mimi-fuku通信

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『新宿・末廣亭(すえひろてい)』:寄席の鑑賞と落語の考察。

2010-08-11 00:00:00 | 映画・芝居・落語


 2010年8月4日。
 東京新宿。
 末廣亭(末広亭=すえひろてい)で生まれて初めて寄席を観た。

 写真上右が<末廣亭>の外観。
 看板や提灯(ちょうちん)など独特の風情を感じる。
 林家正蔵さんの幟旗(のぼりばた)は昼の部の主任(トリ)。
 正面玄関上(向かって右)に昼の部の出演者を掲示し、
 中央のレンガの中に見える小さな窓のチケット売り場(木戸口)
を挿み、
 3つ並ぶ看板の上(向かって左)に夜の部の出演者を掲示。

 写真下の掲示板は夜の部の出演者を拡大したもので、
 当日ぶらりと寄席に訪れても出演者を確認することができる。
 ~ただし当事者の都合により出演者が替わることも多いようだ。
 夜の部は、
 午後5時開演→9時終演で本日の主任は柳家花緑さん。
 私が入場したのは午後6時40分頃。
 入船亭扇橋さんの出番の前だった。



 入場料は、
 一般:2700円。
 学生:2200円。
 シルバー:2500円。
 小人:1800円。

 入場料(木戸銭)を支払うと番組表が手渡される。
 写真が番組表(プログラム)の表紙と裏表紙で、
 ・落語色物定席(じょうせき)。
 ・八月上席(かみせき)新宿末廣亭。
 ・東京名所:文化芸術振興費補助金。
 等の文字が読める。
 ~上席(かみせき)とは月の1日~10日のことで11日~20日を中席(なかせき)、
   21日~月末前日を下席(しもせき)と呼び10日ごとに出演者が替わる。
 
 今月(2010年8月)の主任(トリ)は6人。
 主任のみ30分の持ち時間が与えられ、その他の演者は15分。
 お中入り以外に休憩時間はなく目まぐるしく演者が変わるのが寄席の特徴。

 場所は、
 新宿:伊勢丹百貨店に辿り着けば伊勢丹前から歩いて2分程で、
 最寄り駅は地下鉄新宿3丁目駅(丸ノ内線・都営新宿線・副都心線)。
 JR新宿駅から歩いても10分はかからない。

 末廣亭HP→ http://www.suehirotei.com/


 
<寄席の鑑賞>

 私が目にした演者は、
 【落語】 :入船亭扇橋(いりふねてい せんきょう)
 【落語】 :三遊亭円丈(さんゆうてい えんじょう)
  ~お中入り~ 
 【落語】 :古今亭菊丸(ここんてい きくまる)
 【漫才】 :笑組(えぐみ)
 【落語】 :柳家小さん(やなぎや こさん)
 【落語】 :柳家権太楼(やなぎや ごんたろう)
 【太神楽】:翁家和楽社中(おきなや わらく しゃちゅう)
 【落語】 :柳家花緑(やなぎや かろく)

 生まれて初めて見た寄席の落語が入船亭扇橋さん。
 声が小さく聴き取り難いものの昭和の香りを感じた。
 マクラ(本題に入る前の前置き)の部分で雪が降り積もった末廣亭の話は、
 八代目:桂文楽著『あばらかべっそん』のよく似た一説を思い出した。
 数人の客を相手に出番の演者が寄席に来ず高座をまかされる話。
 “なんで雪降り積もる中(客が)来るんだよ”と嘆き節。
 ネタ(本題・噺)は『心眼』と言う噺らしいのだが小声で聴こえ辛く、
 聞き手の油断もありストーリーを見失った。
 でも蚊の飛ぶ消入るような音は絶品で高座全体の雰囲気はよかった。
 後席の柳家権太楼さんが語った、
 「扇橋師匠を見れるだけで幸せだと思わなくちゃいけない。」
 に思わず拍手!

 三遊亭円丈さんは創作落語の旗手。
 マクラで地方営業の話をされ沖縄県や福井県の県民性を披露。
 本題はイスラム圏の新人落語家の噺なのだが…。
 圓丈(えんじょう)の点(濁点)をとったら圓生(えんしょう)
 と襲名問題で笑いをとったが古典の名手“圓生”の名跡を継ぐのは?
 高座を通して何を語りかけたのか15分では到底理解できなかった。

 古今亭菊丸さんは『鰻屋(うなぎや)』を披露。
 板前が留守の間に客と店主が料理をしようと生簀(いけす)を覗くと、
 死んでいる鰻を一匹見つけ、
 「この鰻、死んでいるじゃないか。」
 「そのままにしておいてください。
 そうするだけで年金が貰えますから。」
 には思わず上手いと呟いた。
 これがCDや映像とは違うライブ感なのだろう。
 身振りの大きな芸でないので印象には残り難いが、
 芸に取り組む真面目さに好感をもった。
 
 漫才:笑組は面白かった。
 でも落語の持つストーリーがなく点の質疑応答。
 「昨日寄席に来てくださった方は?」
 と問いかけ誰も手を挙げないと、
 「昨日のネタでいいか。」
 の予想内の応答にセンスを感じない。
 漫才師としての雰囲気は立派なんだけど、
 家に帰って思い起こせば何も出てこない。
 たぶんこれが現代漫才の本質なのだろう。
 そう言えば絶後の名コンビ“やすきよ”には、
 確実にストーリーが存在した。

 柳家小さん(六代目)さんの 怪談噺『虎の子』
 8月の演題らしく怖~い噺のオチ(サゲ)が駄洒落。
 “虎の子の金(とらの子のかね)”なんだよな~。
 楽しい小噺でした(笑)。

 柳家権太楼さんの演目は『町内の若い衆』
 一目見て上手なのが理解できた。
 小気味イイ発声に自在な声色(こわいろ)。
 短いスト-リーながら起承転結が明確で、
 初めて聞いた噺なのだけど物語を細部まで記憶。
 惹き付ける話術に師匠の大ネタ(長編落語)を聞きたい思った。

 太神楽(だいかぐら):翁家和楽社中の皆さん。
 楽しい芸の数々は平素の稽古の賜物で、
 ハラハラドキドキの生芸は新鮮な驚き。
 でも一番印象に残ったのが小ネタの傘回し。
 傘の上をまわる一升枡の乾いた心地の良い音色。
 木と木がぶつかり奏でる和の音空間を感じた。
 
~なんてったって最前列中央で観てたしね。

 本日の主任(トリ)は柳家花緑さん。
 先日NHK-BS2で再放送された、
 『柳家小さん・花緑:超時空二人会』
 当時の花緑さんのイメージと古典落語のイメージとの合致の困難。
 高座を鑑賞する前は一抹の不安が過ぎる。
 演題『野ざらし』は名作と誉れの高い怪談噺。
 通(つう)の方は上手い噺家(落語家)の高座は情景が見えると言う。
 まさにそうした情景描写を落語界のサラブレットは見事に演じきった。
 ~周知の通り花緑さんは名人(五代目)小さんの孫で六代目は息子。
 特に素晴らしかった“釣り場”のシーン。
 お調子者:
八五郎の動作の隅々に磨きをかけ心を込めた演技は、
 大きく使う身のこなし/細かい手の動き/視点の位置/に目を瞠った。
 声の張りあげから歌の調子まで鑑賞者を陽気な気分にさせてくれたのは、
 花緑さんの39歳の年齢と八五郎の年齢イメージがリンクしたからなのだろう。
 マクラの部分で、
 舞台裏で演奏される三味線や太鼓の鳴り物は寄席では生演奏。
 三味線はネコの皮で作られ太鼓は馬の皮で作られている。
 “この話を忘れないでください”と前説。
 *太鼓は幇間(たいこ・ほうかん)
 *馬の皮は馬の骨。

 2つのキーワードの説明が初心者にも分かりやすく丁寧だった。
 “寄席に来るものは勉強してから来い”
 対立する2つの概念(場面説明と突き放し)を、
 花緑さんは若者の立場に立って高座に上る。
 39歳には39歳に“花咲く演目”がある。
 花緑さんの『野ざらし』はそんなことを感じさせてくれる。
 

 <落語の考察>

 20年ほど前になるだろうか?
 新宿の紀伊国屋ホールで5代目:柳家小さん師匠を観ている。
 書籍を求めに行ったら偶然に公演当日で当日券を買って観た。
 しかし、
 何の予備知識もなく名人のホール落語を聞く無知(無茶)は、
 何の記憶も残せないままに会場を後にした。
 私の地元(石川県)でもホールで2度、公民館で1度、料亭で1度。
 これまでの人生の落語経験は合計で5度。
 落語について何を語るべき経験はない。

 5代目:柳家小さん師匠の高座。
 もし今の自分が目にしていれば違った感想を持ったに違いない。
 *(噺を聞く前に)この部分を忘れないでください。
 *寄席に来るものは勉強してから来い。
 対立する2つの概念(場面説明と突き放し)を寄席の鑑賞で文字にした。
 特に古典落語の場合は江戸時代や明治時代の庶民生活の描写も多く、
 現代感覚の知識だけで対峙すれば必ずストーリーを見失う。

 ”落語を聞く困難”は話の途中で聞き手が躓いた時点で本質を見失うこと。
 演者すらも戸惑う対立する2つの概念(場面説明×突き放し)とは、
 古典の名作を紹介しようにも聞き手が見失えば笑いを得ることは難しい。
 ~古典落語に必ず笑いが必要なわけではないのだけれど…。
 演じ終わって聴衆の反応が薄い場合に感じる(客側の)楽しみの喪失。
 演者としては強い敗北感を味わうことになるだろう。

 漫才と落語の違い
 今回の寄席を経験し現代風の漫才はその場の楽しみこそ提供できるが、
 家に帰って話の内容がまるで記憶に残っていないことに驚いた。
 逆に権太楼さんの下世話な下町の噺は初めて聞く演題であるものの、
 そのストーリー展開の楽しさは映画を観るように脳裏に張り付いた。
 サゲ(オチ)の女房の独白はブラック・ユーモアなのか?事実なのか?
 想像力さえ働かせてくれる権太楼さんの話術には恐れ入る。

 現代の漫才(お笑い芸人)を否定するわけではないが、
 “大衆(庶民)が求める分かりやすさ=単純明快”
 が芸の基準に置かれ、
 “大衆は娯楽に複雑な思想や教訓を求めない”
 が現代漫才が提供する速度性(ショート・コント方式
)なのだろう。

 日本的な情緒ある話芸とアメリカ的な単純明快の娯楽
 落語が持つ日本的な了見は学習(予習・復習)を聞き手に求めている。
 現代漫才が持つスピード感は一瞬の笑いを手に入れようと必至だ。
 落語が目指すお笑いと現代漫才が目指すお笑いとは、
 本質的に違ったものであり時代を映す鏡のようにも感じる。
 と言うよりも“落語の本筋”は、
 聴衆に過剰な笑いを求める事自体が邪道と思える。

 先月(2010年7月)大相撲名古屋場所を観戦した。
 賭博・暴力団との関係等の一連の事件。
 昨年小学館から販売された『落語・昭和の名人』CDブックに、
 金原亭馬生(きんげんてい ばしょう)さんの『佐野山』が入っていた。
 購入当初は強い印象は残らなかった。
 しかし大相撲を揺るがす大事件の後で『佐野山』を聞くに及んで、
 落語とは時代々々の文化の教科書としての位置を確認した。

 大横綱:谷風と引退を余儀なくされた十両筆頭の佐野山のストーリー。
 千秋楽結びの一番を年寄り(理事会)に懇願する大横綱:谷風。
 千秋楽の一番が決まり判官贔屓に転じる江戸の庶民気質。
 “八百長”と“花を持たせる”の意味の違い。
 『佐野山』のストーリーには江戸気質(日本人気質)の粋(いき)が満載で、
 近年の日本人気質の方向性(=合理主義)の野暮(やぼ)も同時に感じる。

 落語とは何か?
 演者と客との相互空間。
 ホールに来る客を有名を求めてくる方も多いが、
 寄席に来る客の多くは噺を聞きに来る。
 特に常連さん(リピーター)は家に帰って学習しなおし、
 さらに寄席に行って新しい噺を耳にする。
 学習と経験を繰り返すことで江戸文化の真髄や日本人気質を学ぶ。
 また同じ演題を違う演者がどのように料理(演じ分け)するのかを楽しみ、
 比較することで客(聞き手)の批評や自らの演者への格付けが決まる。
 (自分にとっての)お気に入りの誕生は一瞬の場合もあるが、
 多くの場合は足を運ぶ回数の多さで決まる。

 話は尽きないが落語について考える時に、
 落語鑑賞はオペラ鑑賞と似ていると感じる。
 決められた演目を演者が違った表現で発表する場としての古典落語は、
 大筋のストーリーに忠実であれば自由自在に噺や動きを組み立て直す。
 オペラも同じで、
 決められた楽曲を歌手達が(演出家の下)思い思いの表現や技量で発表し、
 舞台が進行するにつれ歌手達の調子や本気度が鑑賞者に伝わることで、
 鑑賞者の高揚感の空気を歌手が感じる時に会場内で相乗効果が生まれる。
 
~相乗効果はコンサートでもスポーツ観戦でも場の空気でガラリと変化。
 
また、
 落語では古典落語の<現代解釈>があるように、
 オペラでも<読み替え演出>が近年顕著だ。
 
 守るべきものと創るべきもの。
 江戸の庶民文化の教科書が古典落語であるように、
 昭和の庶民文化の教科書としての創作落語が求められる。
 戦前の日本人気質と戦後の日本人気質。
 さらに平成の日本人気質の変化。
 人が持つ普遍的心理と時代背景の係わり。
 一瞬の笑いを求める芸は時代と共に風化する。

 残すべき時代の証言。
 古典落語を学ぶ時、
 そんなことを考える。


 
<ブログ内:関連記事>

 *NHK-BS2:『東京落語会600回記念』スペシャル番組の情報。
 http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/d/20091011

 *“横澤彪氏の笑い”&“立川談志さんの落語”を語る。
 http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/d/20110128

 

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