10月18日の朝は久しぶりに、モーニング・ニュース・サーフィンをした。
謝罪した亀田家の報道をどのように扱うか興味があったからだ。
その結果、やはりと言うか、各テレビ局のアプローチが私の予想通りの扱いなのに辟易した。
今日の私は、亀田家の立場で話を進める。
亀田大毅選手が、頭を丸め反省の意を示した。
100の言葉より、1つの行動。
亀田史郎氏は、頭を下げ「色々とご迷惑をかけ申し訳ありませんでした。」と口頭で反省の意を示した。
私は今回の騒動についての謝罪は、これで充分だと感じる。
大毅選手は18歳で、本来は未成年の年齢。
日本の法律では仮に殺人を犯しても、匿名で報道され将来を保護されている。
ただし、有名人であることから有名税を支払わなければならない立場なので、こうした公開の謝罪会見の場を持つことになるのだが、彼が犯したのは犯罪ではなくボクシングのルール上での反則。
(ただし、試合の進行状況によっては、命にかかわる可能性もある重大な反則。そのため、協会では、重い処分を課した。)
史朗氏の弁明も「仕方ない。」「とりあえず。」と、歯切れこそ悪いものの、自らを反省し処分を受け入れることを表明。
言葉使いや、言語の言い回しなどに問題はあるかも知れないが、長年身に付いた史朗氏の会話様式に、いきなり世間の公式の場で執り行なわれる、マニュアル通りの発言を史朗氏に求めても無理なことは理解すべき。
それよりも、カンニング・ペーパー(別の誰かが会見のために準備した原稿)を読みながらの形式ばった謝罪よりも、氏の謝罪会見は平素の言動と比べ、気持ちの中の譲歩が見て取れ反省の意を感じる。
さらに、被害者の立場にある内藤選手は、謝罪の映像に対し「これで、充分伝わりました。」と述べ、個人的な謝罪要請にも「いつでも受け止めたい。」と語った。
協会の処分とは、世間の裁判でいう判決の言い渡しだと私は捉える。
判決が出、尚且つ、自分達の言い分を飲み込んでまでも謝罪会見に臨んだ亀田家の姿勢を否定することが大人の社会としての正しい姿だろうか。
今回の各局の報道?姿勢は、いつものごとく集団で特定の人物のミスを徹底的に叩くことを是とする手法にいささかな抵抗を覚える。
大毅選手を報道陣から遠ざけた父としての史朗氏の気持ちも汲める。
もし、あの場に大毅選手がいれば、心無い報道記者からの「切腹はどうするんですか?」との質問も飛ぶだろう。
ひとつのミスに対して、答えようのない質問を次々と18歳の少年に浴びせかけることで、追い込む姿勢が大人としての正しい判断なのか。
さらに追い討ちをかけるように大毅選手の反省が、猿芝居だと言ってのけるコメンテーターの心理は、それこそいじめ。
沢尻エリカさんの時もそうだった。
集団で特定の人物を非難する手法の後、沢尻さんが反省の態度を示したのにもかかわらず、当事者でないものが反論することのできない沢尻さんに対し、ある番組の中で無責任に暴力的な発言をしても、取り巻きの廻りの出演者達は笑い飛ばすだけだ。
その言葉の重み(いじめを誘発するような)は、何の問題にもならない。
舞台での態度や発言は問題になり、バラエティー番組の中での発言は不問と言うのは、おかしくはないのか?
それも芸能界の力関係を誇示した、いじめの形態。
(沢尻さんのあの時の行動は、試写会での衣装が自分の意に反したものだとの情報を得ているが、ラブ・ストーリーに金髪であの衣装が、強制的に着せられたものだとすると、他の出演者とのバランスがとれず、腹を立てるのは仕方がないとも思う。もちろん、プロなのだから当然我慢すべきなのだが、感情をコントロールできるにまで大人にもプロにもなりきれていないかったのだろう。)
とにかく、ひとつの話題に視聴者の食いつきが良いと、徹底的にその話題で引っ張るといったワイド・ショー的な報道番組(って言えるの?)のあり方。
また、一方的に偏った傾向のある番組進行に疑問を抱くこともなく、笛吹けば踊る国民と言われ、長いものに巻かれろ的な大衆心理動向。
この国の姿勢に、新しい裁判員制度は向かないように思う。
今回の騒動について、私の感じたままを書いた。
頭を下げる者には、優しくなろう。
亀田大毅選手についての、過去のブログ記事へのリンクhttp://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/d33c3bb20b5b42cec06b604c46003773
沢尻エリカさんについての、過去のブログ記事へのリンクhttp://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/28334685d2d9bfb4163c2463125e92c3
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます