで、知ったその後の成り行きも多くの外国人と似たようなものだったと思います。

日本のものなのに外国人と同じ知り方をしてしまう。
その理由は、男子新体操は日本のメディアでは滅多に取り上げられないからです。
取り上げるのはせいぜいバラエティー番組で、肝心の演技はほとんど写らないのです。
ですから私がテレビ画面越しにその演技を見る機会はなかったのです。

そういうわけで、私もまったくのシロウトですが、それでも私は日本人なので外国人よりは情報を得られますし、日本の文化についての知識もあります。
そこで知ったのは、日本の男子新体操は国内的にも国際的にも困難な立ち位置にあるらしいということでした。

ですので、このエントリーでは、一般によく知られていない男子新体操について、私自身が知識を整理する意味でも、知りえたことを主観的な感想を交えて、また長くなりそうなので分けて書いてみたいと思います。

男子新体操は日本発祥のスポーツです。
1949年には団体徒手体操という名称で国体の正式種目になっています。
スペインでも男子新体操をやっていますが女性の新体操と同じことをやっていて日本の男子新体操とは異なります。
ですから日本の男子新体操は、Japanese style men's rhythmic gymnastics とも言われます。

FIG(国際体操連盟)は日本の男子新体操の加盟を許していません。(水面下で調整が行われているのかもしれませんが私には分かりません。)
だからオリンピック競技ではありません。

実は、今から10年くらい前の日本の男子新体操は「極東の小さな島国で生まれ、進化した、際立って美しいスポーツ界の絶滅危惧種」みたいなものでした。
2008年を最後に、国体からも外されていて、当時、このスポーツの競技者は1000人程度だったそうです。

2008年と言えばリーマンショックの年であり、日本経済はどん底でした。
国体からの休止扱いという名の排除は国から見捨てられたも同然だったかもしれません。
当時、男子新体操は、どれ程の技術や知識を身に付けたところで、それを役立てる仕事は中学や高校の体育の教師くらいしかなく、勤務先の学校に新体操部がなければ関係のない体育関係の部の顧問になるしかなかったようです。

普通のサラリーマンになるにしても、面接で「男子新体操をやっていました」と言えば、競技内容があまりに知られていないため「リボンをクルクル回していたのか」と馬鹿にされかねない状況でした。
ただでさえ、ちゃんとした仕事を得ることが難しい社会で、そんなスポーツをあえてやろうと思う人は少なかったかもしれません。

ですが男子新体操は復調しました。
現在、男子新体操の競技人数は2000人くらいに増え、2018年時点で2023年の国体(現在は「国民スポーツ大会」)への復帰が決まっています。(国体から一度外された競技が復帰するのは奇跡に近いんだそうです。)

大学卒業後の活躍の場も、世界中のパフォーマーの憧れの的であるサーカスパフォーマンス集団、シルク・ドゥ・ソレイユへの入団実績が多人数あり、それ以外にもプロのダンサーやパフォーマーになった人もいます。
ただ、やはり大学卒業と同時に現役からは引退する選手がほとんどのようです。

私が男子新体操の演技を見始めた頃、自分でも冗談のように『この人達の就職先はシルク・ドゥ・ソレイユか』と思ったものですが、その時点でもう数十人の男子新体操の選手がシルク・ドゥ・ソレイユに入っていたのでした。

シルク・ドゥ・ソレイユが日本の男子新体操に着目した理由を知ると、男子新体操がどういう特色を持ったスポーツなのかよく分かります。
シルク・ドゥ・ソレイユが日本の男子新体操を最初に見出したのは2009年の青森大学の団体の演技、通称「ブルー」と言われる演技からだったそうです。
「ブルー」の演技は⇒これです。

「ブルー」は当時、主に海外のSNS上で、その演技の美しさとスキルの高さが評判になっていました。
そして2011年、シルク・ドゥ・ソレイユのプロデューサーが、あるパフォーマーから「ブルー」の動画を見せられ、その演技に驚愕し、即座にリクルーティングのスタッフを日本に送り、その時は7人の新体操の選手を採用したとのことです。

「ブルー」は、男子新体操の演技の中でも特別な美しさを持っていました。
見るとなぜか胸を打たれてしまうのです。
コメント欄を見ても英語で「私は泣いた。なぜ?」といった意味のものがあります。

泣く理由は、この演技が生まれた背景を知ると理解できます。
以下のエピソードはわりと有名です。
この演技は当時の青森大学の男子新体操部の部員達が、2009年の2月に亡くなった自分達の先輩である大坪政幸氏を追悼する意を込めて作られていました。

大坪氏は青森大学男子新体操部の創立者の一人であり、男子新体操の可能性を信じて活動していた人でしたが、27歳で妻と幼い二人の子供を遺して悪性腫瘍で亡くなっています。
「ブルー」で使われた楽曲の“ブルー”は、彼が現役の選手だった時に個人の競技で使っていた曲でした。

「ブルー」を見る人は、演技という形で具象化された追悼の思いを受け取り、それで訳も分からないまま心打たれてしまうのです。
通常、スポーツにおける芸術性という場合、難度の高い動きが音楽と合っていて綺麗、みたいなレベルですが、それだけではない芸術性、文字通り心に響く芸術性がそこにはありました。

ですが2009年は、奇しくも男子新体操が国体から外された最初の年です。
「ブルー」とは関係なく、男子新体操の関係者は、いよいよ自分達が携わるスポーツが滅びの道を歩み始めたという自覚を持ったかもしれません。
2022年の現在の私から見ると、男子新体操の演技がその頃から大きく変わり始めたように見えます。

それは、はっきりと口にする監督もいるのですが、要するに男子新体操はスポーツだから試合では勝たなくてはいけない。しかし男子新体操はそれだけではなく、美しくなくてはいけないし、見た人に感動を与えるものでなくてはならない、と。

確かに見ていて、このチームは勝敗や順位にこだわっていない、ルールには則っているんだろうけど自らの美意識の限りをここで尽くしているなと思える演技があるのでした。
いってみれば崖っぷちでダンスを踊っているような・・・。
The most beautiful sport on the planet と、そう思わざるを得ない何か。

結果として男子新体操が国体から外されたことは良い変化をもたらしたと言われています。
それは指導者(監督・コーチ)の意識を、思い切った創造性を発揮する方向に変えただけではありません。
それまでの高校生依存から脱却したとされています。
高校の部活動から民間の新体操クラブに中心が移ったのでした。

元々強豪と呼ばれる高校のチームは連携したジュニアのチームを持っていたようです。
かてて加えて、それまでにあった女の子向けの新体操の教室が、少子化の影響や保護者の希望で男の子向けの、要するに男子新体操の教室を併設するようになったようです。
4,5歳から新体操に親しんでいた子供達は高校生にもなれば10年選手です。
結果、男子新体操全体のスキルの向上は凄まじいものがありました。

そうして競技者の数も徐々に増え、SNSのおかげで演技の素晴らしさが国内外の人も知ることになってファンが増えても、日本では未だに大半の人がこのスポーツを見たこともないマイナースポーツなのです。
これは不思議としか言いようがないです。

男子新体操の関係者は男子新体操を広める為に大変な努力をしていますので、その原因は日本の大手メディアにあるように思います。
正直私は、メディアは日本生まれのこれほど美しいスポーツの存在を視聴者に知らせないでよいのかと思います。

それだけではありません。
今、世界では、スポーツにおけるジェンダーフリーが強く推し進められています。
スポーツ界におけるLGBTQについてもそうです。
また現在の世界のスポーツ界は当然のように欧米中心の価値観で動いています。

私は何ら専門家ではありませんが、日本の男子新体操が時にその種の激しい議論の中心にいることはすぐに知れました。
現在進行形の極めてアクチュアルな問題に対して、報道に携わる人や有識者と呼ばれる人が沈黙を保ったままでよいのか・・・。

というわけで、②に続きます。


清風高校(大阪府)の演技のワンシーン。


ハーブの差し芽

2022年09月18日 | 庭の植物
シニアの学校の家庭園芸講座、夏休みが終わった最初の授業はハーブでした。

実は私、20年くらい前、ハーブに凝ったことがあり、その結果、私にはハーブは合わないということが分かっているのです。
でも講座の一環だから休みもせず受講しました。

ハーブの差し芽の実習もあり、何種類か貰いました。
家に帰って差し芽するようにということでした。
ありがたいというよりは・・・・。
でもせっかくだから貰って帰りました。

家庭園芸の講座、講座だけでなく昼からは圃場に出て炎天下で野菜作りの農作業です。
3時間近く作業するのですが、それが辛くって・・・。
「本物のお百姓さんは一番暑い時に畑仕事なんかしない。朝早くにして昼間は昼寝してるもんよ」と心の中で文句タラタラ。(笑)

ようやく終えて、家に帰って休む間もなく差し芽の作業。
時間が経っているからグスグズできません。
貰った枝をまず水に漬け、苗用ポットに土の用意をして、水から引き上げた枝を切り、割りばしで土に穴を開けて差していきます。水もタップリ与えて。

その後に夕食づくり。
疲れるわー
翌日はグッタリしてました。

家で差し芽したポットです。


一番右の一つはアロマティカスです。
その左隣の二つはローズマリーです。
その左隣の二つはソープワートです。
その左隣の奥の一つはラベンダーです。
後の三つはタイムです。

私にハーブが合わない理由。
以前にハーブを育てていた頃、ハーブは使い切れなかったのです。
ミントやバジルは本当に良く茂りますので興味のある方にはお勧めです。

でも私はハーブティーを美味しいと思えず、こじゃれた洋食も自分であえて作るほどではなく、結局ハーブは放置になってしまったのです。
ミントは丈夫なので5年くらい前まで庭にまだありましたが、それも消滅しました。

要するに柄じゃないんです。
ハーブ育てて楽しむなんて、おしゃれじゃないですか。
でも私はダメでした。

今回のハーブの中には花が楽しめるものもあるみたい。
繁殖力旺盛ならそのつもりで楽しみます。
ラベンダーは関西は暑すぎて育たないのですが、貰ったラベンダーは暑さに強く関西でも育つ種だとか。
でもまだどれも発根するかどうかも分かりません。

今回の先生、12月にもハーブではない講座があるのですが、次回は月下美人の苗を下さるとのこと。
ありがたく押し頂くことにいたします。

9月も半ばですが連日34度の猛暑続き。
いつの間にか庭の柿の実が色づき始めたようです。








今年は柿の生り年のようです。