朝起きて、朝刊を開くと下記の記事が掲載されていました。
2008年8月2日。
赤塚不二夫(あかつか・ふじお<本名・藤雄=ふじお>)さんが、
午後4時55分、東京都内の病院で肺炎のため亡くなりました。
72歳。
赤塚さんは、、1935年9月14日生まれ。
マンガ家を志した赤塚さんは、1956年に手塚治虫さんら多くのマンガ家が住んだ東京都豊島区の伝説の館「トキワ荘」に入居。
1956年「嵐をこえて」で、漫画家デビュー。
その後、
1962年「おそ松くん」。「ひみつのアッコちゃん」。を発表。
1967年「天才バカボン」。「もーれつア太郎」。を発表。
テレビ・アニメの黎明期~発展期に変わる、1960年代後半(昭和40年代)から、
いずれの作品(上記4作品)も、アニメ化されお茶の間を席巻しました。
特に、「天才バカボン」と、「ひみつのアッコちゃん」は、近年でも放送され10代の若者でも馴染みの深い作品となっています。
赤塚さん最大の特徴は、キャラクター作りの上手さ。
天才バカボンの家族のキャラクター構成は、通常社会の常識の真逆を突き、その構成を自分の家族に当てはめて見ることで、非現実的な2次元世界に自分を投影し、鑑賞者の心をとらえたとのではないかと思います。
「ひみつのアッコちゃん」の3つ子の兄弟や、「おそ松くん」の6つ子の兄弟など、赤塚マンガの主要主題は、家族を強調しており、長くファンに愛され続ける理由として、在りし昭和の哀愁を感じさせるものがあると感じます。
個人的な見解ですが、漫画本「おそ松くん」での、チビ太やイヤミの孤独感の表現は、昭和中期を生きる子供達の心を強く打ち、ヒューマニズムを学習する良い教材としての価値も見逃せません。
(誤り)「ひみつのアッコちゃん」の3つ子とあるのは、「魔法使いサリー」と混同しています。書き手が少女マンガには疎く、大きな誤りがあったことをお詫びします。
赤塚ギャグは、イヤミの「シェーッ」や、レレレのおじさんの「お出かけですか。」など、当時の子供が誰でも真似をする人気で、これも私見ですが、ドリフターズの<全員集合>や、たけしさん、さんまさんの<ひょうきん族>等、その後のお笑い番組にも大きな影響を与え、現代の一発ギャグのルーツ的な存在のひとつであったのではないかと考えられます。
また、タレントのタモリさんとの交友は有名で、「笑っていいとも」には何度か出演し、元気な姿をファンの前に見せてくれました。
報道によると、赤塚さんは無類のお酒好きで、1997年12月に自宅で吐血し、食道がんであることが分かり、翌98年3月の記者会見で公表しています。
その年の11月に、食道がんで入院しましたが、退院直後の1999年4月には、水割りを片手に会見。
「がん告知でガーンとなるとダメ。やっぱり気力だ。」と語っています。
さらに、<癌との闘い>とは、対極の生き方をし、闘病についての取材が殺到すると、
「うちはね、今ちょっとした『がん景気』なんだ。」と、周囲を笑わせています。
その後も、入退院を繰り返し、退院してはまた飲み、
「ノーメル(飲める)賞だな。」と、ギャグを飛ばします。
癌摘出手術を受けた後も、急性硬膜下血腫などで入退院を繰り返しました。
2002年4月には、検査入院中の病院内で脳内出血を発症し、寝たきりになって言葉を失いました。
追い討ちをかける様に、
2006年夏、看病していた最愛の妻眞知子さんに先立たれます。
そして、2008年8月。
ごくごく身内と、<亡き妻眞知子さんと愛猫の菊千代の写真>が病床の傍らで、赤塚さんの死を見送りました。
文芸春秋漫画賞、日本漫画家協会文部大臣賞などを受賞。
近年の主だった出来事は、1998年には紫綬褒章を受章。
2003年には、東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープン。
「人間、死ぬときは死ぬんだよ。それまでは一生懸命仕事をしようと思ってね」。
食道がんの手術から2年後の、2001年、赤塚不二夫さんは、
「目の見えない人にも楽しむ権利がある。」と、
点字の漫画絵本「よーいどん!」を発表し話題になっています。
<赤塚語録>
SANSPO.COM(サンケイスポーツ)記事へのリンク。
http://www.sanspo.com/shakai/news/080803/sha0808030434001-n2.htm
*上記の記事内容を転載します。
◆漫画を見るな。
トキワ荘の連中も僕も皆、手塚さんの影響で漫画家になった。
手塚さんはよく、
『いい漫画を描きたいなら漫画を見るな。一流の映画、音楽、小説で勉強しろ』
と言っていた。
これは漫画家を志す人にとって永遠の真理だと思うよ。
◆映画大好き。
僕は映画がとても好きで、映画からアイデアが浮かんだことが多いね。
『ひみつのアッコちゃん』は『奥さまは魔女』の映画版がきっかけだし、
『おそ松くん』は11人兄弟を主人公にしたハリウッド映画がヒントになったんだ。
◆おふくろの影響。
父親は旧満州(現中国東北部)の憲兵で、堅い人間だった。
母親は元芸者で、腕に入れ墨があったような人。
僕はどっちかというと、柔軟な考えの持ち主だったおふくろの影響が強いかな。
◆もらっていいのかな。
(紫綬褒章受章で)なぜ僕みたいなバカばっかりしてきた者がもらえるの?
どんな顔して伝達式に出たらいいか焦るよ。
◆まだ少年。
敬老の日だからって周りから敬ってもらって悦に入っているようじゃ駄目!
冗談じゃない!
『おれは少年だ』『まだ少女よ』って言わなきゃ。
<8月7日夜:追記>
赤塚不二夫さんの葬儀が8月7日、東京都中野区の宝仙寺で営まれました。
親交のあった漫画家や芸能人、ファン等、多くの方が弔問に訪れました。
葬儀の折、弔辞を読んだのは、タレントのタモリさんでした。
お昼からの生番組を前に葬儀に出席し、8分間に渡る弔辞での真摯な態度は、感動的でありました。
タモリさんの弔辞(全文)
47NEWS(共同ニュース)
http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080701000680.html
*上記リンク先の記事を転載します。
弔辞 8月の2日にあなたの訃報に接しました。
6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第1世代と言っていいでしょう。
あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。
私たち世代に強烈に受け入れられました。
10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。
その時のことは今でもはっきりと覚えています。
赤塚不二夫が来た。
あれが赤塚不二夫だ。
私を見ている。
この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。
終わって私のところにやってきたあなたは、
「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」
と、こう言いました。
自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。
それにも度肝を抜かれました。
それから長いつきあいが始まりました。
しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。
いろんなことを語ってくれました。
お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。
あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。
そして仕事に生かしております。
赤塚先生はほんとうに優しい方です。
シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。
あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。
あなたはすべての人を快く受け入れました。
そのためにだまされたことも数々あります。
金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。
しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。
あなたは生活すべてがギャグでした。
たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては、
「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。
あなたはギャグによって物事を無化していったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。
すなわち、「これでいいのだ」と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。
軽井沢で過ごした何度かの正月。
伊豆での正月。
そして海外へのあの珍道中。
どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。
最後になったのが、京都5山の送り火です。
あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。
そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。
あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。
私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。
それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。
あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。
しかしいまお礼を言わさしていただきます。
赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品のひとつです。
合掌。
平成20年8月7日
森田一義
*赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!
http://www.koredeiinoda.net/
*青梅赤塚不二夫会館 - 東京・青梅市
http://akatsuka-kaikan.ome.jp/frame.html